これが夢なら良かったのに 壱※捏造しか無いです。
※オリキャラしかいません。
エンディングも終わり、安実達はほう、と溜め息を吐いた。それは感嘆の息で、隣の友人を見ると、泣き過ぎて目が腫れてしまっている。確かに素晴らしい作品ではあったけれど、号泣するまで心を動かされなかった安実は、慌ててポケットティッシュを差し出した。彼女もハンカチは持って来ていたが、それだけでは間に合わないようだ。
「ちょっ、大丈夫?」
「う゛んぅ〜……無理ぃ〜。煉獄しゃぁあ……」
煉獄とは、作中に登場したキャラクターだ。安実はよく知らないが、煉獄杏寿郎といって、主人公達より立場が上、らしい。らしいというのは、映画を観る前に友人から聞いた話から結論付けた憶測だ。友人に誘われるまで、彼女はこの「鬼滅の刃」という作品を知らなかった。タイトルと鬼と人の戦いが中心という内容くらいは聞いたことはあるが、詳細までは知らなかった。
未だぐしゅぐしゅと鼻をすすっている友人が、渡されたポケットティッシュで拭うのを見届けてから、安実は映画館を出ようと言い出す。
「待って。パンフ買うから」
泣きながらも、しっかり押さえるところは押さえる友人に、安実は苦笑いを零した。
……〜〜〜〜〜〜〜〜〜……
家に帰り着くと、既に母が居て夕食の準備をしていた。
「お帰り、映画どうだった?」
「ただいま。うん、良かったよ。話はよく分かんなかったけど」
素直に感想を言うと、母はおかしそうに笑った。安実は、家を出る前に言われたことを思い出す。既にテレビアニメとして放送されたお話の続きの映画なのに、観に行くのかと。安実としては、話の内容が分からないことは当たり前で、それよりも友人の好きな作品を共有できたことの方が嬉しいと思えた。思ったことをそのまま言うと、母は特に否定することもなく、「そう」とだけ言っていた。
「今日はお父さん、遅くなるって言ってたから先に食べちゃおっか」
不意に話しかけられて一瞬、何のことか分からなかった安実だったが、夕食の話題だと理解すると、頷いて準備に取りかかった。
「あ、今日ね。ちょっと良いお茶を頂いたの。寝る前に飲むと良いって言ってたから、ちょっと飲んでみよう」
夕食と入浴を済ませ、もう後は就寝するだけとなった時に安実はそう母に声を掛けられた。ハーブティーだろうかと思いながら安実が了承すると、母はポットと二人分のティーカップを出して来て、お湯を沸かす。貰ってきたという茶葉は、今まで嗅いだことの無い、どこか不思議な感じのする香りがした。
お湯が沸くと、火を止めてポットに注ぐ。少し待ってカップに注ぐと、あの不思議な香りが立つ。花の香りのようだが、エキゾチックで蠱惑的な魅力がある。しかし、嫌な香りではない。
「何だろう、なんか不思議な香りだね。何のお茶?」
「えーっと、何だったけかなぁ。何とかって花のお茶」
「誰に貰ったの?」
「バレーの先生から貰ったの。海外旅行して来たからお土産にってくれたのよ。結構高い物みたいだから、あんまり量は無いんだけど」
安実の母はバレーボール教室に通っている。本人曰く、運動不足の予防のためだそうで、その成果もあってか、最近痩せてきた。同じ教室に通っている生徒達とも良好な関係を築いているらしく、よくお菓子の交換等を行っている。安実は時折、そのお零れを貰っていた。
「えー、そんなお高いやつ飲んじゃって良いの?」
「まぁまぁ、貰ったのに飲まなかったら、先生に悪いでしょう? 後はお客さんが来た時に出せばいいし。今回はお試し」
「そっか。ん~……でも、なんか私には大人の味って感じ。美味しいのは美味しいんだけど」
「それ飲んだら流しに置いといて。洗っておくから」
「はぁい」
母と喋りながら飲んでいると、あっという間にカップの中身は無くなり、空いたカップを流しに置いて歯を磨き、母に「おやすみ」を言って二階の自室に入り、床に就く。目が覚めたら、いつもと同じ朝が来る。安実はそれまでそう信じて疑わなかった。
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チュンチュンという雀の鳴き声で目が覚める。目蓋に掛かる日の光が少し眩しくて痛い。自然と目を開けると、安実は混乱した。今見ている天井は、彼女の自室の天井ではなく、どこかレトロな洋風の天井だった。
「は……?」と声を出そうとして、「ふぎゃっ……」という声が出たことにも驚いた。手足が上手く動かせない。安実は何かに掴まろうと必死に手を伸ばして、自分の手が漸く視界に入る。短い。否、短いだけならまだましだ。しかし、その腕は短い上にふくふくとしてマシュマロのような腕だった。大人が少し力を込めれば折れてしまいそうな、まるっきり赤ん坊の腕だ。足も同様で、頭が重くてよく見えないが、でんぐり返りするようにして両足を持ち上げると、足も腕と同じように丸々としている。手足の向こう側には、細い竹で出来た手すりが見える。この時、安実には分からなかったが、赤ん坊はベビーベッドに寝かされていた。
混乱し過ぎて逆に冷静になってきた頃、漸く安実は理解した。原因は全く分からないが、赤ん坊の身体になっている上に見知らぬ家にいると。普通に考えてかなり良くない状況だ。とにかく何とかしてこの身体から脱出する方法、または誰か知り合いに助けを求められないか探ると共にもっと詳しい状況を把握しなければ。そう思い立った安実は、この赤ん坊の母親を呼ぼうと声を上げた。
「ふぎゃぁああ……!」
普通に呼ぼうとすると、何故か涙が溢れてとんでもない音量の泣き声が出た。それに驚いたが、構わず泣き続けていると、遠くから慌ただしい足音がして一人の女性が扉を開けて入って来た。やはり、知らない女性だ。長い髪を一つに纏めて綺麗な洋服を着ている。安実を見ると、直ぐさま抱き上げ、あやし始めた。窓ガラスに映った姿は、やはり赤ん坊の姿だった。予想していたとはいえ、突きつけられる現実に少なからず衝撃とショックを受ける。しかし、ここで落ち込んでいる場合ではない。その後、母親の口から赤ん坊の名前を知ることができた。どうやら、この身体の持ち主は「たみお」というらしい。
「あらあら、どうしたのかしら。お腹空いたの?」
朗らかに言いながら、たみおの母親は安実を抱き上げたかと思うと、徐にブラウスの前を寛げて胸を出した。彼女の気持ちも分かる。自分の子供が泣いていたら、母親なら誰だって色々試してみるものだ。その一つにお乳をあげるという行為があることも、安実は重々知っている。しかし、身体は赤ん坊でも精神は中学生だ。何としても、そうではないことを伝えたい。必死に違うと伝えようと、短い腕を懸命に突っ張って胸を押し返す。お乳ではないと伝わったのか、母親は「あら、違うのかしら」と言いながら、今度はおしめを確認する。仕方の無いこととはいえ、安実は何だか尊厳を傷つけられたような気がした。
「うーん……濡れたりはしていないみたいね。どうしたの? たみお。よしよし」
気付いてください! 中身はあなたの息子さんじゃないんです! どうしてこんなことになってしまったのかは分かりませんが、私は違うんです! 本当に申し訳ないんですけど、帰る方法を探したいんです! そう必死に訴えたが、全て赤ん坊の泣き声になってしまい、全く通じない。その間もあやされ続け、とうとう泣き疲れて安実は寝てしまった。
再び目が覚めた時、遠くでかあかあと響く鴉の鳴き声を聞きながら、安実は諦めることにした。寝てしまう前までのことを思い返すと、身体が成長しなければ、言葉すら通じない。たみおが成長するのを待つしかない。彼が言葉を覚え、喋り出すまで自分にできることと言ったら、それまで健康的になるよう彼を守ることだ。怪我はもちろんのこと、病気にも気を付けなければならない。具体的に何歳頃から喋り出すかは安実には分からないが、早ければ少しの辛抱で済む。呂律の問題もあるが、全く単語にならない現状よりはいくらかましだ。自分の方がこの家族にとって異質なのだから、せめて息子であるたみおを内側から守るくらいはしたい。
そう決意してからの彼女の日々は、神経を使うものだった。赤ん坊の身体は、安実が思っていたより弱かった。まず、頭が大きくて重いので、動きたい時は寝返りくらいしか打てない。しかも、ベビーベッドの中から周辺の様子を窺おうとすると、勢い余って縁にぶつかりそうになり、その度に母親に抱き留められるといった迷惑を掛けてしまう。
普通の赤ん坊だったら、好奇心のままに少ない体力などものともしないで、行動できるだろうが、今のたみおの身体には理性を持った魂、安実がいる。身体が発達してくると、好奇心だけで行動する訳にはいかず、どうしても危険なものに注意を向けてしまい、回避行動を取ってしまう。彼女としては、いずれ成長して芽生えてくるであろうたみおの自我に健康な身体を渡すつもりでいるため、運動不足を危惧しての行動だった。それが思わぬ思い違いを親にさせてしまった。
「この子は天才だ!」
一歳になったある時、たみおの父親がそう言って、抱き上げてきた。ちょうど箪笥の引き出しに手を掛けて掴まり立ちの練習をしようとしていた安実は、邪魔をされて少し不満だったが、父親の爛々とした目に気圧された。一方で、急に興奮し出したたみおの父親に、妻は小首を傾げる。二人で食後のお茶を飲んでいる時だった。安実は父親の輝いている目に、居心地が悪くなり、ふいと目を逸らす。
「どうしたんですか? 急に」
「ほら、今もそうだ。たみおは天才なんだよ。こっちの言っていることが分かるんだ。さっきは箪笥に掴まろうとしたけど、最初の体勢では危ないと判断してやり直した。この子は赤ん坊なのに、何が危険か既に分かっている。今も私の目に気まずい思いをして、目を逸らしたんだよ」
父親の言う通り、安実は最初、箪笥に対して平行になっている位置から身を捻って掴まろうとしたが、足の筋肉がまだあまり発達していないせいか、バランスを崩してしまうと思い、足の位置を修正した。たみおの父親は大学で心理学を教えており、それなりの地位にいるお陰で母親とたみおは裕福な生活をしていた。そんな鋭い夫に妻は、おかしそうにくすくす笑う。それに夫はむっと顔を顰めた。
「考えすぎですよ。たみおはまだ本当に赤ん坊なんですよ? 偶然、そう見えただけでしょう」
「そうかい? それにしちゃあ、こんな風に目を逸らしたりするもんかなぁ?」
「あなたの顔が怖いからですよ。ふふ」
不思議そうに安実基たみおを見る父親に、安実は勘付かれてはいけないと思い、何とか泣き出した。言葉が話せない状況で息子以外の存在を勘付かれては、どうなるか分からない。最悪の場合、気味悪がられて酷い扱いを受けるかもしれない。自分のせいで、たみおが可哀想な目に遭うのは安実は心苦しかった。急に泣き出した息子に、たみおの父親は慌て出して、息子を妻に渡し、妻は笑ってしっかりと腕に抱いた。
「ほら、泣いてしまいましたよ。はいはい、よしよし。良い子だから、泣くのは止めましょうねぇ」
これ以上、父親の前で不審に思われるような行動は取れないと判断した安実は、この場から離れようとぐずり出す。たみおの母親は、たみおがぐずり出すと、すぐにベビーベッドに寝かせて子守歌を聴かせてくれる。その時間は、いつしか安実も好きな時間になっていた。小さい頃に聴いた同じ歌を聴きながら眠ると、今は会えない本当の母に、夢の中でも会えるような気がしていた。