君の軽口 時刻はすでに日付を変更してさらに夜の深みを増している頃だった。
うっかり眠らないようにとそれほど強くないインスタントコーヒーだと甘く見て夕食後に飲んだそれのせいか、ずっと胃もたれがしている。
こんな日に限ってどうしていつも騒がしい自分の周りには誰もいないのか。母は町内会の旅行で、パラノイドのみんなも一緒に行ってしまった。ガクとツキタケはどこかに行ってしまったキツネを探しにいまだに帰ってこない。一緒に待っていたエージとアズミは、一足先に夢の中だ。
もう小さな子どもでないのだし、別に待っててくれと頼まれたわけでもない。かつてのように大きな戦いに行っているわけでもない。なにより今日は案内屋の仲間と一緒に少し遠方に行っている、と理由もハッキリしている。
それなのに、こうしてたまに一人になると、迫り来る寂しさにヒメノはどうしようもなく、為す術なくうろたえるだけだった。
いつもは誰かがいてくれる。
触れなくても、心が通い合えば共に過ごせる仲間となる。
それでも、一人であることを痛感する日は、こうしてやってくるのだ。
*
「ごめんね、こんな遅い時間に。寝てればよかったのに。もう部屋もわかるんだし」
「なんとなく、誰かが帰ってくるの、待ってようって思ってただけだから、大丈夫です」
そういいながらヒメノは本当によかったと安堵の息をつく。
プラチナが足下のおぼつかない明神を肩に抱えながらうたかた荘に帰ってきて、彼を万年床に寝かす。さすがにこのままでは送ってくれたプラチナに悪いと思って今緑茶を入れようと湯をわかしている。
「珍しいですね、ここまで酔ってるの」
「顔にはすぐに出るけど、弱くはないもんね。久しぶりの大捕り物で無理させすぎたかな。結局一番の前線に立つのは冬悟くんだから」
目の前に置かれた緑茶に、少し首を傾げるような会釈をして、一口プラチナが含んだ。それを確認して、ヒメノも湯飲みをすする。
胃に優しい味な気がする。カフェインは入っているのに。
「車で行ったんじゃなかったんですか?」
「車だよ。一度こっち帰ってきて正宗くんところで4人で飲んでた。澪ちゃんの治療もあったからね。おかげで報告まで一日で終わって収入もあって、今日は気持ちよくおいしいお酒が飲めたってわけさ」
「へえ」
それならそうと、先に連絡くらい入れてくれたっていいのに。
そうしたら、ここまでやきもきして待つことなんてなかっただろう。
こっちにいるって思ったら、もう少し、自分もゆっくり過ごせたのに。
そんな気持ちが少しだけ浮かんでは、ヒメノの心に沈んでいく。
「連絡なくて、寂しかったの?」
「別に」
「すねた顔してる。結構わかりやすいね」
「よく言われます」
それなのに、彼は気づいてくれない。ほかの人は気づいているというのに。
「明神さんて、お酒飲んでるとき、話します?」
「うん?」
「どういう話、してるんですか?」
「大したことじゃないよ。昔の話だったり、仕事の話だったり、来年にはヒメノちゃんも一緒に飲めるようになる」
「そうじゃなくて」
「あの人、いつも、人の話を聞くばかりだから」
そうつぶやくと、プラチナの白いまつげのパチパチとした瞬きが見えた。
「確かに自分のことを話すのは、少ないかもね」
少しだけ微笑んで、プラチナが言う。
「でも、それがイヤなの?」
「イヤじゃないけど…」
「まあねえ、話を聞くのが、俺たちの仕事だから、ついつい普段もそういう風になっちゃうのかもねえ」
はははは、なんて笑っているプラチナをムッとした顔を睨む。
「でもさあ」
「はい」
「本当に独りだと、話を聞くことすら、出来ないんだ」
「…はい」
「自分のことを語るより、聞くことのほうが、俺たちには重要なんだと思ってたけど、そうかあ、ヒメノちゃんの言うことも一理あるよねえ」
「そんなしみじみ言わないでくださいよ」
「いや、貴重な意見だと思って」
「はあ」
そして二人して、揃って湯飲みをテーブルにおいた。
*
ギイと夜中なのに、大きな音が響く。瞼をこすりながら明神が室内にいる人影を確かめようとしているようだ。
「ひめのん?プラチナか。こんな遅い時間までなにやってんだ、もう寝ろよ」
一体誰のせいよ、と憤慨しそうになったが、まあまあというプラチナの囁きが耳に入って急速にヒートダウンする。
「うん、そろそろ帰るよ。明日二日酔いになるなよ」
「いや、これ、絶対なるって。頼むからお前ら寄ってたかって人のこと酔い潰そうとするのやめてくれる?二日酔いの朝のアズミの恐怖ったらねーぞ」
そんな話をしながらプラチナが玄関に向かっていくのを明神とヒメノはついていく。トントンと革靴を履いて、プラチナが笑った。よく見たら、プラチナも白い髪にうっすらと紅を引いたような頬をしていた。あまり酔っているようには見えなかった。
「帰り、大丈夫ですか?」
「大丈夫。歩いて帰れば、酔いも冷めるし」
「気をつけろよ、一応」
「うん、じゃあねえ」
軽い口と足取りで、プラチナが玄関から出て行くと、明神は慣れた仕草で鍵をしめた。一段段差に足をかけると少しふらつく。支えようと、腕をとったヒメノを、明神が見た。
薄い青と灰色の中間みたいな色が、玄関のオレンジに照らされて揺らめいているように見える。
「なにか、あったのか?」
問いつめるわけでも、酔っているわけでもなさそうに、いつも通りの声だった。
「なんにもない」
そう、なんにもなかった。
明神さんがいないから、なんにもなかった。
なにか起きればいいのだろうか。でも、なにも起きないほうが、この人は安心してくれるからなにも起こす気もない。
人の話を聞くのが、仕事だから。
なにげなく言われたそれは、少しヒメノを寂しくさせた。
そうだ。仕事の一環だと思えばそれまでだ。いつも彼はヒメノの話を聞いてくれる。大体はニコニコとして。意見を問えば答えてもくれる。とんちんかんなことが多いけれど、それを聞くのが楽しかった。
本当はもっといろんなことを話してほしい。
今日だって、どこに行くの、とか、夕ご飯はどうする、とか、聞きたかった。なんとなく澪さんから横流しで話を聞いたけど、それが全部かは知らない。彼の口から聞きたかったのだ。
でも、言わない口を無理に割らせたくもない。
自分はわがままだ。
こんなわがままな自分はイヤだ。
だから、なんにもいえなくなるのだ。こういう時に限って。
寂しかった、といえたら、どんなに良かっただろうと思っても。
「そう?」
となんとなく腑に落ちない、という表情だけはしてくれるものの、特に気の利いた言葉を明神が発することはやはり無くて彼の部屋の前にすぐにつく。扉に手をかけて「ひめのんももう遅いから早く寝なさい」なんて子どものように言われる。
「わかってるわよ。お茶片づけるだけ」
うん、とあいまいな返事。明神は、扉の前に立っていた。
いつまでも動かないので、もう一度ヒメノは明神の後ろ姿をみる。黒いTシャツに、薄いブルージーンズ。半袖なので、よく梵痕が見える。
少しだけ振り向いた明神がヒメノの顔を見た。
「オレで良ければ、話くらい聞くのに」
少しいじけたようなその表情が年齢よりも幼くて、ヒメノは胃が軽くなったような気がした。