甘い呼び名「え? ないの? ほんとに?」
「え? ほ、ほしかったの?」
恋人となって初めてのイベントだった。
いくら季節の行事に疎い明神といえども、つい先日恋人となって初めての「バレンタイン」という言葉の響きに、初めての甘美な喜びを感じていた。いままでの自分の言動は棚に上げて。
ヒメノが押しても引いても「うん」とも「すん」とも言わなかった男が、まさか心を踊らせているとは思っていなかった恋人は、その当日に男がいないとわかると前日に親友と一緒にデパ地下に出かけて母親に頼まれたブランドのチョコレートを女性陣たちの分を購入していた。
そして、それほどお金のかからないチョコレートの小箱を三つ。そして自分のお小遣いで小さなチョコの詰め合わせを一袋。
三つの小箱は案内屋たちに、チョコの詰め合わせはうたかた荘にいる霊たちに見えるお礼として。結局食べるのはヒメノと母親だったが。
バレンタインの翌々日に明神が帰ってきた頃には、すっかりその大袋の詰め合わせも無くなっていたのだった。
そう、明神はあまり食にうるさくはない。
文句は言ったことがない。食べれるものなら出されればなんでもいい。
ただ、好き嫌いというか、好みはハッキリしていて子どもと同じで苦手だと思ったものにはほとんど手を付けなかった。
納豆は食べるのに、しらすと大葉が入っているのには手をつけなかったし、明太子も初めて食べるまでハードルが高かった。見たことがない食べ物が出ると誰かが食べるまで警戒して手を付けない。同じものを一ヶ月でも食べ続けることが出来る代わりに、何でもいいと思っているようだったし、食べなくてもいいと思っている様子で言われなければ食事をとることを忘れるのもよくあることだった。
今までヒメノはバレンタインを欠かしたことは無かったけれど、明神はいつも忘れていたし、そのチョコレートもヒメノと一緒に食べるのが通常だった。むしろほとんどヒメノが食べていた。
彼個人が彼女に対して「ほしい」と言ったことなど一度だってなかったし、甘いものを好んで食べることもほとんどなかったから、ヒメノは完全に油断していたのだ。
二人の関係が変わったことで、反応が変わるとも思っていなかった。
「あー、いや、うん。大丈夫」
明らかに落胆した肩を隠すこともなく、力のない声を返される。
悪いのは私か? とヒメノは疑問をつい抱いてしまうものの、楽しみにされていたというのは言葉で言われなくてもこの反応は嬉しいものだった。
「あー、なんか、甘いものでも作ろうか?」
「いや、平気。ほんとに。帰れなかったオレが悪いんだし」
いや、まさか、当日に帰ってきても彼の分は大袋のチロルチョコで十分だろうなんて思っていたなんて口が裂けてもいえない雰囲気だった。
「あー、うん。ご、ごめんね」
「いや、ひめのんが謝ることじゃない。今までの行いを、反省しているところです。はい」
「え?」
「うーん、うん、いや、プラチナにさ、いつももらったチョコを一緒に食べてるって前に言ったらさ、それは失礼だって言っててさ。
そうだよなー。はー、そうだよねー」
そっち方面からかー、とヒメノは思わず四面楚歌の明神を思い浮かべて苦笑するが、まあそれくらい言われないと彼はわからなかっただろう。
そして仲間たちの分はあったのに、当の恋人の自分の分が無かったという現実に直面して反省したに違いない。
そこでヒメノが悪いと言い出さない分だけ彼は本当に自責の念が強いと思うし、そこがヒメノは気に入っているのだけれど。
昼頃に帰ってきたらしい明神は一眠りをして、バイト帰りのヒメノの迎えに来ていた。もううたかた荘まではコンビニもない。チョコを買うのは無理だろう。せめて口約束だけでもしてあげれば少しは負担が軽くなるだろうか。そして、ヒメノのほうとしても、なにも用意していなかった責任は確かにある。
「じゃあ、なにかほしいものとか、してほしいこととか、ある?
明日用意してあげるよ。みんなと同じチョコでもよければ明日はバイトもないし」
努めて明るい声を出したヒメノに、もたもたとしていた明神の足がピタリと止まった。
今日は一昨年プレゼントしたマフラーをぐるりと口元を隠すようにして巻いている。不器用を自他ともに認める彼は、その同じ巻き方しか知らなかった。だから今年のプレゼントはネックウォーマーにしたのだけれど。
「でも、別にチョコがほしいわけでもないし……」
「いいの。私も気にしちゃうから。それに三倍返しだからね」
「え、三倍返し?」
「そうだよ。今年からはちゃんとやってもらうから」
「そういうものなの?」
「そういうものなの!」
そうして、ようやく明神はへらりとした笑みを浮かべた。
「じゃあさ……」
少しだけ下を向いていた瞳がヒメノのつむじ辺りに落ちる。時々ヒメノはつむじがものすごくむずがゆくなるのだが、それが視線を感じていたからだと、彼と恋人同士になってからようやく気付いた。
「前から言いたかったんだけど」
「うん」
「あのさ」
「うん、どうぞ?」
なかなか煮え切らない明神に、ヒメノが促すと、もう一度視線を足下に落としてから、ヒメノと目が合った。白い顔が、耳元が、赤く染まっていた。
「二人の時は、名前で呼んでほしい」
「え?」
「『明神』は確かにオレの名前で、誇りだけど、君を好きなのは「オレ」であって役柄じゃない。
い、イヤなら別にいいんだけど、せめて、その、二人の時は、名前で呼んでくれると、嬉しいんだ、けど」
だんだん小声になっていく声をよく聞こうと一歩踏み出す。明神が一歩下がった。
「とうごさん」
言い慣れない響きに、お互いに顔を背けて、ゆっくりと視線が合う。
「でも」
「イヤならいいんだ」
「イヤじゃないけど、それだとみんなと同じなんだもの」
「違うよ」
いやにハッキリと否定されて、ヒメノのほうがキョトンとする。
明神の顔は、さっきよりも赤い。
「全然違う。全然違うよ」
なにが違うのか、とは、聞けなかった。