君がキライと言っても 長いと感じていた夏も気づけばあっという間に過ぎ去り、制服にも羽織が必要になった時期、とうとうヒメノはおのれの自己と向き合わなければならない時を迎えていた。
「やっぱり、第一希望ってもう変えられないんだっけ……」
「まだそんなこと言ってんの? いいじゃん、今んとこレベルもちょっとがんばれば平気そうだって言われたんでしょ? そんながっつり予備校毎日行くようなとこには行きたくないって言ってたじゃない」
親友の彼女は、睨んでいた課題から顔を上げながらその視線をヒメノに向けた。
「でも、第二をやっぱり第一志望に変えようかなぁ」
「えー、私は一緒に行けるのは嬉しいけど、アンタはそれでいいの? お母さんもお父さんも良いって言ってくれたんでしょ? もったいなくない?」
「うん、そうだけど……」
「あ、わかった。うたかた荘を出たくないんだ」
「……うん」
さきほどのぼやきとは違って、ぽつんと切なそうにつぶやかれたそれに、思わず茶化す言葉も詰まってしまった。小さなため息をついて、ペンを置く。
「ヒメノさぁ、やっぱり明神さんと離れたくないんでしょ?」
「……うん」
「もういい加減言えばいいんだよ。あの人以外みんな気付いてるじゃん」
「いや、別に、みんなってわけじゃ」
「じゃあ、私にみえる人はみんな知ってるくらいあからさまなのに、なんにも気がつかないあの人おかしいよ。このままじゃ、一生気付かれないし、向こうはそんな気無いんじゃないの?」
「うう、やっぱり、エッちゃんもそう思うよね……」
「そりゃ、あそこまで鈍感なのも、なかなか無いんじゃないの……」
ヒメノと二人、イベントがあるたびにそれをこなしてきた。互いの誕生日、クリスマス、バレンタイン。ホワイトデーはそれとなく周囲の大人たちが彼に耳打ちをしてくれて彼なりのお返しをいつもいただくことも出来ていた。
しかし、それまでである。
ヒメノがうたかた荘に住むようになってから三年目。彼女の淡い恋いは、その色を変えることも、それ以上の姿になることもなく、ひたすらに漂い続けていた。
「私はさー、意外とイケるんじゃないかって思うんだけど?」
「え、ほんと?」
もうすっかり二人の手元は止まって完全に話し込む体勢である。最近は自宅では受験対策の勉強をするために、授業で出た課題は二人で学校で終わらせて帰宅していたが、今日はそれも難しいかもしれない。
だが、恋する乙女の力は、そんな不安よりも楽しい話題に弱かった。
「なんだかんだでいつもヒメノのこと大切にしてくれてるわけでしょ? 昔に比べたらだいぶ女子っぽい格好もしてるし、決して好意がないわけじゃないと思うんだよねー」
「ほんとにそう思う? いつまで経っても子ども扱いされてるみたいに感じるんだけど」
「だって夜遅くなるって言ったら必ず迎えに来てくれるんでしょ? すごくない? うちの親だってそんなことしてくれないよ?」
それは、桶川親子が持つ無縁断世の力を懸念してのことなのだが、それは彼女には言えず、ヒメノは乾いた笑いを浮かべた。
「ねえ、やっぱり、言ってみなよ。こんなグズグズしてたら、あっという間に三年間終わっちゃうよ? 三年も一緒にいてなんにもなかったら、つまんないじゃん?」
そういう親友の笑顔のほうがまぶしくて、思わず少しだけ瞳を逸らした。
*
最初はおかしな人だと思っていた。
しかし、今は明神冬悟という人物がどれほどの苦悩を抱え、今に至るまで戦い続けてきたのか、それを知っている。ヒメノは自分と母の命の恩人である案内屋の人々をそれぞれ尊敬しているが、特に最初に出会い、今もなお一緒に暮らしている彼に特別な気持ちを抱いていると気付いたときは、それをなかなか認められなかった。
年上の男性は、父が身近にいなかったので、父代わりに思慕の念を抱いているだけなのではないか、と考えたこともある。
でも、ある時、母と一緒に料理をしながら、明神の話題になると、母がとても嬉しそうに笑った。
「どうしたの? お母さん」
「ヒメノは、本当に、冬悟さんのことが好きなのね」
「は、え、そ、そんなこと……」
「いつもね、冬悟さんのことを楽しそうに話すの。私まで嬉しくなっちゃう。いいわねぇ、恋って」
「そんなんじゃないってば!」
「じゃあ、どんなんなの?」
母の言葉は決定的だった。
「素敵じゃない。私も、お師匠さんのほうにとてもお世話になったからよくわかるわ。もうすぐあなたも、私がお父さんと出会った頃の年になるのね~」
「ふ~ん」
母の話を受け流しながら、ヒメノが心の中で葛藤していたのは、ほんの短い期間だった。
澪に相談すれば「え!? ほ、本当かそれは!? あ、アイツで大丈夫か!?」とものすごく心配され、プラチナには「え? まだ告白してなかったの?」と呆れられた。
どこから見ても、誰から見ても、好意を持っているように見えていたことが、ショックだったが、実際、うなりながら考えていてもエージの呆れたような「お前なにやってんだ?」という言葉についツラツラと考え事を話してしまう。まるでエージはヒメノの気持ちを引き出す天才のようだった。
「みんなにね、明神さんのことが好きなんでしょって言われるんだけど」
「え、違うのかよ」
「んも~、エージくんまでそんなこと言うの?」
「金は無いけど、いい奴だぜ」
「知ってるわよ!」
何度も命を救われたのだ。知らないわけがない。
普段は明神のことをバカだなんだと言っている割には、エージはいつも明神のいないところでは彼のことを兄のように慕っている。
「なにが不満なんだよ。黙ってれば顔も悪くないだろ。まあ、白髪は目立つけど」
「あれ、目立つってレベルの話?」
「身長もガクがでかいってだけで低くないし」
「私からしたら充分大きいけど」
「頭は悪いけど、発想は悪くないんじゃないか? アズミとしりとりしてどっこいどっこいだからな」
「いや、それはさすがにアズミちゃんに合わせてあげてるんじゃないの?」
話しながら自然と微笑む。
そう。人が良くて、嘘がつけない。病院が嫌いで、なんでも自分でやろうとするところは困るし、家事だって苦手で生活能力に著しく欠けていて一体どうやってこれまで生きてきたのか不思議とすら思う。
しかし、天は彼に、天性の才能として戦う術を与えた。その代償に、彼は人の世では生きづらいのだろう。
そこまでしなくてもいいのに、とすら思えるほど、彼はヒメノを全力で守った。人生で一番のワガママも言った。そして、それを彼と仲間たちはみんなで叶えてくれた。今の生活があるのは、確かに彼のおかげなのだ。
本当は、自分に自信がなくて、怯えていて、心の内はなかなか見えない。それでも、共に暮らす人々を、霊も生者も対等に扱い、共に生きようとする。
その姿に、支えられて、ヒメノも、確かにここまで歩んでこれたのだ。
「不満なんてないわよ。お金がないぐらいで」
そういったヒメノに、エージは自分が誉められたようにニッカと笑ったのだった。
*
「お母さん、明後日は夕飯みんなと食べてくるから遅くなるね。明日もちょっと遅いとは思うけど」
「ああ、本番は打ち上げだったっけ。それじゃあ、夕ご飯そんなに作らなくていいわね。でも十時までには帰ってくるのよ」
「うん」
そんな何気ない会話を、久しぶりにうたかた荘で聞いていた明神は、ガクとキヨイのあまりよくわかっていない将棋を見ながら質問した。
「明日って、なにかあるのか?」
「週末ガクエンサイって言っていたよ」
「学園祭?」
その馴染みの薄い言葉に首を傾げるとガクがフンと鼻で笑った。
「貴様には無縁の言葉だろうがな。ひめのんは花も恥じらう女子高生だ。健全な学校生活最後のイベントを控えて盛り上がっている」
「なにすんの?」
「三年生はあまり準備に時間をかけないから、うんたらかんたらって」
「なんだキヨイもよく知らないんじゃないか」
「パズルだ。学園内を回ってキーワードを集める。いろいろ下調べを手伝ったからな! 俺は知っている!」
「おー、そうか。教えてくれてありがとな」
「貴様に礼を言われるつもりはない!」
「あー、もー! いちいち面倒くせーな! 集中しろよ!」
ガクがこちらに殴りかかろうとしたので明神はさっさと退散することにした。
「冬悟さん」
「はい」
台所に行くと、雪乃が夕飯の支度をしていた。
「あれ、ひめのんは?」
「みりん切らしてたの忘れてたから買い物行ってもらったの」
「え、そんなの俺が行くのに。言ってくださいよ」
「エージくんとアズミちゃんも一緒だから。冬悟さん、昨日も遅かったでしょう? たまにおうちにいるんだからゆっくりしてもらおうと思って」
今もいつも通り喧嘩になりそうだったので逃げてきたとは言えなかった。
「そうそう、でね、冬悟さん悪いんだけど、明後日お仕事かしら?」
「はあ、まあ、一応出ますけど。もしかして、ひめのんですか。俺、迎えに行きますよ。いつもの時間でいいんですよね」
「そうなの、ありがとう。助かるわ。やっぱり心配だし。ここら辺、住宅街だから生きてる人間のほうが怖いのよね~」
「いや、まあ、そうっちゃそうかもしれないですね」
もうすっかり出なくなった緑茶をしぶとく入れていたが、見かねた雪乃が新しいお茶を用意してくれた。思わず頭を下げる。こういう面倒くさがりなところが、生活に向いていないのだろう。
*
最後の学園祭も、無事に終わった。雪乃と十味がはうたかた荘にいるみんなと一緒に見に来てくれたが、明神の姿は無かった。そういえば、案内屋は一人もいなかった。来てくれた母に聞くと「お仕事」だそうだ。
今夜のお迎えは彼ではないのだろうと思う。ガクかキヨイが来てくれるのだろう。
最近はクラスの中も受験モードになっておりピリピリした雰囲気が強かったが、学園祭の打ち上げでは久しぶりのイベントでみな楽しげだった。クラスの打ち上げ後、仲の良い数人でカラオケに行った。門限がない人もいるが、ヒメノと同じように門限がある子も多い。
「ヒメノ、そろそろ行こう」
いつものように親友が声をかけてくれて慌てて準備をする。
「うん」
「じゃあ、俺も帰ろうかな」
そういって何人かが立ち上がった。
「家まで送るよ」
親友は一つ前の駅で降りてしまい、同級生と二人きりになりそう言われてヒメノは困惑した。
「大丈夫。まだ門限の時間まであるし、君が遅くなっちゃうでしょ」
「平気、平気。俺ん家、そんな門限とかないし」
じゃあ、なんで一緒について来たのだ? と思わず言い返しそうになるが、そこそこ混み合っている電車内で不服をいうのもはばかられる。
なにより、ヒメノにはもしもガクが迎えだったら、と思うと彼の身体の心配をしていた。陽魂だから平気なはずだが、一時的に陰魄にでもなられたら困る。
しかし、電車はついに最寄り駅に到着してしまった。
改札に降りる人はまばらで、数人のサラリーマンの姿がちらほらと改札を出るとみんな違う方向に歩き出した。
ヒメノは同級生に何度も「いいから」というものの、相手もなかなか引かない。一緒に改札を出たところで、腕を取られた。
「どっち?」
そこで初めて恐怖心を抱いた。
「姫乃」
そう同級生ではない、よく身に染みた声が聞こえて振り向くと、寒そうにいつものコートに昔ヒメノがあげたマフラーを不器用に巻いた明神が立っていた。
「ご家族?」
どこから見ても家族のようではないだろうが、同級生の少しひきつった笑いが不格好で少しだけ胸の空く思いがする。
「こちら同じクラスの子」
「どうも、うちのヒメノがお世話になってます」
するりと腕を抜かし、明神の横に行き、聞かれたのは明神の存在なのに、明神に同級生を紹介した。
「わざわざ送ってくれてありがとね。じゃあ、帰ろうか、姫乃」
「は、はい」
そして明神はチラリとも少年を振り返らずに、歩いていくのを、ヒメノを追いかけた。
しばらく歩くと、ようやくヒメノにも意味がわかってきた。
家まで送るつもりが、彼にあったのだろうか。
私が鈍いのか? 今までも、もしかして、彼はそういうメッセージを送ってきていたのか?
今まで散々明神のことを鈍いだの、なんだの言っておきながら、私は一体なんだというのだ。そんなことにも、気づきもしないんだから。
私が好きなのは、そんな頼りがいのない人ではない。いつもは頼りないかもしれないけれど、あんな風に嫌がるところを強引にしたりしない。相手のことを想った上で、明神ならこちらに問いかけるだろう。惚れた分だけ良く見ているのかもしれないが、あまり興味のない人にやられても困るだけだ。
「ひめのん」
先ほどと違って普段通りの呼び方に、はっとして顔を上げる。足下ばかりを見て歩いていたが、数歩先に、明神は立っていた。
「大丈夫? なんか、あんまり相手の子、必死だったけど、もう少し優しい彼氏のほうが……」
「違うから! 彼氏じゃないです!」
なんという勘違いをしてくれるのだ。
「あ、そう……」
すごい剣幕で怒鳴り返された明神はキョトンとして、くしゃりと笑った。ヒメノと横並びで再びうたかた荘に向かって歩き出す。
「ビックリしたよ。俺が珍しく忙しくしてちょっと見てない間に、彼氏でも出来たのかと思った。男の子と一緒にいたの、珍しいから」
「学校の打ち上げなんだから男の子くらいいますよ」
「エッちゃんはどうしたの」
「駅だと一つ前のとこのが近いので」
「そっか。気をつけないとダメだよ。まあ、駅までくればいつも誰かがいるだろうけど」
薄暗い住宅街に一点自動販売機の明かりが目立つ。明神は自然な仕草でその前に立つと「飲む?」と聞いてきた。
「明神さん、なに飲むの?」
「おじさんは、コーヒーかな」
「じゃあ私ココア」
「相変わらず子どもだなー」
「なによ」
はい、と渡されたココアは暖かいというより熱かった。
明神は慣れているのか、あまり温度を感じないのか、ふたを開けるとグビグビと飲んでいる。
「彼氏でも作ればいいのに」
突然そんなことを言われて驚く。
明神はいつも通りの平坦な顔をしている。
「そうしたらお母さんも少しは安心するんじゃない?」
「しませんよ。霊が来たらどっちにしろ太刀打ち出来ないじゃない」
「でも、痴漢とかは防げるかもよ。生きてる人間も充分怖いよ。あんな風に」
「用心棒じゃないんだから」
「似たようなものだよ」
「全然違うよ」
こうして迎えに来たあと、彼はまた出かけていく。
いつものパトロールに行くのだ。
やはり、彼にとって、負担なのだろうか。
「ごめんね。いつもお迎えきてもらって」
「謝らないの。大変じゃないよ。どっちにしろこの時間は出る時間だし、ガクやキヨイが行ってくれることも多いし。むしろ誰も迎えに行かないほうが心配だ」
そういう彼は、いつも兄のような、父のような、見たことのない「家族」の顔をしている気がする。
でも、そうではない。
ヒメノが彼に感じているのは、親兄弟の親愛ではない。
それだけは、確かなのだ。
「明神さん」
「うん」
手元のココアの缶を握る手が熱い。
「私同級生の彼氏なんていらないもん」
「え、そうなの」
「だって」
今は、まだ、言うべきではない、と頭の中では警鐘が鳴らされていた。それでもヒメノは動き出した口を止められなかった。
それに、今言わなければ、次はいつその機会が巡ってくるか、自分の気持ちがそうなるか、わからなかった。
「私、明神さんが、好きなんだもの」
なんか、せめてバレンタインとかクリスマスとか、誕生日とか、そういうそれっぽい雰囲気で言えばよかった。なにもこんな自宅近くの自販機の前で、勢いだけで言っている自分が悲しかった。
明神は、ぽかんとした顔をしている。
厳しい目をしていると大人びた顔をしているが、たまに驚いたときなどのこの表情がヒメノは好きだ。自分より年上のこの人が同い年くらいにも見えるくらい、幼くなる。そんな瞬間の表情だった。でも、今はそれは見たくなかった。
その後、一瞬だけ、上がる口角を隠すように手のひらで口元を被うと、薄暗い中でも白い顔が赤くなったのがわかった。
なんというのだろう、なんと言われるのだろう。
明神の表情の変化は一瞬だけど、ヒメノの心の中は嵐のように次の瞬間に耐えていた。
そして、明神は、口元をなにもなかったかのように平坦に戻すと、コーヒーの缶を捨てた。
「ごめん、ひめのん。寒かったよね。帰ろう」
そういって、背中を向けて、歩き出した。
***
「それって、どういうこと?」
「振られたんだよ~、絶対そうだよ~」
エッちゃんの部屋でさっきからティッシュを消費しまくり結局新しい箱まで出してもらった。
あの後、うたかた荘の入り口までは一緒に帰ったものの、明神さんは仕事に行ってしまい、それからすれ違いでほとんど顔を合わせることが出来ていない。
明確な、可否の回答を、聞けないまま。
「でも、そのごめんって寒かったことに言ってるようにも聞こえるじゃん」
「でも、好きって言ったら次に出てくる言葉がそれ?」
「ちょっと笑ったようにも見えたんでしょ? 喜んでたんじゃないの?」
「うう、でもそれも、ちょっと自信なくなってきた」
「んもー! ヒメノ! しっかりしろー!」
ぼろぼろとこぼれる涙に、エッちゃんは呆れ半分心配半分のような顔で「ティッシュじゃなくて、タオルいる?」と言った。
*
薄暗い室内は昼間だというのにダーティな雰囲気は夜の店内とさほど変わらない。ふてくされたような顔で仲間を集めた張本人は先ほどからなかなか重たい口を開かなかった。正宗くんが入れてくれたコーヒーもきっとすっかり冷めていることだろう。
ようよう口を開いたと思ったら、ずいぶんと生真面目な顔つきである。
「ほんと、変なこと聞くんだけど」
「うん」
「早く言え」
「十近くも歳下って、有り?」
「ヒメノちゃんなら十も離れてないだろ」
「高齢者になったら十くらい離れてても対して変わらんから同じだ」
「お前、ヒメノ泣かしたら殺す」
「なんでなにも言ってないのにひめのんのことだってわかるんだよ!」
ガタンと冬悟くんは慌ててその身をカウンターテーブルに乗り出すが、カウンター内にいる正宗くんにストンと肩を押し戻されておとなしくチェアーに座り直した。
「ヒメノがお前のことを好き、だってことに気付いてなかったの、お前とガクくらいだぞ」
「え!?」
「雪乃さん、楽しそうに観察してたよな」
「ええ!?」
「で、ヒメノになにか言われたのか? まさか断ったりしたんじゃないだろうな殺すぞ」
「やめろ湟神! ほんとに刀を抜くな!」
「店内ではやめろ。血が残ると面倒だ」
「いや、正宗くんも変な言い方やめよ?」
みんなに筒抜けだったことが余程衝撃だったのか、呆然とした顔で冬悟くんはカウンターに頭を突っ伏す。
「えええええ……、みんな知ってた……とか、マジ嘘でしょ……」
「お前が鈍いからな。涙ぐましいヒメノの努力を私たちは知っているぞ」
「なにそれ」
「冬も夏も同じ服だから、防寒具をプレゼントしてみるとなかなかつけてくれないとか」
「い、いや、あれは、違う。それにマフラーは最近はつけてるよ。手袋は頸を出すから破れたりとかしたら困ると思って……」
「だからって仏壇に上げるなよ」
「なんで知ってんだ」
「バレンタインチョコを贈っても夕飯のあとに必ず一緒に食べるし、ほとんどヒメノに上げてたらしいな」
「え、だって甘い物好きだっていうから一緒に食べようと思って……」
「毎回誕生日とホワイトデー覚えてないのはどうかと思うよ。あと選んでるの、俺だし」
「それは正直すまん、プラチナ」
全員のいろいろと呆れの入った溜息が重なった。
「で、なにを言われたんだ。肝心なところを聞いてないぞ」
「そうだ」
「いや、こないだ、帰りが遅いから迎えに行ったんだけど」
「うん」
「同級生の男の子と帰ってきて」
「へー」
「彼氏でも作ればって、言ったら」
「ん?」
「好きですって言われた……」
「やっぱりブン殴っていいか?」
「澪ちゃん落ち着いて!」
振り上げている拳をこちらも両の手で踏ん張り止める。やばい、ほんとに殴る気だ。
「で、なんて、返した」
すでに冷めてしまった三人分のコーヒーカップを下げながら正宗くんが問う。
「な、なんて言えばいいかわからなくて、つい、『ごめん』って言っちゃったんだけど……」
「離せ白金! 殴り殺す!」
「許可する!」
「ぐほっ!」
「もう一発くらいイケるんじゃないか?」
「すんませんっした!」
改めて入れ直したコーヒーを並べて、正宗くんがほぼ土下座をしている冬悟くんに冷たい射るような視線のまま座るよう促す。澪ちゃんに殴られた頬をなでながら冬悟くんは遠い目をしていた。
「ヒメノちゃんのなにがダメなの?」
「ヒメノにダメなところなどない」
「ちょっと澪ちゃん黙ってて。知ってるから」
「ダメとかっていうんじゃなくて」
言いよどむ姿が、なんとなく戦闘時の彼とは似ても似つかなくて別人のようだ。
「なあ」
ようやく、といった勢いをつけて、冬悟くんは話し出した。
「好きって、どういう気持ちなんだ?」
「「「そこからかよ!!」」」
ああ、これは、ヒメノちゃん、苦労するわけだわ……。
「よし、今からヒメノを呼ぼう!」
「やめて!」
結局その日は冬悟くんを飲み潰す会となった。
*
学園祭も終わればあっという間に本格的に受験の様相をなす。ただでさえ明るい話題がないのに、この上一世一大の恋と盛り上がっていたものまでぺしゃんこにつぶれてしまって、ヒメノの気持ちは下る一方だった。
さらに明日からは冬季講習も始まる。授業の時間が短くなっても、やることは同じなのだから別料金になどしなければいいのに、と思った。
「ヒメノも行くでしょ」
「行くよ」
「ねえ、こないだのアイツ、大丈夫だったの?」
「え?」
「学祭の打ち上げの後だよ」
こっそりと耳打ちされて、はっと気付いた。
「明神さんが迎えだったから」
「え、その日だったの?」
「そう言ったじゃない!」
「じゃあ、やっぱり希望は残ってるんじゃないかな」
「まだ言うの? もういいの」
「そう言いながら溜息ばっかりついて、全然吹っ切れてないんだから」
それはそうなのだが。むくれてヒメノはもう一度大きな溜息をついた。
「ほら! 幸せ逃げちゃうよ!」
バンバンと背中をたたかれてむせかえる。
「でもね」
「うん?」
「やっぱり、絶対避けられてる。圧倒的に避けられてるよ~」
もうすぐ一ヶ月と経とうというのに、なに一つ進展も後退もすることなく、ただこの場に留まっているということがどれほど辛いことなのか。
それでも、キライになれればどれほど楽になるというのだろう。
はっきりと言ってもらえたほうが、よっぽど楽になるのに。
*
珍しい組み合わせが居間に揃っている。雪乃に言われたガクが不承不承といった体で不満気に明神の前で腕を組んでいるが、対する明神は正座をして拝むようにガクに両手を合わせていた。
「頼む! すまん、明日のひめのんの迎え、お前が行ってくれ」
「貴様の頼みなど万が一にも聞いてやるつもりはなかったが、ひめのんの迎えとなると話は別だ。特別に行ってやろう」
「一応念のために言っておくけど、万が一ひめのんが男子と一緒にいても攻撃するなよ」
「そんなこと、あるわけないだろ」
それはそれで失礼な認識だし、先月同級生と一緒に帰ってきたことなどガクは知らないのだから仕方ないにしても、明神は居所の悪さを感じていた。
そして、ヒメノに告白をされたことなど、当然話せるはずもなかった。明神が相談したのは案内屋の仲間たちだけだが、彼らの話によると知っているのは明神とガク以外とのことで雪乃も当然知っているのだろう。エージが時折襲撃してくるのも少し増えた気がした。周囲のみんなが敵のようにも見えてくる。時々、そんなわけがない、と頭を振る。するとアズミが不思議な顔を向けてくる。そんな日が続いていた。
ヒメノの冬季講習が始まるというので迎えを頼まれたが、明日は案内屋総出で近郊の霊進出スポットの一斉捜査に行く予定だった。泊まりになるかもしれない。年末年始になると霊の数は否応無く増える。そして、それを見物しにくる「見えない」人も。
学生の冬休みが始まる前に、例年よく出るスポットの事前調査は去年から始めたことだったが、実に功を成したため今年も決行することとなったのだった。
「ツキタケ、頼むぞ。俺はガクを梵したくないからな」
つい半眼になって小さい少年を睨むと「うるせー、わかってらい」と生意気な返事だった。
*
「あ、ガクリン。来てくれたんだ」
「おかえり、ひめのん」
「受験生って大変なんだなー、こんな遅い時間までやるの?」
ツキタケがそうこぼすとガクが微笑んだ。
「まあ、今だけだから」
「そうそう。そう思わないとやってられないよ」
三人で並んでうたかた荘への道を歩き出した。
「明神さんはどうしたの?」
「去年も行った地方巡業だ」
「流しの人みたい」
「オイラたちと入れ替わりで帰ってきたよ」
「結構早かったんだね。泊まりかも、なんてエージくん言ってたよ?」
「ふん、霊の出るポイントが移り変わってるんだ。同じところに溜まれなくなったら次はポイントを変える。魚や吹き溜まりと同じで、全体の数に変わりはないはずだ。今度はそこを探す必要があるな」
「へー、ガクリンすごい」
素直にヒメノはそう誉めると、全身を電柱にすり付けながらガクが「うれしい!どうしよう!」と大声で叫んだ。それにも慣れたものでヒメノは「うん、まずはおうち帰ろっか」と応える。
「でも、多分今日また出て行ってると思うよ」
「え?」
自身の興味のないこと、つまり特に明神のことには興味をほぼ持たないガクと違い、ツキタケは最近はエージやアズミと一緒に遊ぶことが増えたためか明神のことについてもいろいろと知っているようだった。
「前に女の人が自殺したアパートがあったでしょ。あそこに出るんだって。毎日通ってるけど、陰魄になりかけてるって」
「そうなんだ」
少しだけ心配そうな声音でツキタケが独り言のように話すと、ガクの大きな手がツキタケの頭に乗っていた。
それは、自分は大丈夫だ、と言っているようでもあった。
そして、うたかた荘が薄暗い明かりにぼんやりと視認出来たところで、白髪に黒いコートを翻した明神が出て行くのが見えた。表情は遠くて見えなかったけれど、その後ろ姿は、疲れているようにも見えた。
*
浮気による婚約破棄。
よく聞く話といえばそれまでだが、それを嘆き悲しんで道を間違えてしまった女性にかける言葉を、明神は持ち合わせていなかった。
いつも、「もっとうまくやれたんじゃないか」と自問自答する。「もっと、もっと」と自分に求めるけれど、満足行くような導きを出来た記憶はあまりない。
言葉とは、かようにも、難しいものだ。
かつて自分も言葉に傷つき、深い悲しみを知っているのに、自分はいまだに多くの人を傷つけていると思う。
この間のヒメノのように。
先ほどの「導いた」右手が疼く。
もう梵痕が出来て日が経つが、時折思い出したようにこうして右腕はその存在を主張する。自分の間違いを指摘するみたいに。
とぼとぼと、暗いだけの道を大きな溜息をつきながら戻って、うたかた荘の玄関に明かりがついていることに安堵する。室内はどこも消えている。深夜帯なのだから当たり前だ。明かりがついているほうが心配だ。
玄関の前で立ち止まる。
ここを開けて、なにもかもが夢だったら。
今でもそう思う。
寒さなんか、暗闇なんか怖くない。
手に入れたかもしれないものが、明日、今日、今失うかも、失ってしまったかもしれない、という可能性がある限り、この恐怖は消えることがないだろう。
みんなが寝静まったこの時間に帰ると、独りきりで暮らしていた月日を思い出す。手に入れた瞬間に、すべてを失ったような、あの感覚は今でも不意に訪れる。なにもかもが自分のせいだと知っている。それをもう取り返すことが出来ないことも理解している。
それを乗り越えたがためのこの梵痕であることもわかっている。
それでも、これだけの人とともに暮らすことでも、いつか失うという、いつ、どこで起こるともいえないことに怯えている自分がいる。
扉を開いて、台所でなにか暖かいものでも飲もう。
そう思うのに、怖くて扉を開こうとする手は震えるだけで動かない。まさに立ちすくんでしまって、叫びだして、誰でもいいから目の前に現れてほしかった。ゴウメイでも、キヨイでもいい。ガクでもいい。生きていなくても、一緒に暮らしている誰か、誰でもいい。
俺が、ここにいることに、気付いてくれないか。
そんな都合のいい甘えた考えが頭をよぎった。
そんな明神の甘ったるい希望を聞き届けたように、扉が開いた。
「明神さん?」
「ひめのん?」
「なにやってるの? 寒いから中入りなよ」
ここに、明かりが灯った。
立ちすくんだ足を、少しひっぱたいて、彼女が開けてくれた玄関に入る。ものすごく重かった。地面に足から根が生えているように。
ヒメノが音を立てないように慎重に玄関を締める。
「おかえり、明神さん」
「ただいま」
もう習慣となったそれを口にして、思わずのどの奥が詰まりそうになった。
「寒かったでしょ。眠れなくて牛乳飲もうと思ってたの。明神さんもいる?」
「うん。寒かった」
そう言いながら、慣れのために電気をつけずに台所に向かう彼女の身体は発光しているように暖かい光がにじみでているようだった。
***
「もしかして、私はものすごい思い違いをしていたのかもしれない」
「どういうこと?」
エッちゃんは私のつぶやきに相変わらずに丁寧に反応してくれる。エッちゃんの部屋はいつも少し暖かくて眠ってしまいそうになるのをこらえながら二人で論文を時間を決めてやっていた。今は休憩時間だから話してもよいのだ。
「そもそも恋愛対象じゃなかったんなら、そこに乗ることが前提なんじゃない? でないとそういう関係にはならないよね」
「それってポジティブなの? ネガティブなの?」
「ポジティブだよ!」
「ヒメノ! 落ち着いて!」
「落ち着いてるもん! うあーん! もう小論面倒くさいよー! 自信あったのに、現国と小論まで点数落ちるなんて最悪だよー! 明神さんのバカー!」
「あ、悪態ついてる」
結局、少し前に一緒に牛乳を飲んだ時に避けられていたわけではない、とわかったものの、明神はいやに神妙な顔をしていた。
そして彼からは「ありがとな」と、少年みたいな顔をして言われて訳もわからずヒメノは「どういたしまして」と返してしまった。
あれが、最大のチャンスだったのに、と気付いたときには、布団の中にいた。自分の迂闊さを呪いながら眠りにつき、もう二週間ほど経つ。
モヤモヤとした日々は変わらず、成績までふるわず、もう受験まで、年末まで一ヶ月を切ったというのに、背水の陣とはこのことか、と肩を落としていた。
*
強い北風が吹くようになって、黒いコートの内側に薄いダウンジャケットを羽織るようになった。去年の誕生日にヒメノがくれたものだが、とても暖かい。使うといつかダメになってしまうのがもったいなくてあまり使っていなかったが、仲間たちにダメだしをされたのが気になって今年はなるべく着込んでいるが、少し気恥ずかしくもある。
今日は久しぶりに日が射してぽかぽかとした暖かさがうたかた荘にもそそぎ込まれた。
「冬悟さん、いる?」
「はーい」
居間で昼からテレビをつけていたところを雪乃に呼ばれそちらを見ると、外出用のコートを着ている。
「悪いんだけど、荷物持ちやってくれないかしら。お米を買いたいの」
「もちろん、行きますよ」
二つ返事をして、急いでコートを羽織る。
雪乃は玄関で靴を履いていた。
「ゴウメイちゃーん、出かけてくるからー。お留守番よろしくねー」
返事はなかったが、バチッという電気音が聞こえた。
スーパーを二軒回って、米と味噌と大根と、とそこそこの荷物になる。トレーニング代わりにもなるとちょうどいいと思うが、雪乃と二人で出歩くのはなんとなくいつまで経っても慣れなかった。
帰り道、最近はあまり明神に構ってくれなくなったアズミによく本を読み聞かせていた公園の前を通った。
「ちょっと、休憩してく?」
そういうと雪乃は明神の答えも聞かずにすたすたと公園に入りベンチに座った。隣に座れと言うことだろう。なんとなく背筋をのばして明神は少し距離をおいてベンチに座った。
膝の上には9キロの米が載っている。これでは急に攻められたら太刀打ちしにくいな、と思ってそこで初めて「あ、はめられた」と気付いた。
「今一番大事な時期なんだけど、最近、あの子勉強に身が入ってないみたいなのよ。
冬悟さん、なんでか知ってる?」
ダイレクトに問われ、思わずビクッ!と肩を揺らし、目が泳いだ。
「は、はあ……」
「冬悟さん」
「はい!」
「怒ってるわけじゃないのよ」
そういってクスクスと笑う。張りつめていた肩の筋肉が少しだけゆるんだ。
「あのね、答えって、すぐに出せるものではないと思うし、必要もないと思うの。
でも、その「考える時間をください」って言葉は、必要だと思うわ。
それだけでいいの。
わからないなら、「わからない」と、伝えてあげてほしいの。
ねえ、冬悟さん、あなたは、あの子に、どうしてほしかったの?」
「俺が、どうしてほしかったか……?」
「わからないことは、悪いことじゃないと思うわ。
誠実に、思ったことを伝えることは大事なことよ」
「はい……」
雪乃は、明神の手を取った。
それは、彼の母親のように。ふんわりと、触れるだけで、冷たい手のひらが、明神の多くの戦いで傷ついた手を包んだ。
「あの子を、恐れないで。
私たち親子は、あなたの味方よ。
永遠に」
恐れない。
それは、なんて難しいことなんだろう。
雪乃の冷たい手のひらの中で、明神はぐっと自分の手を握りしめた。
「俺は、ガクがうらやましい。
あんなに素直に自分の気持ちを伝えることが出来るアイツが、うらやましい。アイツは生きている俺を憎んですらいるだろうけど、俺はアイツも大事な仲間だと思ってるし、アイツのそういうところはキライじゃない。
ツキタケも、エージも、アズミだって、そうだ。
みんな、「愛」がどういうものか、生きているってどういうことか、わかってる。俺なんかより、ずっとずっとよくわかってると思う。
俺だけが、それを理解出来ていないように思えるんです」
そうつぶやくと、雪乃は、そっとゆっくりと明神の固く握られた手のひらをほどいた。あっけなく優しい力でほどかれて、明神が驚いた顔をする。
「本当に?
本当に、そう思う?」
雪乃の問いかけの意味がわからず首を傾げる。
「あなたは、とても愛されていたと思うわ。
私は知ってる。
あなたが、今、ここにこうして生きているのは、あの人のおかげでしょう?
あなたは、愛されて、今ここにいて、私たちを救ってくれたのよ。
あなたなら、大丈夫」
愛されていた。
それがどういう意味なのか、明神には、やっぱりよくわからないが、それでも、一人の人物を思い出すと、胸の内が暖かくなった。
この間のヒメノを見た時の暖かい光が自分の内にもあるように。
「お母さんが、そう、言うなら」
それしか、返せなかった。
しばらく、二人で暖かい日だまりの中で無言で座っていた。もう雪乃の手は明神の手を離れて、雪乃のひざの上にあった。
明神はふと、この状態が面白いもののように、少しだけ雪乃のほうの口元だけを上げて不器用に笑った。
「いいんですか?
やっと逢えた大事な娘さんを、こんな貧乏で肝心なことがわからないウジウジしてるような男に塩贈るような真似して」
それを聞いた雪乃が思わずといった感じに吹き出した。
「私が男親なら違ったかもしれないわね。
私だって大事な人がいたからあの子がいるの。何より大事な娘だもの。
だからこそ、幸せになってほしいのよ。
大事なのは、お金じゃない。
傍にいる、というのは単純だけど、すごいことよ。傍にいなくても心は繋がっているっていうことは確かにあるけど、私はずっとあの子の傍にいられなかった。
だから、まず、傍にいてくれる人がいいわ。
あなたなら、きっと、大丈夫だから」
そこまで言われて、明神は自信がつくどころか、再び不安が頭をもたげる。
「本当に、俺なんかで良いのかな。
まだ若いあの子に」
「あなただって充分若いわよ」
少し口を尖らせる。
「そして、それを決めるのはあなたじゃない。
あの子よ。あなたが良いと言うのなら、それで十分だわ」
そうか。
俺には、決めることも出来ない。
だって、彼女の気持ちだから。
空を見上げた。
冬の乾燥した大気が、まっすぐに抜けるような空を包んでいた。
***
受験生にはクリスマスも無いのか。なんと無慈悲な。
なんてバカなことを言い合っていたら、講習の後にみんなでせめてご飯でも食べにいこうということになった。もうこのクラスのメンバーでいるのもあと少しだし、と思い、ヒメノも参加することにした。
いつもの時間に帰り支度をしていると、この間の同級生が一緒に帰るという。なんとなく怖くなってくる。
どうしよう。
最近は迎えに来てくれるのはもっぱらコクテンとガクだった。ガクがキツネを探していない時は、エージがツキタケと一緒にくる。キヨイやコクテンだとまずい。もしも、彼に危害を加えてしまったらどうしよう。いや、ガクでもまずい。
そう、死者が迎えに来ていても、ヒメノ以外には見えないのだ。それが、一番困る。
そんなヒメノの不安など皆目分かるはずのない同級生が声をかける。
「俺、ずっと桶川とゆっくり話したかったんだ」
「はあ」
気のない返事でもしておけばいいかと思うが、電車はこういう時は長く感じるのに、あっという間に駅に着いてしまう。どうしよう。困った。
早く帰りたい。
でも、迎えが、もしも、霊だったら。
どうしよう。
「姫乃」
階段を降りた時に気付いた。思わず息を飲む。
明神だった。
改札まで駆けるように急いで行くと同級生も慌てて着いてきた。
「明神さん!」
マフラーをして、コートの中には薄いダウンジャケットを着ている。今年の冬に着ているのを、初めて見た。
明神はいつから待っていたのか、白い顔に赤い鼻をして、マフラーに顎先を沈めながらもう一度ヒメノの名前を呼んだ。
「姫乃、おかえり」
そして、ヒメノの肩を抱くように引き寄せると、後ろの青年を見た。
「悪いね。今日はもう遅いから帰りなさい」
そして返事を聞く姿勢も見せず、そのままうたかた荘へと歩き始めた。
*
胸が痛いくらいにドキドキしている。
コートの上からでも明神が触れている右肩の位置が熱い。
いつもより、少し歩くのがゆっくりな気がする。すごく寒くて早く家に帰って落ち着きたいはずなのに、家にたどり着きたくなかった。
ふと、いつもと違う道を通っていることに気付く。
遠回りを、している?
ここは、初めて彼を見かけた公園に向かう道だ。
「少し、話があるんだけど、いいかな」
そういいながら、肩にあった手はするりと離れたと思ったら、ヒメノの手を繋いだ。
ビックリして見上げた明神の顔は、影になっててあまりよく見えなかったけれど、赤く染まった顔と、困ったような表情に、ヒメノの顔にも熱が上ってきた。
促されるようにして、ベンチに座る。
すごく冷たくて、どうしようと思うくらいだった。
明神が、この間と同じココアとコーヒーを、ヒメノが座ったらすぐに買って戻ってきた。彼の手も震えていた。
「この間、の、言葉、本当に、ありがとう。
それと、ごめん。なんにも言えなくて」
ヒメノの隣に座って、両膝に肘を着いて顔面を被うようにして、大きな溜息をついたのがわかった。
そして、まっすぐにヒメノを見た。
「その、すごく、嬉しかったんだ。
なんて言えばいいのか、全然わからなくて、逃げるように、今日まで避けてきちゃって、本当に、ごめん。
その、いろいろ、考えたんだけど、聞いてくれる?」
ヒメノは頷くだけで精一杯だった。
それを見て、少しだけ明神が笑った。
「まず、第一に、君は若い。
俺なんかよりよっぽどいい男が必ず君の前に現れると思う。
それに、今までたくさんの危険があった。吊り橋効果だってあったと思う。
まだ、ひめのんにはいろんな可能性と未来がある。
わざわざ俺なんて選ばなくても」
「イヤです」
「え」
思わず、遮ってしまった。
「やっぱり、明神さん、なんにもわかってないじゃない!」
大きな声を出して立ち上がった。
「あなたの目から見た私の話なんて聞きたくない!
あなたの気持ちが知りたいのよ!」
明神は、キョトンとしていた。
「今、嬉しかったって言ってくれたでしょ?
嬉しかったっていうのは、どういうことなの?
私が遠くに行っても明神さんは平気なの?
寂しくない?
ねえ、教えて」
涙がこぼれそうだった。
コートから少しでているスカートの裾を握りしめる。ぎゅっと固めた手のひらを、明神の手がほどいた。すごく優しくて、いつ、そんなやり方を覚えたのか、そんなことに、嫉妬するくらい自分が彼のことを好きなのだと痛感して、苦しくなる。
そのまま、両手を握られる。
「正直にいって、よくわからない」
ぽとり、と涙がこぼれた。明神は足下を見ていたから気付いたはずだ。
手が離された、と思ったら、明神も立ち上がっていた。
「でも」
彼の両手が、ヒメノの肩に置かれる。涙を拭うような器用な真似が出来ないのが、彼らしかった。
「君がいなくなったら、寂しい。
その、困る」
「君の言う「好き」がどういうことなのか、俺にはやっぱりわからなかった。
君になんて返事をしたらいいのか、ずっと迷っていた。
だから、いいたいことをずっとずっと考えてたんだ」
「姫乃。
俺の好きと、君の好きは、同じじゃないかもしれない。
もしかして、違う種類の好きなのかもしれない。
もう少し、俺に、時間をくれないか」
「でも」
続きがあると思わなかった。
明神の顔は、本当に、困っているような、喜んでいるような、どっちともとれるもので、ああ、これは、照れているのか、とようやく気付く。薄い色の瞳はヒメノを映しながらも、キョロキョロとあちこちを見てクルクル動き、手のひらは震えていて、声も、少しうわずっている。
こんなことが、あるだろうか。
まるで少年のような姿が、とても愛おしい。
このまま時間が止まってもいいくらいに。
「でも」
少しだけ、腕を引かれてヒメノを抱きしめるようにして、明神のおでこがヒメノの左肩に載る。彼の身長に合わせるように少し背伸びをするが、明神の背中はそれでも少し丸みを帯びていた。
子どもがするような甘える仕草のようで、思わず、背中をなでた。
「これだけは必ず言える。
俺と君の「好き」がもしも違う形であったとしても、俺は君のことを、全身全霊をかけて守るよ。
何度でも。
君に嫌われても、それでも、俺は君を守りたい。
絶対にだ。
それだけは、どうか、信じてほしいんだ。
お願いだから」
「お願いされても、キライになんて、ならないよ」
そう言いながらヒメノは明神をきつく抱きしめた。
「本当に?」
「もう、十分だよ」
この想いは、まだまだ、進化するのだろう。
明神の育ち始めた心を、ヒメノは守ろうと思った。
それは、明神が、自分を全身全霊をかけて守ると言ってくれたように。
***
「それ、結局どういうことなの!?
結局付き合うの? 付き合わないの!?」
エッちゃんが、とても不満そうに「えー」「ブーブー」と声を上げるものの、私は少し鼻高々にふふんと笑う。
「なんにも変わらないってこと。
まだ明神さんには恋愛は早かったんだねー」
「嘘でしょ!?
アンタはそれでいいわけ!?」
「エッちゃん」
「はい」
二人して、正座をして、向かい合う。
「あのね」
「うん」
「だって、もうアレ以上の言葉はないもの。
そう思わない?」
そう言うと、思わずといったふうにエッちゃんは顔を被った。
「……そうかも」
今は、これでいいのだと思う。
だって、私はとても、幸福だから。