大人の関係 正直困っていた。
ついに、男っ気がないと評判だった自分にも恋人が出来た。しかも、念願の、長年初恋を募らせていた相手である。初めての恋は実らない、などと言うけれど、自分の恋は無事に長い時間をかけて実らせることが出来た気がする。
そう、気がするだけなのだ。
「いや、なんでそんなことになってるわけ?」
片恋の時からずっと相談をしているのはいつも通り親友、エッちゃんである。
「別に、そうしようと思ってそうなったわけじゃないもん……」
「そりゃそうだろうけどさぁ」
無事に同じ大学の門下を叩いた二人は大学の学食で昼食の後の三限を恋バナに費やすことに決めた。
高校三年間掛けて実らせるまでをずっと聞かされていた身として、親身になることにやぶさかではないが、ようやくお互いの気持ちが判明し二人の関係性が「大家」と「店子」から一転し「恋人」に昇格したというのに、ここ最近のヒメノの浮かない表情に納得しかねるものがある。それを問いつめようと来週にはテストが始まるその直前になんとか時間を作った。二人が恋人同士になってからクリスマスも年末年始もあったというのに、どうしたことだ。今まで曖昧な関係だったときのほうが、よっぽど二人の時間があったというではないか。
「いや、元々イベントには積極的じゃないタイプだし、年末年始ってあの人お仕事忙しいんだよね。それはわかってるからいいんだけど……」
「でも、もう年も明けて、そうそう、明神さんの誕生日もあったじゃない! デートくらいしたんじゃないの? プレゼント考えてたでしょ」
「そうなんだけど、実は、まだ渡せてないの」
「はあ? もう一週間くらい前だよね?」
比較的ヒメノは年相応にイベント事は楽しむタイプである。
今までも事あるごとに彼を誘ったりしていたはずなのに。
「なんか、すれ違いが多くて……」
「うたかた荘でも逢えないの?」
「うん。あんまり。夜遅い時はお迎え来てくれるから逢えるけど。あとは朝だけかな」
「ふうん。まあ、元々二人だけの時間なんて取れなかったもんね」
同じ家に住んでいるということは、ほかの住人たちもいるのである。逢いたい時に逢える良さはあるものの、それは「二人きり」にはほど遠い状況なのだ。奥手な二人にとって、それは関係性が進行しないのに大いに影響があることだろう。
「なんかさ」
いよいよ本題らしい。
逢えないこと以上に募った思いがあるのだろう。
「距離感が掴めないんだよね」
「今更!?」
「だって! お仕事忙しそうだし! お金もないし! 時間もなくて、なんか、ほんとに、あれ? 恋人同士なのかな?って……」
「まだ告白されて三ヶ月くらいでしょ!? なに言ってんの!?」
「でも……」
「別に何か言われたわけでもないんでしょ?」
「言われてない。そんな時間ない」
「あ、そっち」
「元々優しいし。みんな私に甘いから」
「そうね」
はあ、と二人して溜息をつく。
「ヒメノさあ」
「はい」
「もっと我が儘いいなよ!」
「エッちゃんもそんなこと言う……」
「そのまんまだっつーの!
あっちもこっちもそんなダンマリじゃしょうがないでしょ!?
もっと言っていいんだよ! 絶対あの人もそう思ってるから!」
「そうかなぁ」
「当たり前でしょ! いい加減自信持ちなよ!
あんな、一生に一度も言われないようなこと言われて告白されてるくせに、なんでそんなに自信がないの!」
だって、と小さくつぶやくヒメノは、第三者の視点から見ても高校の時のような幼さはだいぶ抜けてきている。少し背伸びをしているだろう服装も、薄い化粧も、全部彼のためなのだと思うと、相手の男のほうをひっぱたいてやりたいくらいだ。
こんな健気な女を放っておいてなにをしている、と。
「明神さん、かっこいいし」
こいつは、重症だ。
*
結局なかなかゆっくり顔を合わせる時間もなく、レポートにテストにとヒメノも忙しく過ごしていた。時折風呂上がりに明神が帰宅したり、朝起きがけの明神と顔を合わせるのがせいぜいで、そのどれもが彼は疲れていたし、それでもヒメノが近づくと微笑んで近況を聞いてくれた。大学の話をするといつも「学生って大変だな。オレには無理だよ」なんて言うのを母に笑われている。
ようやくテスト週間も終わり、仲間内で飲み会に行くことになった。一次会だけで帰宅するのはいつものことだから、周囲もあまり気にせずヒメノの参加を喜んでくれたし、やはりテスト後の開放感は大きい。
未成年のうちは絶対に飲酒禁止、という母の強い厳命により、ヒメノは飲酒をしないのでさっさと帰りの準備をする。
今日は22時前なので家にも連絡せず帰ろうと思った。なんだかんだと長い時間人といると疲れてしまう。駅でなんとなく次の店を選んだりダラダラした時間が出来る。次の店が決まるくらいまでは、こっちも友人たちとおしゃべりをして過ごす。金曜だからサラリーマンもそこそこいる。こんな時、大学生っぽいなんて、思っていた。
「ひめのん?」
思いがけない声に、驚いて跳ねるように反応して振り返った。
「どうしたの、こんなところで」
「明神さんこそ、どうしたの?」
いつもの黒いコートの中にインナーダウンを着て、去年プレゼントをした藍色のネックウォーマーをした明神が立っていた。思いを告げてからは、自分がプレゼントしたものを臆することなく身につけるようにしてくれているのが嬉しかった。
「桶川、知り合い?」
次の店が決まったらしく、何人かが移動を始める。いつも幹事をやってくれるまとめ役が声をかける。
「あ、うん」
「どうも。いつもヒメノがお世話になってます」
「え?」
「大家です」
「あ、どうも」
駅前の蛍光灯の明かりの下でも白い頭をなんでもないことのように、年下の青年たちに頭を下げて明神は挨拶をした。落ち着いた、年上の顔だっった。
大家、ねえ。
一瞬、ムッとしたが、すぐに明神がこちらを見た。
「ひめのんはもう帰るんだろ」
「あ、うん」
「じゃあ、家は一緒なんで、連れて帰ります」
「あ、はい」
なんとなく気圧される雰囲気を感じたのか、友人たちは口々に「また来週」「もう来週ないよ」「春休み遊ぼうな」「また補講で」なんて言いながら手を振ってくれた。
それに手を振り返しながら、明神の後ろをついていく。
どこか、他人行儀な言葉に不安を感じながらも、今日はまっすぐ家に帰るようだった。
「どこでごはん食べたの?」「ほら、あそこのパチンコ屋の上の居酒屋」「美味しい?」「あんまり美味しくない」「ははは」「正宗さんの作るおつまみのほうが美味しい」「ひめのんは酒豪になるな」「明神さんみたいに飲まれないもん」「女の子があんまり飲まれちゃダメだよ」
そんな会話も、次第に右から左になった。
家につくと、明神は母に「戻りました」といって、ヒメノに「おやすみ」と言うとすぐに管理人室に入ってしまった。
取り残されたヒメノはポツンとしてしまう。
「ヒメノ、お茶飲む?」
「飲む」
そういえば、人混みでは手を引いてくれることが多いのに、今日は、一度も触れてこなかったことに、今頃気付いた。
*
後日、成績発表だけ見に行くとあの時の数人と会った。
お茶でも、という話になり、春休みに映画でも行こうとなって女子が数人集まれば会話も弾む。夕方にさしかかり、そろそろ帰ろうかという頃になって、そういえば、と一人が声を上げた。
「このあいだの大家さん? いくつなの?」
「へ?」
「大家さんとかって、一緒に住むものなんだね。うちは全部不動産屋に仲介頼んでるから会ったことないよ」
「ああ、そうだね」
「二十代?」
「そう」
「顔、結構いいじゃん。あれって地毛なの?」
「うん、そうみたい」
普通に受け答えをしているものの、どことなく落ち着かない。
気持ちがどんどん上滑りをしていることにようやく気付き初めていた。
「あ、いけない! うちらこれから人に会うんだよ! 時間間に合わなくなっちゃう! ほら、ヒメノ! 行くよ!」
「あ、うん。エッちゃん待って!」
親友に連れ出されて、ようやくヒメノは、息がつけた。
別の店に入ると、有無を言わさずアイスコーヒーを注文され、睨まれる。
「どうして、あそこで私の彼氏です!って言わないの!!」
それだ。
自分の中にあった違和感は、それなのだ。
そう言われたら、呼吸と一緒に涙が出てきた。
「だって、」
「げ、ちょ、アンタ、なにも泣かなくても」
「この間、明神さん、言わなかったから、いいたくないのかなって」
「は?」
「わ、私ばっかり、好きみたいなんだもん……」
こんなこと、本人になんて絶対に言えない。
疲れて帰ってくるあの人に、こんなこと。
でも、溜まっていたのかもしれない。
進んだはずなのに、なに一つ進展していない状況に、不満というか、不安の山が。
「いっつも、連絡するのも私からで、話すのも私で、もちろんニコニコして聞いてくれるし、お迎えも基本毎日明神さんになって変わったけど、でもやっぱり手もつないでくれないし、なんにもしてくれないし、やっぱり、私なんかじゃ釣り合わないのかなって、思ったら、なんか、悲しくなってきちゃって……」
べそべそと泣くと、エッちゃんが、頭を抱えた。
「もー、悪かった。悪かったってば……」
「エッちゃんはなんにも悪くないもん……」
「墓穴掘らせてごめんってば」
気まずそうに店員がおいていったアイスコーヒーにエッちゃんの分のガムシロップも入れる。エッちゃんはやはりヒメノが限界だったのをわかっていたのかもしれない。こんな時に熱いコーヒーなんて飲めない。
「そういうの、全部いえばいいのに」
「やだよ! 恥ずかしいじゃない!」
「なにを今更!」
「いーやー!」
そのとき、振動音が二人の間に響いた。
「まさか、明神さん?」
「あり得ない」
ヒメノが即答すると、母親からのメールだった。
「あ、そう」
「今日のお迎え、明神さんじゃないみたい」
「ふーん。誰?」
「特別ゲストだって」
「誰よ!?」
結局二人でご飯を食べていくことにした。
駅前で待ち合わせをしていて、一体誰がくるのかと冷や冷やしたが、やってきたのは真っ白いスーツの男だった。
「あ、お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます」
「あ、お久しぶり。わざわざありがとう!」
そういいながら左手の薬指を芸能人さながらに見せびらかすプラチナに女子大生二人が笑った。
彼の妻は指輪をしていない。が、耳元のピアスの数が一つ増えていることを彼女たちは知っていた。
「そっかー。結婚してからエッちゃんには会ってなかったっけ? そんなに会って無いんだっけ」
「澪さんには私会ってますよ。ヒメノとお茶してるし」
「え、なに、女子会なんてしてんの? なんか俺のこと言ってる?」
「独身貴族の名残のエンゲル係数、もう少し抑えたいって」
「やめて、そういう家庭内の話するの」
あはは、という笑う二人がうらやましかった。プラチナに久しぶりに会ったことは嬉しいけれど、迎えが明神でないことには多少の不満もある。いや、明神が来れないからこそ彼が来てくれていることはわかるのだが。
「ちょうどいいじゃん、ヒメノ」
「え?」
「ねえ、プラチナさん。既婚者としてヒメノの相談に乗ってあげてよ」
「ちょ、エッちゃん!!」
「恋バナ?」
ニヤニヤとしたプラチナの表情に、思わず顔が熱くなる。
「じゃ、帰ろうか。ヒメノちゃん」
清々しく良いことをした、という笑顔で手を振る親友を睨みつけながら、うたかた荘への帰路についた。
***
「で、まーた、あの朴念仁のことで悩んでるの?」
いつも明神と逢っていた公園の、奥の方にあるブランコに二人でぎーこぎーこと音を響かせながらプラチナが楽しげに問うてきた。
二人の手には、帰宅時に買ってもらったコーヒー店のちゃんとしたカフェラテが握られている。
なにもかも明神と違う案配にヒメノはもはや動揺していた。彼ならこんなエスコートは出来ない。いつも行き当たりばったりだし、いや、むしろなにも考えていないだろう。いつもよりも少し早い時間だったし、言葉巧みに聞き上手なプラチナに最初からかなうわけがなかったのだ。
ヒメノは腹を括ろうと決めた。
「やっぱり、明神さんのほうが年が上だし、話も私が一方的にしてるし、子どもっぽいのかなぁって、思って……。
この間ね、駅前でたまたま会って一緒に帰ったんだけど、私大学の友達と一緒だったんです。「知り合い」って聞かれて、一瞬答え詰まっちゃって、でも、明神さんが「大家」って言ったの」
「ふうん」
「自分もすぐに答えられなかったくせに、人に「恋人」とか「彼女」とか言われなかっただけで、なんかすごくショックというか、別にわざわざ誰かに紹介されたいとか思わないし、明神さんの知り合いなんて案内屋の人たちはみんな知ってるし、名乗るつもりもないけど、でも、いつまで「大家」と「店子」なのかなって……」
「うん」
さっき収まったと思った涙がまたこぼれそうになる。
下を向いたら、頬を流れずに、ぽたりと一粒だけ膝に落ちた。
恋をするって、恐ろしい。
こんなつもりじゃなかった。
もっと怖い思いをいっぱいいっぱいしてきたのに、今怖いのは、本当にくだらないことだ。命をかけて戦ってきたのに、命もかかってないのに、すぐに不安定になって、不安になる。
嫌われたら、どうしよう、なんて、くだらないことを考えてしまう。
嫌われても、好かれてなくても、その姿がみれれば、彼が生きていればいいと思っていたのに。
いつから、こんな、贅沢になってしまったというのだろうか。
両思いになって、なにもかも解決した気になった。
なにも始まってなどいなかったと、今更気付いた。
「せっかくさ」
プラチナが、穏やかで少しだけ微笑みを含んだ声で、話し始めた。
「せっかくお互いの気持ちもわかって、恋人同士になったんでしょ?
俺は、ヒメノちゃんも、冬悟くんも、素直になればいいだけだと思うんだけどなぁ」
「え? 明神さんも?」
「ヒメノ!」
公園の入り口から、すごい勢いで明神が走ってくる。
呆然としたヒメノを差し置いて、プラチナがそれを知っていたようにすんなりと立ち上がって、彼を出迎えた。
「思ったよりも遅いんじゃないの?」
「ふっざけんな! お前が持ってきた依頼だろ! これでも全速力だよ!」
「見たらわかるよ」
売られた喧嘩を買いにプラチナに食いついていたが、ヒメノがいることを思い出したらしく、明神は少し切らしている息を整える間もなくヒメノを見て息を詰めた。
明らかに、涙目であることに動揺している。
「じゃ、ヒメノちゃん。がんばってね」
「え、ちょ、プラチナさん!?」
「あんまり遅いと雪乃さんに怒られるから気をつけなよ、冬悟くん」
「おい! プラチナ!?」
ヒメノの結局ほとんど飲んでいないカフェラテのカップをスッと取って「先にうたかた荘に帰ってるから」と言いながらプラチナは行ってしまった。そんなところまで、明神と違ってスマートだと感じる。
困ったように明神が溜息をついた。
「ったく、なんだよ、アイツ。
ひめのん……なんか言われたのか?」
「え、ううん。ちがうけど」
彼が原因ではないことを告げると、気まずそうに、明神は頭をかいた。どうすればいいかわからない時、彼はいつも頭をかく。
プラチナの言う通りだと思う。
言葉にしなければ、伝わらない。
その通りだ。
『オレたちには、言葉がある』
でも、それが出来たら、苦労しない。
彼になんて思われてしまうか。
それが、怖くて仕方がない。
久しぶりに二人きりなのに、なにも言葉が出てこなくて、「素直」になることはなんと難しいことなのかと思う。
でも、そうだろう。野球少年も、マフラーの少年も、そういえば、元々はとても素直じゃなかった。自分も同じだと思った。
そういえば、この人も、自分と同じ年の頃は、ひねくれていたと聞く。
「寒いから、帰ろうか」
そういって、明神は、背中を向けた。
思わず、その背中のコートを引っ張った。
また、涙が、あふれてきた。
振り返った明神の顔が、驚いて、そして自分の涙で歪むのが見えた。
***
やばい。オレの「彼女」がかわいすぎる。
「知ってる。もう何百回聞かされたか。知ってるから。君が気付く前からみんな知ってるから。鈍感な君よりも」
プラチナのそういう嘆きも冬悟の耳には入っていない。
「はー、ほんとかわいい。死にそう」
「いや、ここまで落ちぶれるともういっそ殺したいね。なに、これ。ねえ、正宗くん、こんなの予想してた?」
「してた。お前はずっとこんなだった」
「マジで? 死にたい」
悩みに悩んで、よくわからないけれど思い立ったが吉日と彼女の気持ちを知っているくせに玉砕覚悟で自分の思いを告げれば、彼女は喜んでくれた。
すごい。
生きてるってすごい。
誰かのことを好きだと思って、好きだと返してくれる人がいる。
そんな奇跡が起こり得るのだろうか。自分の身にそんなことがあるなんて、十年前の自分に伝えたい。絶対に信じないだろうけど。
ついつい酒もうまくて進んでしまう。今日はこのシャンディ・ガフで終わりにしよう。
「で、進展はしてるの」
「進展?」
「初デートは?」
「デート?」
「どこまで行ったんだ」
「どこ?」
「ちょっと、待て」
なにかがおかしいと思ったのか、正宗とプラチナは、急激に声を潜め始めた。
「おま、待て、あれからなにもしてないのか?」
「だからなにを」
「なにって、ナニをだよ!」
プラチナが右手の握り拳を作った瞬間、冬悟はその手を振り払った。
「やめろ!」
「え、やっぱり性欲なかったんじゃ……」
「違うから! そういう予想立てるのやめろ!」
そう、性欲がないなんて言ったのは誰だ。
嘘だろ、オレ。
「あくまでもひめのんは未成年だぞ! そうそう簡単に手が出せるか!
しかも、母親と同居中なんだぞ! 状況を考えろ、状況を!」
「冗談だよ、冗談」
「意外と慎重なんだなぁ。初めての恋愛だから周り見えなくなってるかと思った」
「あんだけノロケてんだから見えてないようなものだけどね」
チッと舌打ちをすると、二人は冬悟から視線を逸らす。
「あんまり、本人と話せてないんだよ。
年末年始は忙しかったし」
「まあね。今年は大変だったしね」
「年明けも大人数で一緒だったしな」
「雪乃さんからの牽制じゃないの?」
「え」
「冗談だって」
「じゃあ、ろくすっぽ彼氏面してないんじゃないか」
「だから欲求不満なんだ」
「意地悪く人を性欲の塊みたいに表現するのをやめろ!」
そうなのだ。
会いたいと思っても、ヒメノは学生で日中は学業がある。
バイトもあるし、友達付き合いだってある。
まだ一緒に暮らしている分、すれ違いの生活習慣であっても寝る前と朝は会うことが出来る。風呂上がりの姿だって見てるし、寝間着姿だって見てる。
これ以上求めてしまうのは、それこそ性急というものだろう。
と、思いこもうとしていた。
相手は年下。一応未成年。しかも母親と同居。そして居候の霊たちはたくさんいる中、二人きりという状況を作ること自体が難しい。
すごく、触れたい。触りたい。
でも、こんな気持ちを異性に対して抱いたのは冬悟にとっても初めての経験な上、彼女だって初めての男が自分なのだ。
こんな浮ついてがっついた気持ちで、軽率に触れることなんて出来ない。
触れることが、恐ろしい。
自分を信じ切ることが出来ない。
ゾッとする。
なにが事が起きてからでは遅いのだ。
湟神とお母さんに殺される。
見ているだけで、そばにいるだけで十分だったのに。
どうしてこんな簡単に自分の気持ちが変わってしまうことがあるなんて冬悟には想像もつかない世界だった。
嫌われても、一生守っていくと誓った。
そこに嘘はない。その通りだ。男に二言はない。
しかし、嫌われてもいいなんて、そんなの、嘘だ。
嫌われたら、どうしよう。
どんなふうに触れていたのか、すっかり思い出せなくなっていた。
いままで軽率に、どうして触れることが出来たのか。
そして、どんなふうに触れるのが恋人として正解なのかわからない。
泣かせたくない。
困らせたくない。
悲しませたくない。
そう思ったら、自然と、触れる回数が減っていた。
わかってはいたのだ。それは自分自身も不満だったけれど、彼女を傷つけることが微塵の可能性でもあるとしたら、そっちのほうが怖くて、やっぱり臆病な自分では彼女の「彼氏」なんて、向いてないのではないか、と元々ネガティブな冬悟の思考では致し方ないことだった。
*
昼前、プラチナから連絡があり、澪と自分とで引き受けていた依頼に間に合わない可能性が出てきた、行けるのなら代理で引き受けてくれないかとのことだった。
金額も悪くなく、夜には帰ってこれるだろう。多少荒療治な内容だが、空の梵術で対応可能な内容だ。一も二もなく引き受けて、意気揚々と冬悟は現場に出かけていった。
代わりに、夜には身体が空くというプラチナにヒメノの迎えを依頼して。
思っていたよりも早い時間に帰れることに安心していたが、プラチナからメールが入った。
『お姫様は、預かった』
なんのことだかよくわからないが、明らかにヒメノのことだろう。
電話を入れても、メールをしても返事がない。うたかた荘に戻って雪乃に話を聞くも、プラチナが行っていることしかわからない。今日の夕飯は後から澪も来て大人数になるとの情報を仕入れただけだ。
うたかた荘から駅までの道を三往復くらい、いろいろな道で駆けずり回った。途中の公園を、もしやと思って覗くと、奥のブランコに二人で座っている。
安堵して、思わず大声で名前を呼んでしまった。
プラチナのニヤニヤとした表情に、思わずしかめ面を返した。
ヒメノはなんだか暗くて、明らかに泣いていた。
帰ろうと言うと、コートを掴まれて、さらに泣いている気配がした。
ヒメノを泣かせたら、ガクに殺されても文句は言えない。
それはそういうものだ。そういうルールになっている。
冬悟の立場がどうとか、一切関係ない。そういうものだ。
冬悟だって、彼女が意図的に誰かに泣かされているというのならそいつを締め上げにいくだろう。絶対だ。
しかし、自分が声をかけて泣かれるという状況には、困惑しかなかった。
「え、ちょ、ひめのん。ど、どうした。
なにがあった。アイツになんか言われたの?」
「ちがうもん、ちがう」
泣いている顔もかわいい。
そうじゃない! オレはガクか!?
えぐえぐと、うまく言葉を紡ぐことが出来ずに、余計にのどを詰まらせて泣くヒメノの両頬を包むように触れた。
ビクリと、身体全体が驚きのせいで揺れたことにこっちまで驚いて、すぐにその手を離してしまった。
「あ、ご、ごめん! さ、寒いよな! なんか暖かいものでも買ってくるから!」
そういって、足早に自販機に向かおうとすると、再びコートを掴まれた。ガクンと、たたらを踏む。
「ココアじゃないやつ」
「へ」
「ミルクティーにして」
下を向いたまま、そう言われて、冬悟は「はい」とだけ返事をする。
ココア、好きだったと思ってたんだけど。
ブランコに戻ってくると、ヒメノがいなくて、ゾッとして周囲を見回すと、いつも二人で話しているベンチに姿を見つけて安堵の息をつくと真っ白だった。
隣に座らずに、彼女の前にしゃがみ込む。
「明神さん、コート、汚れちゃうよ」
「いいよ」
その両手にミルクティーを握らせてやり、下から顔をのぞきこむ。
「落ち着いた?」
「……うん」
「なんか、イヤなことでもあった?」
視線を逸らされる。自分もだが、彼女もとてもわかりやすい。
バカな自分でも、わかるほどに。
「なぁ、オレには、言えないようなこと?」
「そうでもないけど」
「ねえ、ひめのん。
オレに出来ることなら、なんでもする。
だから、頼むよ。
オレの知らないところで、泣かないでよ」
それは、本心だった。
*
再び、ぼたぼたと涙を流しはじめる。
「え、ちょ、ひ、ひめのん!? オレ変なこと言った?
ごめん!」
「言ってない」
「で、でも……。
あ、寒い? コートいる?」
慌ててコートをかけようと脱ぐと、大きな声で「ダメ!」と阻止された。
「明神さんが寒いでしょ! 風邪引いちゃう!」
「平気だよ。オレ、バカだから」
そもそも、彼女に泣かれて、冷や汗というか、脂汗というか、緊張で、熱いくらいだ。
でも、彼女は納得しなかった。
*
いや、コレはないわ。
困った。最高に困った。
そりゃあ、ついさっきこの舌の根が乾かぬうちに言いましたよ、なんでもするって。でもコレはないわ。
そりゃあ、昔は? よくやりましたよ? ええ。
でもさぁ、今はホラこう、男女の仲っつーか?
まあ、何にも致してませんけど、一応そういう関係じゃないですか。
ヒメノを後ろから抱き抱えて、コートの中に包んでベンチに腰掛けている状況に、冬悟は、混乱した頭でそんなことを考えていた。
あー、無理。密着したらマズイ。
マズイですよー。無理無理無理。
自分のこの年末年始の我慢は一体なんだったというんだ。
なんか柔らかいし、いい匂いするし、小さいし、細いし、オレが力なんて入れなくても折れそう。
オレのほうが震える。怖くて。
迫って泣かれでもしたら一生立ち直れない。
迫らないけど。
触れないように過ごしてきたのに、こんな形で触れることになるなんて思ってもいなかった。
静かになったオレを訝しんだヒメノが上目遣いに見上げてくる。
あー、やめてくれー。上目遣いダメ。
かわいこぶってんじゃねーよ。かわいいだろ。
「ごめん、イヤだった?」
「……イヤじゃないけど、まあ、ちょっと、恥ずかしいかな」
「でも、昔よくしてたじゃん!」
思っていたよりもヒメノが食いついてくる。こっちの動揺なんてお構いなしだ。
「それは、ほら、まだひめのんも子どもだったし……」
「子ども!?
失礼ね! ずっとその頃から私は明神さんが好きだったのに……!」
ん?
「え? 今、なんて言った?」
オレの幻聴か?
ヒメノは、顔を真っ赤にしてうつむいている。
かわいい。すごいかわいい。
「ね、ねえ、ひめのん」
悪いけど、身体しか取り柄がない男だ。耳と目と体力はものすごくいい。ついでに嗅覚も。さっきのは、確かに聞こえた。嘘じゃない。
「もう! ホント明神さんのバカ!」
「え?」
「私ばっかり好きみたいじゃない!!」
「え? え?」
「大体! この間の「大家」ってなによ!
彼氏って言ってよ!
私は明神さんのなんなのよ!!」
泣いたと思ったら、今度は急にプリプリ怒りだした。
怒ってる内容がとてもかわいい。
オレのほうは正直内容なんて頭に入ってこない。かわいすぎて。
「い、いや、友達と一緒だったから、つい。ひめのん見つけてつい声かけちゃったけど、オレ、ほら、悪目立ちするし、こんなだから、悪いかなと思って……」
「じゃあなんで声かけてきたのよ! バカ!」
「だって、見つけちゃったんだもん」
「私なんて、なんでわかったのよ……あんな人がいっぱいいたのに……」
「そりゃ、わかるよ。ひめのんだもん」
再び、沈黙。
ああ、また、泣いている。
これは、なんだ。どっちだ。なんなんだ。
「まだ、怒ってるんだから」
「ごめん」
「まだ何も言ってないでしょ」
「でも、オレにイヤなことがあるんでしょ。
言ってよ」
「イヤじゃない」
「言ってごらんって。聞くから。治るかどうかわかんないけど」
「明神さん、かっこいいから」
「は?」
「私と釣り合ってる気がしなくて」
「はあ?」
どうやら、浮かれていたのは、オレだけだったということにようやく気がついた。
*
「ちょ、ちょ、ちょちょちょ何いってんの」
「あの時一緒にいた女の子たちが顔がいいって言ってたし、あの子たち、大人っぽいし、明神さんいっつも私のこと子ども扱いしてくるし、確かにココアはずっと好きだけど、コーヒーはあんまり飲めないし、ま、前よりも手も繋いでくれないし、話す時間も減ったし、相変わらずメールの返信は遅いし、前は全然気にならなかったのに、今はどこにいるのかなとか、何してるのかな、とか、すごく不安になって、私なんかで一緒に並んで、すごく不釣り合いな気がして、ど、どうしたらいいのか、わかんなくなって、いっつも明神さんは優しいから、私ばっかり我が儘言ってるみたいで、こ、んなんじゃ、嫌われちゃうって、思って、もう、どうしたらいいのか……」
「ありえない」
「え」
「嘘でしょ? ねえ、ほんとそれ」
こんな体勢で良かったと、ようやく思う。
ぎゅうと痛くない程度に力を込めると、中のヒメノが驚いたようで、少しだけ反発があったけれど、次第に諦めたようだった。
その柔らかい髪の首もとに、ものすごく熱くなった顔を押しつける。
「やばい。もうホント、なんなの」
「な、なによ! 私、ほんとに悩んでるんだから!」
「一生そのままでいて……」
「イヤよ!!」
「ありえないよ」
「だから、なにが!」
涙声になったヒメノの悲鳴みたいなのに弱々しい声が、オレの耳元で聞こえる。こんな距離感、たまらない。
「オレが、君を嫌うってことが」
「君が、オレを嫌いになることはあるかもしれないけど、オレが君を嫌いになることはありえないよ」
「そ、そんなのわからないじゃない」
「わかるよ」
「君に嫌われたら、生きていく理由がなくなる。
嫌われても、一生守るけど、もう無理だ。
君無しなんて、生き甲斐がない」
かっこよくなんてない。
なんにもかっこつかないのに、この子はオレのなにを見てるんだろう。
でも、嬉しくてたまらなかった。
もっともっと我が儘いってほしい。ていうか、我が儘にすらなってないのに、この子はなにを言ってるんだろう。
しかし、同時に、とてもショックだった。
「ひめのん、ほんとにわかってないんだ。うわー、ショック」
「な、なにが」
「おじさん、これでもなかなかがんばってるんですわ」
「なにを」
「かわいい彼女に釣り合おうと思って、せめてお仕事くらい真面目にやろーかなーとかさ。いや、今までも不真面目にやってないけど。ちゃんとやらないと自分が死んじゃうし。
平日ブラブラしてる無職みたいな年上男とか、君と同い年くらいの若い男の子なんかに太刀打ち出来るわけないでしょ。
白髪だし、身体中怪しい傷だらけで、貧乏で、頭も悪くて、君がなにをどうやって勉強してるのかも全然わからなくて、どうしたら君と釣り合うのかなーって、ずっと思ってるよ」
よっこいしょ、と彼女を縛っていた両腕を解いて、彼女の前にしゃがみ込んだ。
真っ赤な顔をして、金魚みたいに口をパクパクとして、また涙をいっぱいにためている彼女を見て、やっぱりかわいいと思う。
「ねえ、ひめのん」
「君は、綺麗だよ」
「え」
「もう、子どもだなんて、思ってない。本当だよ。
すごく綺麗になった。オレなんかに、もったいないくらい。
オレ、これでもすごく浮かれてたんだ。
けど、嬉しくて、恥ずかしくて、バレたら照れるから、黙ってたけど」
そういうと、彼女は、また泣いた。
「泣かないでよ。泣かれるのは、得意じゃないんだって。女の子の慰め方なんて、知らないし」
「うれし涙だもん」
「そう?」
「でも、私、まだ怒ってるのよ」
「え? まだ? まだなんかあるの?
じゃあ、どうしたらいいんだよ」
「さっき、なんでもしてくれるって言ったよね」
「げ! おじさん、お金はあんまり持ってないよ!」
「知ってるわよ!」
それはそれで、落ち込むものがある。
「その、態度で、示してください」
それは、つまり?
思わず、固まった。
彼女も固まっている。
「な、なにを、ご所望で……?」
「じゃ、じゃあ、チューして!!」
「え!」
かわいすぎる。早死にしそう。
無理。理性が持たない。
「早く!」
同じく、恥ずかしくて死にそうなのだろうヒメノが、喚いた。
そっと、彼女の両肩に手をおいて、昔よりも少しだけ長い前髪を右手でサッと上げて、唇を落とした。
本当に、ただの一瞬。
そのまま立ち上がる。
両目を激しくつぶっていたヒメノが「あれ?」と素っ頓狂な声を出した。
「え! それで終わり!?」
「したよ! ちゃんとした! しました!!」
ようやく笑ってくれたお姫様に、こっちまで両頬が熱い。
ちゃんと触れられたことが、嬉しくて。
「ふふ。明神さん、顔、真っ赤だよ」
ああ、オレまで釣られて泣きそうだ。
幸せすぎて。