明日君に会うまで 帰り道で一緒になることは結構あったけど、実は二人だけ、というのはあんまりなかったなあ、なんて、会話を探してしまったことで気がついた。
冬悟くんはなにも入っていなさそうなぺったんこのバックを一応形だけ持って学校に行っては帰ってくる。彼の生活の重要な部分はほぼ“夜”に占められているので、彼が学校に行っていることだけでもすごいことだとは思う。
だけど、行っているんなら、もっと楽しめばいいのに、ともいつも思う。
「ねえ、冬悟くん」
「なんだよ」
「入り口の抱負書いた?」
「抱負?」
時は新年。
彼の誕生日祝いが壮大に開かれたばかり。白い雪が踏み潰されてほとんど土と同化している短い寮までの距離を歩く。学校の昇降口にクリスマスと七夕をごっちゃに考えた生徒会がツリーやら残った松やらを飾りつけ、年初めの『抱負』を書こう! という企画をしていた。
なんだかんだで皆バカにしながらも、「世界一周する」とか「海賊王になる」とかふざけたものから「Aくんと結婚する」とか「おばあちゃんが長生きしますように」なんてほほえましいものもあった。
私はまだ書いていなかったけれど、そして彼が書いてるとは微塵も思ってないけれど、あと少しで寮なのだ。なにも会話がないなんて嫌だった。
「入り口って……あのバカみたいに松に星がついてるアレか」
「まあ、あの飾りはどうかと思うけど。
なんか七夕みたいに抱負を書いてはっつけるの。冬悟くんなら、なにを書く?」
「オレ?
……別に」
「別に、は無しー」
「なんでだよ」
そして悩んだ挙句にこちらに降る。
「お前は」
「私はねー、また冬悟くんが留年しませんように」
「またってなんだ、またって!! まだ一度も留年はしてないぞ!」
「油断してると私と同じ学年になっちゃうからね。正宗さんとも年の差出ちゃうんだから」
「別に留年したって、年はかわらねーだろ」
呆れ気味に言った彼はそれでも少しだけ、笑っていた。
少しずつ、冬悟くんは、人と一緒に笑えるようになっていた。
だから、本当の彼のことを、私は少し失念していたのだ。
「で、冬悟くんは?」
結局、もう、寮の前。
中に入ればきっと他の人がもう帰ってきているだろう。
「オレは」
扉に手をかけながら、冬悟くんは少し、困ったように、小さい声で、誰にも言うなよ、といった。
「オレ以外のヤツらが、無事なら、それでいい」
そして、中に入ってしまった。
大きな声で飛び跳ねるようなアズミちゃんの「おかえり」が聞こえた。
私は立ち尽くして、扉を見ているだけ。
「なにそれ」
きっとその声は誰にも拾われない。
*
「そこにちょっと座りなさい」
明神に引き止められ、管理人室の中で、向かい合って正座をした。なんでこんなことになってんだ。読みかけてた雑誌をエージに渡してしまったので、余計に手持ち無沙汰である。
「お前、ひめのんに何言ったんだ?」
これで、六人目。
正確には、アズミ以外の全員に聞かれたことになる。
まずはいっつもなんというか、勘のするどいエージに「何言ったんだよ」と小声で言われ、なんのことがわからず、食事の準備を手伝っていた正宗に「何を言ったか知らないが、あとでちゃんと謝れよ」とよくわからないフォローをされ、風呂に入ろうとしたらガクに殴りかかられ「ひめのんに何言ったんだてめえええ!!」と怒鳴られツキタケには可哀相な目をされた。
そして歯を磨いていたら、白金が「女の子には優しくしないとダメじゃないか」とつつかれ、いざ部屋へ行こうとしたところを仁王立ちした澪にどつかれ「ヒメノに何をした!」と恐喝まがいにいびられた。
そして、適当にあしらった後に、コレである。
「なにも言ってない」
「嘘付け」
「思い当たりがない」
「そんなのいつものことだろうが」
バシンと叩かれた畳を見てうんざりした。
確かに、ヒメノは機嫌が悪かった。オレと帰ってきたときにはそんなんじゃなかったから、帰ってきてから何かあったのか、それとも道中のオレの何かなのか。
それにしたって、どうしてアイツの機嫌が悪いといつもオレのせいになってるんだよ、解せねえ、わからねえ。
「とにかく、オレにはアイツが怒ってる理由はわかんねえし、オレがなんとかできるとも思ってねえし、オレにアイツの機嫌が直せるわけねーだろバーカ!!」
と、結局怒鳴るだけ怒鳴って出ていってしまった。
閉める直前に見えた明神の表情だけは一瞬なのに、今だにはなれないままだが。
なぜ、出会った頃のような、目をして人のことを見るんだ。
*
なんだかよくわからないが、肝心の二人に聞いても詳細は一切語らず(一方は自覚なし)、なんとなく寮の中が気まずい雰囲気のまま夜が明けた。管理人としてはなんとか、解決してやりたいのだが、朝飯のときからヒメノに視線を向けてもらえないことでイライラしていた冬悟をなんだかんだと言い訳つけて火神楽さんとこの出来のいい(こういうときはポーカーフェイスに限る)正宗に押し付けて買い物に行かせた。
仕事で使うものだからなるたけ霊力のあるもの買って来い! なんて適当なこといったから無駄に根が真面目がアイツのことだ。ちゃんとガムテープを買うときに一生懸命品定めをすることだろう。
と、いうわけで、さやえんどうの筋を取っている少女の下を訪れた。
この時間は、大学生は図書館へいき、小学生は中学生に構ってもらっている。
「ひめのん」
「なんですか」
俺にまで厳しい目線だ……。おじさん悲しくなってしまう。
「アイツが、一体なにを言ったのか、教えてくれないかい」
「出来ません」
「今ならアイツはいない」
「でも約束したもの。言わないでほしいって冬悟くんが言ったから」
「ひめのん」
そして少女の顔をこちらに向かせた。
「しっかり俺の目を見て話をしよう。
そして君は少し勘違いをしている。
アイツが何を言ったか、正確には、俺はそれが気になっているんじゃない。
君が、何に、苦しんでいるのか、それが問題なんだ」
「冬悟くんは、やっぱり、自分を大切に出来ないままなんだわ」
そういうと、ヒメノは小さな手をぎゅっと握った。
話を辿れば、アイツの願いは、いつもそこに落ちる。自分は世界に関わることなく、誰かを救って死にたいんだ。
幸せになれる土壌にはないとあきらめ、そしてあきらめていることに気がつかず。
幸せである、という状態を想像することも出来ないで、ずっと自分を縛り続ける。そのために死んでいくんだ、といわんばかりの発言であることは確かだな、と俺は人事のように思った。
「だって、彼は、なんにも気がついてなんだもん。そんなの、おかしい。おかしく、ないけど、言ってることは素敵だけど、でも、そこには、いつも彼がいないなんて、絶対、おかしい」
「うん」
お前には、こうして泣いてくれる娘がいるのに、やっぱり気付かないんだろう。
だから、「オレにはなんとか出来ない」と思ってるんだろう。
我が“息子”ながら、バカだな。いや、大バカだな。
お前にしか、なんとかできねーんだっつーの。
「ありがとなー、ほんとに」
そういうとキョトンとして、俺まで笑ってしまった。
「あのバカのために嫌な思いさせちまってなあ」
「別に、嫌なんて」
「なあ、ひめのん。
待ってやってくれないか」
「なにを、ですか?」
「アイツがさ、普通の人間のように、なれるまで」
「俺もさ、うぬぼれてたんだよ。
俺と会ってきっとアイツは変わった。昔みたいに手当たり次第にケンカはしなくなったし会話も続くようになった。人と普通に会話も出来る。お使いも出来る。
なにより、食事が出来るようになって、俺が触っても、驚かなくなった。誰かの視線を敵意以外と分けられるようになった。
きっとアイツの世界は、ここにいる、みんなのおかげで、広がって、色がついた。
でも、やっぱり、アイツは、まだ、俺を信じてない。
ここにいる誰もに触れられない」
ヒメノのまっすぐな視線がかつてのアイツのようで胸が痛んだ。
「俺の弟子はアイツが初めてだ。
そして、きっとアイツで最後だ。
息子なんて呼ぶのも、冬悟だけだ。目に入れても痛くない。何をしても守ってやりたい。アイツが幸せになるのなら、俺はなんでもしよう。
俺の後継者は冬悟しか、いない。
俺以上に幸せになるのは、アイツだ」
今朝、エージの頭を洗面台で撫でてたら、こっちを見てそっぽを向かれた。
こないだツキタケとバドミントンして遊んでたら、走って逃げた。
ガクと古代遺跡について熱く語ったら、冬悟はすごく微妙な顔をしていた。
きっとアイツは気がついていない。自分がなにをしているのか、その感情がなんなのか。わからないからアイツはいつも逃げるんだ。戦うのではなくて、逃げる。
それが方法を知らないアイツの知っているたった一つの自分を守る方法だからだ。
俺が誰かを構っているのを見るだけで、アイツの中の信号は告げる。
『やっぱり、アイツだって、オレ以外をとるんじゃないか』
自分が死んでも、誰でもいいと思ってるから。自分が死んでも誰も悲しまないと思ってるから、だからすぐに自分は保護の対象から外しているし、無茶をするし、痛みなんて痛くないという。痛いことを感じているだけが生きている証拠で、誰かに視線を向けられることはいまだに苦痛の領域だ。
その視線の正体に気がつかない愚鈍さが、俺は愛おしいくらいで、その視線はみながお前に向けるのは、それは『愛』だと叫んでやりたい。
でもアイツはいうんだ。
『オレの代わりなんて、いくらでもいる』
「アイツは俺すらも信じてないけど、俺の弟子はあのバカだけで、そんなひねくり曲がったアイツを守ってあげてくれないかい?
そうしてアイツを信じてあげてくれないか?
きっと、時間はすごくかかると思うんだ。
間抜けな、俺の、息子だからさ」
答えがわかっている回答をたずねるのは、とても卑怯だと、わかっていたけれど、それでも俺はそれが聞きたかった。
「私は、いつも冬悟くんに守られてるんですよ」
そしてニコリと笑うこの子の笑顔を見て、やっぱり母親に似てきたと涙腺が軽く緩んだ。
「で、さっきから若干焦げ臭いけど、あれはお湯?」
「きゃーーー!!
いけない! さやえんどう煮ようと思ってお湯沸かしてたんだった!!!」
ドタバタと足音が走っていく。
さて、隠れているアイツを一人で泣かすわけには、いかないな。
*
正宗はマスターのところへ行くというので一人で先に帰ってきた。
やけに静かな寮に帰り着いて、なんだか気が重くなる。
明神もいないのかな。また、仕事かな。たまに置いてかれることもあるので油断ならない。頼むから、おいていかないでほしい。
いや、何言ってんだ。別に、そんなの仕方が無い。
扉を開けてみれば、ひっそりと人の気配。リビングのほうだ。
なんとなく、足音を消して近づく。
今、一番会いたくない、二人がいた。
ヒメノはなんだか深刻そうな顔をしている。明神は背中を向けているのでわからない。
小さく聞こえるオッサンの声は低くて、とても聞き取りにくかったけど、途中からよく聞こえる話し方になった。いつも、オレに語るときのような、言い方で。
本当は盗み聞きが悪いことだなんてよくわかってる。
それでもオレはその場を離れられなかった。
一体二人が何を話しているのか。
突然オレの生活に入り込んできた二人。
オレの生活の中でたくさんの容量をかっくらい、オレに構ってくる。
だけど、明神には仕事があるし、ほかの住人だって懐いてる。オレなんかに構ってる暇なんてはいはずなのに、オレに構う。構うな、といいたい。
オレなんかに触れないでほしい。
オレに近づかないでほしい。
アイツの手はいつもオレの白い髪を撫でてはうらやましいという。ほしけりゃくれてやるよ、といったら「冬悟がいるから、いらないな」と言った。
意味がわからないので、無視して部屋に帰ったら、声が出なかった。
アイツがほかの住人と遊んでるのを見るとアズミやツキタケやエージですら小人みたいにポンポン投げられてて面白かった。入れよ、なんて言われても入ったことは一度もない。
遠くから見てると、自分がそこにいないでよかったと思うから。
アズミが楽しそうなのは好きだ。
ツキタケやエージだって、なんだかんだでオレとよく話すし、エージとは波長が多分比較的、合っている。
オレといるより、きっと明神といるほうが楽しいだろうに。
ヒメノだって、そうだ。
どうしてオレを待って帰るんだ。
お前を待ってるヤツがいるのに、どうしてオレを選ぶんだ。
どうして、どいつもコイツもオレに構うんだ。構わないでくれ。オレのことなんて放っておいてくれないか。オレのことなんて忘れてくれればいいのに。
でないと、辛くてたまらない。
明神はオレ以外の弟子だって、きっといいはずだ。
きっともっと出来のいいヤツがいくらだっているんだ。オレみたいなヤンキー上がりじゃなくて、きっと、もっと。明神は強いから、明神は優しいから、俺に構っているけれど、オレの代わりがいて、オレが死んでも、きっと大丈夫。
オレがいなくなっても、この世界は回るから、オレの分の穴はすぐに埋まる。オレが地に着かないで生きたいのは、どこかに穴をあかせたくないからで、オレの中にくぼみを作りたくないからで、オレは、こんな気持ちになんて、なりたくなかった。
明神が、オレ以外を見るとき、
きっと、明神はいつか、オレをそうして置いて行くんだと思う。
思う度に、怖くてたまらなくなる。
オレじゃなくても、平気なんだと思うと、苦しい。
やっと作られたオレの居場所なのに、簡単になくなってしまうだろうと思ってしまうことが、辛くて、明神を信じられない自分が嫌だし、それでも、明神に頼りたくない。
だから、いつだって、死ねる準備をしておかないと不安だった。
なのに、ヒメノはいつも、明日を見ている。
オレに明日を求めてくる。
「明日の夕飯はなにが食べたい? 冬悟くん」
「冬悟くん、明後日の日曜日映画に行かない? タダ券もらっちゃった!」
「明日の映画楽しみだね冬悟くん」
「ねえ、冬悟くん、おはよう」
「冬悟くん、おやすみ、また明日ね」
ああ、ヒメノ。
また、会えるといいな。
だから、明日を守りたい。
だけど、お前が明日を誰かを過ごすのを、オレは次第に見えなくなってる。
オレにも明日を教えてほしい。けれど、それはおこがましい。
お前を助けたのは、霊がついていたからで、お前の明日を守ったのではない。
なのにお前は、いつだって。
オレの名前を、呼ぶんだ。
先ほどの明神の声を思い出して、目がかすんだ。
『俺の後継者は冬悟しか、いない。
俺以上に幸せになるのは、アイツだ』
嘘付けよ。オレがいなくたって、あんたにはたくさん仲間がいるよ。オレがいなくたって、なにもかわんねえよ。オレのことなんか、忘れてくれよ。
それに、オレは、これ以上、幸せになんて、なれない。
オレの手では、なにも守ることが出来なくて、オレは自分を消してしまいたいと思っているのに、何を言っているんだ。
『オレの息子』だと?
一体いつアンタの息子になったんだオレは。育ててもらった覚えはねえ。
だけど、目頭が熱くて、パーカーの裾に押し付ける。
おいていかないでほしい。
オレを見てほしい。
オレに気付いてほしい。
オレはなにも出来ないけれど、オレの傍にいてほしい。
ほかの誰かを見てもいいけど、オレも見て。
もう、もう一度、今度こそ、一人になんて、なれないんだ。
オレ以外の全ての人を、オレは全力で、守るから。
守れてないけど、きっと、守るから。だから、どうか。
『私は、いつも冬悟くんに守られてるんですよ』
オレの微力な戦いは、このときの、言葉でやっと、少しだけ、報われた気がした。
*
「聞こえた?
アレ、俺の一世一代の大告白なんだけど」
膝を抱え込んで体育座りで白い頭は丸くなっている。耳が赤いのは、照れと、きっと泣いたからだろう。
しゃがんで、冬悟の頭に手を乗せた。はじかれることもなかった。
「淋しかったんだよなー、父ちゃんが別の子構っててなー」
「うっせハゲ」
それでも、撫でられる手は動いている。
「お前が嫌だっつてもさ、俺はお前をつれていく所存だから」
「あっそ」
「嬉しいだろ。お前が一人前になるまで、お前が一人の案内屋になるまで、師弟だ。
一人前になったら」
あ、少し、目を出した。真赤な目に、白い髪って、まるでウサギだ。
「……なったら?」
「今度はコンビ結成だ。ゴーストスイーパーだな」
「ネタが古い」
そうして、薄く笑った、本当に笑いなれない顔つきを見て、俺は目一杯抱きしめた。
初めて、背中に少年の骨ばった手が伸びて、俺まで泣けてきた。
「ひめのんと仲直りしろよ」
「だからケンカなんてしてねえよ」
「許してくれるよ」
まだ、怯えの残るその顔を見て、また、愛おしさに泣きそうになった。
早く気付いてくれないか、お前を愛している人はすぐそこここにいるんだから。
*
「おい」
後ろからありえないはずの声がして、一瞬キョドってしまった。
そのせいで、もともと無愛想な顔が余計に無愛想なようになったけれど、本当はこちらの反応をうかがってびくついているのだ、ということは知っている。
「冬悟くん」
「なにやってんの」
私の肩越しから小さな鍋を覗く。さやえんどうの緑が見えたのか視線がそっちに移った。
「綺麗な緑でしょ。お味噌汁の最後に入れるからね」
「ふうん」
そして会話が終わった。
なのに、どかない。
なんとなく、お互い、気まずい感じである。
「なあ」
「なあに?」
「こないだの、取り消し」
「え?」
振り向くと、冬悟くんは、こちらを見ないで、しょうゆの小瓶なんていじくりながら、うーんとかあーとかうーとか言って、うん、って小さくまた言った。
「明日の飯は、シチューがいい」
真面目にそういう彼がおかしくて、私は笑った。
「ちょ、冬悟くん、ちが、あれは、抱負を書くの! 願いごとじゃないの!」
あはははは、と笑いが止まらなくて、彼の肩に手をついて(ちょうどいい高さだった)大笑いをしてしまった。怒るかと思った彼は、少し笑って、そうか、とだけ言った。
「シチュー、好きだったの?」
「ん、ああ、まあ」
「明日シチューにしようね」
「お前、それが一番うまいよ」
シチューなんて、ルーがあればみんな同じよ、と思ったけれど、彼が、明日の抱負を語ったことが嬉しくて、そんな意地悪も忘れてしまった。