拓崚小ネタログ5■水平線は彼方
鈍色の空から、細い糸のような雫がそそいでいる。コンクリート造りの街の喧騒は、降りしきる雨に吸い取られてか普段よりも幾分か静かに耳朶を打った。
「……止みませんね」
「そうだな」
今日は一日こんな調子だろうか。からりと薄く窓を開けて小さく呟けば、隣に立つ彼からも短い首肯が返る。直線の眼差しが、ガラス越しに濡れた街を眺めていた。
「雨の音も、嫌いではないが」
休日の朝、リビングの窓辺でふたりきり。窓の隙間から滑り込むかすかな雨音に、潮騒に似た彼の声がひそやかに溶けていく。ただそれだけで、指先にふれた外気の冷たさがうすくやわらぐように思えるのだから、――雨の季節も、不思議なものだ。
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20191001Tue.
■days
「しばらくぶりに良い天気ですね」
撮影スタジオの駐車場のアスファルトにまばらに残る水溜まりのひとつを何気ない歩調で避けながら、崚介の数歩先を歩く男が言った。
「そうだな」
自ずとその背に続くようにして水溜まりを避け、男の声に頷いて返す。ここ数日のあいだぐずついた天候が続いており――今日の昼過ぎになってようやく、久方ぶりの青空と太陽が頭上に姿を見せたところだった。
「この様子なら、夜も崩れることはないでしょうか」
「ああ。傘を広げずに帰るのも数日ぶりだな」
「ええ。……このところ湿度が高くてサボテンたちの手入れが大変だったので、少しほっとしました」
このあとは劇場へ戻る道中で手ごろな昼食を調達し、早々に稽古に合流する段取りになっている。正午過ぎまでを予定していた取材を滞りなく終え、男はひと心地ついた様子でかすかに相好を崩してみせた。
高い秋の空に、淡い白が流れている。足元の水鏡が陽光を跳ね返してちかりと目の奥を灼いた。水溜まりに一瞬映りこんだ男の長躯の影が、瞼の裏にあざやかに残る。
「黒木くん?」
秋の日差しと雨の匂いが混ざる風に、男の呼び声が溶けて柔く髪を揺らしていくのが心地好い。「……いや、」
男の影が映りこんだ水鏡が陽光の熱に消えても、瞼の裏に残る輪郭に覚えた感情を忘れることはないだろう。首を傾げる男へ小さく返して、隣へ並ぶべくほんのわずか歩調を速めた。
「――なんでもない」
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20191005Sat.
SpecialThanks/The QUEEN of PURPLE「DAYS」
■煙
シャワーヘッドからの湯が、明清色にひたされたバスルームの床の上で跳ね散ってひかる。バスタブに張った湯に胸板の半ばほどまでを沈ませながら、男の白い背中を眺めていた。
膚越しの肩甲骨の影、湯が流れてつたう背筋の浅いうねり。しばらく向けていた視線に気付いたらしい男が、ふと顔を上げて崚介へと向き直った。
「どうかしましたか」
「……いや、」
ざあざあと、透明な雨音が煙って耳朶を打つ。
その背にかすかに残った赤い掻き痕に、この男は気付いているだろうか。
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20191127wed.
(フォロワさんよりお題/『煙』)
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■緩
コートをひとつ厚手のものに変えてから、半月ほどが過ぎたころ。頭上の月の明るさが冬の訪れを間近に告げる晩秋の夜、帰りついた自宅に漂うひやりとした空気に、家主である拓真は弱く暖房を稼働させた。
「急に冷え込んできましたね」
操作機を戻し、他愛ない声を掛けつつ背後を振り返る。リビングの入口近くにあるハンガーラックの前に立つ彼は、丁度コートを脱いだところだった。落ち着いたダークグレーのロングコートと、見慣れた夜色のジャケットが並んで揺れる。
端にあるカーディガンを、慣れた仕草で手に取りするりと羽織る。何気ない一連の所作すらどこか冬の夜の透徹に似ていると、詮無い思考を巡らせていたのは果たしていつのことだったか。
「なにか、あたたかいものでも用意しましょうか」
「ああ」
そう尋ねれば、彼の声がかすかに緩んで応えを返す。それは透徹の先に手を伸ばさなければ知り得なかった、ひそやかな宵のぬくもりだった。
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20191130Sat.
(フォロワさんよりお題/『緩』)
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■乱
こつり、と靴音を響かせて立った板の上には、光と、熱と、あざやかな彩りがあふれていた。
ステージに落ちる草花と梢の翳。スポットライトの直線のひかりをうつくしく切り取る舞台装置の光陰のなかにひとり佇み、口を開く。咽をふるわせ雨露のように客席へとつたい落とすのは、噛み合わない慕情へのもどかしさとくるおしさ。
「――ああ、せめてただもう一度だけ、」
届かぬ光へ手を伸ばす。草葉の翳からそそぐひかりはせつないほどにやわらかく、指先からするりとほどけ落ちてゆく。
「面と向かって、何にはばかることも無く」
届かぬひかりへ手を伸ばす。まばゆい光をまばゆいままにまっすぐに己自身の目に映し、無心にただ求めていられたのは、――果たしていつの日までだったろう。
「この気持ちを、素直な言葉で、あなたに伝えることができたなら」
サングラス越しに、目を細める。
もはやいまの自身には、あざやかなひかりを直視することすらかなわない。
愛している、と抑えきれぬ激情を滴らせる言葉の連なりに胸裡が一瞬つよく乱れて、揺れた。
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20191211Wed.
(フォロワさんよりお題/『乱』)
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■剥
色鮮やかな草花に満ちた景色から廃墟じみた風景へと、暗転の間に世界が組み替えられていく。わずかなインターバルをなぞる寒々しく陰鬱な旋律が、先ほどまで咲き誇っていた花と翠の光彩を取り去って暗然たる場所に観客を手招いた。
崚介が六条という男として舞台の上に立つまで、あと数十秒もない。
自身の出番を終えて袖へと捌けてきた男と、すれ違いざまに一瞬視線が重なる。
暗いままの舞台袖。暗順応の半ばの視界で、然し確かに交錯した眼差しの奥に覗いた熱が瞼の裏にあざやかに残る。先ほど男が零した泪の軌跡から剥がれて落ちた激情の残滓に、知らず微かに目を細めた。
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20191211Wed.
(フォロワさんよりお題/『剥』)
■冬のしずく
ひとつ手前の交差点で降りないか、と、自宅へ向かうタクシーの車中で彼が呟くように言ったのは、十二月二十四日の午後九時すぎのことだった。
きんと冷えた風を感じながら靴裏を鳴らして歩く夜更けのマンハッタンの街は、クリスマスシーズンのイルミネーションライトに彩られてあざやかに煌めいている。
「何度見ても、この時期のこの街は美しいな」
「ええ、本当に」
彼の家まで一〇分もかからない、ごくささやかな夜の散歩道。足先へ淡く降り積もった澄んだ冬の沈黙に、彼の声がふいにふれてやわらかく溶かす。街路樹にまたたく人工の星々を見上げる彼の眼差しが心なしか普段よりいとけなく見えるのは、自身も知らずのうちに街に流れる空気にあてられているからだろうか。
「黒木くん」
「なんだ」
「……実は少し、浮かれていたりしませんか」
手袋に包まれている指先をさらう代わりに、戯れめかした問いをひとつ。梢からこぼれる星あかりに滲んだルビーレッドが、拓真を映してゆるく目瞬く。彼の夜色の髪となめらかな輪郭に冬のひかりがしずくのように絡んで眩しい。
「お前にはどう見える」
それが正解だと、ととのった唇から白い息を零した彼がかすかに笑む。ひかりを湛えながら自身を映す赤のあざやかさに、ただ、目を細めた。
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20191225Wed.
■ について
「いつの間にこんなにも強欲になったのかと、思うことがあります」
空になったティーカップの底を見ながら、ぽつりと男が呟いた。やわらかな光の注ぐ昼下がりのリビング。並んで腰掛けたソファ、その向かいにある大型の液晶テレビの画面には、つい先ほどまで鑑賞していた長編映画のエンドロールが流れている。なめらかに移り変わっていくオーケストラの演奏と、連綿と続くキャストやスタッフ名の羅列はまだ途切れる気配もない。洗練されたシルエットの字幕を視界の端へ流して、崚介は自身の隣に座る男へ視線を戻した。
男はまだ、こちらを見ない。男の横顔の輪郭が午後の日差しにわずかに滲むのを見ながら、ただ黙して次の言葉を待つ。繊細な機微を含んだ双眸が、眼鏡の奥で静かに揺れていた。
「……たとえば、こうして君と過ごすとき。私は、とても幸せです。嘘偽りなく、心から」
男のひそやかな独白が、崚介の返した沈黙の上に訥々と降り積もる。淡雪に似たそれは足元に落ちるたび琥珀色の陽光に滲んで溶けて、言葉の端を掴むにも足りない。どこか白昼夢じみた、茫洋とした響きだった。
「ですが、……ふとしたときに無意識に、その幸福を俯瞰している自分がいる」
「……」
「俺の声に君が応えてくれることに、慣れてはいけない。……それほどの幸福を手にする資格は、自分にはないのだと。頭のなかで、そんな声がするんです」
薄い唇が自嘲気味にかすかにゆがんで、緩慢に戻る。すぐそばにあるローテーブルにカップを置いた男が、エンドロールを停めてようやく崚介へと向き直る。数瞬の静謐。男の腕へ伸ばしかけた指先を掴まれて、五指が軋んだ。
胸裡を揺らした感情に、緩く目瞬く。強く崚介の手を握る男の指先は決して離れてはいないのに、ふれることを拒まれたように感じたからだった。
――否、はじめから、そこに己れは存在していないのだろう。いまこの男が吐露した脆い場所にはもとよりこの男しか居らず、そこに本質的な意味で立ち入れるのもこの男だけなのだ。崚介が立っているのはかつて男が感情に突き動かされるまま造り上げた城の残骸と理性の、その境界だった。
誰からの許しを与えられようと、男の過去が消えることはない。これまでもこの男は瓦解した伽藍の――自己の選択の結果の前に、幾度もひとり立ち尽くしてきたのだろう。崚介の知るこの男ならば、確かにそうであるはずだった。
掴まれた五指を捕らえ返して、男の痩躯を引き寄せてやりたくなる。最早そこで立ち止まる必要はないのだとその背を掻き抱いて瞑目を与えられたなら、眼前の男の心がいまこのひとときだけは微睡みに休まるだろうと知っていた。
「はいば」
強く握られた片手はそのままに、自由な指先で男の耳朶にふれる。名を呼ぶ声がただ届くようにと、その輪郭を柔くなぞる。
束の間の瞑目を、逃避を与えることは、崚介にはできない。不安定に揺らぐ心の天秤にひとときの安寧を齎す答を理解してなお、うらさむさを先送りにするだけのものと分かりきったそれを選ぶことはできぬということもまた、知っていた。
「……はいば」
応えの代わりに男の双眸がこちらを見る。伽藍に残る雨の冷たさに抗ってか、手のひらでふれた頬とレンズ越しの青だけが熱い。
自分は、この男になにを与えられるのだろう。ひとり立ち尽くす男の懊悩に許容も是正も安寧も返せないまま、それでもこの男のそばにいたかった。胸裡を揺らした情動が、ごく短い音の連なりに変わりかけては解け落ちる。いつの間にか、かつて交わした言葉では身のうちにある感情を当て嵌めるにはとうに足りなくなっていた。
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20191004最終加筆/20200128発掘
ボツネタ供養
■バレンタインデイ・イヴ
ことん、と、彼の持つトレイから下ろされてすぐそばの卓上へ恭しく鎮座した器に一瞬思考が止まる。彼になにかを尋ねようとして、然しどんな言葉で以て問えばよいのか皆目見当がつかず――灰羽拓真は咄嗟に、「それ」と同じタイミングで自身の前に呈された華奢なグラスに手を伸ばした。
なめらかな丸みを帯びた輪郭をえがくワイングラスは、そのなかにそそがれた芳醇な赤の香りをたっぷりと含んでいる。掌中でゆらりと揺れる葡萄酒の香りと深みのある彩りを、拓真も普段ならば心地好いひそやかさとともに味わっているはず、なのだけれども。
平静を装ったままいつも通りの礼の言葉を述べて、グラスの縁に口を付ける。小さく酒杯を傾けながら、先程思考停止に値する動揺を自身に与えた「それ」と視線だけで対峙する。
つややかでま白い陶器の小皿に、都合四つの欠片が載っている。自身と彼とふたつずつ、ということなのだろう。彼が持ち出すに相応しい品の良い造形と、かすかに嗅覚を掠めるあまい匂いのゆたかさがその欠片たちが相応に上質なものであることを物語っており、それらについてはなんの滞りもなく理解出来る。いまの拓真にとっての問題は、「それ」がチョコレートであるということ、ただその一点に尽きた。
二月十三日、二十二時十五分。
今日が今日でなければおそらくこれほどまでに悩むことはなかっただろう。舌先にふれたワインの風味を転がすことさえ忘れて、拓真はふいの刺客にかけるべき言葉を探していた。
「どうした」
「……いえ、」
拓真の隣に腰掛けて、拓真と同じようにグラスを傾ける彼は、傍目には普段通り――いまばかりはいささか恨めしいほどに――の様子である。相変わらずの直線の眼差しに、動揺が若干の収まりを見せる。
嗚呼、そうだ、おそらくこれはやはりただのチョコレートなのだ。なんの意図もなく、ただ偶然、彼が気に入りの銘柄のワインとともに楽しむために選んだ今夜の酒の肴。所謂バレンタインのチョコレートなどでは、断じてない。
拓真の視線がついと動いた先を認め、彼のひとみが二、三、まばたく。どこかいとけないしぐさで小さく首を傾げてみせた彼が、変わらぬ調子で拓真を呼ぶ。灰羽。
「明日は休みだ」
「……はい」
「だが、明日の翌日は、休日ではない」
「……、はい」
「美味いチョコレートと酒をお前とゆっくり楽しむにあたって、十四日という日付にこだわる必要はないと判断したが、気に入らなかったか」
続いた答えの意味するところを理解して、もう一度思考が止まる。
手にしたグラスを取り落とさなかった自身を褒めてやりたい。多忙な日々のあいまに落ちた、彼からの不意の心遣いに逸る心臓をささやかな見栄で宥めつけながら、そっとひとつ息を吐く。
「いえ、――まさか」
彼の選んだあまやかな香りの意味をほどいてゆくには、確かに今日があつらえ向きの夜だった。
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20200213Thu.