てのひらに夜 私用のスマートフォンのランプが、リビングのローテーブルの上でちかりとまたたいて新着通知を告げている。浴室から戻ったばかりの濡れた髪をタオルで拭いながら、崚介は端末を手に取り柔らかなソファに腰掛けた。
時刻は二十二時四十分。しんと静まり返った自宅には、いまはまだひとりきりだ。就寝前のハーブティーの支度をするにもいささか早い。ロックを解除してトークアプリへの慣れた動線を辿れば、崚介の想定通りの相手からのメッセージが一件届いていた。
『今、会場を出ました。三十分ほどで帰ります』
簡潔な文章は自身がちょうど浴室へ向かってすぐに送信されたらしい。業界団体主催の会食に参加していた拓真からの、帰宅時刻を知らせる連絡だった。今日の会場は幸い自宅からさほど遠くない立地であるから、メッセージの送信時刻から考えれば見立てのとおりあと十分と経たぬうちに戻ってくるだろう。
仕事絡みの食事の席にはふたり揃って参加することも多いが、今夜は既に崚介に別件が入っていたためジェネシスの代表としての出席を拓真に任せた形になる。直接顔を見ながらもう一度改めて礼を伝えよう、と思考を纏め、「待っている」とひとまず短い返信を送る。――しばらく待っても既読がつかないところをみるに、そろそろタクシーから降りた頃合いかもしれない。
リビングのドアのそばに備え付けられた操作パネルにエントランスフロアの解錠を知らせる表示が点ったのを確かめて、スマートフォンを机に残し立ち上がる。玄関の扉が開けば廊下のセンサーライトがさっと明かりを灯すことを崚介とて知ってはいたけれども、機械的な照明ではなく自身が男を迎えたかった。
肩にタオルを掛けたままスリッパのちいさな足音を残しながら廊下に出れば、動きを感知したライトが暖色の光で玄関までを静かに照らす。壁面に嵌め込まれたシューズボックスや傘立てからふたりぶんの暮らしを辿り、胸裡をやわらかく揺らす心地よいぬくもりに目を細める。この家で拓真と暮らし始めてから幾らかの時間が経つものの、こうして男の帰りを待つ機会は、思えばさほど多くない。
バスルームはすぐにでも使える状態になっている。拓真が入浴を済ませているあいだにハーブティーの支度を整えて(否、この時間ならばもしかすると一杯だけ軽く飲み直すこともあるかもわからない)、 就寝前のささやかな自由時間をともにできれば良い。玄関扉が開くのを、幼い子どものようにただ心待ちにしている自身に気が付いて、面映ゆさにほのかに頬が微温むのがわかる。……自分が何も言わなければ、あの男は湯上がりのためだとこの温もりに理由を見つけてしまうだろうか。
厚い扉の向こうから、かすかな靴音が聞こえてくる。知った歩幅で近付いてきたそれが、扉の前でぴたりと止まる。カードキーの解錠音。ノヴががちゃりと鳴いて、姿を見せた男と真っ先に目が合った。
「――、黒木くん?」
「そろそろ帰ってくるころだと思っていた」
「わざわざここで待っていてくれたんですか?」
ぱたん。男の背後で扉が閉まる。施錠が済んだのを意識の端で確かめながら、ちいさく頷いて男を呼んだ。拓真。
「おかえり」
「……ただいま、」
レンズ越しの男の双眸が柔く眇まる。慣れた所作で靴からスリッパに履き替えて廊下を進む男の隣に並ぶ。
「お風呂上がりの君に出迎えられるのは珍しいですね」
「……そうだな」
「俺もすぐに済ませてきます。よければ、お茶の時間にしませんか」
「飲み直さなくても良いのか?」
「ええ。ちょうど酔いも醒めてきたところですし……今日はこのまま、君と話したくて」
返されたいらえにまばたきをひとつ。足を止め、ついと持ち上がった男の指先が、おだやかなしぐさで崚介の頬にふれた。「何を、と可笑しく思うかもしれませんが」
「君におかえりと言ってもらえるのが、本当に嬉しいんですよ」
崚介、と、男の中低音が自身を呼ぶ。じわりとまた頬が微温んだことには気付いたけれども、胸裡を揺らすこの温度が男の手のひらにそのまま伝われば良いと思った。
「俺も、お前にそう言えることが嬉しい」
「――……、」
「同じ家で暮らすということは、これほどにも暖かいものなのだな」
頬を包む手のひらがひどくあたたかい。ジャケット越しの腕をやわく引いて身を寄せれば、同じ温度の口付けが降ってくる。
***
20220912Mon.
Happybirthday,dear Takuma!!