拓崚小ネタログ4■21 クラン・ドゥイユ
灰羽拓真は酒が好きだ。頭半分ほど上にある横顔をキッチンで見上げながら、黒木崚介はただ純然たるその事実を思考回路で辿っていた。
食前、食事中、あるいは食後。季節や折々の場面に合わせた種類の酒を崚介に振る舞ってみせるときの男の表情は大概の場合随分とやわらいで見える。本人に自覚があるか否かは定かではないが――兎角いまもまた例に漏れず、というところである。
男の手元にはやや細身のロンググラスがふたつ。すっきりとした檸檬の香りが、夜更けのキッチンにかすかに漂う。ここが崚介の自宅であればレモングラスを連想したはずだが、あるのはウォッカと合わせるためのレモンジュース、それからソーダ水とガムシロップだった。
ウォッカ・コリンズ。先ほど男がそう呼んだカクテルが、透明なグラスを淡く澄んだ陽の色で満たしていく。カクテルに浮いた氷が、グラスのなかで弾むように泳いで歌う。
「……グラスとよく合うな」
「ええ。このために選んだコリンズグラスなんですよ」
「?」
崚介の言葉に、一口大にカットした檸檬を飲み口に添えながら男が応える。
やわらかく落ち着いた声の奥に、うすく滲むような喜色の温度を感じて目瞬きをひとつ。
この男と酒杯を交わした回数を、崚介とて最早数えてはいないけれども、下部に繊細な硝子細工の施されたそのグラスを見るのは初めてだった。
『このために』とはどういう意味か。尋ねる代わりにグラスから男へ目を遣ると、眼鏡の奥の双眸と視線が重なる。かちり。
「以前は檸檬にさして思い入れもなかったんですが。……変わったのは、君とこうして過ごすようになってからです」
「――……、」
「だから、この香りに合うものを、ずっと探していたんです」
男のブルートパーズが酒精以外の微熱を含んでかすかに揺れる。崚介が自宅で時折この男へ用意するレモングラスティーの香りが、ふわりと鼻先を掠めた気がした。
からん、と、グラスの淵を辿って跳ねた氷の軽い音がひそやかな夜に落ちて、溶ける。
***
20190702Tue.
ワードパレット21番(檸檬/跳ねる/視線)
■19 リーヴァ
ざあざあと、大粒の雨が窓硝子を叩く音がする。夕方から降り出した細い雨は、夜更けに向かうにつれ煽るような強い風雨となっていた。明かりも点かぬままの寝室には、雨音と、男と、崚介だけが息づいている。
男の眼鏡のレンズが、閉じてゆくドアから漏れたわずかな光を跳ね返してちかりと瞬く。崚介が外すまでもなく部屋着の胸ポケットに押し込まれたそれがえがいた一瞬の軌跡が、流星のように瞼の裏に残って、けれどもすぐに滲んで溶けた。
とん。寝室のドアが閉じるのと、自身の背中がそこに行き当たるのはほとんど同時のことだった。この男にしては珍しい性急な口付けに応えながら、こうして深くふれあう時間を持つことはしばらくぶりであったことを思い出す。否、崚介とてまるきりそれを忘れていたわけではないが、入浴も済ませないまま寝室に引き込まれるとまでは想定していなかった、というのが正しい。
「……は、」
息継ぎの合間、問いの代わりに男の名を呼ぼうとした吐息ごと攫われてもう一度口腔を食らわれる。熱い。ドアに体重を預けたまま、身のうちにわだかまっていく熱に、わずかに背すじがふるえた。
「くろきくん」
どれほどの時間そうしていただろうか。ふと、男の掠れ声に呼ばれて瞼を押し上げる。扉に縫い留められていた手首を、男の親指の腹についとなぞられて顔を上げると、先ほどよりは幾らか落ち着きを取り戻した様子の双眸と目が合った。
「どうした」
「いえ、……その、」
「……うん?」
熱を孕んだままで落ち着いたと評するのも可笑しなものかもしれないが、瞳が似た高さの温度に揺れているのは自身も同じであろうから特段構いはしない。ふいに我に返ったのか、なにやら言い淀む男に視線で先を促してやると、手首を引いて抱き込まれる。耳朶を、男の鼻先が掠めていった。
「…………なぜだか、俺の知らない匂いがした気がして」
「……、」
「どこかで香水の匂いでも移されてきたのかと、つい」
そのままの距離で決まり悪げに紡がれた応えに、目瞬きをひとつ。クライアントとの食事会を終えた足で直接この男の自宅へ立ち寄ったところだが、香水の匂いが移るほど他人が傍にいた覚えはない。さてこの男が言っているのはなんのことかと一瞬思考を巡らせて、――思い当たった可能性に、くつりと肩を揺らして笑っていた。
「……なんですか」
「いいや、」
拗ねたような声が耳朶をくすぐる。むずがゆいほどの近さのそれが、けれどもひどく心地好い。
「お前も、次に俺の家に泊まったときにわかる」
「え」
「バスルームに入れば、な」
そう応えて、崚介が自宅を訪ねるまでのあいだに入浴を済ませていた男の、素のままの髪に口付ける。慣れたシャンプーの香りが、薄い汗の温度とともに鼻先を掠めていった。これでほぼ答えを言ったようなものだとは知っていたが、この程度にしてやらねば眼前の男が羞恥でどんな顔をしたものかわからない。……とはいえそれもまた、悪いものではないのかもしれないけれども。
「気に入らなければ元に戻すが」
タクシーを降りてからマンションのエントランスに入るまでのわずかなあいだにかすかに雨に濡れた髪が、男に要らぬ気を揉ませたということだ。詫びる代わりにそう問うと、「大丈夫です」と小声のいらえが返る。「ですが、」
「?」
「……今夜はこのまま、続けてもいいですか」
君を手放すのが惜しいのは、変わらないので。
窓の外の雨音が、応えの代わりにざあ、と強まる。夜風に吹かれて強弱のついた雨音は波の音にも似ていた。
もう一度、今度はやわい口付けが降ってくる。手を引かれ、浅瀬に寄せる白波を分けるように奥へ進んでシーツの海へとふたり、身を投げた。
***
20190704Thu.
ワードパレット19番(白波/星/手首)
■五月 あおあらし
隅々まで磨き上げられたレッスンルームのフロアの上で、一糸乱れぬ符合をみせるステップのリズムが重なる。
響く靴音は二人分。華々しく軽やかに、ときに烈しく。その場の主役が彼らであることを示すように重なり合い、或いは噛み合わさって織り上げられるダンスとパフォーマンスの緊密さは、排他的ですらあった。
「ああ、まだ続いていますか」
「拓真さん」
稽古場の端では、このシーンに参加する予定のアンサンブルメンバーが数名、真剣な面持ちでフロアの中央を見つめている。肌に熱を感じるほどの場の緊張を乱さぬようひそめた声量で拓真が掛けた問いに、やはりひそめた声で応えたのは湧太郎だった。
「夕方から立て続けですし、時間的にはそろそろ一旦止めてもいいころだと思うんですが……今日は二人とも、いつも以上の集中力で。流れが切れたと思っても、振りや立ち回りの試行錯誤をしているみたいで横から声を挟む隙間が見つからないんですよ」
「……無理が重なると怪我をする、などと月並みな言葉も、彼らにはなかなか掛けられませんからね」
「ええ」
まだ揃って『無理』をしているわけではないので、それこそ無理に止めるわけにもいかなくて。
向けた視線はそのまま、微苦笑交じりの答えが続く。彼の言葉通り、二人――崚介と岳のパフォーマンスの質が下がっている気配はない。ブロードウェイの劇場で夏季に行う演目の稽古期間に入ったばかりのいま、序盤の見せ場のひとつである大掛かりなダンスシーンの主軸を担う彼らからは普段以上の気迫を感じられた。
「二人とも今日はこのためにスケジュールを調整していたようですし……あの様子だと、もうしばらくかかりそうですね」
「やっぱり拓真さんもそう思いますか」
「顔を見れば分かります」
拓真のいらえに、そうですよね、と湧太郎も小さく笑む。気を回しはしているものの、同僚の頼もしい後ろ姿そのものには彼もまた心地好い高揚を覚えているようだった。
「私も別件でもう少し残っていきますから、藍沢くんたちは適度なところで切りをつけてください。……というか、むしろ区切りがついたところだったのでは?」
「はは、……実は」
「まあ、見ていたくなる気持ちもわからなくはないですが」
いまこの場に残っているアンサンブルメンバーは、彼と別室でフィジカルトレーニングをしていた面々だ。じき切り上げる頃合いだったところを、レッスンルームを覗いてしまいいまに至っているのだろう。拓真がそっと指摘すると、湧太郎はその広い肩を竦めてみせた。
「ああ、あと、そういえば」
「?」
「そろそろ白椋くんの個別レッスンが終わるころですね」
***
2019022Mon.(個人誌没原稿供養)
■ハグには32%のストレス減退効果があります
離れかけた指先をついと引かれて、目瞬きをひとつ。一瞬視線が噛み合うのを感じると同時に、爪のさきまでうつくしい彼の手のひらが拓真の手首を掴んでその身を寄せた。
「……、あの、黒木くん?」
頭半分ほどある身長差のために、拓真の腕に収まるかたちになった体はあたたかい。就寝前、彼の支度するカモミールティーのやわらかな香りが漂うキッチンでそっと彼に口付けたのは自身のほうだったが、名残惜しく身を離そうとした拍子に思わぬ抱擁を返されて不覚にも動揺してしまったところである。
「……ふむ」
このまま彼の背に腕をまわして良いものかと――むろん許されるのであればもうしばらくのあいだでもそうしていたいのだけれども――拓真が指先を泳がせているうちに、なにかを確かめ終えたらしい彼がちいさく頷いてわずかに身を離す。見慣れたまっすぐな眼差しがいまばかりはなにやら少々恨めしく、「なにがですか」と尋ねれば、(宙を泳いだ指先のことなど分かっているのかいないのか、)相変わらず至って真面目な表情のままの彼から「いや」と短いいらえが返る。
「効果は日に掛かるうちの三分の一、と聞いていたが」
「え?」
「やはりもう少し多いように感じるな」
間。
じわ、と温度を上げたのは自身の耳朶か目元か指先か。
「お前はどう思う」
「…………明日も頑張ります」
「そうか、」
夜着から覗く首筋の温度とボディソープの香りを感じながら、今度こそしなやかな背に強く腕をまわす。
なんのてらいもなく耳元で揺れる穏やかな潮騒が、夜の静けさにふいに沁みて心地好い。視界の端、ガラスポットのなかで、蜂蜜色の夜が揺れていた。
***
20190809Fri.(はぐの日!)
■書斎にて
背後で点いたままになっている読書灯の明かりが、夜更けの書斎に曖昧な輪郭を与えている。数分ほど前まで蔵書の背を辿りタイトルをなぞっていた右手の指先は、書斎机の淵で自身の体重を緩く支えることにその役目を変えていた。
息継ぎの合間にもう半歩踏み込んでくる体に合わせて下がると机の端に腰が載る。軋むほどではないといえ、体重を受けて小さな声で鳴いたそこに意識を向けかけたところを、男の指先に耳朶を掠められて引き戻す。
薄く押し開けた視界を、男の前髪が撫でていく。下ろされている前髪から覗く青が湛えた熱の揺らぎに目を細めた。
「はいば」
どちらのものともつかない浅い吐息に融かして男の名を呼ぶ。応えの代わりに男の五指が自身の手首を掴んで引き寄せる。ふれた指先の熱さにぞくりとした。
読書灯の明かりが、閉じた瞼の裏で淡く滲む。――名を呼ぶ声が熱に掠れきるまでならば、ここにいても構うまい。
***
20190813Tue.
■春翳
ふと見渡したフロアに彼の姿がないことに気が付いて、レッスンルームを後にした。
休憩時間を利用して仕事絡みのメールに軽く目を通しているあいだに、彼はどうやら稽古場の外へ出て行ったらしい。
稽古の再開までは、まだしばらくの余裕がある。一瞬思考を巡らせたあと、静けさに誘われるように館内を移動して、テラスを望む窓際に続く廊下へ辿り着く。
「君か」
呼び声の代わりに響いた足音に半歩分振り向いて、彼の視線が自身を捉えた。凛とした目元で揺れる、夏の影のようにあざやかな黒髪が眩しい。
「いま、少し話をしても?」
「ああ」
彼を探しに来たのは先ほど届いていたクライアントからのメールの内容について数点の確認を取るためだったけれども、さほど長い時間を必要とするわけではない。早々に用件を終えて、あいだにひとつ、空白が落ちた。
紫外線遮断加工の施されたガラスの向こうから、真夏の太陽が注いでいる。陽光に透けた彼のひとみがふいに窓の外へと向けられて、つられるように目を遣った。
テラスを囲むように植えられた木々が、焼けつくような日差しのなかで揺れている。春に薄桃色の花弁を咲かせていた梢には、瑞々しい夏の翠が芽吹いていた。目を細める。
「夏、ですね」
「そうだな」
交わした言葉はそれだけだった。或いは、それで充分だった。
彼の眸にも、淡い春の翳は映っているだろうか。
***
20190828Wed.
■まよなかと青
ガラスカップの内側で、うつくしく澄んだ青とカモミールの香りがふわりと揺れる。深夜二十五時半、ひとりきりのキッチン。抽出を待つ数分間のためにカップの飲み口に蓋をして、ゆるく息を吐いた。
普段ならばそのままカップを手にリビングのソファへ向かうところなのだけれども、ふと視線を落とした青にそっと引き止められたような心地がしてその場で立ち止まる。
ブルーマロウ特有のやわらかな青色は、しばらく経てばほどけてゆくものだ。時間の経過に伴い移ろってゆく繊細な色合いに、今夜はそばにいない男の双眸を思い出す。
あの男はいまごろどうしているだろうか。普段の会話などから想定される生活サイクルを考えればまだ起きている可能性も高いが、自身と同様に就寝の支度をしているころだろう。――少なくとも、詮無い会話のために携帯端末を鳴らすことが一般常識に照らし合わせて憚られる時間であるのは確かだった。
「…………、」
無意識的に辿った思考を一瞬のインターバルののちに自覚して、目瞬きをひとつ。やわらかな青に誘われて、あの男の声を聴きたいと感じた己れの胸中がじわりと温むのがわかる。それが面映ゆさの温度だと知ったのは、果たしていつのことだったか。
ついと持ち上げた指先で、カップの輪郭にふれる。なめらかなガラスの内側に揺れていた青がゆっくりと夜のひかりに溶けてゆくのを静かに見届けてから、カップを手にリビングへ足を向けた。
明日、男と他愛のない言葉を交わせる時間になるころには、この面映ゆさも薄紅葵のように胸のうちにほどけているだろうか。
***
20190921Sat.
■星にねがいを
夜の静けさに紛れてふと耳朶を掠めた旋律におもてを上げる。ひどくひそやかな――ともすれば自身の聞き違いかとすら思えるほどの声量のそれが、けれども間違いなく彼のものであることを、重なった視線越しに知る。いましがた耳に届いたほんのわずかな欠片から脳裏にえがいた曲名をそっと声に載せて尋ねれば、寝室の窓際にいた彼が足を止めて拓真を見た。
「……、聴こえたか」
「……すみません、少し」
彼の背後、窓辺にあるラウンジチェアの座面にはさきほどまで羽織っていた薄手の上着がふたりぶん畳み置かれている。
季節は秋から冬へ向かうころ。徐々に冷たくなっていく夜気からやわく体を覆いかくす上着は、彼とふたり寝台へ潜り込むときにだけその役目を免れる。
「……君がそんなふうに歌うのを、初めて聴いた気がします」
「……そうかもしれないな」
彼が立ち止まったのはほんの一瞬のことで、そう応えながらゆったりとした歩みでベッドサイドまで戻ってくる。拓真が腰を下ろしている淵の対岸、シーツに覆われた水平線が、彼の体重を受け止めてかすかに撓んだ。
「白椋が歌っていたのは日本語の訳詞だったが、俺には馴染みが薄いものでな」
なにげないしぐさで足先をシーツへすべりこませた彼が、ぽつりと呟くように言う。彼の口ずさんだ旋律がなめらかに鼓膜をつたい流れていったように感じたのは、どうやらそれが英詞であったためらしいと、その言葉で察し取る。
日中の稽古の休憩時間にれいが楽しげにその曲を歌っているのを、拓真も耳にした覚えがある。彼らしい澄んだ歌声で紡がれた旋律は相も変わらず美しく、そして優しいものだった。窓辺から染みる夜気にふれた拍子に記憶を掠め、胸裡と琴線を揺らしてゆくのも理解できる――ちょうどいまのようなひっそりとした夜には、なおさらに。
「黒木くん」
「……なんだ」
「……英詞では、どう続くんですか」
そっと静寂に紛れ込ませた問いに、彼のルビーレッドが拓真を見上げて二、三、まばたく。何度見てもあざやかに瞼の裏に残る夜のひかりの残滓に目を細めながら、ヘッドボードに背を預けて傍らにある読書灯の明かりをゆるりと落とした。
数秒のインターバルに、身じろぎをつたえるシーツの衣擦れと、発条の軋む音がつらなる。腕にわずかにふれた彼の肩の温度がひどくあまい。す、と、ちいさく息を吸う音がした。
「When you wish upon a star,――……」
街明かりに滲みがちな星空も、高層階に位置するこの部屋からなら幾らか近い。窓の外に広がる濃藍のとばりを思いながら、深くやわらかな夜に似たかれの歌声を聴いていた。
***
20190926Thu.