夏の白波 冷蔵庫のドアポケットから、アイスティー用のボトルを手に取る。昨夜就寝前にブレンドティーのリーフを浸しておいた冷水は、ハイビスカスのあざやかな赤にたっぷりと染まっていた。キッチンスペースの食器棚から取り出したふたりぶんのグラスに氷を二、三欠けずつ放り込み、ボトルを傾けてそそいでいくと、ルビーレッドのなかでくるりと泳いだ氷が軽やかに鳴いた。
グラスを持った片手のひらに伝わる冷感が、休日用のトレーニングを終えたばかりの素肌に心地好い。窓の外は真夏の盛り、むろん空調は効いているけれども、体を冷やしすぎることのないようにと柔らかなものだ。
そのまま、キッチン台に凭れて緩く息を吐く。
行儀の良い真似とは言い難いが、数メートルほど後ろにあるダイニングテーブルに汗に濡れた体のまま向かうのもいささか憚られて、崚介はからりと涼しげな音を立てるグラスに静かに口を付けた。
見た目にあざやかな彩りを添えるハイビスカスに、ローズヒップのまろみのある酸味とレモングラスの清涼感が溶けている。こくりと嚥下したあとかすかに口内に残るのは控えめのミントの風合いで、夏用のブレンドらしいすっきりとした後味だった。冷たさを求める体を宥めるように、ゆっくりと数口ぶん喉を潤していく。冷気を逃さぬよう窓の締め切られた室内で聞こえるのは傍らにある冷蔵庫のかすかな唸り声と、空調機の緩い送風音、それから、少し離れた浴室から届くドライヤーの音だけだった。
数枚の扉を隔てた向こうに聞こえるそれは自身よりひと足先に浴室へ向かった男のものだ。髪を乾かすドライヤーの音が聞こえはじめてしばらく経つから、じきにこちらへ戻ってくる頃合いだろう。他愛のない思考を巡らせながら、硝子戸越しにリビングを浸す夏の日差しを眺めて目を細める。――ひどく、穏やかな朝だ。
「お先にいただきました」
「ああ」
ゆるやかに傾けていたグラスの中身が半ばほどまで減ったころ、スリッパの柔らかい足音とともに男がリビングへ姿を見せる。湯上がりの長躯をつつむ薄手のルームウェアの、ゆったりとしたシルエット。足元に落ちる影の輪郭だけが、夏めいて僅かに濃い。
「はいば」
「ああ、ありがとうございます」
手に持っていた自分のグラスをコースターの上に置き、もうひとつ用意していたグラスを男へ手渡す。かろん、と歌うように揺れた氷はわずかに角をなくして丸みを帯びていた。
こくりと二、三、アイスティーを喉へ流し込み、男がちいさく息をつく。静かに手元のグラスに落とされた視線がふと淡く揺らめいたように思われて、もう一度男の名を呼んでいた。灰羽。
「どうした」
「……、いえ、」
短いいらえを返す男の声はなにか思案を巡らせているときのものだ。頭半分ほど上にある双眸を見遣りながら首を傾げてみせると、男は間を取るようにもうひとくちグラスを傾けてからそっと口を開いた。
「他愛のない話ですが、かまいませんか」
「ああ」
頷く。応えを聞いた男の青が眼鏡のレンズ越しにかすかに細まり、薄く濡れたグラスをコースターへ戻す。ことん、と、ちいさな音がいやにあざやかに耳朶を打った。
「……はいば」
そのまま何気ない所作で伸ばされた男の手のひらが自身の腕にふれて、普段のように抱き寄せられる。男の湯上がりの肌にまだシャワーを浴びていない自らの体がふれぬよう反射的に軽く身を捩りかけたけれども、身じろぎごと閉じ込められて動きを止めた。他愛のない話と切り出したはずの男の腕が、体温を確かめるようにわずか強まる。
「今朝、昔の君と会う夢を見たんです」
「……」
「ちょうど六、七年前でしょうか。……まだ、ジェネシスがこちらへ渡る前の君のようでした」
続いた言葉に、ああ、と理解を綯い交ぜにした応えを返す。自身を抱く腕の強さにどこか知ったものを感じられたのは、長い腕がそのころの温度を思い出していたからなのだろう。いまは海の向こう、遠く東京の、ひそやかな熱帯夜の記憶。
「夢だと思いながら懐かしい君と幾らか話をして、その途中で目が覚めた。ただ、それだけの、ことなのですが」
「……ああ」
「君からの質問に、答える前に起きてしまったものですから。それがどうにも、悔しくて」
「……、」
男の首筋の温度を頬に感じながら、目瞬きをひとつ。夢うつつのほとりで、自身はこの男になにを問うたのか。――夢の中の話だというのに、なぜか答えを知っている気がした。
ちいさく身じろいでおもてを上げる。明清色の夏に透けた男の青が、まっすぐに自身を映していた。
「君はいま幸せか、と。……頷くだけでよかったのに」
男が呟くように零した言葉を自身が掬うより先に、薄い唇が吐息をさらう。浅く啄んだ拍子に口の端を掠めた呼気の熱さに背がふるえる。
「は……」
息継ぎの合間、かすかに開けた唇が酸素を求めたのか眼前の男を求めたのかなど、考えるまでもない。とん、と、尾骶骨が流し台に行き当たるのと同時に舌先を差し入れられて、あまく食んで応える。下肢の間に片膝を割り込ませた男の腿が足の付け根を柔く撫で擦る曖昧な刺激に、伏せたままの瞼が跳ねた。
久方ぶりの青い欲を受け止めて返すようにルームウェアの裾から指先をつたわせて、いくらかしなやかさを増した背すじのうねりを辿る。ついとなぞってから戯れるように爪を立てれば、男の吐息が物足りなさげにちいさく揺れる。
「はいば」
名を呼んで視線を遣るのは、この家にひとつきりの寝室の方向だ。起床の際にカーテンを開け放してきたそこは、目の醒めるような朝日に浸されきっているだろう。そう理解していても、既に冷房の温度を忘れかけているふたりぶんの膚にはま白いシーツの波際が必要なのだということもまた、確かだった。
あつい。
男の首筋をやわく食みながらそう零すと、耳朶に軽く歯を立てた近さのままで男が困ったように笑む。
「……夏ですからね」
「……ああ」
細めた視界の隅で中身を残したままのグラスがふたつ、コルクのコースターを雫で濡らしていくのが見える。ここに戻ってくるころには氷もすべて溶けきって、あざやかな赤をかすかに和らげているだろうか。詮無い思考を巡らせながら、夏の白波を歩く男の手を掴んだ。
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20200704Sat.