浅瀬に月解け 枕元の時計の文字盤は午前一時をわずかに過ぎたころ。ぽつり、名前を呼んだ拍子に彼のひとみが和らいだことに気が付いて、灰羽拓真はもう一度彼を呼びながら何気ない会話の端をゆるく引きとめた。「黒木くん」
「どうか、しましたか?」
「……うん?」
ふたりぶんの温度を含んだシーツへ潜り込み、拓真の傍らに身を横たえる彼の声と双眸は、浅いまどろみに足先を游がせているようでずいぶんと無防備だった。ときに刃のうつくしさを湛えるあざやかな赤が、いとけなさをすら含んで自身のそばにあることは拓真にはむろんただ愛おしいのだけれども――いま、ふとひそやかに綻んだかれの眼差しの意味を、交わした言葉のつながりからは推し図りかねたのだ。
あるいはそれは、彼のまなざしひとつにさえふれたいと望む自身の傲慢であるのかもしれなかった。夜が更けてゆくばかりのこんな時分でもなければ、言葉足らずの問いを投げることに多少なりと躊躇していただろう。詮のない思考を巡らせながら、拓真の向けた問いをやはり普段よりは幾分か緩慢に思案する彼の表情を眺める。長い睫が二、三、まばたいて、うつくしくととのった唇が答えを接いだ。
「お前が、俺を呼ぶのを聞いていた」
「……君を?」
いましがた見た彼のまばたきに釣られるように、拓真もまばたきをひとつ。否、確かに推測できなかったために尋ねはしたのだが、それでもこの返答はまるで想定していなかった。補う言葉を探してか、シーツのなかで彼がちいさく身じろぐ。わずかに軋んだ寝台の発条と、衣擦れの音が耳朶をかすかに撫でた。
的確な言を迷いなく連ねてゆく彼には珍しい仕草だ。彼のこめかみから流れた夜色の髪を指先でそっと払いながら手のひらを頬に添わせれば、彼のひとみがやわらかく眇まった。「不思議なものだな」
「お前に名前を呼ばれることは、いつもひどく心地好い」
真夜中の波際に似たひそやかな潮騒が、微睡みの浅瀬に揺蕩う聴覚と胸裡を揺らして解けていく。
はくり。返す言葉を取り落として空気を食んでいるうちに、悪戯めかしたひかりを灯した双眸がついとすべって胸元へ潜り込む。自身が照れ隠しに抱き寄せるより先に腕のなかへ収まってしまった体温にふれてよいものかと思案していると、彼がちいさく喉をふるわせて笑う感触が夜着越しの膚を擽った。心地好い。
ささやかな見栄を張る機を逃したからか、いまや身のうちには気恥ずかしさにも満たぬ静かな波があるばかりだ。……偶には、それも悪くないだろうか。
「……なにが、不思議なんですか?」
先ほどの彼のことばの端に感じたささやかな疑問の尾を捕まえて、彷徨わせていた手のひらで彼の背を抱く。たしかな意思でもってしなやかに織り上げられた、熱くうつくしい背。
数瞬の間。腕のなかの彼の肢体が、委ねられるようにやわく緩んだ。
「ひと目で国籍の知れる名など、以前は煩わしいものでしかなかったからな」
「――……、」
「だが、いまはそう思わない」
灰羽。彼が静かに拓真を呼ぶ。刃に似た矜恃を孕んだテノールが、自身の名前を象る響きに胸裡がふるえた。
明日も彼は――自分たちは、ブロードウェイのステージに立つ。いま身を浸している夜が過ぎて朝を迎えれば、胸をつらぬくような彼の歌声が舞台に響き渡るまで数時間ほどもない。
「おやすみ、」
束の間の浅瀬に、ひそやかな月明かりに似た彼の声が解ける。間近にあるつややかな夜色の髪に唇を寄せて、同じように名を呼んで応えた。
***
20220607Tue.
Happy birthday,dear Ryosuke!