score0-0-0 熱湯をそそいだガラスポットのなかで、抽出を待つリーフがまどろむように揺れている。オフ日前の夜、繊細な曲線の内側にやわらかなひかりの色が射したのを確かめて、ストレーナーを引き上げた。
温め直したふたりぶんのカップに、日向色のハーブティーを注ぎ入れる。ソーサーとポットを載せたトレイを手に、キッチンから数メートル離れたダイニングテーブルへと足を向ければ、席にいる男が手元に落としていた視線を上げて崚介を見た。
「ありがとうございます」
「ああ」
傍らにカップを置くと律儀な礼の言葉が返ってくる。軽く頷いて応えて、机の上にトレイを置いた。差し向かいにある自分の椅子へ戻る前にその場に立ち止まり、男――拓真の手元を見遣る。
「なにか確認しておきたいことはあったか」
「……そうですね、」
覗き込んだそこにあるのは、短辺に針金がついた上下開きのリングノートだ。仕事でもタブレット端末を重宝している男の姿からするといささかアンバランスにも見える至ってアナログな体裁の紙面は、チェスの手番を記録するためのスコアシートだった。一定値までの英数字と数種類の記号が書き込まれたノートの筆致を辿り、十分ほど前までの対戦の棋譜を指先でなぞる男が再度口を開くのを待つ。
「……それでは、ひとつだけ」
十一手目のビショップですが、――と、ややして投げ掛けられたのは戦局中盤に流れの変化を与えた一手についての問いだった。男が動かした駒以外の選択肢も挙げながら、男の問いに答えていく。
この男とチェス盤を挟んで向かい合い、こうしてゲームを振り返ることも、気付けば片手の指では足りない程度の回数になる。手頃な息抜きとして画面越しに行なっていただけのそれが、形を変えてこの男と分かち合うものになっているいまが崚介にはどこか面映ゆく、そして心地好い。一体いつ学んでいるものか、自身の知らぬ間に着実に知識と応用を身に付けている男との対局は、多忙な日々のなかで頻度こそ高くなくともすでに十二分に好ましいものだった。
「黒木くん?」
「……いや、」
ふと落ちた会話の途切れ目に、まだ真新しさの残る盤面へとそっと手を伸ばす。つややかな加工の施された木材に指先が馴染みきるには果たしてどれほどの時間が必要だろうか。詮無い思考を巡らせながら戯れるようについと駒を撫でて離れかけた五指を、男の手のひらがやわらかなしぐさでさらっていった。知った感触の長い指に自身のそれを絡めて返せば、男の双眸が緩く温んでかすかに眇まる。
「機嫌が良いですね」
「そうだな」
「君が楽しめる程度には、要領を得られてきたと思っても良いということでしょうか」
機嫌が良いというならば、互いに同じことだろう。冗談めかした色合いの言とともに、男がちいさく椅子を鳴らしてこちらへ向き直る。眼鏡越しの青とまっすぐに視線が噛み合う。かちり。男の温度を確かめるように、絡めた指をほんのわずか強くした。
「むろん、お前の上達の速さも楽しみのひとつだが」
「?」
「こうしているあいだは、お前を思考ごと独占しているような気分になる。……贅沢なものだ」
手筋や思考の間隙、視線と指先のゆくえから、互いの意図をさぐりあう。言葉ひとつ交わさぬなかのやり取りは、けれどもだからこそときに会話以上の密度を持って心地好く胸裡を揺らすものだった。
感じるままをただ端的にそう述べて、普段とは逆の高さにある額に唇を寄せる。口唇の薄い皮膚でふれた額は手のひらと同じにあたたかい。知ったシャンプーの香りが鼻先を掠めていくのを感じながら身を離すと、ほんの一瞬丸く瞠られた双眸がそのままの近さで淡く揺らめく。
「…………本当に、君という人は」
「なにがだ」
「いいえ、」
続く応えの代わりに、熱い手のひらに腕を引かれて口付けられる。啄むようなそれの誘いに乗って息継ぎの合間にほんのわずか踏み込めば、絡めたままの指先が微熱を含んで重ねた膚の境界を滲ませた。
些細なしぐさひとつ逃さぬようにと五感を傾け、そしてまた傾けられる。曖昧に滲み溶ける輪郭のなか、眼前の男に思考が満たされていく感覚だけがあざやかだった。
――成程、心地が好いはずだ。
先程まで盤面越しに見ていた青を思い出し、ふと回路の隅へ落ちた答えは、言葉にはせず吐息に代える。零れたそれを食んで掬った男のなかに、自分は同じ温度を満たせているだろうか。
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20200912Sat.
Happybirthday, dear Takuma!