その愛は許されるものだろうか 人気の無い礼拝堂の長椅子に、男が腰掛けている。暗い緑色の目をしたその男は手元の聖書を読んでいるようだったが、どこか上の空であるようにも見えた。
「……そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。……彼を愛したからである。……ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた……」
少し掠れた声がぽつりぽつりと文章を読み上げている。頁の表面をなぞる指先が何度か同じ部分で迷い、それから男は物憂げに目を伏せて溜め息を吐いた。
――クレイン・オールドマン。中央区に所属する神父である彼はつい一か月ほど前にとある事情で重傷を負い、その後完治してまた普段通り各地を飛び回るようになっていたが、中央区にある自分の教会へ滞在する日数が少し増えていた。外泊が減ったのだ。だがそれに気付いた人間は少なく、また、その纏う空気がどこか張りつめていることに気付いた人間はもっと少なかった。
静かに目を伏せているその所作は祈りの姿に似ていた。クレインは体格に恵まれておりいかにも戦士然としているが、こうしていると無害で敬虔な聖職者に見える。
ふと顔を上げたクレインは、目の前の祭壇にいつの間にか天使が腰掛けていることに気付いた。輝く目がじっとこちらを見ていた。
「ああ、ゼクセル様。おいでなら声をかけて頂ければ……気付かなかった無礼をお許し下さい」
椅子から降りて膝を折り、天使の手の甲へ口付ける所作は極めて丁寧で如才無い。それを悠然と受け入れてから、天使ゼクセルは口元を緩めた。
「それに答えはあったかい?」
ゼクセルの視線の先、椅子の上に置かれた聖書を見てクレインは緩く頭を振った。
「いいえ、……私の未熟さゆえでしょう、うまく読み解くことが出来ません。どう……すべきなのか、私には……」
クレインは静かに立ち上がり、暗く静かな目が緩く瞬いてからまた伏せられた。
「これは……これは多分、愛なのでしょう。けれど、私が個人的な情を向けてよい相手ではない……」
考えているのは、迷っているのは、天使に情を捧げることについての是非。いや、「捧げる」のなら問題はないのだ、クレインが判断しかねているのは「彼」へ――己に加護を与え、安らぎを与えてくれたある天使へ――友人に向けるような愛を向けることが果たして許されるのかどうかであった。愛に許可を求めること自体不自然なことではあるが、クレインにとって許しとはとても重要な要素だった。己の抱く感情が罪であるならば捨ててしまうべきだと思っていた。
……クレイン・オールドマンは潔癖な男である、正確にはそうあろうとしている愚者である。いらないものは削ぎ落として、高潔で清廉潔白な聖職者たろうとしているおろかものである。
「苦しいか?」
「え?」
静かにクレインの言葉に耳を傾けていたゼクセルが、不意にそう口を開いた。
「それを抱き続けることは、お前にとって苦しいことか? 捨ててしまえば楽になれるのか?」
その天使の問いは何のてらいもない真っ直ぐなものだった。真っ直ぐこちらを見る目の輝きと、大きな翼と光輪の神々しさがクレインをたじろがせた。その愛情深さゆえに得ている穢れは彼の気高さを損ないはしない。
「ええ……いいえ、違う。俺、は……」
目を泳がせたクレインは、ぽつり、と呟く。
「……悲しい……?」
悲しい。言葉にしてみるとそれは思いのほかしっくりと腑に落ちた。
クレインはきっと、捨てようと思えばかの天使への愛情を捨てることが出来るだろう。心の一部をちぎり取って、その断面から血を流すことになっても耐えるだろう。……だがそれは、ひどく寂しく、悲しい。
長椅子に向かったクレインは聖書をその手に取るとそっと胸に抱き締めた。それからゼクセルの方を振り返り、困ったように微笑んだ。
「ゼクセル様、……俺を臆病だと笑って下さい、俺は俺自身の愛すらまともに見詰められないのです。……見詰められないから、捨てることも拾い上げることも出来ない」
「笑わねぇよ、それは臆病じゃあない。お前の抱く愛はきっと何より尊いし、その迷いもいずれは助けになるだろうさ」
ぎゅう、と、聖書を握る指に力が入る。クレインは一度目を閉じてから、深々とゼクセルに向かって頭を下げた。
「天使ゼクセル、尊き愛の導き手、貴方の言葉はいつも私に夜明けの鐘を聞かせる。……ありがとうございます」
ひら、と片手を振って笑った天使は、幼子でも見るような目でクレインを見ている。
「いいってことよ。ゆっくり休んで、ゆっくり考えて、お前の答えを出せばいい」
そしてゼクセルは伸びでもするように翼を動かすと、祭壇からふわりと浮かび上がった。一度、二度、と羽ばたいて体勢を整える。
「じゃあな、クレイン。お前に良い愛が降り注ぐように!」
額を一撫でして軽く祝福を与えてからゼクセルは飛び立ち、天窓から外へと去っていった。
そしてその晩、クレインは早めにベッドへ入ることにした。思い悩むと止まらなくなるのが己の悪癖であることを彼は自覚していたし、それをどうにかするには逃避が最も効果的だということも知っていた。野宿だろうが戦地だろうが必要であればいつでも眠らなければならない生活をしているため寝付き自体は悪くない。
ただ、すとん、と足元の穴に落ちるようなその感覚をクレインはけして好きではなかった。
※ ※ ※
――ああ、夢だ。
気付くと見知らぬ廃墟に立っていたクレインは、これが現実ではないことを自覚していた。乾いた風の吹くその場所には自分以外の人影はない。薄汚れた壁、今にも崩れそうな床材、地面に転がっていた子供用の靴を拾い上げようとするとストラップが千切れた。
今のところ異変はない。炎がその身を焼くこともなければ、糾弾する声が聞こえることもない。クレインはあてどなく廃墟の中を歩き回り始めた。
まずクレインが立っていた場所は元々人が生活していた場所のように見え、食器棚のようなものと、中型の机、椅子が二脚並んでいた。椅子のうち一脚は背もたれが割れ、座れば崩壊しそうな有様である。奥に進むと台所らしきものがあるが、空の酒瓶が何本か並んでいるだけで住人は消えて久しいと思われた。隅の方にある階段は今にも崩れ落ちそうだったが、どうせ夢だとクレインは普段であればありえない無警戒さでそれを登り二階へと向かった。
階段を上がってすぐのところに扉があり、迷わずその扉を開いたクレインはそのまま室内に足を踏み入れ、数歩進んだところで立ち止まった。殺風景な部屋である。この部屋の主は恐らく孤独で、諦めがよく、執着心の少ない人間だとなんとなくクレインは思った。壁際にあった机に歩み寄り、誘われるようにその引き出しを開くと、中には色褪せた紙が何枚も入っていた。書かれている文字はよく見えない。風化して文字が消えかけているというよりも夢の焦点が合わないのだ、だがクレインはこの紙が誰かからの手紙であることを知っていた。誰かから、誰かに宛てた、手紙だ。
なんとか解読しようと目を凝らしていたクレインは、「それ」に対する反応が遅れた。
「……!」
不意に背後から抱き締められたのだ。影のように薄ぼんやりとして冷たい……だというのに何故か嫌悪感をおぼえない、振り払う気にもなれない何かにふわりと柔らかく抱き締められたのだ。
――俺はこれを知っている。
クレインは混乱しながらも、その影に強い親愛の情をおぼえた。彼は父母を知らない孤児だったが親代わりの聖職者に愛されて育っており、これはそういったものから愛情を受けた時に感じるものに似ていると思った。
――俺は、彼を、知っている。
そう、「彼」だ、この影はクレインが知っている特定の誰かだ。
「 」
名を呼ぼうとしても声が出ない。空気の塊が喉に詰まっているような感覚がして息苦しくすらある。名を呼ぼうとすればするほどその違和感は増したが、クレインは何故か諦めてはいけない気がして声を出そうと試み続けた。呼ぶのを諦めたら今度こそ取り返しがつかないと思った。
※ ※ ※
「 !」
喉の奥から声を絞り出したと思った瞬間、クレインは目を開けていた。ベッドの上で丸くなっている己を自覚するのに少し時間を要する。ゆっくりと寝返りを打つと、不意に足が痛んでクレインは呻いた。痛み自体は一瞬だったが足の裏がじわじわと熱を持ち、手で摩ってみると傷が――聖なる痕が――疼く。
……急かされている、気がした。