声は甘美な誘惑
『おたくの子、引き取りにきてくんない?』
着信は沖田の携帯からであった。
非番であるのは知っていた。というより、隊員の勤務表を練って管理しているのは土方だ。
文机の上に置いていた機器が振動し、書類に集中していた眼を移せば久しぶりに目にした。「沖田」という堅い文字。
捕物ではトランシーバーを使うので、携帯電話を通して沖田の声を聴く機会はあまりなかった。
機会がないというよりは掛けても出やしないというのが正しい。
「なんでテメエが総悟の携帯から掛けてくんだよ」
判りやすい程不機嫌な声で返していた。
こんな時分になんだろうと、不審に思いながらも通話ボタンを押せば。
沖田の声がはいることを予想していた土方の耳に、一番聴きたくのない声が飛び込んできたのだから仕方がない。
電話向こう、ひくっとシャクリを上げる男は土方の機嫌などお構いなしに。
『たまには飲まねえかっていうから付き合ってやたらよぉ、酔い潰れててんで起きやしねえの。お前保護者だろ? 迎えにこいよ。っーか、お願い、来て。俺いま金ねえから』
呂律の怪しい声で懇願され、一気に気分が悪くなる。
飲みに付き合ってやったって、それは詰まるところ沖田から声を掛けたということで。自業自得ではないか。
「知らねえよ。置いて帰りゃあいいじゃねえか」
胸くそが悪く。吐き捨てるように云っていた。
後々迎えに行く填めになっても、自分は近藤とは違い、おいそれと迎えに行くと云ってやれる気にはなれなかったのだ。
『あー、店ん中ならそうしても良かったんだけどさぁ』
電波を通し、こもった音に歯切れの悪い声を乗せ男は云う。
その後ろ、ゴトンゴトン、と電車の走る鈍い音に鉄鋼を削る高い金属音が混じる。聞き慣れた背景にそれだけで土方は察しがついた。
駅の近く、高架下のあそこか、と。
『いま外なんだわ。オヤジがこのままじゃ店閉めらんねえから、なんとかしろってよ』
見廻りの帰りに、よく沖田にせがまれ一緒に暖簾をくぐる屋台がある。
気前の良いオヤジが居るおでん屋であった。
行き付けの店によりにもよってこの男を誘いだすなんて。思うと、俄に腹の中が黒くなる。
酔い潰れるほど男に気を許していたのかと思うと。それもまた面白い訳がない。
しかし、
『ちょっと沖田くん、いい加減起きてくんない。銀さん置いて帰っちゃうよ? いーの、知らないよ?』
電話を繋げたまま、諦めずに万事屋は沖田を起こそうとしているようで。ぅーん?と、また随分と間抜けた声が電話越しで聞こえた。
万事屋の声が遠退いて、代わりに寝惚けた沖田の唸り声が近くにきこえる。
ほら。君んとこの副長に迎えに来てもらいなさいよ。
そういってノイズと一緒に聴こえる声は、甲斐甲斐しく沖田の世話を焼いているのがわかり。
携帯を沖田に押し付けているのか。耳許で、「ゃあ...!」と、こどもが癇癪を起こしそうな勢いで声を上げるから。おいおい大丈夫か? と。土方は思わず面倒を見遣る男の心配をしてしまう。
流石に自分ところの部下が他所で迷惑を掛けていたら申し訳ない気持ちにもなるだろう。
『....えー、ひじかたさん?』
『そう。土方クン。電話繋がってっから、じぶんでお願いしなよ』
『おこってますー?』
『怒ってない怒ってない』
全部聴こえてるし。酔っ払いの会話の縺れを聞いて、もう切ってしまおうかとも考える。それは薄情だろうか。
『えーと、土方さん?』
黙っていると、はっきりと名前を呼ばれた。
隣にいる男への確認ではなく、真っ直ぐに届いた声は、自分に向けられたものだということが判る。
それだけで胸が浮上した心地になるのは、単純に嬉しさを感じてしまったようだ。つくづく沖田には甘く、時々自分が嫌になる。
「馬鹿。飲みすぎなんだよ」
わざと呆れた物言いでこたえれば、えへへ、と。とろけた口調で笑う。
悪びれた様子はない。どころか、土方の不機嫌な様子に、どこか満足をしているようにも聴こえるから。敵わない。
舌ったらずな口で、今居る場所を云われる。
電話を通して聴く声は新鮮でいて、官能的だ。そう思うのは仕方がない。
時おり「ヒクッ」とか、「ヒッ」と。
身体に入れた酒が横隔膜を痙攣させているのか、沖田の口から小動物のような鳴き声を出させているのだから。
それが只の酔っ払いのしゃくりであっても。堪えているのか、控え目に上がる声は高く、よく直に耳にするもので。
土方が身体を突き上げる時に溢れる、甘い喘ぎにも似ていた。
身体のほてりを逃がそうとしているのか、乱した吐息がその場に居ない土方の耳に吹きかかってくるようでいて、馬鹿みたいに鼓膜を熱くさせる。そしてトドメとばかりに。
『土方さん.....、きて?』
確信犯ではなかろうか。
放たれた瞬間。頭のなかで完全に土方は、開かせたやわらかな股を押さえ付けて、沖田の身体を犯していた。
(ーーくそっ、)
勿論それは妄想であって。実際は歯軋りする想いで、机に顔の影を落とし肩から打ち震えることしかできなかった。
もう頼むから。すぐに迎えに行ってやるから。その口を閉じてろと。そう伝えようとした。
これ以上、隣で耳を立てているであろう男に沖田の声さえ聴かせたくないと思ってしまう自分がいて。なんと小さな男なのだろうと自己嫌悪に耽りそうだ。
『あ、もしもし多串くーん?』
「あァ? なんだよ」
誰だよ多串って。とは返さない。
懲りない呼び名に律儀に突っ込んでやる気はないのだ。
突然声の主が変わり、土方は顔を顰めた。
『やっぱ気が変わったから来なくていいよ』
「はあ?!」
何を云ってるんだこいつは。
「さあ沖田くん次どこ回るー? 俺的にはその辺の宿でもいいけど」と、調子に乗ったふざけた声が聴こえる。
まるで肩でも抱きかねない雰囲気を醸し出すから。
「オイ 腐れ天パ! テメエ何ふざけたこと抜かして」
堪らず声を荒げている途中、ブツリと、通話は途絶えた。それはもう後味は最悪なもので。
土方は慌てて部屋を飛び出していた。
非番着の腰に刀を忘れず差したのは、その位の余裕はあったのか。はたまた男を斬り捨てる目的で手にしていたのか。
どちらであったかなど考えたくはない。
見苦しい程息を切らした土方を待っていたのは、カウンターに赤らんだ頬をひっつけて人の気も知れず眠っている沖田と。
「ぉ、副長の旦那。早かったねィ」と、白い手ぬぐいを額に巻いた屋台のオヤジ。二人だけであった。
万事屋は電話を切ったあの後すぐに帰ったらしい。すぐに迎えはくるからと云い残し。
完全に踊らされたのだと気付いたと同時に、土方はどっと膝から崩れそうになるのを堪えた。
店仕舞いをしている店主には悪いが、
「おやじ、最後に冷酒一本頼むわ」
カラカラになった喉は潤いを求めていた。
憎たらしい部下の隣に腰をおろすと、相変わらず人の良い笑みで店主は「へィ」と答え。キリキリッと、頭が引き締まる音を立て蓋を外す。
「旦那ァ、ここ最近忙しかったんだって? その子から聞いたよ。こいつは俺からサービスさせてくんな」
置かれたグラスにトクトクと。
注がれていく透明な酒に、やけに疲れきった己の顔が映りこみ。ここまで酷い隈だったのかと土方は気付かされる。
近藤もよく口を酸っぱくし注意をするのだが、土方は自分の身体の事となると滅法鈍くなるようだ。
「心配してやしたぜ。上司想いの良い子じゃねえですか」
なんて、口に含んだ酒に沁みいる声で云われ。
いつもより甘味を強く感じさせた酒の味が口の中に広がる。
「いうなオヤジ。こいつが一番手ぇ掛けさせやがんだからよ」
隣の沖田に眼を落とした。
気持ち良さそうに寝息をこぼしている。
電車が通れば窓から洩れる暖かな光が栗色の髪を照らし、靡かせる。
風にあてられ少しばかし冷え込んだ髪に土方は指をさしいれて、くしゃくしゃと撫ぜ回した。
口とは裏腹に、可愛くて仕方がないといったように。
確かに自分の身体の事となると疎いのかもしれない。仕事に対する加減を知らない。
なれど、
(誰がお前をおぶって帰ると思ってんだ)
その位の力は残してある。
それに、限界を迎えるときは、きっとこいつの傍であろう。
了