飼い主に似た狂犬は微笑んだ
ジャリリ。
その存在を知らせたのは石を踏む音。
雨がしとしと降りしきり、小降りの滴に夏を越し終えた葉が湿る。
笠も持たずに黒い隊服を身に纏う男は、見つけた獲物に腹を空かせた獣のような眼を向けた。
雨にあてられても尚、金木犀の香りは強く際立つ。
そんな匂いを漂わせた夜風に妙に肌寒く感じた。
「そんな処に隠れてねえで出てこいよ。職質してやらぁ」
目の当たりにしなくても判るのだ。
この胸の疼きが。木々に潜む男が只者ではないということを。
刀を鞘に収めたままに、使われたのは一つの殺気。
沖田はとても警察とは思えぬ妖しい笑みを浮かべ、色濃く瞳孔を開かせた。
不逞浪士を捕らえるのは仕事の内ではあるが、こんな顔、近藤には見せたくないものだ。
しかし、相手もまた人並み外れた修羅の道を歩んできた男で。
沖田の殺気など意にもとめず、影からその姿を現した。
番傘で特徴的な髪色を隠そうと、だらしなく着崩した身形の男に心当りのある沖田は眼を瞬かせ。複雑な顔をしてみせた。
顔につまらないと書く沖田はお預けをされた気分なのだろう。
相手の男は決して臆していたわけではない。
「職質だあ? 上等だよ。こちとら歌舞伎町支持率No.わんの万事屋銀ちゃんだ。なんか文句あんのかコラ」
単に、沖田と顔を合わせるのは面倒だと判断したまでで。
敵意もなく丸腰同然に名を名乗る男に、沖田は呆れて肩を竦めてみせた。
「ダンナぁ。税金も払わねえでよくそんな堂々と名乗れやすねぇ」
「パンツは下ろせてもこの肩書きはおろせねえんだよ。大人の事情だ。察しろ」
そりゃ、大層な名前をお持ちでと。
思わずフハッと笑ってしまった沖田は相手のペースに乗っていた。
碌でもない大人だと判ってはいても、この男を割りに慕っているのだ。
「それで。こんな処で何してるんですかい?」
「なにって。見りゃわかんだろ? 買い出しだよ。ったく、雨んなか人使い荒いぜ。どいつもこいつも」
そう云って最後には溜め息まで付けて。
掲げて見せる袋には酒や摘まみが溢れんばかりに詰め込まれていた。
近くまで来たら男からは酒の香りが漏れていることに気付き。
笠の影から覗く銀時の口からはヒクリッと、酔いの混じった息が落ちる。
「出歩くのは構いやせんがねい。最近この辺りに不逞な浪士達がうろついてるみてえで。あまり不恰好な後ろ姿見せてるとあぶないですぜ?」
坂田銀時という男を知る沖田は、斯様な忠告は不要であることを承知の上で警察としての責務を果たす。
だが実際は、一般市民の身を案じたとかそんな正義感からではなく。
「そうかぁ。忠告ありがとよ。浪士よりお前さんに背中向ける方がよっぽどあぶねえと思うがな」
「ひでえなあ。俺、これでも一応お巡りなんですがねい」
そいつを聞いて銀時は思うのだ。
市民を護るお巡りは、あんな人を狩ることに飢えた眼はしねえよと。
この鼻につく金木犀の匂いに隠したつもりだろうが。
「隠しきれるもんじゃねえよ。血生臭せえったらねえ」
嫌味を混じえて吐き捨てる。
仕事は結構だが、夜遊びであれば程々にしておけと。
沖田の横を通り際、今度は銀時が忠告する。
湿った頭をくしゃりと撫でる男の手は、自分と同じで数え切れない命を奪ってきた筈なのに。
やはり、違った。この男も近藤や土方と同じだ。人を護らんとする手をしており。
自分だけがどこか異質な感情をもてあまし、胸のなかで燻る渦に時折呑まれそうになる。
「......後戻りできなくなるって云いてえんですかい?」
であれば。もう手遅れな気がしてならない。
血に染めたこの手は奪うことしか知らないのだから。
懸命に燃えた命であれ、掛けがえのないたった一人の身内の幸せであれ。
そんな心境を察したように、ばあか、と云って男の手が離れる。
「帰る家ならあんだろ?」
俺も、お前も。
ザッザッ、と離れていく足音を耳にいれ。
「......家なんてもうありやせんよ」
雨と一緒に落とされた言葉は地面へと染み込まれた。
銀時は聞かなかった事にし、また振り返ることもしなかった。
この子供がどんなに帰るのを嫌がろうと、あの男がそれを許さない。
目の前から笠で顔を隠した男が銀時の横を擦り抜ける。
「世話あ掛けたな」
一言落としていくから。銀時は横目で男を見て釘を指す。
「あいつを飼い慣らすにゃあ首輪一つじゃ足りねえぞ」
「んなもん必要ねえよ。手足千切ってでも可愛がってやるさ」
口の中に不味い物でも含んだか。
うげぇと舌をだす銀時は沖田に少しの同情を覚えた。
あの狂犬の歪んだ性癖はこの飼い主が原因ではなかろうか。
振り向いた先。土方に気が付いた沖田の顔は、表情は崩さないがどこか怯えの色を見せた。
冷たく地を這う声で名を呼ばれる事を予想したのであろう。
しかし、男はどんな顔を向け、どんな声でその名を呼んだのか。
二言三言言葉を交わすと空気はかわり。
笠に隠れた男の表情は見えないが、先程銀時がしたように頭をなでる。
どころか、濡れた白い頬に掌を滑らせ包んでいる。
するとだ、擽ったそうに、安心から弛みきった沖田は獣とも、況してや子供とも表現しがたい顔で微笑んだ。
それはしっかりと姉の笑顔を引き継いだそれで。
とても温かみを感じさせた。
銀時は眼を開いて。
なんだあ? ありゃあ、と。
呟いて。
見てらんねえよと、盛大に溜め息を吐き頭を無造作に掻いた。
一体どんな可愛がりかたをしたらあんな顔をさせられるのよ。
思うが、想像はしないほうがいいのであろう。
了