声の誘惑はおそろしい『あいたい』
ゴトリ。
不覚にも、手に持たれていたそれは畳へと落とされて、はっと我にかえった男は慌てて拾い上げまた耳許へと押しあてた。
「っ、は? なに、急に。…なんかあったのか?」
内心、心配したのは電話口で話す相手の頭だ。
何処か、強く打ったのではなかろうかと。
しかし、若干上ずった声で放つは、隊内の安否確認。
土方はここ二週間、屯所をあけていた。久しぶりの長期出張というやつだ。
故に電話でいま話している相手とこうして声を交わすのも二週間ぶりということになる。
『……』
「おい、総悟…」
返答がない。土方の耳には電話独特のノイズと布の擦れる音、後にドサリと、重たい物音が届いた。
大方、胡座をかいていた沖田が仰向けにでも寝転がったのだろう。想像するのは容易い。
そしてそのまま土方と繋がっている電波を切ろうとしているところまで察しがついたものだから、つい。
「切るなよ?」
沖田の親指の腹がそこを押す前に、強めた口調で土方は云っていた。
止めておいて、相手からの言葉を待ってはみたが再び訪れる無言の流れに土方は耐えきれず、無理矢理口を開く。
「ぁ、あー… そういやお前、土産買ってこいとか云ってたな。明日は少し時間もあくし、たまには買ってってやるよ」
なにがいいかと、訊ねる己の不自然さは重々に承知している。
それでも土方は沖田らしい返答を求めた。朝一限定の饅頭や変わった置物でも、何でもいい。
それなのに。
『要らねぇ。そんなん買ってる時間があるなら早く、仕事、片してくだせぇ』
表情が見えない。けれど、その声には冗談混じりのわらいが含まれてはおらず。
土方は開いた口から「ぁ?」と、小さく乾いた音を発し。
二度、三度と唇を閉じては開いている。
わかったと返せば相手は満足するのだろうか。
土方は沖田の発言が信じられず、その一言を出すのにも時間を要した。
今までにこんなことは一度もなかったのだ。
今回も一月近い出張だと云えば沖田は心底嬉しそうにし、屯所を出る際に当然見送られることもなかった。
「総悟…お前今、飲んでる?」
これを向けたのが女であったなら、恐らくこの場、冷ややかな空気へと変わっていただろう。電話の向こうで唸り声をあげているのが女ではないから土方はこの言葉を選んだのだが。
『ぅ~~ん……少し?』
へらっと、笑ったのが声でわかる。同時に酔っ払いを本気で相手していた自分が馬鹿みたいに思え、土方は ぶはぁ! と息を吐き出した。これまでのやりとり、慣れない会話に精神的疲労を与えられていたようだ。
「ったく、びびらすなっつーの。お前の口からそんな女々しい言葉が聞けるなんざ御天道様でも思うめぇ」
がっくしと肩を落として項垂れる土方は、次に吐かれる言葉に頭を抱えることになる。
『アイタイ! アイタイ アイタイ アイタイー!』
「あー もう、わめくな、この酔っ払いが」
この分だと、いつまで経っても切れやしない。土方は電話の向こう子供みたいな駄々をこねる沖田にうんざりとし、耳が痛く、携帯を少し離す。
「もう寝ろ。……つか明日は非番なんだろうなぁ?」
『んー…』
既に芯の抜けた声で唸る沖田は眼をとろとろと閉じかけている。
声しかきこえないというのに、土方の目の前には今、携帯を握った手を顔の横に落とし、目蓋を閉じきった沖田が見えていた。
云うまでもなくそれは男の脳内でつくりだしてる光景に過ぎないが、声だけで仕草に予想つくのは仕方がない。嫌でもこれまで近くで見てきたのだから。
仕事となればこの様子からして確実に寝過ごすことになる。
幾ら自分が側に居ないからとはいえ好き勝手にやらせてなるものかと、そういった意味で問い掛けたのだが。
ふにゃり、力のない声でこう返る。
『休みだから…電話したんでさぁ』
「……、」
寂しい、土方さん。あい、てぇなぁ。
ぽつりと残された言葉を最後に、向こうからはゆっくりとした寝息が聞こえだす。沖田は寝落ちた。土方はといえば、握りしめた電話を前に再び固まっていた。
その表情は苦々しく、奥歯を噛み締めて、顔にはこれでもかというくらいに熱を集めている。無論そんな顔をさせているのは、怒りからではない。
切りたくなかった。しかしこのままというわけにもいかないので、土方はぐっと、親指に力をこめ通話を終了させた。
そしてどこまでもお節介を妬くこの男はすぐさま別の部下へと電話をかけ、今まで通話していた男の元へと行き布団に寝かすよう指示をした。
でた途端、低く、明らかに機嫌のわるい声で捲し立てる上司に従った山崎は、ぶつ切られた電話に一体なんなんだと不審におもう。
まさか、あの土方が、出張を二週間目にして
「ぁー…、ちくしょぅ。帰りてぇー」
悶々とし、項垂れているなんて、それこそ御天道様すら驚く事態であった。
了