いい夫婦の日馬鹿だなぁと、沖田は思うしかなかった。
つとり、つとり、午後から雨が滴り始めた、一年前の11月22日。
朝からテレビのなかに立つ女子アナが「今日はいい夫婦の日です」と、灰色のそらのもと、天気に負けじとカラッとした声で告げていた。
毎年耳にするそいつを聞いて、思うしかなかった。
「ほんと、悪習...」と。
「隊長、隊長ー」
廊下で立ち話してる部下達が沖田の顔を見るや浮かれた口調で声を掛けてきた。
確かに歳も下な沖田ではあるが、いつもなら、もう少し背筋を伸ばして接してくる彼ら。
だがそんな態度にも不快になることなく、きっと何か良いことがあったのだろうと推測し「なんでィ、騒々しい」と、歩みより、促してやった。
「聞いてくださいよ。コイツ、朝からこそこそ何処かに出掛けてったんで問い詰めたら、こんなもん持って帰ってきたんですよ」
部下達は隊長格の自分とは違い、一人一部屋を与えられてはいない。故にプライベートなんてものはないに等しいのだが、そんなことを苦に見せない彼らは隊士同士うまくやっているようだ。
「ちょ、やめろって」嫌がる素振りを見せながら、顔を弛ます男。本当は嫌がっていないのだろう。
手に持たれた紙を奪われ沖田の眼に入るよう、一人の隊士が突きだしてくる。
直接見たのは始めてだったが、一目でそれがなんなのかわかった。頭にも固い字で印字されている。
「婚姻書?」
口に出してやった沖田になぜか「わー!すみません」と謝る男は、こんなことで呼び止めて、という気持ちもあったらしい。実際に呼び止めたのはもう一人の別の隊士だが。
上司である沖田に聞いてほしかった気持ちはあったようだ。
「へぇ。めでてえじゃねえか」
紙に眼を落としたまま、素直に言葉にした。
そいつが嬉しかったのか「あ、ありがとうございます!」と、頭を下げる隊士。
「で、こいつは今日出すのかぃ?」
眼をあげると相手の方が背丈があるので首から赤くした顔がよく見えた。二十半ばあたりだろうか。この男もまだ若い。
「あっ、いえ、あの、」
普通に言えてれば気付かずに流されていただろうに、そんなしどろもどろに口にしたのが来週にあたる「二十二日に...」であったから、隣の男が「お前、それ、狙ってるだろう?!」茶化さなくても沖田にだって察することは出来たと思う。
珍しくはない。この月に籍をいれることを考える人間はその日を選ぶことが多い。一種の願掛けみたいなものなのだろう。
「別にいいけどよー。あんま勿体ぶんねえでこういうのはさっさとしといた方がいいぜぃ?」
にしっと歯を見せ、恐縮する男を尻目にし沖田は忠告した。意地悪く、他の男にかっ拐われてもしらねえよ? と。
このとき、本音を云わなかったことを後悔しているわけではない。
云ったところで、この未来は変わらなかった。
上司とはいえ子供の云うことだ。
固執した二十二日を待たずして殉教した男は、きっと、日取りを変えることをしなかった。
それから一年が経った。やはり朝のニュースでは天気を告げるように「今日はいい夫婦の日でーす」と馬鹿みたいに明るく言われるから、食堂に備わったテレビを観ながら「ですってよ、土方さん」云えば「くだらねぇ」と。彼はご飯の上に黄色いとぐろを巻くのに夢中で、内心気分が落ち掛けたことを沖田は目の前の光景の所為にしたのが今朝がたのことである。
非番である沖田はどこでどうしてようと咎められることはなく。
土方は縁側、急須でお茶を注ぐ沖田を構うことなく放置していた。
「副長、お茶です」と、いつも仕事の合間に部屋にくる山崎が今日は来ない。恐らく沖田が仕事を奪ったのだろう。そしてその任務を果たすことなく自身の喉に淹れた茶を流し込んでいる。
天気はいい秋晴れで、少し空気は冷えるが、外に足を投げ出す沖田は日溜まりが心地いいらしい。
まだ暫くはそこから動きそうにない。
「土方さーん」
呼ばれたが返事はしない。沖田も待つ気はないようで、向ける声はどこか遠く向かっていた。
「いい夫婦ってどんなんだと思います?」
「......」
返事をしなくて良かった。至極面倒臭い、思った土方だが今度は沖田、返答を待つ気らしい。
答えずにいたら「ねぇって」と促してくる。
本日二度目の「くだらねぇ」で片してしまいたかった。知ったことかと。しかし沖田が腑に落ちないのも目に見えて。
「お互い想いあってたらいい夫婦なんじゃねえの?」
適当に答えると、
「そいつは抽象的すぎまさぁ」
結局腑に落とすことは出来なかった。
小さく鼻で笑い、弛く口端をあげるのがわかる。
土方はそちらへと眼を向けた。陽射しがあるとはいえ湯呑みからあがっていた湯気が消えるのは早い。
ぬるくなった茶を飲み干すと、沖田なりの答えを聞かせる。
「俺ァね、土方さん。爺婆になっても、縁側で茶ぁ啜りあってんのが、いい夫婦だと思うんですよ」
そう言って、手元で茶を淹れなおす音をたてる。
今度は口をつけることなく盆の上にコトリと置かれた。
どうぞ、ということらしいが、仕事してる上司より先に飲むやつがあるか。案の定、急須から注がれたお茶にもう湯気はない。
しかし、そんな小言を口にする気はなく。
土方は握っていた筆を休ませる。そして腰を上げると満足そうな顔をし、縁側で待つ沖田のもとへ。
「休憩だ、休憩」
手にした湯飲みは息を吹き掛ける必要はないがまだほんのり温かく、指先からじんわりと熱を広げる。
一年前。馬鹿ですよねィ、あいつ。そういった沖田を忘れたわけではない。
さっさと籍くらい入れときゃあよかったんだと、胡座をかく土方の膝に頭を転がせ小言を吐く子供は、女の身になって考えることはまだできないようだった。
しかし達観した口振りをされるよりは、そのくらいが調度良いと思えた。
部下を想いながら、子供ながらの視点で愚痴をこぼすくらいが、調度いいと。
されるがままでいた沖田の髪をくしゃくしゃ乱すと、ぽつりと、弱々しく
なぁにがいい夫婦の日でィ。くだらねぇ。
前髪に隠れた瞳はとじて、そう吐き捨てた同じ口で、いい夫婦とはなんぞやと、今年になって問うてくる。
「あーぁ、なんか眠くなっちまったぃ」
ころんと、一年前と同じように身体を横たわる沖田の頭は、土方の膝のうえを好んで転がるから。
まさか毎年の恒例になるんじゃあるまいな?
思う土方の空いた手は既に栗色の髪のなかへと吸い込まれていた。
秋の空気にあてられた柔らかな毛はひやりとし、身体を冷やすわけにもいかず長くはこうしてはいられない。
隊服の上着を脱いで身体に掛けてやる土方に「寒くねえの?」と下から丸い目が向く。
「こいつを飲みきるまでだ」
熱くもないのに含む一口は焦れったいほど少なく、時間を掛けているのが見え見えだ。
こうなれば、朝のニュースを見てくだらないと、馬鹿にした口振りで云えた立場ではないだろう。
ふふ、と微笑う沖田は、ゆっくりととじた目蓋の裏、消えない笑顔を見た。
悪習、と吐いた一年前、亡き男の名前が書かれた婚姻書を手にし女のもとへと届けた。
ありがとう、ございます
涙を眼の縁にためて、震える声で何度も礼を告げる女。
その日、嬉し泣く筈だった女が見せた笑顔は一瞬で、膝から折れて嗚咽をこぼしだすから。
帰った沖田は泣きつきたくなった。
情けない面のまま向かった男の部屋、土方の膝のうえを占拠し「どうした?」そう降ってくる声は温かく。
頬に触れる手の温度に、秋の風にあてられ、自分がひどく冷えきっていたことをしる。
涙で視界が滲むことはなかったが、こぼれるやるせなさを一つ一つ、土方は拾っていくから。
やりたくねぇなぁ、と思ってしまった。
この先、例えこの人にとっていい妻となる女が現れたとしても、
「あんたは、いい旦那にはほど遠いですよねぃ」
「知ってるよ」
やりたく、ねぇなって。
了