寝ても覚めても続く夢冬の気配は薄れ、日の昇る時刻も早まった。
そんな春に手の届きそうな早朝の五時。
副長室の戸がタンッ、と小気味の良い音を立て開けられた。
侵入した日差しが土方の目蓋の上にのる。
「……んっ」
閉じていた眼は自然と力が入り、ギュッと固く沈み両の眉根が寄る。
そしてゆるゆる力は解かれ、ぼんやりとした黒眼が覗き天井に向けられた。
「またですかい、土方さん。もうとっくに朝稽古の時間なんですが」
いい加減起きてくれやせんかと、開いた扉を前に沖田は呆れた物言いで云う。
その姿は稽古着で、首から掛かるタオルで口許を拭う。
反対の手には水分補給の為の水が持たれていた。
起こされた土方の焦点は未だ定まらず。
佇む人物の形だけ映すと、ゆるく瞬きを繰り返す。
そして渇いた唇を薄く開き、あぁ、と掠れた声で返事した。
「……またやっちまったのか」
背を布団からあげ、のそりと身体を起こす土方。
沖田が起こしにくる異常な事態でもわかるように、ここ最近、土方がらしくない。
「あんたの頭に春がくるのは勝手ですがねい。立て続けじゃねえですか、遅刻」
「……悪い」
素直に謝罪を入れる土方に沖田は眼を背け、短く溜め息をついた。
これ以上つつくとこちらの後味が悪くなりそうだ。
「ま、土方さんが副長としての威厳を無くすだけなんで。俺としては願ったりですがねい」
いつもの憎まれ口にしては角が丸い。
沖田は踵を返すと、早く顔洗って道場にきなせえと云い残し、そのまま戸を閉じず来た廊下を戻っていった。
足音が聞こえなくなると、土方は立てた膝に腕を敷き、額をのせた。
そうして腹に吐き出される溜め息はこれでもかというくらいに伸びた。
(ちくしょう。誰の所為だと思って……っ て、あいつは悪くねえか)
寝たりない訳でも、身体に無理をさせている訳でもない。
沖田の云う通り、頭がどうにかなってしまったことは明白である。
元凶に心当たりがないわけではない。
土方はここ最近、毎日目覚めの悪い夢を見るようになった。
それは決まって沖田が土足で踏み入ってくるから、とても質の悪い、夢だ。
悪態の一つでも吐いてくれるならまだ良い。
現実の沖田のように、煩わしいと眼を向け邪険にされたほうがまだマシだと、思ってしまう自分は重症らしい。
土方は、布団から出て身支度を始めた。
(今夜も、見れるだろうか...)
夢のなかでしか会えない沖田は行かないでと、いつだって、名残惜しげに土方の手を両の手で掴みすがるように見上げてくる。
着流しの袷から覗く鎖骨は艶かしく、土方の名を呼ぶ唇は妙に色っぽい。
熱を含んだ瞳で見詰められ喉を鳴らす土方は、拒絶する理由を探すが、敵わない。
最近は自覚しつつあるのだ。夢にまで見るのは少なからず、土方自身が望んでいた展開であるということを。
愛しい存在を造り上げ、土方は応えるように想いを伝えていた。
そうすると沖田は嬉しそうに目尻を落とし微笑むものだから。
土方は堪らず、その身体を力の限り掻き抱いていた。
「……」
鮮明に残る夢を思い返しながら、道場に向かうなか土方は小さく唸り、一つの結論を出していた。
やはり全ての元凶はあいつだ、と。
勝手にも現実を生きる沖田に責任転嫁する形でおさめてしまった男はこうでも考えないと煮え切らなかった。
長い廊下を歩き終え、固い引き戸に手を添える。
中から切っ先を揃えて振られる木刀の空気をたち斬る低く渇いた音が聞こえる。
土方は眼を閉じて、息を深目に吸う。
そして邪念を一緒に斬らせてから、戸を開けた。
そこには眼を覚まさせるいつもの光景があった。
沖田の指導のもと型をとり、素振りを行う隊士たちが汗を振り飛ばし稽古に励んでいる。
「わりい。待たせたな」
云えば、素振りを続けながら隊士達は挨拶で返す。
「宜しくお願いします副長!」
「朝からお仕事お疲れ様です!」
責める者など居なかった。
それは上司であることが理由といった訳では無さそうだ。
土方は今まで仕事をしていた事になっていて、部下達からの労いの返しに沖田の配慮が感じられる。
土方に気が付いた沖田は機嫌を曲げた様子で、おせえよ、 と一言こぼす。
だがそれ以上の小言は云わず。
ふう、と息を整えるといつもの涼しい顔を作り、タオルで首もとから汗を拭い上げて此方にやってくる。
「俺はもう戻るんで。あとは頼みまさあ」
「あぁ」
土方が時刻通りにやって来るときは飄々とさぼる癖に。
沖田はこうして空いた穴は何も云わずとも埋めてくれるのだ。
嫌がらせも含め伊達に誰よりも土方を見てきた訳ではない。
時とし頼りになる部下だ。
「ありがとな。助かったわ」
脇をすり抜ける沖田の頭をクシャリと撫でると、沖田はギクリと背を強張らせ、すぐその手を払い退けた。
「や、やめてくだせえ。こういうの」
距離をとり、眼を伏せる沖田は動揺を抑えて訴えた。
「……すまん」
払われた手を下ろし、これ以上気を悪くさせぬよう云えば、沖田は拳を固く握り、吐き出されそうになる悪態を奥歯を噛み締め堪え。
土方の顔を見ず、走り去った。
ーーすまねぇ。
同じように沖田に詫びたのはいつだったか。
まだ、夢の中にあの沖田が造り出させる前であった。
土方の就寝中、暗闇に動くその影は、物音を立てずに枕元に膝をつくと腰を落とした。
暫し見下ろす形で男の寝顔を見入り、沸いて出てくる出来心。
顔には感情をのせない沖田が其処に居た。
おそるおそる伸ばされた指先は、男の薄い唇に触れて。
土方が眼を覚まさないことにホッと息を吐く。
そのときが初めてではなかった。
唇に触れて、確認し。
そこに口づけを落とす沖田は随分と前から己の衝動を抑えられずにいた。
だから、覚悟はしていたのだ。
いつか気づかれる時がくることは。
いや、気付いてほしいと、心のどこかで願っていたのかもしれない。
訪れたそのとき、痛いくらいに肩を掴まれ勢いよく身体を引き剥がされた。
沖田を認識したときの土方の唖然とした表情は信じられないといったようで。
肩を掴まれたまま、沖田は逃げることも叶わずに。
何か云わねばと、微かに震える沖田の口が言葉を放つ前。
出ていたのは土方からの謝罪の言葉だった。
なぜ沖田がこのような行動に出ていたのか、その意味を聞くこともせず。
沖田は全身から脱力する思いだった。
この想いは届けてはならないと、そう確信した。
薄闇のなか浮かばせた顔は、泣きそうでいて、花が散るように笑ってみせた。
「これはわりい夢でさあ。忘れてくだせえ」
そのときからか、土方の夢のなかで茶番が繰り返されるようになったのは。
悪夢でもなんでもいい
まだ覚めたくないと、子供染みたことを思うようになったのは。
とは云え現実問題、少しばかり、時間は必要だ。
自分の気持ちを認めるのも、沖田の行動の真意を確かめるのも。
土方は頭を悩ませ見つめた。
走り去るその後ろ姿、耳がやけに赤いから。
あれはあれで可愛いんだよなあ。
そんなことを思う自分に堪らず苦い笑いが漏れる。
それこそまだ悪い夢でも見ているようだ。
「よーし、テメエら。とりあえず素振り千本追加な」
寝ても覚めても悪夢だと云うのなら
互いに早く覚めないと、仕事に支障をきたしそうだ。
一番の被害に合うのは部下達であるのだから。
了