オムライスのはなし握り込んだ掌に汗をかいているのがわかる。何度も角度を確かめるようにして握り直しては唾を飲み込んだ。
「も、もういい? もういいかな……」
「ま、待ってください、もう少し……!」
アズールが眉を寄せてイデアを見上げるけれど、もうそのとろとろなそこへしか意識が向いていないイデアには届かない。息が上がる。は、は、と短く吐き出す呼気が耳を塞いで、いよいよアズールの声が靄に包まれて聞こえなくなった。
「だめ、待って!」
「い、いくよっ!」
「イデアさ……!」
目をつぶる訳には行かない。見届ける責任があるし、手の中の熱さが意識を逸らさせてはくれなかった。思い切り揺すって、持ち上げて。浮遊感に思わず、ああと感嘆を漏らした。ぺしゃりと潰れたような水音にアズールが深い溜息を吐く。誰だって最初はこんなものなのだ。咄嗟に言い訳をしながら天を仰ぐ。
床には、先刻まできっちり握っていたはずのフライパンが落ちていた。
見るからに失敗作であるオムライス達は見るも無惨な姿でキッチンに並び、これから訪れるであろう別れの時をただ静かに待つ。何だかとてつもない罪悪感に、イデアは思わず背を向けた。
「まったく、フライパンを離す人がありますか」
「だ、だって思ったより熱くて」
「だから奥を持ちすぎなんです! 金具に触ったら熱いに決まってるでしょう!」
フライパンに広げた黄色の絨毯を上手い具合に丸め上げ、いざひっくり返さんとした先に力が入りすぎてしまい。柄を握っていたはずの人差し指が僅かにむき出しになったフライパンの柄の間の金具に触れてしまった。熱いなんて物じゃない。フライパンの上のとろとろ卵に集中していたものだから気付くのが遅れ、アズールが受け取ろうと伸ばしてくれた手すらも間に合わないままフライパンを放棄したのだ。
火傷は治癒魔法でどうにかなるけれど、落とした卵は戻らない。マザーグースを口ずさみつつ落ちた卵の後片付けを終え、しょんぼりしながら最後のチキンライスの整形を終えた。
「て言うか包まないオムライスの方が簡単だって言ったのアズール氏じゃん……」
「どちらかと言えば簡単なんですよ。貴方が下手なだけで」
ズバリと言い放ったリストランテの息子殿は再び手際よく卵を混ぜている。溶き卵ひとつ作るのにも、慣れと言うものがあるんだなと改めて知った。綺麗に混ざった卵のボウルをどんと目の前に置かれて目を上げる。
「イデアさん。これで最後の卵です」
めちゃくちゃいい笑顔の裏には、だから絶対に失敗すんなよと言う圧がものすごい。尚、チキンライスもこの一回分でラストだ。もう失敗はできない。ごくりと喉を鳴らして、心の中で「イデア、行きまーす!」と声を上げた。
サラダはレタスをちぎって、薄くない薄切りのパプリカと胡瓜を散らす。ドレッシングはモストロラウンジ特性のノンオイルドレッシングを買わせてもらった(値引きなしの上代)。
部屋のローテーブルにどうにかひとつだけ成功したオムライスを置き、サラダを添える。コンソメスープは見かねたアズールがオマケで作ってくれたものだ。普段は栄養補助食品のみで食事を済ませるイデアにとって、非常に豪華な食卓だ。と言っても、支度ができたのはたったひとり分。落としたもの以外はイデアと通りかかった寮生で美味しく頂いた。
「にしても、何で突然オムライスなんか……貴方丸で料理しないでしょう? もっと初心者向けのメニューもあったでしょうに」
「んー、まあね……」
ケチャップで名前を書いて、オレンジジュースを置く。ついでにイグニハイド寮のエンブレムを印刷した旗をてっぺんに刺して完成だ。その光景の懐かしさに目を細める。
「母がさ。誕生日の時必ず作ってくれたんだよね。オムライス」
独り言として聞き流して欲しいと願いながら、過ぎた日々を思い返した。
普段、食事は常に料理長がやっていたけれど、誕生日だけは母が自らキッチンに立って、オムライスを作ってくれる。それが楽しみで楽しみで、そんな事をふと思い出してしまったものだから。オルトの誕生日に、食べさせてあげたくなったのだ。
「ありがとね。自己満足に付き合ってくれて」
アズールの目が少し動揺を見せたのは、言いかけたそれを飲み込んでくれたせい。「でも、オルトさんは食べられないでしょう」と、それを言葉にしないでいてくれた優しさに笑いかけてオルトのドックに触れた。
『スリープを解除します』
電子音が流れ、ドックのドアが開く。ぱちりと目を覚ました弟がイデアを認識してぱっと笑った。
「おはよう、兄さん!」
「おはよう、オルト。誕生日おめでとう」
製造月日ではない今日は、<オルト・シュラウド>の”誕生日”。何度か目を瞬かせたオルトが右手を口元に持ち上げて肩を揺らす。
「やだな兄さん。僕の誕生日は八月だよ」
「……うん、まあ、いいじゃん。オルトのためにご馳走作ったからさ、気分だけでも味わって」
「えっ? ホント!? わあーい! あっ、アズール・アーシェングロットさんこんにちは! ご挨拶が遅れてごめんね」
「いえ、お気になさらず」
テーブルの上のオムライスに、弟はすごいすごいと褒めてくれたけれど、思い出の欠片が零れ落ちることはなかった。それでいい。今のオルトは、これでいいのだ。食べられない代わりに沢山の写真を撮って笑う弟に、ひとつちいさな「おめでとう」を零した。オムライスの上に書かれた二人の名前を見詰めながら。
後日。部室で差し出されたシフォンケーキに目を丸くする。大きな体を小さく縮めて、照れるイデアにアズールは思い切り顔を顰めた。
「何ですかこれ……」
「いやー、あの後ちょっとお菓子作りに目覚めてしまい……オムライスのような料理はフライパンの扱い方や隠し味と言ったもので左右されるでござるが、お菓子は分量きっちり温度きっちりで進行すればほぼ間違いなく完成するものと気付きまして! これはもうほぼ化学の領域でありますな! という訳で試しにシフォンケーキを焼いてみたらこの通り綺麗に焼けたでござるからして、これはひとつ先日のお礼も兼ねてアズール氏にと思いまして……!!」
言っていることは分からなくはない。分からなくはないけれど、なぜこの人はこんなにも両極端なのか。こめかみを押えて細い溜息を吐く。目の前のシフォンケーキは店頭で販売されていてもおかしくないくらいの美しさだ。けれど、普段のカロリーを節制しているアズールからしたら中々の量の生クリームが付いているこのケーキに手を出すのはやや気が引ける。と言うのを見透かしたかのようにイデアが拳を胸の前に引き寄せながら続けた。
「あっ、ちなみにアズール氏アールグレイ好きでしょ? アールグレイのシフォンケーキにしてみたでござる! 生クリームも糖質を抑えたレシピでやってみたでござる〜」
「いただきます!!!!」
食べて食べてと言う文字を背中に背負い、わくわくと見詰められてはもう逃げられない。コミュ障のくせに変な推しの強さがあるなと舌打ちをした。
気遣いと誘惑に負けて食べたシフォンケーキは予想以上に美味しくて。後日試しにモストロラウンジでも提供したところ評判が良かったため、週に一度のお楽しみメニューとして数量限定品としてメニューの仲間入りを果たしたのだった。