雪中庭のガゼボに座っていると、背後から聞き慣れた声がした。次いで、あまり聞き慣れてはいないけれど、聞きたくもなかった声が、ふたつ。イデアが振り向くよりも前に、オルトがあっと声を上げた。
「ジェイド・リーチさん、フロイド・リーチさん、アズール・アーシェングロットさん、こんにちは!」
「クリオネちゃんにホタルイカ先輩じゃ〜ん」
「珍しいですね、こんな所でお会いするなんて」
双子に近付いたオルトを、大きな掌がふたつそれぞれに撫でる。炎のこの髪を躊躇いなく触れるなんて、怖いもの知らずだ。残りのひとりはイデアの隣を陣取ることにしたらしい。ガゼボの椅子を軽く払って腰を下ろした。
「珍しいですね。ああ、なるほど、イデアさんが外に出たからこの雪ですか」
「いや失礼過ぎて草」
脳直でそう返すけれど、アズールも特に気にする様子はない。目線は雪が積もった中庭ではしゃぎ回るオルトとフロイド、それを一歩引いて見ているジェイドの三人に向けられていた。
「何してたのー?」
「雪だるまを作ってたんだ! けど、僕作ったことがないから上手く出来なくて」
「そうですか。僕らも未経験ですが、一緒に作りましょう」
「本当!?」
ぱあと目を輝かせたオルトが早速さっきまで転がしていた雪玉に向かう。まだまだ1mにも満たない玉は基盤になれる様子もなかった。
「どうせならあ、子供の時のアズールみたいな雪だるま作ろぉ。まるまるのやつ」
「はっ倒しますよ」
フロイドに声を張ったアズールが鼻息荒く背もたれにふんぞり返る。まったく、とブツブツ呟いてから、雪だるま作りを始めた彼らを眺めてふうとひとつ白い息を煙らせた。
「アズール氏は……雪が好きなの?」
「いえ別に。綺麗だとは思いますけど、悪天候は客足が遠のくので」
「ひひっ……安定の守銭奴……」
椅子の上で膝を抱え、背中を丸めて呟くように笑う。アズールは少し遠い彼らを眺めたまま、ピンと伸ばした背筋を歪ませずに続けた。
「イデアさんはお嫌いですか、雪」
特に何の感情もないその質問に、思わず表情が引き攣ったのを自覚する。視界の端に入っていたかも知れないけれど、特にそれを咎めることのないまま、アズールは黙って雪と広場を眺めていた。
「……雪の日は乾燥するから」
はらりと落ちた雪の粒が肩にかかった髪に溶ける。熱を持っているわけではないこの髪も、雪を溶かすくらいはできるらしい。ガゼボの屋根は頼りなく、幾らか吹き込む雪で背中が濡れているのには気付いていた。
「咳が止まらなくなるんだよね。寒さのせいで肺に冷気が流れ込んで、背中を摩っても治まらない」
知らず、左手の親指の爪をかりりと噛む。脳裏に浮かんでいる光景は、酷く咳き込む弟と、彼のベッドがあった実家の部屋。ただ必死に背中を摩るしかできない己の姿と、真っ青な弟の顔。
あれほどに自分の無力さを呪ったことはない。こんな事しか出来ないなんて。大切な弟がこんなにも苦しんでいるのに、魔法のひとつ、魔法薬のひとつも作ってやれない。大丈夫と繰り返す眼は虚ろで、酸素が行き渡っていないのが見て取れた。
「だから雪は嫌い」
がちんと音を立てて、爪の先が割れる。ああまた、深爪するくらいに切って整えなくては。長い溜息を吐き捨ててアズールから逃げるように濡れたフードを頭に被せた。
暫くの沈黙の後、ふむと鼻を鳴らした後輩がフードの上に着いた雪を皮の手袋で払ってくれる。
「雪の日はずっとそうだったんですか?」
「たまに外を眺めてた。きっと雪雲を睨んでたんだ。苦しめる雪が辛くて」
「そうですか。けど不思議ですね。今のオルトさんはとてもそうは見えません」
平坦なトーンが少し不思議そうにカーブを描いた。何が言いたいのかと不愉快を隠さないままにフードの影からアズールを見る。
「あんなに楽しそうなのに」
「そりゃ……今はもう雪だろうと何だろうと苦しくないから」
「でも自分を苦しめていた雪を、そんなにすぐ好きになれますかね?」
「……何が言いたいの」
噛んだ奥歯が軋んで音を立てた。ちらと寄越されたスカイブルーの瞳はどこまでも深い蒼で、彼の故郷を思わせる。憎むようにその色をきつく睨んでも、悠然としたアズールの態度は崩れなかった。
「雪が嫌いなのは貴方じゃないですか?」
胸の奥がどきんと跳ねて、左目の下が痙攣する。は?、と零れたその声は酷く低くて昏かった。柔らかく笑ったアズールがその場に立ち上がり、さくりさくりと音を立ててガゼボを出て行く。たった数段の階段を降りたところで、くるりと振り向いた。
「オルトさんを苦しめた雪が許せなかったんですね。優しいひと」
弧を描いた瞳に微かに熱がこもったように見える。蒼の中に僅かばかりの紅が混じった。ちりりと燃えた赤い切れ端が、オルトたちの所へ歩き出した背中を覆って、漸くその紅が彼の目の中の幻想ではなく、自らの髪の変色によるものだと気が付く。
何も知らないくせに。
(それはそうだ、何も話していない)
勝手なことを言う。
(だって僕ではない他人だから)
優しくなんてない。
(ただ、オルトを失いたくなかった)
長く吐き出した息は白く、背凭れに体を預けて上向けば、それはどこまでも昇って行った。曇天は飽きることなく雪を落とし、そこかしこを全て白に塗り替えて行く。
「オルトさん、雪は好きですか?」
ふと、アズールの声がした。
「うん! 僕、雪だるまを作るのが夢だったんだあ! だから、兄さんにこの身体を作ってもらえて、本当に良かった!」
ああ神様、断罪とは。常に冷徹な声をしているのではなく、こんなにも暖かで優しく、残酷なこともあるのですね。
静かに目を閉じた瞼に、涙のような雪が溶けた。