モブくんとイデアズバン、と机に叩きつけられた電子レポートを見て、それからそれを叩きつけた血が通ってないかのように白い指先を見て、そこから辿って大元を見上げる。軽蔑するように俺を見下ろした冷たい黄色の瞳が引き攣った。
「君さあ……本当にこの研究室に必要なスキルあるの? こんなもん初歩の初歩ですわ。こんなとこで躓かれてたらこの先の研究なんて夢のまた夢の更にその先ですが? 大体見直した? 頭っから数式間違って、そのせいで後ろの結果が全く違ってんの。あとこれの成分分析ちゃんと見た? なんでこの物質Aの成分を元にBの成分を仮説して結果を導いたの? 残念ながらAはBより酸素量が多いからこの仮説は成り立たないし、そうなるとこの最後の結論も成り立たないわけですよお解りですかな? こんなのもわからないならミドルスクールからやり直してどうぞ」
一気にそう言うだけ言って立ち去った背中を呆然と見送る。よれた白衣に燃える蒼い髪をゆらゆらと揺らしながら、彼は研究室を後にした。
バン、と今度机を叩いたのは俺だ。社員食堂の真っ白い机を両手の拳で強く叩くと、周りからちらちらと視線が送られる。一緒にいた同僚がぺこぺこと頭を下げながら、し、と俺を窘めた。
「なんっだよアイツ! ちょっと出来るからってい気になりやがって……」
「ちょっとじゃないけどな。ありゃ本物だよ。本物の天才」
「そうそ。まあ研究に性格は関係ないしな」
二人は同僚とは言え、俺よりもこの研究室の在籍歴は長い。同い年という事もあってよくつるんでいた。同い年と言えば、先刻のあいつも残念ながら同い年だ。
イデア・シュラウド。稀代の天才。この研究室はAIを始め、医療科学やら日用品の開発やら研究員がやりたいように研究をさせてくれ、且つ月に一度商品化コンペがある。俺はそれ目当てでここに入ったし、大半がきっとそうだ。
それは、恐らくあいつも。たまたま先月のコンペに出した企画案のテーマが同じようなテーマだったから、同い年グループでひとつ何か考えよ、とのお達しで今に至っている。同い年だからって上手く行くとは限らないんですけど! と言ってやりたいのはやまやまだけれど、そんな勇気は俺にはなかった。
「こうなったら俺が優位になるようにあいつの弱味を握ってやる……」
「お前の性格も大したもんだよな」
呆れる同僚の声を後にして、食堂を出る。以前お遊びで作った超小型カメラを片手に、ターゲットを探して建物の中を歩き回る。
ふと、一瞬見てはいけないものを見た気がして冷や汗が吹き出た。が、よく見てみるとターゲットのイデア・シュラウドだった。廊下の自動販売機と壁の僅かな隙間に挟まってコーヒー飲んでるけど、あれはなんだ。休憩中? あんな休憩の仕方ある? いや今はそんな事どうでもいい。俺は手のひらから小型カメラ(はたらくアリさん号)をそっと廊下に放ち、スマホであいつの近くまで行くように操作をした。
感度良好。アリさん号で奴を見上げると、どうもコーヒーを片手にスマホをいじっている。マジカメを見てるのかと思うけれど、手の動き的に、何か書き込みをしているようだ。マジカメのタイムライン投稿か、メールか。手の動きに気を取られていたけれど、そのまま上にカメラを向けて、息を飲んだ。
見た事のない、気の抜けた顔。俺の所に来た時みたいな冷たいそれではなく、もっと血が通った人間らしい顔と言うべきか。とにかく、研究室では絶対に見せないそれに、思わず言葉を失った。
忙しなく動いていた親指の動きが止まり、ふと息を吐いてコーヒーを飲む。すると、大人しく手の中に収まっていたスマホがびびっと音を立てて動き出した。慌てたヤツが急いで操作を続ける。
「も、もしもし」
電話か。あいつ電話するんだ。そりゃ電話くらいするだろうが、何だか俺にとっては意外だった。
「うん、いま休憩中……体調どう? 少しマシになった?」
家族だろうか。体調が悪い家族がいるのか。いや、まさか恋人? まさかあ。あんな性格最悪コミュ障男にいるわけないか。俺だっていないのに。
「まあ、帰れると思う。何か欲しい? ……うん、うわ出た、ポテト」
くくと押し殺すようにコーヒーを口元に持って行って笑った。きっと、口元を隠そうとしたけれど両手が塞がっているせいでそうなっちゃったんだろうな、わかる。
「いいよ、うん。え? わかったの? あーーー、いや、いい。帰ってからにする」
落ち着かないというか、浮き足立ってるというか。どこかそわそわしているような話し方に、何だかバカバカしくなってきた。こんな電話聞いてたところで、何の収穫もなさそうだし、時間の無駄か。諦めて解散しようかとスマホに操作画面を出す。
「性別はちゃんと対面で聞きたい。マックのポテト買って早めに帰るから。無理しないでね」
優しい声は俺なんかには決してかけられないであろうそれ。聞こえた言葉で全てを理解した。
あいつ結婚してんのか。あの感じだと嫁さんおめでたか。まあ、顔良いし、頭良いし、収入もいいだろうしな。性格は悪いけど。くそ、何から何まで負けてる気がして悔しい。俺だってまあまあ優良物件なのに。唇を尖らせながら画面を操作して、アリさん号を引き上げる。
愛してるよ、と囁くようなその声に、俺は心の中で白旗を上げた。
乱暴に開けられたドアから入って来たイデア・シュラウドはやっぱり真っ白い顔で特に表情はなく、俺を見るなり目の前に電子レポートを突き付けた。
「全然直ってないんですが? この前拙者が言ってたこと理解出来ました? あー、まだここへ来て日が浅い方には難しかったですかなあー」
表情は大してないくせに、口だけはよく回る。盛大に煽って来るヤツを椅子に座ったまま見上げ、暫くじっと観察する。くそ、確かに顔はいいな。俺の視線にびくりと肩を震わせたヤツが、慌てて身を守るように両手を胸の前に縮めた。
「な、なに……」
「……これ、やるよ……」
ぽそりとそう言って、電子レポートの上にくしゃくしゃになったマックのポテトの引換券を三枚差し出した。ぽかんとしたヤツの顔は、この先ずっと忘れない気がする。