僕の最強のお嫁様! 仕事から帰ったアズール氏がリビングに置いたビジネスバッグ。妙に重たい音を立てたものだからついゲームをしていた顔を上げて彼女を見た。普段からアズール氏が持っているカバンにはノートパソコンに商材、何かの時のためにと色んなものが入っていて、床に置いたりすると『ゴトリ……』みたいな音がすることは知っていたけれど、今日はまたそれに輪を掛けて重たい音がした気がする。一体何キロあるんだろうとソファに寝転がっていた体を起こしてバッグをちらと見てみたけれど、中身までは見えそうになかった。
「何入ってんの? 生首?」
「そんなはずないでしょう」
わかってて言ってるんだけど、疲れているらしい彼女はつれなくそう返事をして洗面所へと消えて行く。流石に不在の間に中身を開けるのは躊躇われて、ポーズのままにしてあるゲーム機を傍らに置いてアズール氏の戻りを待つ。
「はあ、肩が痛いです」
形のいい眉を下げて右手で左の肩を軽く揉みながらリビングに戻り、ソファに腰を下ろした。
「まあ、何か随分重そうな音してたしね。おかえり」
「ただいま戻りました」
順序がめちゃくちゃになってしまったけれど、帰宅を迎えてそう言うと、自然と下りた瞼が近付いて、一度唇が寄せられる。
彼女が学園を出てから一緒に暮らし始めて早三年。こんな風に何のてらいもなく、「行ってきます」「ただいま」なんてキスができるようになってからはまだ日が浅かった。そもそも本来ならイケメン月9俳優でなければ赦されぬようなこんな気障なルーチンを拙者のような陰キャオタクがやっていいはずがないのだ。こんなの誰かに知られでもしたら磔にされてしまう!
それでも、触れるだけのキスをして、それだけでふわりと嬉しそうに頬が緩むアズール氏を見てしまうと、彼女がして欲しいと言うのなら精一杯応えてあげたいなと思うのが、惚れた弱みというものなのである。
「で、何が入ってんの」
「気になります?」
一体どこにそんな力があるのかと思うくらいに細い肩がふふと笑って、バッグを引き寄せた。大きくマチが取られたA4サイズのバッグを開けると、まずはノートパソコンが出て来る。これは僕が彼女のために作った自作ハイスペック超軽量ノートパソコン。アズール氏が大事そうにそれを抱える度に少し嬉しくなるのは内緒だ。
それから続いて登場したそれに、僅かに緩んでいた口許が凍り付く。
「……それ」
「はい、ドレスのカタログです」
「ドレス……とは……」
「おや、ドレスをご存知ない」
「そんなわけはないでござるが、何故そのようなものを……?」
いや、聞かずともわかる。説明せずともわかるのだけれど、つい質問が口を突いて出てしまった。きょとんと目を丸くして僕を見詰めるスカイブルーが、ちらとカタログに落ちて再び僕へと戻って来る。
「結婚式しませんか?」
「お断りでござる」
秒殺。がっかりすらさせる間もなく完全に拒絶して身を守るように丸まって背中を向けると、背後でむっとした気配がした。けれどここで折れてしまっては後で絶対に後悔することが目に見えているので、そんな素振りも空気も知らない振りを決め込む。
一緒に暮らし始めたのは三年前だけれど、実はその前から入籍は済ませていた。僕が卒業した時、僕の目の届かない所で彼女に何かあったら僕はもうそいつを殺すしかなくなるので、虫除けも兼ねて指輪を渡して入籍をした。アズール氏が拒絶を唱えたら絶対に破れない結界を張る魔法を組み込んだ特製の結婚指輪は双子にはやや引かれたけれど、アズール氏本人が喜んでくれたのだからそれでいいのだ。なお、それは今でも彼女の白魚のような左薬指に収まっている。
僕の実家とは家業の件で色々あったけれど、まあまあそれなりに説得はできて、アズール氏の家とも関係は良好のまま、彼女の卒業を待って即入籍はした。
故に、今ここにいるのは恋人ではなく、妻であるアズール氏なのである!
とまあ、それはさておき、入籍時は単に書類の提出と、SNSでの告知という最小限に留めて終えていた。当時、結婚式の話が出なかったわけではないけれど、アズール氏も僕もあまり積極的に考えてはおらず、ならばやらずともいいか、で終えていたはずだった。
「でも記念になりますし」
「いやいや、だって、そもそもキミ結婚した時に結婚式はお金も時間もかかるし、無駄じゃないですか? とか言ってたじゃん……」
「あの当時は店も軌道に乗せたかったですし、僕らそれ用に貯金していたわけでもないですし」
「そうだけど……今更では? 何で今? ってなるのでは? そもそも、結婚式とかリア充が互いの友達の多さや豪華さ、幸せそう度合で殴り合う格闘技、拙者のような陰キャには無理でござる! 目立ちたくないし!」
とまあ、これが本音だ。結婚式だなんてそんな、アズール氏はいいとして、拙者のようなものが人前で主人公然として振舞わなくてはならぬだなんて、それ何て罰ゲーム? 絶対『あのお嫁さん綺麗なのに、旦那さん髪が燃えてるわ』とかひそひそされるに決まってる。目に見えているそんな惨めをわざわざ自分から拾いに行くほど拙者のメンタルは強くないんでござる。
丸めた背中にひとつ溜息をぶつけられ、恐る恐る肩越しに振り向いてアズール氏を見ると、背中を伸ばした綺麗な姿勢でソファに座り、膝の上に広げたカタログをぺらりとめくっていた。
「まあ、そう来ると思いましたけど」
がっかり、と見るからに肩を落として、またぺらりとページをめくる。そこには幸せ全開笑顔の花嫁とこの世のすべての祝福を背負っているかのような花婿がこちらを見ていて、思わずうっと呻いた。身を縮こませて様子を伺う僕に、アズール氏が続ける。
「学会ですら生身は欠席、音声合成に3Dホログラム、ご自身そっくりのアンドロイドまで持ち出して逃げ続けてますもんね。そんな方がたとえご自身の結婚式だからと言って、人前になんて出られませんよねえ」
「あーーーーだめだめ、煽ってその気にさせようったってもうその手には乗りません~、そんなアズール氏の常套手段、この何年もでわかりきってますゆえ~」
べろべろ~。揶揄するように舌を出してそう言うと、明らかにアズール氏のこめかみに青筋が立った。子供じみてることはわかっているけれど、この件はどうにかして回避したい。衆人環視なんて真っ平ごめんだ。しかも何? あんな真っ白な衣装着て? 無理に決まってる。どうやったってこの髪が、この隈が、唇が引き立てられて気味悪がられてしまう。
チッと最早隠す気もない舌打ちが聞こえ、反射的に肩を竦めて出方を待った。
「……でもイデアさん、オルトさんの新しいパーツとか作ったら自慢気にSNSに載せるじゃないですか」
「うん?」
お、オルトを引き合いに出して来たかなるほど。こうなって来ると、アズール氏が拙者を操るためにどのような手段を講じるかが楽しみになって来る。彼女とのこういったやり取りはもうずっと前からで、むっとすることもあるけれど、基本的にはとても楽しかった。
さて次の手は。チェスの勝負をする時のように、抑えきれない頬の緩みを隠そうともしないまま、ソファの肘置きに左肘を立て、軽く握った拳の上に頭を乗せて彼女を見詰める。雑誌から離れなかった目がようやっと持ち上がり、ひたりと僕を見据えた。
「イデアさんが育ててくれた僕の事は、自慢したくないんですか……?」
「……」
えっ、そう来るの。言いながら左手をソファの座面に置いて、ゆっくりと近付いて来る。前傾になったせいで重力に引っ張られた二つの大いなる膨らみがブラジャーで押さえられているはずにも関わらず、ゆさりと重たそうに揺れた。
間違いない、それは拙者が丹精込めて育てた一級品であるけれども。思わずごくりと喉を鳴らし、恐る恐る僕を見上げるその目に視線を合わせれば、グレーを帯びた青空の瞳とよく似合うメガネがたじろぐ僕を映し出し、長い睫毛がぱちりと瞬く。つやつやの唇は、帰宅した時にうがいをしてリップも何もついていないはずなのに、瑞々しくて美味しそうに映った。それもこれも、僕が全部育てたと言っても過言ではない。多分。
だって、いつかアズール氏がベッドの中で恥ずかしそうに『最近綺麗になったって言われるんです。イデアさんに愛されてるからですね』って言ってたし。その後めちゃくちゃ高い美顔器みたいなの買わされたけど。そして改良させられたけど。
いい。それはいい、その話はさておいて、眉を下げて殊勝な表情を浮かべ、にじり寄って来るアズール氏から香るのは少し汗の混じった香水のいい匂い。薄いブルーのレディースシャツの胸元がいつの間にかふたつみっつ寛げられていて、覗く谷間から目が離せなかった。
「僕は、毎日僕の作る食事と健康管理で更に磨き上げられたイデアさんを自慢したいです……?」
「そ、そりゃ僕だって、」
こんなに美人でスタイルがよくて頭のいい子(但しやや性格に難あり)と結婚できたこと自体奇跡に近いのだ。自慢したくない訳がない。でも、それでも、だって、そんなアズール氏の隣に並ぶのが拙者のようなものであっていいはずがない。
僕の葛藤を知るはずもないアズール氏がふと身を引いて、何かを考える仕草を見せた。突然そんな風にするものだから、思わずその行動を凝視する。
「……やはり、タコの人魚だからですか」
「はい?」
「タコの人魚なんて外聞も悪いでしょうし、結婚を許してもらえただけで満足するべきなんですね」
自分の身を守るように両手で自分をぎゅうと抱き締めるようにして俯いたアズール氏に思わず慌てて立ち上がった。
「ちち、ちが、きキミみたいな子みんなの前で自慢したいよ! こんなに綺麗な子が僕のものだって!」
「じゃあ結婚式してくれますか?」
「えっ、うん。あれ?」
ぱっと笑って僕を見上げたその顔が、もうどうやったって可愛くて、完全にノセられたとわかっていても今更撤回できるはずもなく、僕はぴるりと白旗を翻した。
三年目の浮気ならぬ、三年目の結婚式。本当はどこかでドレスを着ることに憧れていたのかも知れないなと思うと、このくらい頑張っても罰は当たらないかとどうにか自分を説得した。
おかしいなと思ったのは三着目のお色直しの後。まさかの四着目に入ろうという所で、流石に多くない? と漸く気が付いたのである。ちなみに拙者は、彼女のカラードレスに合わせてお着替え、ということはなく、アズール氏の二着分が拙者の一着分だった。だから余計に、女性はこんなにも衣装替えをするものなのかとぼんやり思っていたのだけれど。
「あんたがこんなのOKするとは思わなかったわ」
アズール氏が四着目のドレスを翻して披露宴のホールへと戻り、やたらと本格的なカメラマンに何枚か撮影されているのを眺めていると、シャンパングラスを片手に持ったヴィル氏が隣に並んでそう呟いた。
「こんなのってどんなの!? ねえやっぱおかしくない?」
そもそも結婚が早い方であったし他人の結婚式に呼ばれたこともなければ、式の準備は全てアズール氏がひとりで進めていたため、普通がどうなのか、この式の段取りがどうなのかすらよく分かっておらず、半ば必死な僕の訴えに、綺麗に着飾ったヴィル氏が思い切り顔を顰めて僕を見る。
「アズール、今度ブライダル事業に乗り出すらしいじゃない。あんた知らないの?」
呆れ果てた彼女の態度に愕然としながら、カメラマンの要望に応えて濃紫のドレスを翻すアズール氏を見詰める。
「だ、騙された……」
まあ、あのアズール氏の事だから絶対に何かあるんだろう事は予想していたのだけれど。ほんの少し、結婚式に憧れるなんて可愛いところあるでござるな~なんて思ってしまっていた自分に苦笑した。いやでも逆に、これでこそアズール氏って感じがして、いっそ清々しい。
先刻着ていたのは、ふわふわ袖に小さい宝石の飾りがいくつもついて、ウェストラインから足にかけてぴたりとしているくせに、膝の上辺りからふわっと広がっている紺色のドレス。
お色直しを終えていま着ているのは、紺のドレスよりもやや露出がある濃紫のドレス。肩甲骨まである銀糸の髪がよく映えていた。豊満な胸元に施された謎のキラキラパウダーが更に肌の透明感を増していて、とてもよく似合う。肩から胸にかけては豪奢なレースが彼女の白い肌を覆い、そのまま細いウェストを青みがかったサッシュベルトが絞って、そこから一気に足元を隠すところまで裾が広がっている。ところどころ差し色のように入れ込まれたネイビーが上品さを演出していた。
ドレスの種類とかは全然わかるはずがないけれど、自分の魅力をよく理解して、よく似合うドレスを選んでいるなあということだけはわかる。
「自分の記念すら商売に変えるとは……見上げた商売根性ですね」
いつの間にかヴィル氏と反対側に立っていたジャミル氏が心底感心してワイングラスを傾ける。薄ら笑いはきっと、彼女の悪友ともいうべき関係であるジャミル氏なりの友情なのだろう。知らんけど。あとこれ言ったら怒られそうだから言わんけど。
「参列者にアタシやカリム、レオナまで駆り出したとなれば、そりゃアンタ達の知名度も含めてそれだけで話題にもなるしね」
見上げた根性だわと笑ったヴィル氏はいっそアズール氏の潔さを称賛しているようにすら見えた。
僕はそんなヴィル氏に少しだけ眉を下げて笑ってから、商魂逞しい花嫁様に呼ばれるがまま、アズール氏の隣に並んだ。濃紫のドレスと光沢のあるネイビーに近いブルーのタキシードが並ぶと、カメラマンは満足げに笑って「絵になりますね」と何度もシャッターを切っていた。これもきっと何かの宣伝やら告知やらに使われるんだろうけど、ここまで来たらもう、どうにでもな~れ、という気持ちでいっぱいだった。