キスマーク ぢゅ、と濡れた音がして、裸の肩甲骨にピリッとした痛みが走る。不意打ちのそれに思わず「痛、」と音が零れた。肩越しに振り向くと、もさもさと青い髪が次の場所を探して蠢いている。
「ちょっと、跡を付けないでださいって言ってるでしょう」
「見えない場所なら問題ないでしょ」
「ふとした時に見えてしまうのが嫌なんです」
「それがいいのに」
全く反省する様子もないまま、また右の肩甲骨からやや中心に移動したところにちくりと痛みが走った。それからべろりとそこを舐められて、再び移動し始める。
明日は着替えがあるような授業はなかったし、背中だけならインナーを脱がなければ見られることはないか、と溜息を吐いて年上の我儘を甘受することにした。無理に剥がすと説得という名の屁理屈が返って来るのが面倒だと言うのもある。
と言うのは建前で、イデアが行為の後にキスマークを残したがるのは実はとても嬉しかった。愛情に独占欲、所有権、そんなものの塊を何度もアズールの肌に刻んで行く。それがどうしようもなく嬉しいのだ。
暫くの間好きにさせたあと、漸く背中から離れた気配に俯せていた状態を起こす。
「気が済みましたか?」
「うん。あとひとつだけ」
ニコニコと笑いながらアズールの身体を簡単にひっくり返した。ぐいと覆い被さって、左胸に唇を寄せる。これも、いつもの儀式だ。心臓の真上に、一際強く吸い跡を残す。そこが、そここそが。彼が一等所有したくて仕方がない場所。生命であって、愛である場所。恋愛は脳でするものだと分かっていても、ハートだと思っていた方が幾らかロマンチックだ。
のそりと起き上がった彼が残した跡を確認して、小さく笑う。キスマークなんて生易しいものではなく、最早、痣だ。
「いつもながらものすごいはっきり付けますね」
「消えると困りますからして」
当然と言うようにベッドから足を下ろして、床に散らかっている衣服の中から下着を拾い上げる。腰掛けた姿勢の白い背中を眺めて鼻を鳴らした。まあ、確かに。青い髪が流れるそこに自分の足跡を好きなだけつけるというのは楽しそうだ。
「アズール氏もつけていいんですぞ?」
どきりとする。この背中がアズールのものであるという印をつけていい。愛の、所有者の、独占の証を。少し早まる鼓動を隠して、恐る恐る手を伸ばした。実行すると思わなかったのか、背中に触れた指先に少し驚いた様子のイデアが振り向く。視線がぶつかると、ふと眉を下げ、長い髪を退かしてくれた。表れたのは、背骨や肩甲骨が浮き出た痩身の背中。誰のものでもない、イデアのそれ。
「し、失礼します」
「ふひっ、ドーゾドーゾ」
そっと唇を寄せて、きゅうと吸ってみた。どのくらいそうしたらいいのかが分からずに、取り敢えず思い切りそうしてから顔を離す。けれど、そこは僅かに赤くなっただけで、イデアが残すような跡にはなっていなかった。あれ、ともう一度やってみるけれど、やはり少し赤くなるだけ。
「……?」
どうしてかと首を傾げたのを見計らったように、イデアがぶは、と笑い出した。
「アズール氏、キスマークは割と難しいんでありますよ~」
分かっていてやらせたのか、と思わず彼をきっと睨み付ける。それすらも想定内であったかのように、笑いながら立ち上がって下着を身につけた。不機嫌にそれを見上げていたアズールの隣に戻ったイデアの手が何度かアズールの髪を撫でる。
「いや~、いい! キスマークひとつ満足にできないアズール氏たまらんでござる」
「で、できますよそのくらい!」
「えー? どこがー? だってほら、さっきの所はもう何ともなくなってしまったでござるよ。案外コツが要りますからな~! 陸一年目にして処女を捨てたばかりのアズール氏にはちょっと難しかったかも知れないでござるな~」
「あなただって童貞捨てたばかりでしょうっ」
「それはそれ、これはこれでござる。まま、練習あるのみですぞ」
真っ赤になって反論して来るアズールが可愛くて、つい意地悪を言いたくなるのは仕方がないと思って欲しい。好きな子には意地悪をしたくなる、例のあれだ。ぷぷと笑って見せると、イデアの発言に引っ掛かりを覚えたアズールがぎろりと鋭い目を向ける。
「練習……? あなたまさか、」
「違うっ、自分の腕とかで練習したでござる! 断じて浮気とかはないでござるよ!」
顔の前に大きくバツを作ったイデアがアズールの言いかけたことを先回りで封じた。なるほど、腕か。と言うか、ただ強く吸うだけではダメなのか。
この流れでイデアに教えてもらうのは何だかやたらと悔しい気がするから、まずはやり方を調べて、ひたすら練習あるのみ。そうと決まれば次までに絶対消えない跡をつけてやる、と息巻くアズールにイデアはまた相好を崩した。
翌日。今日の飛行術に出ないと出席日数を3日分差し引くぞ、とかパワハラ甚だしい事をガストンが言うせいで、イデアは嫌々ながらも生身で登校し、死にかけた顔で更衣室にいた。着替えすらしたくなさ過ぎて、わざとのろのろと手を進めていると、さわりと周りの空気が揺れる。気にせずに運動着に袖を通した時、ケイトがそっと寄って来た。
「おっ……………イデアくん、ちょっと刺激的じゃない?」
「は?」
何を言われたのかがわからずに首を傾げると、右手で顔半分を覆ったクラスメイトが、あちゃあ、と小さく呻く。
「それそれ。あー、自分じゃ見えないか……肩甲骨の下の辺り」
指し示されたそこはいくら首を捻っても自分では確認できず、仕方なしに差し出してくれたケイトのコンパクトミラーと、ロッカーに備え付けられた鏡とを合わせてようやく確認できた。
「ひぇ!?」
「まあまあ、早く着替えて着替えて」
思わず叫び声を上げるが、同級生達は最早関わらないようにしよう、と言わんばかりにあちこちを向いてぎこちなく雑談を始めていて、振り向く者はいない。ケイトに急かされるままジャージまでぴっちりと着込んだイデアがその場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「過激な愛情表現?」
「ちが、これ、その、えっと」
どうにか言い訳をしようと慌てている内にチャイムが鳴ってしまって、苦笑したケイトが行くよと更衣室から出て行く。
(あ……アズール氏~~~!)
そこにはくっきりと、タコの吸盤の跡がいくつか。はっとして左胸を見てみると、そこには殊更はっきりとした跡がひとつ。
キスマークを付けられなかったのがよほど悔しかったらしい。揶揄いすぎたか、と思ってももう遅い。大きな溜め息をひとつ吐き出して、のろのろと更衣室を後にした。
不特定多数に見られてしまった恥ずかしさ。リア充爆発しろとか言いながら、自分の身体に残された情欲の跡。救いようがないな、と思いながらも、可愛い恋人が残してくれた初めてのシルシが、本当はとてもとても嬉しかった。