マフィア×オメガバース 洗練された動き、清潔感のある見た目。口と頭は常によく回る。イグニハイドファミリーに最近入ったその男はひどく優秀だというのは既に大陸の裏世界では話題になっていた。黒い手袋をはめた指先が、差し出された“高価な紙切れ”の表面をするりとなぞって手に取る。口づけるようにしてから、後ろに控えていた随分と背の高い男に渡した。
「ありがとうございます。ボスもお喜びになります」
メガネ越しににこりと笑った表情はとても裏社会の者とは思えないくらいに爽やかなそれで、毒気を抜かれてしまう。彼と対峙する男は見た目からして裏社会の人間で、何だかその風貌が少しだけ恥ずかしく思えた。
「助かりますよ、今回の幾つかはアーシェングロットさんのご助言あってこそだ」
「そんなご謙遜を。是非、次もまた」
艶やかな唇が綺麗に歪み、革張りのソファから立ち上がる。その姿を座ったまま見上げた男が手元のタバコを引き寄せて一本くわえた。
「そう言えば、ボスのオヨメサンはどんな方なんですか」
与太話のつもりで持ち出してみれば、おやと言わんばかりに彼の綺麗な形の眉が片方だけ持ち上がる。
ここ最近、傘下のファミリーの間で密やかに噂されている、ボスの結婚について。いつかファミリーが実施した『嫁探しパーティー』で見つけ出した『極上のΩ』なのだと聞く。誰から聞いたのか、誰が言い出したのかはわからない。けれどもそれはまことしやかに広がって、末端の構成員であるこの男の耳にも入って来た。
「ご興味がおありで?」
「いやあ、特には。ただボスが結婚か、という少しばかりの驚きが」
肩を揺らして紫煙を吐き出せば、その向こうで彼も笑う。
アズール・アーシェングロット。銀の髪に涼しげな目元。特別造形が整っているというわけでもないけれど、口元のほくろは色気があっていいなと同性からも思うのだから、その姿で夜の街にでも出れば引く手あまたなのだろうと想像した。見た目からして屈強な男は今日日流行らないのだといつかに夜の蝶に言われたのを思い出す。
「ただ、極上のΩと聞いたら、どんなものかと」
「それは確かに。ですが残念ながら僕も存じ上げないんですよ」
わざとらしく肩を竦めたアズールに男は少し目を丸くした。側近であるアズールですらその相手を知らないとは。まさか実在していない、単なる噂だったのだろうか。
「ボスは大事なものほど隠してしまわれる方なので。それに、そんなに素晴らしいΩなのであれば、外に出して他のαに手を付けられてしまっては大変だ」
タバコの先から上る煙をぼんやりと眺めながら考える。
ということは、ボスはまだ番ってはいないのか。そんなにいい相手ならさっさと番えばいいものを。何か思う所があるのだろうか。そもそも、我らがボスは常人には理解し難いところが多々ある。天才とも呼ばれる彼の思考の外にいる人間が、どれだけ考えても彼の考えには遠く及ばないのだ。
ふと笑ってまだ短くもなっていないタバコを乱暴に灰皿に押し付ける。これで話は終わりだというのを、賢いアズールは感じ取ったのだろう。付き人が差し出したハットをかぶる仕草は丸でハリウッドスターだ。
「それでは、また来月」
「はい、ご足労お掛けします」
いつかに、見るからに屈強な男が自分なんかにそんな丁寧な挨拶をするのが妙に滑稽に見えると笑ったアズールは、仕事を前にしている時よりも少し幼く見えた。またあの素直な笑顔を見てみたいなあと頭の片隅にあの日の笑顔を思い出しながら、事務所を後にする二人の背中を見送った。
車の中でネクタイを緩めたアズールが不機嫌そうに唇を尖らせる。運転席のジェイドはそれをルームミラー越しに確認して、可笑しそうにくつくつと喉で笑った。
「何が極上のΩだ」
「最近よく聞きますね、その話」
「誰かが面白おかしく言い出したのが回っているだけでしょう、くだらない」
イグニハイドファミリー傘下の構成員達の間でちらほらと聞くようになったその噂には根拠がある。それはアズールも当然知っていて、だからこそ面白くないというのが本音だった。
半年前、イグニハイドファミリーは血縁存続のためにより優秀なΩを探すためのパーティーを開催した。つまりはお見合いパーティーだ。人間嫌いのボスは大層嫌がったそうだが、これを最後の仕事にしてやるという約束に渋々頷いたらしい。パーティーは当然、イグニハイドファミリーの幹部に入り込むチャンスとばかりにあちこちのギャングや小さなファミリーの末端構成員からΩが大勢送り込まれた。このイベントの結末は呆気ないものだった。ボスが早々にこれと決めた相手ができた。それだけだ。
それだけなのだ。相手が男とも女とも、αともΩとも言っていない。ただ「相手ができた」と告げただけ。言ってしまえば、その相手とやらを誰かが見たわけでもない。
「みなさんボスを信じすぎなんですよ」
鼻で笑った表情が鏡に映った。
アズールは小さな港町でギャングをしていた身だ。ジェイドとフロイドを引き連れ、成り上がって今ここまでやって来た。金に女、酒に賭場。色んな踏み台を踏んでここまでのし上がったアズールの最終目標は、イグニハイドファミリーの乗っ取りに他ならない。
「邪魔されるわけにはいかないんですよ」
言い聞かせるように呟いたそれを聞いていたのは、地元からずっと一緒にやって来た腹心のジェイドだけだ。彼もそれは心得ていて、そうですねと笑うだけで、滑るように車を走らせ続けた。
広い部屋の広いベッドの上。昼間からそこを陣取って動かない長い髪に溜息をひとつ。アズールが入室した気配には当然気付いていても、特に反応はなかった。気配も何も、この部屋に入るにはいくつものセキュリティを解除しなくてはならないし、その解除キーを持っているのはベッドの上の彼と、彼の弟。それにアズールだけなのだからドアが開こうが閉じようが、危険ではない相手という事になる。それに加え、ドアの前には何人かの構成員もいるわけだから、ここは彼にとって安寧の場というわけだ。ただ。
「また僕の部屋にいたんですか」
ここはアズールに宛がわれた私室だ。セキュリティがどうこう以前に勝手に入るのはプライバシーの侵害だと何度か言っているはずだけれど、どうも受け入れてもらえずに今に至る。仰向けに寝転がってゲームに熱中していた黄色の目がちらりとアズールを見た。
「おかえり。今日はゴリラ?」
「ええ、ちゃんと回収してきましたよ。先月よりもいくらかアップで」
「ヒヒッ、ゴリラのくせにやるね」
「僕からいくつか指示を出しましたからね。アップしてないと困ります」
ふんと鼻を鳴らしてコートをクローゼットにしまっている間に、漸く起き上がる気になったらしい彼がベッドの上であぐらをかく。ゴリラと言うのは今日集金に行った先の例の屈強な男の事だ。データ上でしか知らないくせに、このボスは構成員の何人かにこうしてあだ名をつけて読んでいる。
イデア・シュラウドは、大陸の四大マフィアのひとつ、イグニハイドファミリーのボスだ。但し、ひどく人間嫌いの引き篭もり。イグニハイドの縄張りにはいくつもの飲食店やホテルがあったけれど、それらの経営はほとんど弟のオルト・シュラウドに委ね、本人は一代でインターネットビジネスを立ち上げ、成功させた。世界トップクラスのハッキング技術をもって電脳世界では立派にマフィアをやっているらしい。
「イデアさんのオヨメサンはどんな方かと聞かれました」
「またそれ? プークスクス」
何度目かの同じ質問に笑ったイデアは悪戯が成功した子供のようで、アズールは呆れた顔を隠そうともしないままベッドサイドに腰を下ろした。
「何でも極上のΩだとか」
「へえ、ウケル」
イデアはαだ。それも、かなり強い。らしい。
伸ばされた腕はそのままアズールを絡め取り、柔らかく腕の中へと抱き込んでしまった。喉仏に鼻先を摺り寄せて、ほとひとつ息を吐く。伝わる心音に身体から力を抜いて、イデアに体重を預けた。
嫌々ながらもそれなりに鍛えられている胸板はアズールひとりが寄りかかったところで動じない。見た目はあの屈強な男よりも遥かに優男であるのに不思議だと思う。αだから、なのだろうか。αは頭脳や体格に恵まれるというし、少なからず影響はあるのだろうなと考えながら目を閉じた。
「ねえ、いつになったら言っていいの」
「そうですねえ……」
子供が縋るような言い方のおねだりをのらりくらりと躱しながら、耳に胸から直接響くイデアの声に細い息を吐く。
「パートナーが僕のようなβだと知れたら、みなさん黙っていませんよ」
イデアの、甘やかで強烈なαのフェロモンを、アズールは知らない。
嗅ぐことも、感じることもできないそれがもどかしくて、悔しいと思う事もある。もしもアズールが彼らの言う極上のΩであったのなら、きっと何を迷うことなく、彼を番にして子を産み、余計な感情を抱くことなくこのファミリーを乗っ取れたものを。
アズールの発言にむっとしたイデアが何か言い出すよりも早く血色の悪い唇を手袋のない指先で堰き止めた。何も言うなという合図は正確に彼へと伝わり、指先に触れた唇が更に不機嫌に尖る。
ファミリーのために、βであるアズールがパートナーとして収まるわけには行かない。それは互いに分かっていた。けれどもうひとつ、アズールにはどうしても払拭できない不安がある。
「兄さん、会議の時間だよ」
ノックと共にドアの向こうから声がかけられた。オルトの声に顔を上げたイデアが面倒そうに舌打ちをしてから、のそりと立ち上がる。
「いま行く」
振り向きもせずに出て行ったイデアの背中を見送り、閉じられたドアを確認してからそのままベッドへと転がった。
元々マフィアなど今すぐに辞めたいと言っている彼の事だ。アズールがこのファミリーを譲れと言ったら彼は嬉々としてその立場を手放すかも知れない。しかしそうするにはファミリー内が納得しないだろう。ファミリーの中で命を狙われるようになるのは避けたい。
ならばアズールが信用するΩとイデアを引き合わせて……、途中まで考えて、その考えは即座に破棄した。イデアに心を奪われるなど予定外だった。この余計な感情のせいで上手く計算ができない。立ち回れない。否、それでも、どうにかして成り上がってやる。この世で信用できるのは金しかないのだ。愛などいずれ消えゆく。イデアだって。
いつか『運命の番』に出会ったら、簡単にアズールを捨ててゆくのだ。
その日が来るのがアズールにとっては今何よりも、怖かった。