教師と生徒 新しく赴任して来た教師は残念ながらグラマラスな女性教員ではなく、それなりに身長があるはずのケイトよりも背の高い、筋肉質な男性教師だった。黒縁メガネの奥の目は優しげながらも何かを探るようなそれに見えて落ち着かない。
「筋肉眼鏡」
「ぶふっ」
美人教師とのプライベートレッスン☆を夢見ていたケイトが悔し紛れに呟いたそれを後ろにいたクラスメイトが拾って噴き出した。必要最低限しか出席しない幻の珍獣と影で呼ばれるイデアが、始業式のこの場にいるのはかなり珍しい。反応に気を良くして肩越しに振り返って話し掛けた。
「美人教師かと思ったのに」
「はぁ〜いかがわしい妄想乙、リア充はすーぐそうやって」
大袈裟に肩を竦めて手のひらを見せた態度にケイトも笑って視線を壇上に戻す。凛とした低い声が最早定型文のような挨拶を終え、舞台中央の教壇から離れるところだった。ぐるりと体育館内を見回した教師の目がふと、ケイトのところに止まった気がして思わずドキリと心臓が跳ねる。否、ケイトのいる位置は半分よりも後ろの方で、壇上からピンポイントで目が合うわけはないのだ。自意識過剰かよと内心自分に突っ込んで、誤魔化すようにふわりと欠伸をする。イデアはもう興味を失ってしまったらしく、存在感ごと消しにかかっていた。
教室に移動して、改めて近くで彼を見てみると遠目で見た時よりも筋肉質でもそこまでマッチョというわけでもなく、言ってみれば細身の筋肉質、という印象だった。けれどもやはり眼鏡の奥は何かを探るような視線があって、少しだけ下瞼を痙攣させる。
「今日からこのクラスの担任になった、トレイ・クローバーだ。よろしく」
爽やかな笑顔に女子達が色めき立つ。わかる。あれは年下女子にモテるタイプだ。女子の黄色い声に混じった適当な男子の返事を聞きながら窓の外へ目をやる。今日もいい天気だ。
始業式の日は形ばかりの式典とホームルームのみ。適当に流しながら過ごしていたら、いつの間にか終わっていた。
「あ、そういえばイデアくん、この前頼まれたやつ登録したよ。アイテム取れた?」
「取れたでござる、圧倒的感謝〜〜」
帰り支度をしながら後ろの席を振り向く。窓際の一番後ろはイデアの指定席で、席替えの度に他の生徒から譲れと何度言われても頑なにそこを動こうとはしなかった。果てには「登校拒否になったら君らのせいになるからね」と吐き捨てられてしまうと、どうにも気まずくて無理矢理どかすこともできずに二学期の今日を迎えている。そして、それに便乗するようにその前の席はケイトの指定席だった。ここについてはあまり文句は出ない。気難しいイデアの近くの席というだけで、この席の地価は大暴落するのだ。ケイトとしてはイデアのことは決して嫌いではないし、むしろちょっと変わっていて面白い。何より、距離感を詰めて来過ぎないのが居心地が良かった。
「まだ残っていたんですか」
教室の前方ドアから低音が滑らかに滑り込む。反射的に顔を顰めたイデアに思わず笑いながらショルダーバッグを肩にかけて立ち上がった。
「今から帰りまーす」
ジェイド・リーチは化学を担当している、超高身長のイケメン教師。校内の女子人気ナンバーワンと言っても過言ではないけれど、やや趣味が変わっているとかで、決してモテるわけではないのだとクラスの女子から聞いた。変わった趣味とやらが何であるか知らないけれど、そもそも彼女がいるらしい。顔がいい、声がいい、背も高くて物腰が柔らかいとなれば、多少の欠点など取るに足らないだろうなと思う。
さようならぁと彼の脇をすり抜けて昇降口に向かう間、ふと振り向いた先にいたイデアに苦笑した。
「イデアくんて、ジェイド先生のこと嫌いだね」
「好きになる理由がないでござる」
むしろそこまで嫌う理由もケイトには思い当たらないのだけれど、どうしてもこの同級生はあの教師のことを蛇蝎の如く嫌っているのだ。どうして、とは特に聞かない。そこまで入り込まれることを彼は良しとしないだろうし、正直ケイトもそこまで興味はなかった。
昇降口を出て腕時計を確認して、小さく、やべ、と呟くと真っ白いスニーカーに履き替えたイデアがチラリとケイトを見る。
「バイト遅れる」
「乙〜」
ひらりと振られた手のひらはいつだって肉薄で、たこが目立っていた。イデアの趣味は漫画やアニメ、ゲームと、もうひとつ。ロボット開発の趣味が高じてその分野で才能を発揮している言わば天才。
「そういえば、イデアくん珍しいね」
「?」
「始業式とか出るの。真っ先にパスしそうなのに」
「ああ……まあ……気が向いただけですし」
彼がそう言うならそうなのだろう。探られたくないことを探る必要もない相手だ。ふうんと鼻を鳴らして学友とはその場で別れ、自転車で10分ほどの距離にあるバイト先へと向かう。
秋の空は遠く、風が少しだけ冷たい日だった。
頭が痛いなあと思ったのはきっと、山の向こう側の暗雲のせい。きっとこれから雨が降るんだろうと小さく溜息を零した。体育の授業は嫌いではないけれど、どうも今日は気分が乗らない。それもこれも、昨日のバイト終わりにちょっと狙ってた女友達からにっこり笑顔の絵文字と共に送られて来た『彼氏ができたからもう遊べない』というメッセージのせいだ。
正直、特定の彼女を作るのは面倒くさいけれど、何だかんだと行動範囲の狭い高校生であちらこちらへの乗り換えはあっという間に悪評となって身動きが取れなくなる。面倒なのはごめんだ。
「ケイト危ない!」
ぼんやりとトラックを走るクラスメイトの女子達を眺めていた所へ突然声がかかる。えっと思う間もなく、後頭部に結構な衝撃が走り、そのまま思わず膝を着いた。じゃりっという音とともに膝に痛みが走る。
「大丈夫か!?」
「マジでごめん!」
「いてて……へーきへーき、こんくらい」
頭にぶつかったサッカーボールがてんてんと転がって、痛む膝を確認した。頭の衝撃はたいしたことはなかったけれど、膝の方は細かい砂利が表面の皮膚を擦って僅かに血が滲んでいる。おろおろするクラスメイトに、大丈夫だよと繰り返して立ち上がった。
「ちょっと保健室行って来る」
「一緒に行くか?」
「いいよ。サボる口実サンキュー」
軽く笑ってそう言うと、ほっとした同級生がひらりと手を振る。彼らに見送られながら昇降口へと向かい、ついでに頭痛薬ももらおうかなと上履きに足を通した。
「ケイト氏サボり?」
「それイデアくんが言う?」
一応形だけジャージを着ているイデアが昇降口横の階段から降りて来る。ここの所学校で彼を見掛けることが増えた。一学期の終わりまで殆ど姿を見なかったし、いよいよ出席日数がヤバいのかも知れない。
階段から降りて来たということは今の今まで校舎内にいたということで、つまり体育には参加していなかったサボりのくせしてケイトを揶揄するように笑ったイデアにわざとらしく眉を寄せた。
「怪我したから保健室」
「へえ……怪我までして走り回るとかまじイミフ」
別に走っていて怪我をした訳ではないけれど、事情を話すのも恥ずかしくて適当に流す。保健室に向けて歩き出したケイトの横にしれっと並んだイデアを見上げると、その視線がそろりと窓の外に逃げた。
「付き添いしてて遅れたとかいう言い訳に使う?」
「コンタクト落として探してて遅れて、友人の保健室付き添いに行ってましたって最高の理由では?」
「”罰として校庭30周!”に焼きそばパン」
「ひえ……じゃあもう欠席でいいでござる」
コンタクトレンズなんて使ってないくせに。ジャージに着替えた心意気だけ買ってやろうと思うけれど、ケイトに買われたところで彼の出席日数へも成績へも何ひとつ影響はない。中身のない会話を適当に交わしながら、校舎端の保健室へと辿り着いた。
「失礼しまーす」
ノックと共にドアを開ける。保健室の独特の雰囲気が案外好きだった。尤も、去年まではここへ来るのが確実に好きだったのだけれど、今年養護教諭が代わってしまってからはあまり来なくなってしまった。だって、前任の養護教諭は茶色の肩までの髪をくるりと巻いて、柔らかそうな胸元を白衣で隠した小柄な女性教諭だったのに。
「どうかしましたか?」
室内から返って来た声は柔らかいけれどどう聞いたって男のそれで、以前ここで聞いていた高い声を思い出して溜息を吐いた。
「校庭で怪我したんで絆創膏ください」
「傷口は洗いましたか?」
ちらと怪我を確認した教師が手近にあった引き出しから絆創膏を取り出す。そう言えば洗って来なかった。怪我したのが膝だから、外の水道で洗って来た方が良かったかもしれない。
「消毒よりも洗浄ですよ。綺麗にしておけば消毒はいりません」
「じゃあ外で洗って来ます」
「はい、お大事に」
「そうだ、頭痛薬あります? 頭痛くて」
絆創膏を受け取りながら聞くと、鍵のついた薬棚から錠剤を出してくれた。
「それで、そちらは?」
眼鏡越しの視線がケイトの後ろにいたイデアに向けられる。付き添いですとも何とも答えないまま、不貞腐れたように黙り込んだ彼を不思議に思いつつもらった薬をポケットに入れた。
「あー……寝不足で、頭が」
「そう言ってこの前も寝て行ったでしょう。夜更かしのし過ぎでは?」
「オレ戻るね〜」
「いってら〜」
「あなたも戻りなさい」
今年の春に産休に入った女性教諭の後任であるアズール・アーシェングロットはどこか中性的な雰囲気がするひとで、一見クールな雰囲気だけれど慣れると話しやすいと生徒の中での評判はまずまず。
残り数分の体育を保健室のベッドでやり過ごそうとするイデアの見え透いた言い訳に笑ってドアを開けると、当然そんな嘘など通用しているはずがないアズールにイデアごと廊下へと押し出された。
「おや」
廊下に出ると、丁度こちらへ向かって来る教師と目が合う。声を上げたのはジェイドだ。何とはなしにイデアを見ると、やはり眉間を狭めて不愉快そうに顔を背けていた。
「怪我か?」
ジェイドの隣から声が掛る。思えばトレイと面と向かって会話をするのはこれが初めてかも知れない。「大した事ないです」
「そうか」
担任として受け持ちの生徒を気遣ったのだろう。当たり障りのない端的な会話を交して足を踏み出した。彼らの脇を通り抜けた時、背後で教師達の会話が聞こえる。
「ジェイド。頼んでいたもの来ましたか?」
「はい。それをお持ちしました」
教師陣の事情など知る気もないけれど、噂によるとジェイドとアズールは教師になる前からの知り合いなのだそうだ。この学校にいたジェイドが養護教諭の枠が空くということでアズールを紹介したらしい、と聞いている。
「やっと保健室を見に来れたよ」
「そうですね。今は誰もいませんから、どうぞ」
着任して日が浅いトレイは人のいる時間の各教室を見て回れていないのかも知れない。アズールに促されて、保健室の中へと入って行くのを何となく眺めていると、ふと振り向いたトレイと目が合った。
「早く授業に戻れよ」
黒縁メガネの向こうで細められた目が優しい。はあいと気のない返事をして踵を返した。不機嫌なままのイデアを視界に入れながら、手の中で絆創膏を弄ぶ。
「イデアくんて、ジェイド先生のこと本当に嫌いだよね」
前にも聞いた質問を繰り返すと、盛大な舌打ちが返ってきた。
「教師って生き物みんな嫌いですわ」
吐き捨てたそれに肩を揺らして、廊下から曇り空の外を見る。帰る時に降られなきゃいいなあと考えながら、再び昇降口で履き替えた外履きの爪先をとんとんと鳴らした。気付いたらイデアは姿を消していた。結局サボることにしたらしかった。