番外編 津上聡樹の恋 津上聡樹にとって、彼女との出会いは正に衝撃であると同時に恋の始まりでもあった。場所は図書室。あの時、確か彼女は片割れの借りた本を返しに来ていた。同時にまた何か借りるよう言われていたのか、本を返却した後、戸惑いながらも、並んでいる本棚を一つ一つ確認している。その頃、民尾の中にもう一つの人格がいる等全く知らなかった。前から民尾とは話してみたいと思っていた津上は、棚に本を戻す振りをして、彼女の隣に立った。話題の人物とはどういった人物なのか、そういう意味でも興味があった。
「あ、ごめんなさい」
しかし、彼の後ろを通ろうとして発されたその少し高い声に、津上ははっとしていつの間にか、彼女の手を掴んでいた。その時、丁度彼女は目的の本を見付けたばかりだったらしく、不思議そうな顔をして津上を見上げ、口を開いた。
「あの、あなたもこの本、探してたんですか?」
「え、あ……す、すみません。そう、なんです」
咄嗟に嘘を吐いた。改めてその声を聞くと、男の声なのだが、どこか女性的で優しげな響きがあると津上は思った。よく見ると、仕草にも女性らしさが出ていて、民尾の顔なのに、同じ人物には見えなかった。何よりあのいつも漂っている、どこか浮ついたようなそれでいて重く不気味な雰囲気が全く無い。今は柔らかく温かい空気が彼否、彼女の周りを漂っていた。可愛らしい。そう思うと、津上の心臓がどくんと跳ねた気がした。にっこりと微笑んで「どうぞ」と本を差し出す彼女に、津上はどきどきと脈打つ心臓を押さえ付けながら、おずおずと受け取った。ふと、出し抜けに本の装丁以外の柔らかい感触が指先に当たり、それが彼女の指先だと理解するまでにそう時間は掛からなかった。はっと我に返って「し、失礼しましたっ」と慌てて本を掴み、彼女の指先から離した。彼女は可笑しそうにくすくすと笑って「いいえ」と言い、そのまま続けた。気を悪くした様子は無い。
「あなたも心理学に興味があるんですか?」
正直、津上は心理学にこれっぽっちも興味は無かった。人の心の機敏を学問として定義すること自体、彼はあまり良く思っていなかった。だが、彼女に好かれたい一心で、「そうなんだ」とまた嘘を吐いた。それを聞くと、彼女は益々表情を明るくさせ、嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんですか。じゃあ、民尾とも仲良くしてあげてくださいね。あの子も心理学が好きなんですよ」
「は、はいっ。もちろん」
彼女の表情は嬉しそうだが、どこか悲しそうな複雑なものだった。彼女との接点を持つことができたと内心で舞い上がっていた津上だったが、彼女の様子に気付いても首を傾げることしかできなかった。何か心配事があるのだろうかと思い、訊いてみたが、彼女は「何でもない」と言って礼を言った。
津上が彼女、安実と言葉を交わしたのはそれが最初で最後だった。あの日以来、どんなに民尾と友人付き合いを続けても、彼女が現れることは無く、一度痺れを切らして民尾に彼女と会わせるよう迫ってみたが、どうにも上手くいかなかった。あのままでは安実も民尾も不便だろうと、降霊術を用いた方法も提案してみたが、拒絶されてしまった。津上には一つ、確信を持って言えることがあった。民尾も安実に恋をしているのだということだ。彼女に会いたい一心で今まで彼を観察していた津上だったが、その成果か、彼も自分と同じなのだと確信に至った。狡い。一度しか会えない自分と違って民尾は毎日彼女と言葉を交わし、彼女の存在を自分の内に感じながら生きている。しかも、民尾と安実だけの誰にも暴くことのできない不可侵の世界まで持っているのだ。ただそれだけが羨ましくて妬ましかった。
中学校を卒業しても安実のことが忘れられず、津上は民尾の身辺調査は怠らなかった。調査の結果として、民尾はどうしようもない軽蔑すべき人間だと分かったし、その事実を受けて益々彼と安実を引き離すべきだと津上は考えた。彼女が民尾の体から解放されれば、自分と一緒にいてくれるかもしれない。でも、その方法が皆目見当も付かない。一体、どうすればいいのかと思い悩んでいるうちに、事件は起こった。民尾の家が何者かに襲われ、肝心の民尾本人は行方不明。現場には夥しい量の血痕と女中達の服の切れ端や警官の持ち物が発見されたが、犯人は分からず終いだった。しかし、津上には分かっていた。民尾がやったのだと妙な確信を持っていた。殆ど直感だ。何の証拠がある訳でもない。だが、そう見ているのは津上だけではなかった。「鬼」という言葉を聞いたのは、そんな最中だった。あの凄惨な事件の記事を読みながら、丁度行きつけの喫茶店で珈琲を飲んでいる時だった。
「ここのパンケーキが凄く美味しいのよ! 伊黒さん」
「お前は本当にそれが好きだな、甘露寺」
前のテーブルに座っている一組の男女。女の方が何やら興奮した声を上げる。ちらりとそちらを見ると、桃色の髪の女はわくわくとした様子でメニューを見ており、その向かいに座っている左右で色の違う目の男はその様子を穏やかな表情で見ていた。かと思うと、津上と目が合った瞬間、敵意と憎悪に満ちた目で睨んでくる。男の鬼気迫る様子に只ならぬものを感じた津上は、慌てて目を逸らす。そうしている間にも連れの女は、店のメニューを食べ尽くす勢いで、次々注文していく。注文を全て聞き終えた店員は、神妙な顔をしながら厨房に入っていく。その間に二人はこそこそと小声で会話をし始めた。
「伊黒さん、現場には入れたかしら?」
「いや、まだ警察の調査で立ち入り禁止になっていた。だが、死体が見つからないという点で、鬼の可能性が高い」
「かなりの犠牲者が出たものね。……私達、いつも後手に回っちゃう」
「仕方のないことだ。無惨の手掛かりは未だ掴めてすらいないからな」
鬼。その単語に非常に興味をそそられた津上は、もっと詳しく話を聞いてみたいと思ったが、話しかけるきっかけが無い。どうしようかと躊躇していると、徐々に女が注文した料理が運ばれ始めた。暫くして、彼らのテーブルに所狭しと並べられた数々の料理に、周囲の客達は目を丸くし、女は周囲には構わず、元気よく「いただきます!」と言って食事を始めた。食べる速さは速い方ではないが、確実に料理が消えていく。その光景に、津上だけではなく、周囲の客達も変わらず注目していたが、連れの男の眼力に怯み、皆席に戻って行く。そんな中、津上はある思いつきを実行してみることにした。トイレに行く振りをして、前のテーブルに袖を引っ掛け、お冷やをひっくり返した。慌てた振りをしてコップを持ち、女に謝った。
「ああっ、すみません。大丈夫ですか?」
「あ、いいえ。大丈夫です。あなたこそ大丈夫?」
「……何のつもりだ? お前」
連れの男が席を立ち、こちらを睨む。敵意の籠もった目に一瞬、津上は緊張したが、惚けることにした。
「え? 何のつもりって、どういうことですか?」
「え? 何か私達に用があるんじゃなかったの? わざとぶつかって来たから、てっきりそうなのかなって思ってたのに」
女の方にも同じようなことを言われ、津上は観念し、事情を話すことにした。零した水を拭き、男が一人分の席を空けてくれたので、――女の隣は連れの男が許してくれなかった――お互いの自己紹介から始めて、津上が知っていること、今回の殺人に関係していそうなことを自分の推理と絡めて説明する。彼の話を聞いている間、女甘露寺蜜璃は感情豊かな表情で相槌を打ち、――安実との馴れ初めには頬を染めて盛り上がっていた――男伊黒小芭内は津上を邪魔に思っているらしく、終始明らかに不機嫌そうな目つきでこちらを見ているだけだった。全てを話し終えると、蜜璃は「そうだったの」と複雑そうな困った顔をした。
「あなたは、その……その子に会いたいのかしら?」
「はい。民尾くんが彼女を苦しめているのなら、僕は彼を止めたいです。彼女を救いたい」
「止めておけ」
それまで黙って話を聞いていた伊黒が、それだけ言った。その目には先程まであった敵意は無く、どこか遠くを見ているような、悲しみなのか、やるせなさなのか、複雑な光を静かに湛えていた。
「たとえこの先偶然、会えたとしても、もうそいつはお前の知っているそいつではないし、問答無用でお前を殺しに来る。話は通じない。その彼女とやらに会える保障も無く、嬲り殺しにされるだけだ。諦めろ。このことは忘れて生きて行くしかないぞ」
「それは……」
「うーん……あのね、伊黒さん」
おずおずと蜜璃が遮る。彼女も伊黒と同じように困ったような、照れたような表情をしていたが、彼との見解は全く真逆だった。
「伊黒さんの言うことは概ね正しいと思う。確かに鬼殺隊士になるって、相当の覚悟がいること。でも、私は津上くんの気持ちも分かるの。好きな人に会いたいって思うのは、当たり前のことだもの。その気持ちは誰かに言われたくらいで止まるものじゃないわ」
「しかし、甘露寺。これはそういう問題では……」
「分かってる。だから、津上くんにどれ程の覚悟があるのか、見極めなくちゃ」
見極める。その言葉に津上は一筋の希望を見出し、蜜璃を見る。一体、何をするつもりなのだろうか。いつの間にか料理を全て平らげていた蜜璃は席を立ち、津上の手を両手で包むように握った。
「私がお世話になった育手の方に見極めてもらいます! あなたが本気で鬼殺隊に入りたいんだったら、その人の許であなたの覚悟を見せて! 機会があれば、また会えるわ」
「おい、貴様。甘露寺の手を放せ」
「掴まれてるのは僕の方ですよ、伊黒さん」
甘露寺蜜璃と伊黒小芭内。この二人に出会ったことで、津上は民尾基魘夢に一歩近付いた。その小さな一歩を積み上げて行った先で、津上は晴れて鬼殺隊士になった。
彼が習得したのは炎の呼吸から派生した恋の呼吸だったが、彼特有の癖が抜けなかった為に肩甲骨の可動域を広げ、心火の呼吸を生み出すに至った。心火の呼吸は上半身の柔軟が最も重要視される型で、大振りの技が多い。全身を使って刀を振るので威力は高いが、その分隙が多い。そこを補完すべく津上が身に付けたのは、素早く強靱な脚力だ。雷の呼吸を参考にしたが、雷の呼吸の使い手に比べると、まだ遅い。だが、彼にとってはそれで充分だった。雑魚の鬼相手にはそれだけで圧倒できた。だから、あの夜の任務も今までと同じだと仲間内で軽んじられていた節があった。津上自身もどこか浮き足立っているような気持ちで任務に臨んでいた。
だから、気付くのが一歩遅れたのだ。数こそまだ少ないものの、乗客が行方不明になっていると聞いた津上と数人の仲間達は、無限列車に乗り込み、調査を行おうとしていた矢先だった。上品な洋装に身を包んだ男が一人、津上達の車両に入って来た。そちらを何気なく見やった彼の目に、忘れもしないあの顔が出し抜けに飛び込んできた。毛先が変色しているものの顎の辺りまで切り揃えられた髪、一瞬、女なのか男なのか分からなくなる中性的な顔立ち。どこか虚空を見つめている目つき。間違いない。やっと見つけた。
「民尾く……」
「お眠り」
席を立とうとしたところで、静かな呟きと共に民尾の瞳が光った。その瞳孔には下壱の文字。ああ、そうか。君、十二鬼月になったんだね。その思考を最後に、津上の意識は夢の底へ落ちていった。