愛を知っていた 季節が巡るのは速い。年を取るのはあっという間だ。
自分が経営するアパートの一室に住む少女から好意を告げられてからもうすぐ一年近くの日が経つことを、最近再び肌寒くなってきた北風によって思い出す。つい先日まで、めまいのするような暑さにうだっていたというのに。
嫌われてはいないとは思っていた。
ただ、「好き」の気持ちが、そういう「好き」だとは思っていなかったけれど。
あれから、彼女に対してどのような態度を取ればいいのかわからない。
以前よりも、逆に距離が遠くなってしまったような気すらしている。向こうがどう感じているかはわからないけれど、明神冬悟からすると、気にしなくてもよかった接触に罪悪感を抱くようになってしまった。なぜ罪悪感を抱いているのかもわからないけれど。
肩を抱く、手をつなぐ、すり寄られてそれを受け止める。
思い返すと恥ずかしさで死んでしまうのではないかと頭を抱えてしまいそうになる。特に気にすることなく、どうしてそんなことを年頃の女の子相手に出来ていたのか、自分自身を殴ってやりたいとも何度も思った。
「だって、相手は子どもなんだぞ!?」
そんな明神の叫びを、仕事仲間たちは一蹴する。
「出会った最初からあの子は結婚出来る女性だぞ」
「世が世ならとっくに人妻で子どもだっている年だ。年齢で考えるものじゃない」
「ええええ……」
「大体、返答を待ってもらっている身のくせに、なにをそんな意識して、男子中学生みたいなこと言ってるんだ」
「いや、ほんと、お前ら、やばいぞ、この状況。だって、同じ屋根の下にいるんだぞ? 漫画か? トレンディドラマか?」
「ほんと、師匠の悪いところ全部受け継いじゃったよね。その古臭い言葉遣いは直したほうがいいんじゃない?」
「うるせーよ」
「ギャルゲーの主人公みたいな状況だろ。喜べよ、男だろ」
「母親同伴でどうしろってんだよ」
「大丈夫、雪乃さんは姫乃ちゃんさえ幸せなら冬悟くんのことなんて気にしてないと思うから」
「それな」
「え、どうでもいいの、オレ?」
「そりゃ、娘に比べたらな」
「ていうか、すごい現金なんだけど、あれからひめのんがめちゃくちゃかわいいんだよ! すっごいかわいく思えてきたんだよどうしよう!
いや、元からかわいかったけど!」
「はあ、なにを今更……」
「それ、澪ちゃんの前で言ったら今度こそ斬られるよ。俺、助けないから気をつけなね」
「言わねーよ」
「つーか、そこまで自覚してんならなんの問題もなくないか? 姫乃もかわいそうだし、生殺しから早く解放してやれよ」
「で、でも」
「でももクソもねーだろ。男らしくガツンと据え膳食って来いって」
「いや、どうしたらいいの」
「は?」
「へ?」
「いや、どうにかしちゃダメだよな。まだ、未成年だし」
「ああ、そういう分別?」
「十八歳以上って同意があれば大丈夫じゃないの?」
「そうじゃないって、いや、そうじゃないんだ」
「だからそう、やっぱり、これが、『好き』かどうか、わからない」
そうなのだった。
明神冬悟は、人から愛された記憶がない。
そして、自らも「愛した」記憶がない。
好意とはなにか。ずっと、ずっと、わからないままだった。
「性欲ないの?」
今年の初め頃にゴタゴタした挙句に悲願だった澪と入籍を果たしたプラチナが呆れたように、しかし口調には兄のような気遣いが含まれながらもド直球に確認してきた。
「あんな人がいっぱいいるところでそんな元気ねーよ」
「それはあるな」
先ほどまでカウンター越しに一緒に話に興じていた正宗は明神のビールがなくなっていたことに今更気が付いたようで、なにも言わずにおかわりを持ってきた。輸入物だというクラフトビールは、あんまり馴染まない味だったけれど、飲みやすくついつい自然と手が伸びていた。
「それでも、師匠が亡くなってからは一人暮らしの時期もあっただろ?」
「でも、力を使うとスッキリしないか? 別にないわけじゃないと思うけど、あんまりよくわからない。一般的なものを知らないし」
「禁欲的だなぁ」
ははは、と笑うプラチナはおそらく妻のことを考えているだろう。
「やっぱり、オレには恋愛なんて向いてないんだと思うんだよ」
「やってもないのにそんなことを言うのは、姫乃に失礼だ」
「やり方もわからないのに?」
「振り回されてるのが恋じゃないの? それはそれで楽しいよ」
「よくわからない」
去年から、何回「わからない」と口にしただろうか。考えるだにぞっとする。
自分の心の淵に腰かけて「愛」とか「恋」とかの言葉を探してみようとしても、足がすくむような暗闇しか見えなくて覗き込むことすら怖くなってしまった。考えようとしても、意識がそれを放棄している。
だから、考えているようで、なにも考えてなどいない。
それも、自覚がある。
それも、姫乃に申し訳が立たない理由だった。
「そんなに難しく考えることないと思うけどねぇ」
追加で出してもらったチーズを小さくフォークで刺し切りながらプラチナが他人事のようにあっけらんと呟いた。
「思うがままに行動したほうがいいよ。
君はあんまり頭が良くないんだし、考えたって、わからないものはわからないさ。そんなこと自分でわかっているんだろ?
心と身体は繋がっているよ。そんなの俺たち案内屋には自明の理じゃないか。
心が望めば身体も動く。
同時に、理性でいくら考えてわからなくとも、魂は知っているものだよ。
身体をなにも考えずに動かしてみて、それで初めて理解することはたくさんあると思うよ。
初めてならば、特にね」
最後に残ったブルーチーズの欠片を差し出されて、つい反射的に口に入れた。
「ほら、なにも考えなければ、そうやって受け取れるのに」
「それとこれとは……」
「まあ、プラチナのいうように、考えすぎだと俺も思うけどな。
でも確かに、自身の経験じゃなく、妬み恨み嫉み、愛憎渦巻く死因にまつわる話を耳にタコが出来るほど聞かされて育って、なんにも考えずに愛だの恋だのに浮かれてるよりマシなんじゃないのか?」
「なにそれ、俺への嫌味? いやいや、俺のは穢れてない時からの一途な想いの塊だから」
「正宗が言ってることはちょっとわかるけど、でもそれもなんか違うかなぁ。
ああいうのは、全部自分のこととは切り離して考えてるというか、聞いている感じ」
「それって時々言われない? 『私の話、本当にちゃんと聞いてるんですか?』って」
「うっ。最初の頃は確かに言われた。お前たちは違うのかよ」
「俺、今でも言われる」
「お前が一番未熟じゃん! それ案内出来てんのかよ!!」
「問題ない」
「いや、大有りだろ!」
「あのさ」
正宗の案内方法を聞きながら、プラチナは追加でカクテルを頼む。
ワインも日本酒もビールも好きだが、最終的にはいつも正宗が作るジン・バックを好んだ。なんとなく、自分で作るよりも、彼が作ったものが美味しいと感じる。逆にいうと、他の店では頼んだことがなかった。
「女性ってさ」
長い長い重たい片思いを無事に実らせた経緯を知っている独身二人は、思わず息を止めた。
女性は恋をすると綺麗になるとか、強くなるとかいうけれど、彼らが知っている女性は元から強い。もちろんそれは強がりも含めてだけど。
だが、それは女性だけではないだろう。
彼女と結ばれてからのプラチナは、以前とは少し違う。
情けない振りをしていても四人の中では最年長だ。
ああ、格好良くなったな、と明神は時折心底ため息をつくほどにそれが羨ましかった。
きっと、彼を変えたものが「恋」であり「愛」なのだ。
よくわからないけれど、きっとそうだ。
「女性っていうのは、いつからか、男なんかより、ずっと強くてさ。
気付いた時には、守ってたつもりが、守られてるっていうのは、俺たちのほうなんだよね」
それは、お前んところだろ、と正宗が混ぜっ返すも、彼もわかっていたはずだ。
そのつぶやきが、真実だということが。
自分たちが守るべき対象だった少女が、もう立派な女性で、明神なんて、その足元にも及ばないほどに、強くなっていることも。
未熟なのは、自分たちだ。
***
アイツへの「好き」と、彼女への「好き」は、どう違うんだろう。
そして、うたかた荘に居ついている霊たちとの違いは?
アズミはかわいらしい。守ってあげたい。大切だ。
エージも、ツキタケも同様だ。子どもは守ってあげなければならないと思う。
彼女もかつては子どもだった。初めて出会った時なんて、本当に子どもの顔をしていた。
初めて東京という知らない街に単身出てきて寂しさに押しつぶされそうな顔を時折していた彼女の表情は、今はもう見ることはない。
大人のように、本音を隠して笑うようになった。
時々ヒールのある靴を履いている。あんな危ないもの、と思うけれど、それを伝える立場になくて口をつぐんでしまう。
動きやすいTシャツやジーンズ地のスカートやパンツを好んでいたはずなのに、この間の大学の入学式はスーツだったし、少し大人っぽい恰好になったと思う。
見違えたと言ったら「化粧」のおかげだと笑われた。その時、初めて化粧をしていたとこに気付いた。それからは、明るい唇を見ると見てはいけないものを見てしまったように視線を逸らしてしまう。
どんどん、遠く離れていってしまう。
自分の知らない彼女が増えていると思う。
少女だった彼女は、すでに大人の女性みたいに微笑む。
もう二度と少女には戻ることはない。
明神の手なんか届かないところに、彼女の世界がある。
それなのに、どうして彼女は、明神を気に掛けるのか。
わからない。
広がった彼女の世界に、自分の居場所があることが理解出来ない。
そしてその居場所がどこだかわからないのだ。
横でも縦でも、上でも下でもない気がする。
女子大生となった彼女は、元々持っていた寛容な心と穏やかな人柄と母親譲りの笑顔で、当たり前の日常を過ごしている。
いまだ「無縁断世」としての宿命はあるものの、彼女の日ごろの生活を制限するようなことはほとんどない。
もう、明神たちと離れていってもいいのだ。
自分が守ってあげなければならないかよわい女性など、元から存在していなかった。
自分が守らなければ、と思っていること自体が彼女への冒涜なのだ。
そう思うと、やはり、わからなくなってしまう。
自分のどこに、一緒にいてもいいだけの価値があるのか。
当たり前の彼女の日常を取り戻す。
それが願いだった。
それが叶っている。
だから、もうわからない。
これ以上、なにを望めばいいのかを。
こんな自分を、アイツが見たら、なんていうんだろう。
バカだなって、笑うだろうか。
真面目な顔をして、お前もそんなこと考えるようになったのかって、微笑んでくれるかな。
なあ、明神。
アンタは、オレを、どう思っていたんだ。
アンタみたいに、オレは誰かを守れたのか。この身を全て捧げても守りたいものを守ったら、どうしたらいいんだろう。
生きるってどうしてこんなに大変なんだ。
難しい。わからない。
こんな時に、アンタが居てくれたら、と思ったことは初めてじゃない。
もう答えない師匠を思うと、胸が少しだけ熱くなった。
***
「え、それ、本当なのか」
「当たり前だ。だからお前に教えてやろうと思ってきたんじゃろ」
秋の公園は涼しいどころが寒い。あまりに綺麗に晴れていたのでついつい外を歩きながら話そうなんて言ったけれど、この老人は大丈夫だろうかと今更ながら明神はおごってもらった缶コーヒーを飲みながら横目で十味を見た。引退してずいぶん経つが、元刑事としての人脈からか、色々な相談事に乗ったり、町内会の役回りをこなしたりと年齢の割には忙しい彼はまあ、頑丈なのだろう。いつも通りのケロリとした顔をしている。
「まあ、元々予算の都合だけじゃなくて、業者の兼ね合いもあったんだよ。人死にの出る事故が相次いだからしばらくお蔵入りになっていたが、こないだついに市議会を通過したからな。もう工事に着手すると聞いている。動き出したら早いもんじゃよ」
「そうか」
あの坑道が、埋め立てられるという。
朝一番にやってきた十味は、話があるといって明神を連れだした。また安請け合いの依頼がと高を括っていたのだが、なんとなく、気持ちが逸る。
「もう、行きたくはないだろうが、まあ、無くなってしまうというのではな。
もし良ければ、あそこの霊たちも鎮めてやってくれんか」
「ああ、いや、あそこはもう大丈夫だよ」
「そうなのか?」
「あそこにハセが住み着いたからあんな大事になっちまったけど、元々は森の精霊たちが寄り添っていたんだ。
坑道は埋めるだけで森自体は残るんだろ? それなら多分、問題はないよ。
まあ、一応、最後に、もう一度拝んでおこうかな」
自分はうまく笑えただろうか。
十味が「そうか」と呟いたその表情は見えなった。
「なあ、じいさん」
自然と口をついていた。
「明神って、オレのこと、どう思ってたのかな」
振り返った十味の顔は、一生忘れられないと思う。
***
「え、明神の?」
人妻となった彼女と会うのは初めてではないが、夫婦揃ってでないときに一対一で会うのは初めてで、なぜだが急に緊張していた。まあ、現在、別の人妻とも一つ屋根の下で暮らしているのだが。
元々は白金の名義だというマンションのほうに澪が移り、すっかりここでの暮らしには慣れているようだ。
出されたカップとソーサーはそこそこに良さそうなもので明らかに夫の趣味だろうが、淹れてくれたコーヒーは明神の舌にも慣れたインスタントの味で、彼女はなにも変わっていないと安心する。
「近々坑道が閉鎖されることになるから、明日か明後日にでも見に行こうと思って。元々陰気が集まりやすいところだったけど、本来は森の精霊の居場所だ。
特になにをするつもりもねーけど、見納めになると思う。
その、だから、もしも、」
「私は、いいよ」
ハッとして彼女の顔を見た。
そういえば、今日初めてその顔を見た気がする。
「ようやく私の顔を見たな」
「うぐ」
「私なら、もう大丈夫だ。明神のことで、悔いなどない。
それに、別に、もう、お前が私に対して罪悪感を抱く必要はない。
というか、元々ないんだがな」
「そうは言うけど」
「罪悪感を抱くなら、アイツ本人に向かってだな。
今でもこんな体たらくで貧乏アパートですみませんってな」
「うるせーよ」
ふふ、と笑う彼女は、穏やかだった。
出会った時、戦いのさなかということもあったけれど、あまりにも苛烈な彼女が、恐ろしくないわけではなかった。
簡単に腕を切り落とし、首の皮を切れる覚悟を持っている女。
こんな恐ろしい女も、法の上では人の妻らしい。
「なあ」
自分の分はティーバックの紅茶らしい澪が、砂糖を入れて回しているのを見ながら、本当に、言いたかったことを口にする。
胃の中のものが逆流しそうだった。
でも、どうしても、いつか聞きたかったことだった。
「明神は、オレのことを、なんて言ってた?」
目を瞬かせた澪が、初めてかわいらしく見えた。
「突然、なにを」
「オレ、わからないんだ」
「なにが」
「アイツに、明神に、どう思われていたのか」
「は?」
今度は、多少の怒りと、呆れを含んだ棘のあるものだった。
「お前、一体、どこまでバカなんだ……?」
「バカなことぐらいわかってるよ」
すでに冷めかけたコーヒーは不味い。カップを戻した手は震えていなかっただろうか。
「今でも、わからない。
どうして、明神は、ああまでして、オレを救ってくれたのか。
わからないんだ」
そう。わからない。
どうしてなのか聞きたい相手はもういない。
あの場所が残っている限り、なんとなく、明神の魂はこの世にもう存在しないというのに、安心したつもりになっていたけれど、別にあそこに出向くことなんてハセとの戦い以来一度もなかった。行くことが出来なかったというほうが正しいけど。
なくなってしまったら、あの明神との出来事も、無くなってしまうような気がした。
あの日、あそこで言われたことも、起きたことも全部。
戦う理由も、言えなかった名前も、伝えたかった言葉も、教えてもらえなかった思いも。
無くなってしまうような気がしたのだ。
そうしたら、今度こそ、なにもわからないままで、終わってしまう気がして、怖くなった。
二度と、知ることが出来なくなる。
今度こそ、本当に。
「最終兵器」
そういって彼女はニタリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「な、なんだって?」
「明神が言ってたお前の評価だよ」
「最終……兵器?」
よくわからない。ますますわからない。
「まだ雪乃さんがさらわれたままで、奪還作戦も控え、パラノイドサーカスとの全面戦争が行われる前だ。情勢は案内屋側の圧倒的不利だった」
「はあ」
「その直前明神は、ゴウメイとの戦いで全治三か月の大怪我を負ってな。それから考えが変わったようだったよ」
「どんなふうに?」
「最前線は、自分じゃないと思ったんだろうな」
「アイツが?」
「そう、アイツが」
信じられない。あんなに強いのに。
あんぐりと口を開けた明神の口に澪はサッとクッキーを放り込んだ。
この夫婦は隙あらば人の口にものを詰め込むのが好きなようだ。仕方なしにモグモグと租借しながら話の続きを聞く。
「そこで、どこでも聞きつけてきたんだか知らんが弟子を拾ってきたんだ。将来有望っていうのを自分で見つけてきてな。
大層なかわいがりようだったよ」
「え、弟子? 明神に!?」
そんなの、知らない。
オレ以外に、そんなすごい奴がいたのか?
有望って、どんだけだ。
それに、かわいがっていたって、どういうことだ。
パニックになる明神を、澪はにらみつけるように話していた表情を打ち切って大声で笑いだした。
「お前、本当にバカだなぁ」
「は、なんだよ、そりゃビックリするだろ。そんな奴、聞いたことないぞ。
弟子って、オレたち四人だけじゃなかったのかよ」
「壊神の弟子もいたら五人だな」
「そうじゃなくて」
そして、呆れたようにため息をついた。
「バカ。お前のことだろ」
「は?」
「将来有望、コイツは将来誰よりも強くなる。俺が育てるって他の師匠たちの意見も聞かずに勝手に独断で決めて前線から退いだ。
本調子でなかったのは事実だったから、師匠たちもよけいな口を挟むまいとしたんだろうがな。
それに、実際、明神の霊力は誰よりも弱かった。
お前のその姿を見るまでは、誰も明神の言葉は信じられなかっただろうけど」
「……それが、どうして、最終兵器になるんだよ」
「さあ。それくらい自分で考えろよ、冬悟。
アイツが、お前に残したのは、その技術と思い出だけじゃない。
アイツに託された思いを、お前は知らないうちに引き継いで成し遂げたこともたくさんある。
でも、それでも、自覚しないと意味がないことも、たくさんあると思うよ。
私は、な」
アイツも、人の子だったんだ。
そう小さく呟く澪の言葉の意味を、冬悟は理解出来なかった。
***
「明神さん?」
「ええ、どんな人でした?」
帰り路、買い物中の雪乃と出会った。一緒にスーパーに寄り、夕方ともなるとすでに薄暗い。
今日は姫乃はアルバイトだったか。
「とても面白い人だったわ」
「ああ、まあ、そうですよね」
「冬悟さんも面白いけどね。まだまだ余裕が足りないわね」
「はあ、精進します」
「でも、明神さんも、きっと余裕なんて、なかったんでしょうね」
「え」
「男の人って、ほんと不思議ね。
つらいときこそ、こっちにも愚痴の一つもこぼしてくれてもいいと思うんだけど、絶対言わないのよね。
いっつも笑って、余裕綽々なんて雰囲気をより一層出してくるの。
それでこっちはわかるんだけど、でもバレてるってことはわかってないって思ってるのよ。
バカみたい」
「はあ」
そういう彼女は、とても懐かしい思い出を語るように、遠くを見ていた。次の角を曲がれば、うたかた荘も見える。
「そういうところ、本当に、冬悟さんはお師匠さんに、そっくりよ」
「は、いえ、そんな」
「嘘をつくのが下手なのも、カッコつけようとしてあんまり決まらないのも、本当に大事な時に大事な人に向かってなに一つとして伝える気概がないところも、そっくり」
「……すみません」
「あら、わかっているのならいいわ」
「大事な人って、あの、アイツの、誰か知ってるんですか?」
自分の師匠のことだというのに、冬悟は、なにも知らなかった。
改めて思い返しても、一緒にいたのは三年にも満たない短い期間。
濃厚な時間だったとは思う。
寝食を共にして、怒るのも笑うのも悲しむのも喜ぶのも一緒だった。その全てを共有したと断言出来る。
人としての心の在り方を全部教えてくれたのはアイツだ。
アイツには、オレのことなんて、全部わかっていただろうに、オレはアイツのことをなにも知らない。
今更、それが、ぽっかりと空いた胸の空洞に風を強く吹かせた。
今更、だというのに。
その穴が開いている間は、ずっと、誰もそこには入れない気がして。
明神という思い出で、どうにか、この穴を埋めたかった。
「少しおバカさんなところもそっくりよね」
「はい?」
「あなたのことに、決まってるでしょう?
もう少し、自分とお師匠さんの関係に、自惚れてもいいんじゃないのかしら。
部屋は汚いけど、お仏壇はちゃんと掃除してるしね」
気づいたときには、うたかた荘まであと少しの距離だった。
***
「ああ、アイツ面白い奴だよな」
「みんな同じこというな」
返事をすると同時に稲光が体中に飛び散った。肌の出ていた部分から焼けた匂いが鼻に突く。身体中に瞬時に剄を張り巡らせることでダメージは最小限に抑えられただろう。多少のやけどならいくらでも治せる。
「お、耐えたか。
最近ますます頑丈になったんじゃないか?」
「お蔭さまで、雷だけは耐性が出来てきたんだよ」
そう言いながら右足を大きく踏み込んだ。
ゴウメイのトバリで、組手を暇つぶしにやるのはもはや日常的になっていた。
ただ暴れたいゴウメイにとって、かつての空の案内屋の面影を残す冬悟はいい遊び相手だ。
キヨイはトバリの中でなら冬悟とぶつかり合うことも許してくれているし、不満はない。
冬悟にとっても、今後なにがあるかわからない中でいい訓練だった。
最終的にはどっちが勝った負けたと口喧嘩で終わるものの、眠たくなったら自然とお終いになる。
今日は、珍しく腕だけでなく、口も動いているのがいつもと違う点だった。
「すごい奴だったぜ。
俺の反応を次から次へと読んでくる。お前さんと逆だな、逆。
アイツは理性の塊だった。
お前は本能の鬼だ。
なにも考えずに突っ込んでくるから避けきれないことがある」
「なにも考えてないわけじゃねーっつーの!」
「でも」
あ、と思った時には遅かった。
その大きな図体に反して雷そのものの素早さを持っているゴウメイの右腕が横殴りに冬悟を吹き飛ばした。
なんとか受け身を取ったものの、背骨に嫌な痛みがあった。
「そうやって考えてる時の動きは師匠の半分にも及ばないな」
いまだにか。
いまだに、自分はあの男を追い抜くことが出来ないというのか。
「ちぇっ」
正直に悔しかった。切れた口内の血をプッと吐き出して今日はもう終わりだ、と告げた。
「それがいい。今日のお前は迷いがあって面白くない。
いつもみたいにがむしゃらに向かってくるほうが弾丸みたいで手強い」
「バカにしてんだろ。
クソ、今日はいろんな人にバカにされるな」
「いつものことだろ」
「んだと!」
それそれ、と小さく当てる気のなかったパンチが上腕に当たると、ゴウメイは笑った。
「アイツは身体と脳、というか霊力が釣り合ってなかった。
思った時に動いても遅いんだろうな。俺たちは全部霊だからわからんが。
アイツは、きっと、もどかしかっただろうよ」
「もどかしい」
「お前みたいに、思ったように、身体を動かせるのは、すごいことだ」
器と、魂が、釣り合っているからだ。
いつだかに言われたその言葉を噛み締めた。
戦いの天賦の才能に恵まれていながら、圧倒的に足りない霊力を、ただ己の努力と経験という才能によって補って戦い続けた男。
そんな奴から見て、オレみたいなやつは、どんな風に見えていたんだろう。
「お前を見ていると、アイツのすごさがよくわかる」
「うるせー。悪かったな、どうせアイツの劣化版だよ、オレは」
「なにを怒ってるんだ。
人間は師を褒められたら喜ぶものじゃないのか。あの人間の子どもは、ハンマーを持った奴を褒めるとよくわからんが喜ぶぞ」
「ああ、そりゃまあ、悪い気はしねーけど」
「お前の動きは劣化じゃない。
アイツの動きを、重複しているが、独自のものだ。
基礎がアイツの動きだというだけだ。
でも、土台が悪けりゃ、そりゃ上に城もたたん。
いい師匠でよかったな。
その力も、無駄な使い道してたら意味なんてないってことよ」
俺様の雷を受けて生きている人間なんて、お前とお前の師匠くらいよ。
そう豪快に笑って、トバリが解かれた。
***
いつぶりだろうか。この山道を歩くのは。
草を踏みしめる感覚。足元から逃げ出していく妖気。ざわざわと耳元をつっついている精霊たちの囁きがくすぐったい。時折、足にコートが絡みついて転びそうになるのを、誰に見られているわけでもないのに取り繕いながら気が付くと急いている足の動きをわざとゆっくりとするように意識する。
高いところに月があるので、明かりをつけなくとも夜目の利く自分の目ではクッキリと見える。
胸がだんだん早く振動している気がする。
喉が渇いていて、息苦しさを感じた。
自分の運命を変えた出会いと、別れ。
その両方はあの男だ。
昨日の昼に聞いたじいさんの言葉がずっとリフレインしている。
(親子のようで、兄弟のようで、師弟だった)
(お前がアイツに支えられたように、アイツも、お前に支えられて、いたんだよ)
そんなことがあるのだろうか。俄かには信じがたい。
そんなオレの表情の意味がわかったのか、そう教えてくれたじいさんのほうが、すがるように、オレを見ていた。
まるで、彼自身が、明神になりきってしまったように。
あの時掴まれた腕の感触が今でもくっきりと残っている。痛くもないし、痕もないのに、いやにハッキリと、感触だけが。
今もまだ過去に囚われているのは、自分だけではないのだと思った。
夕方痛めた背骨の痛みよりも、なんの痛みもないはずなのに、ジンジンとしていた。
立ち入り禁止と書かれた札とポールと張り巡らされた金網を軽々と抜けて、さらに奥へと登り詰める。
もう朝晩はすっかり寒さが身にまとうようになったというのに、熱くてたまらない。体中から汗が出ている。苦しい。つらい。悲しい。
そんな気持ちで支配されている。
長い間、自分の間違いを受け入れられなくて、苦しかった。
でも、うたかた荘の住人たちは、自分を受け入れてくれた。
「明神」ではない、「明神冬悟」を。
そのことだけで、もうこれから先、なにがあっても生きていけるだけの勇気をもらったと思う。
だから、ここにももう一度足を踏み出せる。
あの時と同じ足取りだ。
あの時、師匠に伝えた言葉に嘘はない。
「ありがとう」
たった一言。
あの時は、それが限界だった。
そして、師匠の教えは、今も右腕に刻まれている。
でも、それだけじゃ、足りない。
オレはアンタがいなきゃ生きられなかった。
アンタは、オレがいなくても、生きられたんじゃないのか。
なあ、アンタは、オレを、必要としてくれていたの?
もう行ってもなにもないとわかっているけれど、どうしても確かめたかった。
「戦え」と言われた言葉を胸に、今でも戦い続ける覚悟が出来ている。
でも、誰と、なにと、戦うのか。
わからなくなってしまった。
自分の人生は今、煮詰まっている。
せめて、幻でいい。
アンタにとって、オレは、なんだったんだ。
なあ、明神。教えてくれ。
そしてまた、ビンタでもして、バカだとののしってくれ。
もう何年も感じていなかった瞳にこみ上げるものを飲み込んで、冬悟は、最後の一歩を踏み出した。
あの後、十味と一緒に、泣きながら血を洗い流した外れの坑道に。
*
記憶よりも、その空洞はずいぶんと狭かった。
自分の背丈が伸びたのだと一瞬気づかなかった。場所を間違えたのかと思ったくらいだ。
ああ、本当に、オレはバカだ。
アンタの好意に甘えて、その意味を深く考えることもしなかった。
アンタもただの一人の人間だったことに気付きもしなかった。
大バカ者だ。笑ってくれ。いつもみたいに、頭引っ叩いて、オレのこと呆れたように「バカだな」「仕方ねえな」って笑ってくれ。
そうしたら、オレ、どんなつらいことでも乗り越えてみせるよ。
アイツが最後に座った場所に同じように座り込んで、小さく自嘲した。
もうあの時に流し尽くしたはずの涙がまだ零れた。
嘘だ。
そんなことありえない。
幻なんかも出てきやしない。オレに笑いかけることもないし、引っ叩かれることだってない。
もうアンタは死んだんだ。
そう、明神は、完全無欠なヒーローなんかじゃなかったから。
失敗とか、間違いとか、しないとか、死んだりなんてしないなんて、そんなバカなことを信じきっていた。人ではないかのように崇めていた。かっこよかった。誰よりも、なによりも。
あんな風に、なりたかった。
でも、明神も、オレと同じだったんだと、ようやく、今頃になって思い知らされた。
色々な人の中の明神勇一郎という男の姿は、ただの「人間」だった。
今更だ。遅すぎた。
あの男は、神なんかではなかった。不死身のヒーローでもなかった。
ごめんな。オレが、バカだったばっかりに、いつまでも、気づかなくって。
自分の力不足に苦しんだり、見栄を張ったり、戦いの中で自らの肉体のコントロールに悩む姿なんて、考えたこともなかった。
明神も、そうだったのか。オレと同じように、悩んで、苦しんで、そして、オレに接してくれていたのか。
オレには全然そんなことわからせなかった。
いや、オレがただ子どもで、自分のこと以外見えてなかっただけだ。
本当に子どもだったんだとしみじみ思う。自分自身が情けない。
でも、そんなオレを、最後まで、見捨てることをアイツはしなかった。
どれだけ悔やんでも、悲しんでも、一生分の涙を使い果たしたと思ったのに、悲しいことも悔しいことも涙も今でも出てくる。
あれが最後でなかったことがつらい。
アイツはオレに全部を懸けてくれたのに、アイツよりも大事な人やものが出来ることが苦しかった。生きていることで、アイツの影が薄くなってしまうことが苦しかった。
アイツという存在を、オレだけでも残して、留めておかなくてはいけないんだと信じていた。
でも、決着を着けにいかなければとも、思っていた。
わかっていたのだ。
なにも、わかっていないことが。
「思い出」なんて、クソくらえ、と思っていた。
アイツと出会うまでは。
その思い出に胸を締め上げられて、窒息しそうになった日々も確かにある。
でも、アイツとの出会いが、別れが、オレを変え、そして今がある。
兵器でもよかった。
ただの人間だった明神からしたら、オレの能力なんてそりゃあ兵器にもなっただろう。力を持て余してその全てを使いこなせていなければ「最終兵器」になんてならないのだけど。そしてそんなものに、結局なれなくて、申し訳すら募るけれど。
兵器で、良かった。
湟神に言われた瞬間、なにを言われたのかわからなかった。
でも、自分で考えろと言われて、ずっとずっと考えていた。
今度こそ、深淵を見つめながら、この深い山を登りながら、兵器とはなんだったのか、ずっとずっと考えていた。
自分に求められていたこと。
アイツがオレに求めていたこと。
ただ兵器のように戦うこと。
最初はそう思った。
でも、そうするとなにもかもが辻褄が合わない。噛み合わなくなるのだ。
バカな師弟は、どれだけ言葉が足りなかったのだろうか。雪乃さんの言う通りだ。自分たちは似た者師弟なんだろう。
ただの、「兵器」ではなかったんだろう。
兵器なら、人の心なんて、いらなかったのに。
人の心なんて、知らないほうが、ずっとずっと生きやすかった。
アイツが教えてくれたこの心の動きのほうが、ずっとずっといらなかった。
こんなものが無ければ、オレは独りで生きていくことが出来たはずだ。
寂しいとか、苦しいとか、思うこともなく、なにも感じずに、ただ、時間をやり過ごして魂が消滅する時を待つだけだ。肉体さえ壊れてしまえば簡単だった。朽ちていく時を待つだけのほうが良かったと思ったことは何度でもある。
よっぽど、そっちのほうが簡単だ。
でも、明神はオレに「心」を教えた。
ただの兵器に、そんなもの、要らないのに。
兵器になりたかったのは、明神だったのだろう。
なにも感じずに、戦いの中で、生きたかったのだろう。
戦って、心すらも捨ててでも、救いたいものがあったんだろう。
でも、それをするだけの「魂」が足りなかったんだろう。
心のある兵器なんて、ありえない。
本当は、「兵器」にしたかったんだろう。それは事実かもしれないし、真実かもしれない。
でも、じいさんの言葉を今この場で受け止めるなら、全てが繋がる気がした。
アイツといることでオレは変われた。同じように、アイツもまた、オレがいたために、「兵器」から「人間」になったのだとしたら。
そんなことがありえたのだとしたら。自分の代わりに兵器にしようと思っていたのに、情が移ったのだとしたら。
オレの存在そのものが、アイツになにか、影響を与えたのだとしたら。
膝を抱えて、両手の先を握りしめて、のどが鳴って、今度は一筋だけじゃなくて、大粒の涙があふれてきた。
そうだ。
アンタが、オレのせいで変わったのなら、それは「人間」になったということなのだ。
オレを「人間」に作り直してくれたのはアンタで、オレもアンタにそんなことが出来たのなら、それだけでオレが生まれてきた意味は十分にある。
アンタに救われた命の価値は、そこにある。
でも、それだけじゃない。
アンタを失った頃には一度も思えなかった言葉。
でも、アンタに伝えなくちゃと思って今日ここまで引っ張ってきた思い。
届かないことはわかっていたけれど、絞り出すような声音で、それでも空洞に響かせた。
この魂の言葉を。
「オレ、生きたいよ」
アンタがいないこの世界でも。
生きなくては、ならない。
生きていたい。
生きる。どうして、こんな簡単な三文字の言葉を伝えられなかったんだろう。
もうアンタに甘えないで、オレは一人で、いや、仲間たちと一緒に乗り越えていく。
そうすることがオレの一番の恩返しなんだろう。
アンタと一緒にいた時には、思わなかったことを、あの子と一緒にいると思うんだ。
アンタの隣に、いつかオレはいないんだってずっと思ってた。まさか逆になるとは思っていなかったけど。
でも姫乃とは、これからがある。
彼女との生活が、戦いがオレを変えた。
同じ力を持つ仲間も出来た。
自分が変化することが怖かった昔。
いつの間にか変わってしまった日々。
最初にオレを変えてくれたアンタ。
彼女との出会いから、オレから変わりたい、変わっていかなくては、と自分を奮い立たせた経験は、オレを成長させた。
彼女の存在は、いつからか、とても大きいものになっていた。
それが、アンタとじゃなかった。アンタとではなかった。
その事実を認めることが、怖かった。イヤだった。
アンタから全部をもらって、アンタから全てを奪って、そうして生き延びたオレは、アンタじゃない人と一緒に生きようとしている。そんな自分が、意地汚いようで、醜いようで、みっともなくて、悲しくて、アンタのために死ねなかったことが、悔しかった。
でも、アンタとの生活は、もう存在しない。
オレの中には、確かに存在していたのに。本当は、もう、ずっと前に、なくなってしまっていた。
オレの中にいるアンタは、すでに抜け殻で、偽りのヒーローのままだった。
アンタを、「人間」にしてやらなければ。
そして、これから、オレは、一人で、人間になる。
でも、「これから」を一緒に考える人がいる。人たちがいる。人だけじゃない、それだけじゃない、仲間がいる。
アンタの時には思えなかった。
果たせなかった「一緒に生きたい」という想いを、繋げていける。
この想いは、ただの「好き」なんかじゃない。
ようやくわかった。
そう、この気持ちだ。
考えるだけで、胸が暖かくなる。穏やかな凪のような心になる。
アンタが、教えてくれたんだ。
一緒に、色々なことを見て、経験して、ずっとそばに居たい。
支えて、守るだけじゃ足りない。
その隣に、オレが居たい。
ようやくアンタにどう思われてたかちゃんとわかった気がするよ。
なあ、自惚れても、いいんだろう?
オレは、アンタに、愛されてたんだよな?
ありがとう。
オレを愛してくれて。
おかげで、オレもようやく人を愛せるような気がするんだ。
--行け、冬悟。
--お前の、感じるままに。
幻の声に押し出されて、オレは、ここをもう二度と訪れなかった。
***
「冬悟」
明け方、腫れ上がった目を公園の水道で洗ってからうたかた荘に戻ろうとして玄関の前に人がいるのに気付いた。
向こうも気配で振り向く。
「ジジイはやっぱり朝がはえーな」
「余計なお世話じゃ。不規則な生活をしてるんだから、いつ来たって変わらんだろ」
十味が憎まれ口をたたく冬悟の顔をみて、ふっと口元を緩ませた。
昨夜から姿が見えないことを誰か住人にでも聞いたのだろう。居ても立っても居られないから出てきたとばかりの時間に出会ってしまって、少し気まずそうでもあった。
「……行ってきたのか」
「まあ」
「最後の挨拶は出来たか」
「うん」
お互いの足元を見つめて、黙り込んでしまう。
「なあ」
「おお」
冬悟は、ようやく、という顔で十味の顔を見つめた。
年を取ったと思う。
自分が知っている時からジジイだとは思うけれど、時間は確実に彼の身体に皺を刻み、小さくしていると思う。
本当は、師もこんなふうに年を経ていたはずだとも思った。
「アンタは、知ってたんだよな」
「なにを」
「明神が、オレを、愛してくれていたこと」
息を飲んで、十味が冬悟の顔を見上げた。
昔は同じくらいだったのに、成長期の子どもはぐんぐん伸びてあっという間に十味の衰えていくだけの肉体と違って著しい成長を見せた。師匠ほどの体格にはなっていないけれど、まだ彼の身体は変化出来る。いまだに日々変化している。
精悍になった顔つきは、それでもかつての怯えるだけの子どもの瞳の欠片があった。
いつだって、それを取り除いてやりたいと願ったけれど、それをするのは自分の役割ではないとも知っていた。
その瞳が、十味を深く深く見ていた。
「そうだな」
観念したようにつぶやく。
いつか気付いてくれたらいいと思っていた。
明神が冬悟を恨むはずもない。
愛していたから、彼のために、その魂を奪われることも厭わなかったのだから。
それを知らないのは冬悟だけだった。
「そうか」
「わかったんだな」
「うん、時間が、ずいぶん経っちまったけど」
「そうか」
「うん」
「よかったなぁ」
思わず目頭を押さえた。
「ははは、年を取ると、涙脆くていかん」
「じいさん」
冬悟の声は、すでに大人のものだ。
当たり前だ。もう二十台も半ばを越えた。出会って二桁は越えた。
子どもじゃない。守る、守られるの関係も切り替わっている。
立派な大人になったじゃないか。
その大人になった手が肩に優しく置かれた。すべての支えようと伸ばされる手をはねのけて独りで戦おうとした少年の手は、誰かを支えるために伸ばす手になった。師匠の教えは立派に受け継がれている。それが、また、身に染みた。自分にまで伸ばされるとは、思ったことなかった。
「アンタも、そうだったんだな」
その言葉に、目を見開いた。じわりとした涙が皺を伝う。
「オレと、明神を、愛してくれて、ありがとう」
少しだけ照れくさそうに言うその声に、嗚咽が漏れた。
息子と孫のような、二人が、不憫でならなかった。
なのに、ただ知人というだけで、人とは違う二人に伸ばす手も言葉も持たなかった。
別にこんな言葉を望んでいたわけじゃない。
それでも、ようやく、明神勇一郎が報われた気がした。
その魂に、届くことがないと、知っていたけれど。
自分じゃなくて、あの男が、ようやく、報われたんだと思ったら、年甲斐もなく、涙が溢れた。
座り込んだ老人の背を、黒いコートの男がさする。
冬悟は、いつかこの光景が、繰り返しているのかもしれないと思った。
師と老人の関係がどれほどだったのか、よく知らない。
そう知らないことに変わりはない。
けれど、師と老人が自分に向けてくれた眼差しが同じであったこと、そして、それは、自分だけに向けられたものではなかったことがわかった。
愛とは、色々なところに潜んでいて、いつでもそばにあった。
気付いたら、愛に包まれていたんだと、今更わかった。
「まあ、朝飯でも一緒に食ってけよ」
そして、また、自分の知らないあの男の話を聞かせてくれないか。
オレたちが、愛した、あの男の話を。
***
ずいぶん寒くなってきたな、と思って暖かいもので飲もうと台所に向かった。
昨日帰ってきてから明神を見ていない。今朝がたには帰ってきたようで、朝食の時に十味がいたことに首を傾げたが、人数が多い分には賑やかなので誰も気にしていなかった。
明神はずいぶんと重そうな瞼をしていたし、今日も日中ほとんど寝ていたようだったので、昨夜も仕事に行っていたのだろう。
一階に降りるとまっすぐ玄関が見える。玄関の横には管理人室があるが、ヒメノが降りてくると軋む音を立てて管理人室の扉が開いた。
「お、ちょうどいい」
「明神さん、よく眠れた?」
「ん? ああ、ぐっすりだよ。昨日は徹夜だったからね」
「ふうん、どこ行ってたの」
「内緒」
「そう」
行先も、仕事の内容もいつも教えてくれないので、そんなものだ。
「なにがちょうどいいの?」
「コンビニ行こうと思って。一緒に行くかい?」
「行く!」
無縁断世の力が現れてからは、基本的に一人での外出は禁じられていた。それだけでなくとも、大学生になると母から夜には明神同行でないとコンビニに行くのも禁止だった。霊たちでは意味がないという。対人間対策としての結果だったが、なかなか全面的に受け入れろと言われても簡単には頷けない。
珍しくも親子ケンカになったが、結局はヒメノが折れて現在に至っている。
実際に、夜中に出かける用事があるかと言ったら、特にないのだ。
気が向いてアイスが食べたくなったり、コーラが飲みたくなったりするくらいで。
制限されて困ったことなどなにもなかった。
だが、こうして時折明神のほうが気を使ってくれるのか、ヒメノをコンビニに誘い出してくれる。
去年、想いを伝えてからは、その回数が減った気がしていたが、たまに誘われるとうれしいものだ。
「なに買いに行くの?」
上着を取って来ようと、再び階段に片足をかけたところで明神を振り返ると、靴を履いていたところだった。
「発泡酒」
「こんな夜中に飲むの?」
飲みすぎないでね、というと、小さくシラフで言えたらなぁなんて聞こえたけど、なんのことだかわからなかったが、自分の足音でその後の声は聞こえなかった。
*
歩いて10分もかからないコンビニに、10分くらいの時間をかけてゆっくりとたどり着く。
明神は宣言通り発泡酒を選別していたが、最終的に珍しくスミノフを買っていた。
ヒメノはプリンを選ぶ。飲み物はミルクティーでも淹れようと思った。
会計はよくあることだが、明神が一緒にしてくれた。自然としたその仕草がカップルのようで気恥ずかしい。まだ日付が変わる前だが、こんな時間に一緒に出歩くことが特別感があってヒメノの心をふわふわとさせる。よく、明神が酒を飲むと「ふわふわする」というし、実際ふわふわした言動がいつもよりも増えるけれど、彼と一緒にいるだけでもう地に足がついていない。酒なんて飲まなくても、いいのだ。安上がりな女に成長したものだと思う。
高校生だったころは、寒いというと、身体を寄せてくれたし、手を握ってくれたりしてくれたこともあった。
けれど、当たり前だが、こちらの好意を伝えてからは、ほとんど無くなった。
それがさみしいようで、でも、きちんとこちらを意識してくれている結果なのだと思うと、我慢が出来た。
この一年、彼に釣り合うように大人っぽくなろうと努力していたが、彼は気付いているのだろうか。
今は部屋着のパーカーに慌てて履き替えたスキニージーンズと軽いと評判だから買った薄いダウンで、色気もなにもないけれど、彼のほうはいつも通りの黒のコートだ。今朝見たときは腫れぼったかった瞼は、少しスッキリとして彼の精悍な顔つきを少しよく見せている。白い髪だけでなく、白い肌も不健康に見えなくもないけど、あちこちに見える傷が、男らしさを増しているように思っている。
なにもかもが、ヒメノの惚れた弱みなのだ。あばたもえくぼとよく言ったものだ。
「眠い?」
「ううん、まだそんなに」
一緒に出掛けることが久しぶりだし、彼からの誘いだし、浮かれて階下に来たときはあった眠気は飛んでいた。
「ちょっと、寄り道していこうか」
胸が高鳴る。
この人は、何度同じ手段を使うのだろうか。不器用が服を着て歩いているようなものだ。
返事をしてないのに、手を握られて、大人しく引っ張られていった。
行先はいつも通りの公園だ。よっぽどこの公園が好きらしい。
これまたいつものようにちょっと待ってて、と言われてベンチに座らされると自販機でココアの缶を買ってくれた。
隣に座った明神は、スミノフをほとんど一気に煽る。
呆気に取られてじっと見つめた。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫」
元々分量が少ないからすぐに空になったそれを、ふらっと歩いてゴミ箱に入れる。
あー、とか、うー、とか、ヒメノをチラチラと見ては、顔をそらして、結局また隣に座った。
「あのさ」
「はあ」
「ひめのんに、話したいことがあって」
「でしょうね」
「うん」
再び、沈黙。
頭を抱えている明神を見て、ヒメノは、ようやくココアを開けた。
「あの」
大きく、息を吸いなおして、明神が、ヒメノを見た。
なにを、言われてしまうのだろう。
この一年、なにも進まなかった。
確かに待つといったのは自分だ。
でも、少し離れてしまった距離をさみしく思ったのも事実で、彼がなにを考えているのか、あの戦いの頃のほうがよっぽどよくわかっていたように思う。
その真剣なまなざしが出した答えを知ることが怖くて、今度は、ヒメノが顔を逸らした。なんの面白みもないココアのプルタブだけを見た。
「君が好きだ」
思わず、ココアを落とした。まだ半分も飲んでいない。いや、一口だけだ。
足と足の間に落ちて、スニーカーにはかからなかったけれど、土の足元はココアでより一層黒く染まっていく。
じんわりとした熱が耳元から頬にかけて広がったのに気付いて、ヒメノはようやく明神を見た。
「え?」
「その、聞いてほしい。
今更だと思うけど」
「聞く。聞くから、話して」
「その」
「うん」
白い顔をアルコールのせいか赤くした明神が、視線を彷徨わせて、再びヒメノを見た。
憧れた、強い男の顔ではない。幼さの残る、少年のような瞳で。そんな顔も大好きだと思った。
「ヒメノ、君が好きだ」
「守るだけじゃ、足りないんだ。
君の一番近くにいて、隣で、一緒に、生きていきたい。
オレは、戦うことしか出来ないけれど、それが、オレの精一杯なんだ。
なにも出来ないけど、君を、好きだと思うことを、許して、ほしい」
一体、彼の中で、なにが起きたというのだろうか。
今言われたことの、彼は自分が言ったことの意味を、わかっているのだろうか。
それは、告白ではなくて、プロポーズではないのか!
なにも言えないヒメノに、明神は、詰めていた息をこぼして、小さい声で問いかけた。
「ダメ?」
「ダメじゃない!」
一声叫ぶと、ヒメノは明神に抱き着いた。
明神の身体がこわばったのがわかる。思わず笑いがこぼれてしまう。
明神の首元にヒメノの細い腕が巻き付いた頃、ようやくぎこちない動きの男の腕がヒメノの背中に触れるか触れないかくらいの力で回された。
「……よかった」
一体、どちらが先に言ったと思っているのか、ヒメノがどれほどヤキモキしながら彼の言動を見ていたと思っているのか、怒鳴りつけてやっても誰からも文句は出まいと思ったけれど、ヒメノはただ滲む目元を彼のコートに押し付けた。
本当に、良かったと思って明神の身体が脱力したのがわかって、また思わず笑ってしまったら、まだ爆弾が残っていた。
「君を、愛してる」
もう降参だ。