【始春】つなぐ手 何かがあったのだ。
朝、共有ルームに出てきた始の顔を見た瞬間に春は悟る。
「はよ」
起き抜けとわかる掠れた声におはようと返したが、春と視線を合わせる時間はいつもより短かった。
「おはようございます!」
「おはようございまーす」
他の四人と交わす挨拶に変わりはないけれど、何かが違うと春の勘は告げる。始とのつきあいはそれなりに長くなったし、誰よりも深い関係にあるという自負はあっても今の違和感を言語化するのは難しい。
いつもより伏せがちな視線だとか、コーヒーの入ったマグカップを掴む指先の角度だとか、わずかに丸い背中だとか。いっそ不調とすら言ってもいいほどの何か。
単なる気のせい、思い違い、あるいは春自身の精神状態に左右された結果、そういうものであればいいと思えば思うほど春の中で疑念は深まっていく。
徹夜もせず、睡眠時間も確保でき、追い込まれるほど負荷の高い仕事はここしばらくなかった春が、正常に判断できないわけがない。
まずはじめに己を疑ってはみるものの、それでも始に感じる『いつもと違う』は六人全員での食事とミーティングを終えても消えることはなかった。
「おはよう」
上の階から隼が降りてくる。
「おはよう。今朝はちゃんと起きたんだね」
「もちろんさ!」
働きたくないを公言している今朝の魔王様はご機嫌だ。なにしろ今日の最初の仕事は始と一緒なので。
「はよ」
支度を終えて共有ルームのソファに座っていた始が気だるそうに答える。そして春の抱いた違和感は確信へと変わった。
始を見つめる隼の表情がいつもよりも柔らかかったからだ。
そうか、と春は声に出さずにひとりごちる。
昨日、始に何かが起きた。仕事のことかもしれないし、別のことかもしれない。それは春にはわからない。
そして遅くに帰宅した始を隼が出迎えてくれていたのだろう。
隼と始の間でどんな会話があったのか、春は知らない。想像もできない。
けれど隼の存在が始を助けたのだろうと春は思う。だからこそ、今朝の始はあの程度の違和感で済んだのだ。
知らずこわばっていた肩から力が抜ける。
良かった。
真っ先にそう思った。必要なタイミングでちゃんと始に手を差し伸べる存在があったことに、なによりも安堵した。
何年か前だったら、春の反応は違っていただろう。
どうして俺が気づかなかったんだとか、始が帰ってくるまで共有ルームで待っているべきだったとか、帰宅前に連絡がなかったことを不審に思うべきだったとか、始が頼ってくれなかった己の不甲斐なさだとかで自分を責めていただろう。誰よりも始をわかっているのは自分で、自分だけが始を救えるのだという無自覚な傲慢さで。
けれど今は違う。
隼がいたことに、心底ほっとしている。始に何があったのかはわからなくても、昨夜の始がひとりでなくて本当に良かった。
春以外にも始の手をためらうことなく握ってくれる人達がいる。なんて幸せなんだろうと春は思う。
だから安心して春はいつも通り始に接することができる。
「いってきます」
朝から打合せがあるので春は先に寮を出る。いってらっしゃいと見送る始から違和感はかなり薄くなっていた。
うん、大丈夫。
始の状態を気にせず仕事をこなせるなと春は安心できた。
そしていくつかの仕事をこなして帰路につく途中、目に飛び込んできたのは優しい色をしたケーキ屋だった。以前、じゃんけんで勝って食べた味を思い出す。
「よし」
春の足は店舗へと向かう。
始はもう復調しているだろうけれど、春が始を甘やかしたかった。優しい食感のケーキと美味しい紅茶を淹れて、始をいたわりたい。
だけど表面上はいつも通りに。
隼にできることと、春にできることは違う。違うことが嬉しいと思う。何かがあっても話せる相手が始にはちゃんといる。始とつながっているたくさんの手がある幸せを噛み締めながら、春はケーキの入った袋を手に提げ寮へと戻った。