僕の恋人 まず最初に、頭痛。それから、乱れたシーツの感触。下肢の怠さと、空腹を訴える腹。あー、と長く低い掠れた声をどうにか吐き出して、未だ残っている気がする酒の匂いに顔を顰めた。
見覚えのないここは明らかにホテルだ。昨夜は一体どうしたんだったか。どうしても抜けられない研究発表会はそのまま飲み会に姿を変え、イデアにしては珍しく気心知れた研究者が何人かいたものだから、つい飲み過ぎてしまった。
その結果が、これだ。布団からはみ出す薄い水色の髪に触れてしまわないようにそろりそろりとベッドを抜け出し、続きになっているバスルームへと逃げ込む。身体のあちこちを確認して、洗面台に両手を着いて項垂れた。明らかに残る情事の痕跡。まさか行きずりの人間とこんなことになるとは思いもよらなかった。
人と接触するのは好きじゃない。セックスだって。学生の頃、あれだけ焦がれた人魚の子と以外はした事がなかった。ああ、どうしてかこんなタイミングで彼を思い出すなんて。そろりと顔を持ち上げて、映し出された血色の悪い顔に苦笑いをした。一晩の火遊びができるくらいに大人になったのか。なんて、左手で顔を覆ってくつりと肩を揺らした。
取り敢えず、シャワーだ。他人の痕跡なんて残しておきたくはない。酔っぱらいの勢いでならできたことも、醒めてしまったいまはもう無理だ。バスルームのドアに手をかけ、蛇口を捻った。
熱いお湯を被りながら考える。俯いて、髪を辿って落ちる水をただ見詰めていた。彼は、元気だろうか。イデアが卒業してから一度も会っていない。実家に帰ることが決まっていたイデアとしては、大事な彼を連れてあんな薄気味の悪い土地に帰るなんてことできるはずがなかった。それでも、別れを告げられなかったのはイデアの弱さであり、我儘だ。自然消滅と捉えてくれたならそれはそれでいい。けれど、別れを告げていない以上、イデアの中では未だ終わっていない恋だ。終わらせられなかったくせに、言い訳だけは一丁前だとシャワーに向かって顔を上げ、滲んだ目元を誤魔化す。
がちゃ、と音を聞いた気がして、驚いて振り向くと、水色の長い髪を左の肩に流した青年が入口に寄りかかってイデアを見ていた。髪と同じ瞳は、海を思わせる。
「ひどいですね、放って行くなんて」
「あ……て、言うか、昨夜の記憶がなくて」
「でしょうね。すごく酔ってましたから」
妖艶に笑んだ青年が躊躇うことなくバスルームへと入って来た。無論、全裸だ。イデアよりも幾分背の低い彼が僅かも目を逸らすことなく近付いてくるものだから、思わず後ずさる。やがてぺたりと背中が壁にぶつかって、逃げ場を失ったイデアは僅かに残っていた冷静な部分で彼を観察した。
色白で華奢だとはいえ、股間には象徴がついている、立派な男性だ。水色の髪は胸元まで、長い前髪ごと左に寄せ、そちらに少し首を傾げている。形のいい唇が微笑んで、海の瞳がじっとイデアを見詰めていた。
見覚えはない。正直、研究発表会にもいなかったはずだ。だとすると、一体どこで彼に出会って、一体何故こんな事になっているのか。足の先からじわじわと上がり来る違和感に恐怖を覚えた。
「あれ、嫌だな。警戒してるんですか?」
軽く笑った彼が丸で異形のそれに見えて、思わず喉を鳴らす。
「き、キミは……」
「昨夜、ずっと名前を呼んでいましたね。元恋人ですか? アズールさん、て」
心臓が裏側から殴られたような衝撃。この状況下でその名を聞くとは思わなかった。先刻思い出してしまったせいで咄嗟に瞼の裏に描かれた彼の顔はひどく明瞭で、謂れのない焦燥感に視界がぶれる。
「どうなんですか?」
少しつり目気味の彼が揶揄するように問う。お湯に打たれたまま、乾いた喉をどうにかこじ開けた。
「こ、い、人だよ……いまも、僕の、恋人……」
そう。だって、終わってない。終わらせてない。あの学園で出会って、初めての恋をぶつけ合って、初めて他人の熱に触れたあの恋を、イデアはまだ捨ててはいなかった。
「恋人がいるのに浮気ですか」
「ちが……き、キミには悪いことをしたけど、こんな事初めてで、」
意地悪く笑った彼が一歩を踏み出す。お金を取られるとかだろうか。暴力を振るうような人には見えないけれど。いや、何をされても文句を言える立場ではない。腕を伸ばせば届く距離までやって来た彼から逃げるように俯いてきつく目を閉じた。
「アズール以外と、寝るつもりなんてなかった」
「じゃあどうして」
呟くような声がシャワーで掻き消される。それでもどうにか拾い上げたその音は縋るようなそれだった。頬に手が触れる。指先が震えていて、恐る恐る目を開けた。
「どうして僕を置いていったんですか」
目にいっぱいの涙を溜めたその人は、ずっとずっと思い描いた、アズールだった。いつの間にか髪は銀色になり、口許にほくろがある。メガネをしていないのは、バスルームだからか。呆然とするイデアの目の前でするすると髪が縮んで、あの日離れたアズールより、少し大人になった姿がそこにあった。
「僕は貴方といたかったのに。貴方とならどこでだって生きていけたのに」
「アズール……」
「島に結界があるなんて聞いてなかった……場所すら曖昧に隠されて……仕方なく貴方が島を出るタイミングをずっとずっと待ってました」
「なんで……」
震える舌でどうにか紡いだそれがアズールの足元に転がって、拾い上げた青い眼がきっとイデアを睨みつける。
「なんで、だって? 貴方は僕を離さないと言ったでしょう! 僕とそんな約束をしておいてやすやすと逃げられると思うなよ……もう絶対に離してやりませんからね……!」
涙が止まった真っ赤な眼が更にきつくつり上がった。どうにか気丈に振舞っているのがわかる。曖昧なまま逃げ出したイデアに、未だにそんなに心を捧げてくれているなんて。そんな場合ではないとわかっていても、どうしたって嬉しさが溢れてしまってつい頬が緩む。それに気付いたアズールが更に表情を険しくさせた。
「聞いてるんですか!?」
「聞いてる。やっぱり僕にはキミしかいないんだ、ねえアズール、僕と一緒にいて」
「……絆されませんよ、昨夜は僕と知らずに寝たくせに」
「それは、」
そうなのだろうけれど。それでもどこか、見も知らない青年にアズールを感じていたんじゃないかと言ったら、更に怒らせてしまうだろうか。
「もうキミだけだよ」
「当たり前です」
「また僕と付き合ってくれるの?」
ふんと鼻を鳴らしてイデアを見上げたアズールの右手がぎゅっとイデアの頬を抓った。
「僕は一度も貴方と別れたと思っていません!」
だって、別れの言葉を言わずに離れて。数年間も音信不通で。曖昧なまま、逃げ出したのに。それでも未だ恋人だと思ってくれていた事に堪らなくなって、奪うように抱き締めた。触れ合った素肌の心地良さに目を閉じる。腕の中の感触を、二度と離してしまわないように。
漸く島から出て来たイデアを捕獲する作戦には自信があった。入島が許されていた彼の研究室仲間には手を回してあったし、泥酔したイデアを見付けた所までは順調だったのだ。けれど、いざ彼を目の前にするとなった時、突然怯んでしまった。
だって、ずっと音信不通だったのだから。本当に自分と別れたくて自然消滅を狙っていたのではないか。そしたらここで、姿を見せてしまっては本格的に嫌われてしまうんじゃないか。そう思って、アズールは魔法で姿を変えることを決断した。
姿を変えたあと介抱役の研究員からイデアを受け取り、予定通りホテルまで連れて行く。どうにかベッドにその体を投げるように横たわらせて、一息ついた時。ベッドサイドに座ったアズールの背後から、筋張った両手が伸びて来てそのまま抱き込まれた。
「ちょ、」
「アズール、おかえり。どこに行ってたの」
夢心地の物言いが、いまのアズールに向けられたことではないことはすぐにわかった。寝惚けているのだ。一体どんな夢を見ているのか分からないけれど。
「すきだよ」
囁かれたその言葉が、彼の夢の中の自分に告げられたそれであったとしても。優しい声音に胸がいっぱいになって、引きずり込むように抱き込まれるがまま、久方振りの体温に何度も溶かされた。