ワンライ「旅行」深夜の作業は好きだ。余計な邪魔が入らずに集中して自分のペースで事が進められるので、大体いつも売上の計上や経営企画は日付の変わったこの時間から始めることが多かった。さて今日も作業を始めようかとパソコンを開き、つい先月オープンしたばかりの5号店の売上を確認し始めた矢先、玄関での物音に気付く。無意識にカレンダーに目をやって鼻を鳴らした。
このマンションの部屋はアズールひとりの城である。全部で3本ある合鍵は万が一のためにリーチ兄弟(を代表してジェイド)と母に渡してあるけれど、ここへ越してから7年の間、一度も使われたことはなかった。
残りの一本を除いては。
パソコンに身体を向けたまま振り向きもせずに、近付いて来る足音を耳の端に留めつつ作業の手を進め、摺り足をするようなだらしのない歩き方のそれがアズールのいる部屋の入り口に辿り着いた頃合いを見計らって声を掛けた。
「事前に一言欲しいですって前も言いませんでした?」
「そうだっけ。来ちゃった」
「貴方からそんな、リア充さんのような台詞が出るとは」
脳を介さずに適当に返しながら売上表の紙を机の上に整え、ざっと目を通す。学園内にあるモストロ・ラウンジ1号店の売上は随分安定しているけれど、3号店の売上が最近奮わないのはスカラビアの土地柄と店の雰囲気が合っていないせいかも知れない。テコ入れが必要かと考えながら、口先だけの会話を続けた。
「お久し振りですねえ」
「そーだね」
ずるりと布ずれの音がしたのは恐らく、部屋の入り口に座り込んだせいだろうと思う。ひどく疲れた様子の彼に気遣う事もなく淡々と続けた。
「一年と二ヵ月ぶりですか?」
「いや、三ヵ月」
「今回はまあまあ長かったんですね」
「まあ……それなりに」
詰まらなさそうな声に少しだけ笑ってパソコンに表示させた表計算ソフトの数字をチェックして、背中で聞こえた溜息に肩を竦めた。
「落ち込んでるんですか?」
「まあ」
「珍しいですね」
「……キミの方はどうなの?」
膝を抱えているのだろうなと思ったのは、声がくぐもって床を這ったから。零した珈琲のように板の目を辿ってアズールの足元に届いた質問に首を傾げた。
「まあ、順調ですよ」
「どんな人?」
やや食い気味なその声にパソコンから手を離して漸く彼の方を振り向く。
あまり見慣れない深い紫のジャケットはきっと彼の好みではないのだろうと容易に想像がついたけれど、趣味ではないそれを身に着けてやってもいいと頑固なこの人に思わせた別れたばかりのイデアの元恋人に感心した。
イデアとは、学生時代から続く先輩と後輩で、それ以上でもそれ以下でもない。好きとか嫌いとか、恋とか愛とか、あの箱庭で一瞬そんな事に惑わされたこともあったけれど、結局互いにそういう事へは踏み込まなかった。踏み込めなかった。
卒業後、一人暮らしを始めたアズールの元へイデアがやって来るようになったのは決まって恋人と別れた時。最初にやって来た時に一緒に飲み明かしてやって、その時の勢いで渡した合鍵はこうして今も、彼が破局を迎える度にやって来るための必需品になっている。
「そうですねえ、実家がお金持ちです」
「へえ、じゃあ店の援助もしてもらえたりして?」
「そんな事したら後が面倒なのでしませんよ」
「利口だね」
「顔はいいけど頭は悪いので扱いやすいです」
イデアは変わらず仄かに光る蒼い髪を腰よりも長く伸ばしていて、それが床に零れて流れを作っていた。イスに腰かけたまま足を組み、肘置きに両肘を置いて指先を胸元で組んで床に座ったままの彼を見下ろせば、薄暗い廊下を背負った白磁の肌が自らの蒼に照らされる。蒼い唇がにいと持ち上がり、きいろの目が意地悪く歪んだ。
「そう、で、いつ別れるの?」
「今のところそんな予定はありませんが」
「馬鹿を相手するなんてキミらしくない。疲れたって顔に書いてあるよ」
「それは困りましたね。どうにか消さないと」
実際、いま交際している相手は5号店を開店するのに必要な人脈を持っていたからという一点のみであり、それ以外には何もなかった。店を開けてしまえばもうそれまでで、今現在、既に本人への愛情はアズールの中にはない。否、そもそも彼への愛情があったのかどうかすら定かではないのだ。それを、イデアは知った風に突き付けて来る。
のそりと立ち上がった彼は学園を出てから少し背が伸びて、残念ながら止まってしまったアズールの身長よりも十センチは高く、そんな風な体躯の両手を肘置きにずしりと置かれて上から覗き込まれると、丸でもう虫篭にでも捉えられてしまったようでただ彼を見上げるしかできなかった。
「小旅行は気が済んだ?」
「イデアさんこそ」
「僕はもう十分。キミさえよければそろそろ終わりにしよう。結局どうやったってキミのところに戻って来るのがもうよく分かったよ」
「だから落ち込んでたんですか?」
「誰といても最終的にキミがちらついてダメになる」
先輩と後輩。または親友であったのかも知れない関係を、壊してしまうのが怖いと言ったのはアズールの方。それなら一番近い他人でいようと提案したのはイデア。互い以外の他人と関わりを持ち、知見と世界を広げ、それでも互いしかないのであればその時は。
「だから、ねえ。僕と終わらない旅をしようよ」
「ふふ、案外気障なんですね」
初めて抱き締められた背中に腕を回し、ずっと近くにいたのに初めて触れた髪の感触に目を閉じた。すり寄せられた頬のぬくもりがじわりと伝って胸に届き、そこから全身に幸福が行き渡る。
「学生の頃から考えてたキミが好きそうなセリフだよ」
冗談ともつかないその一言に込められたイデアのこころと、はにかむように笑って頷いたアズールのこころを、初めて触れた唇で二人静かに分け合った。