TO麺×$ 32 例えば国外旅行に行った先で、ばったり知り合いに会ったとする。相手が旅行に行くなんて知らなかったとして、道端で正面切って顔を合わせたところで一瞬理解が遅れるのは、「まさかこんな所で知り合いに会うとは」という意識が先に働くせいだろうと思う。きっと誰もが経験した事があると勝手に思っているんだけど、どうだろうか。
何故今そんな話をするかと言うと、正に、その状況そのままだからだ。
「…………えっ?」
声が漏れたと思ったけれど、実際はどうかわからない。音になっていたかどうか、自分では理解できなかった。
三歩離れたところでエレベーターのドアの横、操作パネルの前でこちらを振り向いている女の子は、とてもよく知った顔であり、初めて見る顔だった。
銀色の柔らかい髪を肩まで下ろし、細いフレームの眼鏡の向こうに空の蒼。長い睫毛がしぱしぱと瞬いて、ふっくらした唇が少し尖っている。小さな口許のほくろはまだあどけなさが残るその顔を少しだけ大人に見せている気がした。僕の顎の下辺りから見上げて来る彼女に、思わず息を止める。認識してしまえば心臓が破れんばかりにばくんと大きな音を立てて、そのままツーバスドラムよろしくドコドコものすごい音で暴れ回った。
(な……何で!? アズール氏!?)
偶然にもほどがある。そもそもこんなスタジオビルに何の用事が、いや、ないことはないか。彼女らももうすぐレコーディングなわけだし。えー、偶然、同じスタジオ使ってたんだー、なんて軽く話しかけられる関係性ではもちろんない。
いや待て落ち着け、よくよく考えてみたら、彼女は僕の事を知らないんじゃないか。いくらライブに通い詰めて目線もらっていたとしたって、所詮ファンとアーティストなわけだし、こんな所で偶然出会ってすぐに分かるほどではないのでは。そう! きっと彼女からしてみたらたまたまエレベーターに乗り合わせた黒づくめのギター担いだ不審者であるに違いない。だったら話は簡単だ。今すぐにエレベーターを下りてしまえばいい。
「……あの、」
「しっ、失礼しますっ!!」
柔らかな声が掛けられたのを痛む心で無視して、ひっくり返った声と共に彼女を避けてエレベーターを出た。今更気付いたけれど、アズール氏と一緒にいたのはカリム氏とジェイド氏だ。
擦れ違いざま、ジェイド氏がめちゃくちゃに面白さを押さえきれないと言うにやけ顔をしていたのがに視界に入った気がしたけれど、それよりもさっさとこの場を去ることが先決。未だ嘗てないくらいの早足でビルの自動ドアを潜り抜け、そのまま駅に向かう。このスタジオから駅はそう遠くない。最早半ば走るようなスピードの早足で進めばすぐに電車に乗れる。
はずだったのに。
「まっ、待ってください!」
「なんでぇ!?」
背後から追いかけて来る声にひっと身を竦め、更にスピードを上げた。ああ、今日に限ってギターを持って帰るんじゃなかった。きっとギターがなければもっと早く走れたのに。多分。
(待ってだって? 何で? キミと話をしろって? そんな事無理に決まってる!)
じわじわとこめかみに汗が滲み、ギターのストラップを握った掌はもうびしょびしょだ。マスクが息苦しいけれど、どうにか逃げなくては。本来なら曲がりたかった駅までの角をスルーして、やや入り組んだビル群の中へと駆け込む。この辺りは同じような道が多いせいで、慣れていないと難しい。彼女がこの辺りの地理に明るいかどうかは分からないけれど、そこはもう賭けだ。どうにか撒いてやり過ごさなければ。何なら途中で諦めてくれないかなと願いながらずんずん進む。
「待ってください!」
「むむむムリです待てないですっ」
繰り返される彼女からの懇願に良心が傷んだ。何でそんなに一生懸命な声を出すの。もしキミが僕を認識していたとして、キミからしたら僕は単なるファンのひとりだ。それをこんな風に追いかけて、そうだ、誰かに見られでもしたらどうするの。人の目はどこにあるか分からないって、誰かに教えてもらわなかったの。
擦れ違う人たちがちらちらと僕らを見ているのが分かる。この道はダメだ、人通りが多い。人混みに紛れて逃げてしまおうと思ったけれど、あんな風に声を出されては目立つリスクが高すぎた。ひとつ先のおもちゃ屋の角を入ると、車一台分の路地に出る。表通りからすぐの割に人は少なく、曲がり角が多いせいで身を隠すのも容易だ。
「ねえ、聞こえてないんですか!? 待ってください!」
こんなに必死な声を聞くのは初めてだと思う。一度だけ聞いた普段の話し方とも、アイドルをしている時の高い声とも違う、怒ったような声を上げると、少しひっくり返るみたいに甲高くなるのか。新しい発見だ。
「き、聞こえてるけど待てないでござる!」
あ、やば。ついいつものオタク口調が出てしまった。いや、そんな事気にしている場合じゃない。カーチェイスよろしくひとつ先の角をぐいと曲がっても、軽い足音が付いて来る。彼女は決して足は速くない。人の事は言えないけれど、きっと、走るのがあんまり得意じゃないんだろう。マスクを捨ててしまいたかったけれど、そうも行かない。肩で息をしながらふと彼女の様子を振り返った。
見るからに汗をかいて、そのせいで頬が紅潮し、苦手な長距離走を走らされている生徒の図みたいになってる。ステージの上で見る必死さとはまた違うその様子に何だか急に可哀想になって来て、思わず少し足を緩めた。それに気付いたらしい彼女が、最後の力を振り絞るがごとく速度を増す。それに驚いて再び軽く走り出した時。
「きゃ、」
ぐらりと身体が傾いて、そのままその場に両手と膝をつく。何かに躓いたのか、そこまで派手に転んだわけではなかったけれど、傷でもついたらおおごとだ。足に擦り傷だなんて。スカートの衣装が着られなくなったら責任問題で腹を切るしかない。
「だっ、大丈夫!?」
慌てて引き返して手を伸ばすと、猫のようなアズール氏の眼がぎらりと光ったような気がした。差し出した左手を思い切り両手で掴まれて、がっちりとホールドされる。
「追いつきました」
「僕が戻ったんだよなあ!? ちょ、離して!」
「お願いです、話を聞いてください」
地べたに座り込んだまま、僕の手を握って見上げて来る姿に眩暈がした。汗だくだし、髪も乱れてるし、呼吸が整わなくて肩も忙しなく上下してて、アイドルとして綺麗にしてステージに立っている時とは全然違うのに。それでも、まっすぐな目はやっぱり僕を釘付けにして、どうしたって逸らすことはできなかった。
「ととと取り敢えず、ここ、目立つから」
「そう言って逃げませんか?」
「い、いいから」
疑い深いと言うか強情と言うか、これもまた知らなかった局面だ。最早引きずるような勢いで目についたビルの隙間に入る。流石に奥の方まで連れて行くのは憚られたので、少し覗いたら見えるくらいのところ。それでも、道の真ん中よりは全然よかった。
「け、怪我、してない……?」
転んだ時に膝を着いていたけれど、擦り傷切り傷打ち身、どれが残ってももう土下座して詫びるか首をくくるしかない。僕の質問に少し首を傾げたアズール氏が、少ししてから、ああ、と頷いた。
「大丈夫です。ぶつからないようにしました」
ほら、と膝丈のスカートを少し持ち上げるものだから慌てて顔を背ける。
あれっ、この子こんなにガードが緩い感じなの? そんな事したら男の子の男の子がどうなっちゃうか知らないの? ねえ事務所の教育どうなってんのジェイド氏!?
最早焦りが怒りに変わり、それをそのまま脳内ジェイド氏にぶつけた。それでも想像の中の彼は、目を細めて「おやおや」と言うだけだったのだけれど。
「あの、いつもライブ来てくれてますよね」
あっ。今更そこの確認なのか。まあそうだよね。何の事ですか人違いですって言ったら逃げられるだろうか。そんな事を考えている隙に、ふと握られた手の拘束が緩まった。おやと思って彼女に視線を戻すと、その白い指先がフードから僅かに零れた僕の髪に触れていた。
「髪、目立ちますね」
嬉しそうに目を細めてそう言ったアズール氏からは逃げられる気がしなくて。もう降参とばかりにコンクリートの壁に背中を預けた。