TO麺×$ 34 脇道を出て、イデアさんは駅へ、僕はスタジオへ帰る。道すがら、ふと目についた彼の背中のそれに首を傾げた。
「イデアさん、楽器やるんですか?」
「ひゃえ!? あ、あー……はあ、」
ケースの形から言って、ギターかベースか。それ以外と言うと何があるのだろうと考えている間に、頭の上からぽつりと答えが転がった。
「べ、ベースを少々」
「なるほど。あのスタジオ、レッスンもやりますもんね」
「そ、そうそう」
マスクの下で不器用な笑顔を浮かべているんだろう。こくこくと頷いた目が三日月のようだ。それにしても、フードとマスクであまり顔が見えない。普段から彼はこんな格好なのかと不思議に思う。まるで変装しているようだ。
「あ、ああアズール氏も、ぴあ、ピアノできる、デスよね?」
「え?」
「あっ……その、アイドル雑誌『キスミー』六月号の結成秘話でリドル氏と同じピアノ教室に通ってて知り合ったって書いてありましたゆえ、お二方ともさぞやピアノが堪能なのかと。コンクールでの受賞経験ありとなると尚のこと」
先刻まではつっかえながら話していたのに、急に流暢になるものだから思わず目を丸くする。そんな僕のリアクションに一瞬何かを逡巡させた彼が、あっと声を上げた。
「き、きもいよねこんなの覚えてて」
生き生きとしていた様子から、今度はしゅんと覇気をなくす。顔が隠れていても、随分と表情豊かな様に思わず笑った。
「いえ。細かいことまで覚えていてくださって嬉しいです」
「……そ、そう……?」
満更でもない、という風な様子に目を細める。僕をちゃんと見てくれている人がいるというのはこんなにも心強いものなのか。もっと早く、握手会やチェキ会で彼と会話がしたかったなと思う。そうしたら、もっと。そこまで考えて、はたと思考を止めた。もっと、何だろう。自信が持てた? 無理をしなかった? 頑張れた?
「あ、あの、拙者ここで……」
自問自答の途中だったけれど、いつの間にか地下鉄の入口に到着していたらしい。イデアさんの声にはっと顔を上げた。
「あっ、はい……あ、あのスタジオで僕らがレッスンしてる事は秘密にしてください」
「当たり前でござる~、そんなの口外してマウント取るような雑魚オタではありませぬゆえ」
「?? ありがとうございます」
ちょっと何を言っているか分からなかったけれど、口外をしない、という約束をしてくれたことだけは分かった。胸を撫で下ろして、じゃあ、と頭を下げて地下鉄に入って行く彼を見送って、僕もスタジオに向かって歩き出す。
先刻の自問自答がおざなりのままだったけれど、どうもその先を考える気にはならなくて見上げた青い空に放り投げた。
スタジオビルに帰ると、一階の待合スペースの丸テーブルでジェイドとカリムさんが待ってくれていた。僕を見付けて手を振るカリムさんに眉を下げる。
「すみません、突然」
「いいんだ! 会えたか?」
「はい。あんなに走ったの久し振りです」
肩を竦めながら丸テーブルに着席すると、左側でジェイドがわざとらしく驚いて見せる。
「走って追いかけたんですか? アズールが? 走って? よく追い付きましたね?」
完全に面白がるような小芝居にチッと小さく舌打ちをして、右手で頬杖をついた。
「…………転んだふりで引き返してもらいました」
仕方なかったのだ。だって、イデアさんはベースを担いでいたとはいえ、身長差のせいでコンパスには歴然とした差がある。早足で行かれただけでも随分と早かった。それでも本気で走らずにいてくれたのは、彼の優しさだと思いたい。
そもそも、転んだふりというのも半分は嘘だ。足がもつれてしまった時、このまま転んだら彼は助けに戻ってきてくれるほではないかという打算が働いたからそのまま怪我をしないように膝をついたのだ。お陰で怪我もしていない。スニーカーを履いていてよかった。もしパンプスだったら本当に転んで怪我をしていたかもしれない。
「そもそも、ベースを担いでいたからそんなにスピードが出なかったんです、向こうも」
「ベース?」
楽し気に揶揄っていたジェイドがふと口を挟んだ。そんなにじっくり見ていなかったのかも知れない。そもそも黒尽くめの服装に黒いケースだったからわからなかったのかも。
「はい。担いでいたでしょう、背中に」
「……ああ、そうですね。でもそのせいで遅かったのに、追いつけなかった、と……」
「うるさいな。身長の分足の長さも違うんだから仕方ないだろ」
むすっとして返すと、右隣でカリムさんがけらけらと笑う。悪気がないから質が悪いなと思いつつ、一度咳ばらいをした。
「さ、お待たせしてすみません、行きましょう」
「はい」
「おうっ」
連なって立ち上がり、受付を済ませる。三階のレッスンスタジオにはリリアさんのレッスンのために通っているけれど、四階のレコーディングスタジオは行ったことがない。次のコンセプトミニアルバムはここでレコーディングしたらどうかというリリアさんの勧めで、今日はスタジオ見学だ。エレベーターに乗り込み、四階まで上がる。
この直前まで貸切でレコーディングをしていたらしいが、もう撤収したらしくフロアは誰もいなかった。
五つのブースの入口が中央に向かって設置され、それぞれのドアにアルファベットが振られている。サブブースの奥に、収録ブース。各スタジオは中の広さが違うらしい。僕らのレコーディングは人数も少ないし動き回らないから、そこまでの広さは要らないだろう。フロア中央には丸テーブルがふたつ。休憩が取れるようになっていた。
「綺麗ですね」
「だなー。でもいいも悪いもわかんねーな」
「ですねえ」
正直、レコーディングスタジオなんてそう行ったことがない。何を基準に判断したらいいのかは分からなかったけれど、今日は雰囲気を見に来たという事にしておく。と、エレベーターがぴんと音を立てて開いた。
「やっほやっほー」
「ケイトさん」
「見学に来てるって言うから来ちゃったー。ていうか言っておいてよー」
そう言えばケイトさんには伝えそびれていたかも知れない。ここの見学が決まったのも、先週レッスンの際にレコーディングスタジオを探しているとリリアさんに話したところから雑談の流れだったし、今週いっぱいは本業が忙しいからとケイトさんは事務所に来ていなかった。
「すみません、連絡漏れです」
「んー、いいんだけど……ここ、俺の本業で使ってるとこだから何でも聞いて!」
そうか。ケイトさんが営業事務をやっているバンドもここを使っているのか。それならいよいよここを使わない理由もないかと思う。やや歯切れが悪い彼女に違和感を覚えながらもブースの説明をしてもらって、帰りにはレコーディング予約を入れて来た。いよいよレコーディングか。ずっと練習はしていたとはいえ、何だか急に現実味を帯びて身が引き締まる思いがした。
歌詞もできたし、練習も順調。来週のレコーディングにはベストコンディションで臨みたい。リリースしたら、イデアさんも聴いてくれるだろうか。そりゃあ聴いてくれるか。だって、彼は僕のファンなのだから。顔が見えるファンと言うのはひとりいてくれるだけで心強さが全然違うものだなと肩を揺らした。