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    【Web再録】The Greatest Journey   はじめまして   今日も頑張ろう   忘れないで   また会う日まで   The Greatest Journey
       はじめまして


     朝起きて、身支度を整えたら家を出て、学校に行く。今日は晴れているから自転車でいい。玄関が閉まる直前に、両親の行ってらっしゃいが聞こえた。停めてあった自転車に跨って、スカートだけ少し直す。立って漕いだりするのに、これでも気を付けているのだ。
     ちゃりちゃりと自転車のチェーンの音と、車輪が回る音が私だけに聞こえる。天気がいいなあと思っても、口には出さない。一人でぼやいているのも変だからだ。そうやって暫く、なんでもないコンクリートに舗装された道とそうでもない道とを繰り返していると、通っている高校に着く。2‐Dと掲示された所定の位置に自転車を停めて、私は鍵を閉め、籠に入れていた学生鞄を肩に提げて昇降塔へ向かった。特に早いわけでも遅いわけでもない時間帯だ。いつも通りの時間だった。
     それが当たり前のことで、これからもずっとそうなんだろうなと思っていた。行き先が大学になったり、会社になったりするだけ。私はこれからも毎日、そうして生きていくんだと思っていた。
    「お、はよー、う……?」
     だから、何の変哲もなかったその朝にどうして私だけがそこに迷い込んでしまったのか今でもわからない。
     扉を開いた先にいたその男の人は、三和土でも掃除していたのか持っていた雑巾を手に、訝しげに私を見て立ち上がる。随分上背があって、おまけに髪が薄緑色の男の人だった。
    「……君は誰だ? 今、どこから入ってきた」
    「……え?」
     どうしてそこに行き着いたのか、今でもわからないから。私はその場所を探し続けている。
     ずっと、ずっと。



     セーラー服の袖と、プリーツスカートを一緒に握りしめた。力いっぱいそうしたので、手のひらが痛い。しかし痛いということは、夢ではないということだ。なんてことだ。いや、稀に痛覚のある夢もあると聞いたことがあるけれど、これはそうではないのだろうか。
     失礼します、と少年の声が襖の向こうからした。私の正面で正座をし、腕を組んでいた男の人が顔を上げて「ああ」と返事をする。するすると上品な音を立てて開いたそこには、栗色のおかっぱ頭の男の子が屈んでいた。
    「膝丸さん、お茶とお菓子をお持ちしました」
    「ああ、すまないな前田。礼を言う、いくらか彼女の気も解れるだろう」
    「まだ熱いので、気を付けてくださいね」
     随分育ちのよさそうな顔立ちの男の子だった。その子はにこやかに私の前に日本茶と和菓子を置くと、一礼して出て行く。私はつられて会釈をする程度しかできなかった。ウサギの形をしたお菓子はお饅頭なのだろうか、それにしては一口大で小さい気もする。
    やや険しい顔の男の方は、湯呑を手にするといくらか息を吹きかけた。それでも飲まないところを見ると、熱いものが苦手なのかもしれない。そんなことを考えている場合じゃないのは明白だったのだが、私の頭は現実逃避を繰り返していた。結局お茶を口には含まず、手にだけ取った男は彼女の方を見る。
    「それで、先ほどから君の言うことは理解した」
    「そ、そうですか、じゃあその、ここは一体」
    「だがここは君の言う学舎ではないし君の住まう現世ではない。それから、簡潔に言うなら君はここから帰れないし、俺がその術を用意してやることもできない」
     すっぱり男は言い切った。あまりにもあっさりした物言いだったので、何を言われているのか理解するのに時間がかかったくらいだった。一拍か二拍置いて、ひとまず「帰れない」という言葉だけ把握する。えっ帰れない? 焦った私は畳に手をついて前のめりになった。
    「えっじゃあそれ、私どうしたらいいのっ、ですか」
    「俺のできうる限りの説明はする、まあ落ち着いて茶でも飲むといい。前田の淹れたものはうまい」
    「お、落ち着けないですよ! そもそもあなたなんでそんな冷静、いやあなた誰ですか?」
     そう聞けば彼は片眉を上げた。彼の髪は細く薄い緑色で、どう見ても日本人の頭髪ではない。しかし流暢に、かつ古い武士のような日本語を使うのだからきっと日本人なのだろう。バントマンかなにかで染めているのか? というか彼がいやに美形なことにそこで私はやっと気づいた。顔立ちが整いすぎているせいで、眉を上げられた今の表情は正直怖い。
    「先ほど名乗っただろう。まあいい、忙しなかったゆえ仕方ない」
     ぴしりと彼は真っ直ぐに背筋を伸ばし、じっと正面にいる私を見る。目ははちみつと同じ色をしていた。益々日本人の容姿ではない。
    「俺は源氏の重宝、膝丸だ。この本丸では近侍を務めている刀剣男士になる」
    「は……?  ゲン、トウケンダンシ……?」
     私が目を白黒とさせて復唱すると、その彼、膝丸さんは真顔で首を傾げた。
    「君、さては日本史が苦手なのだな。学舎の講座などで審神者や刀剣男士という単語を聞いたことはないか」
    「さ……あっ、ちょっと待って、確か今日」
     一限に日本史と、四限に現代社会があった。先に手に取った現社のの教科書の索引を引く。サ行、サニワ、あった。そのページを開き、膝丸さんの前で開く。
    「これっ? の、ことですか?」
    「……ああ、そうだな。それから楽に話して構わぬぞ」
    「あ、はい、ありがとう。待って、読むから」
     審神者、とは。歴史を修正しようとする時間遡行軍と戦う神職の一種。名刀に宿る付喪神の心を励起し人間の形を与え、刀剣男士として使役する。審神者は政府に所属し、それぞれ本丸という本陣を構え云々……。ひとしきり読んでから私はまた顔を上げた。先ほどこの膝丸さんは自分を刀剣男士と言った。ということはつまり。
    「あ、あなた、日本刀……?」
    「そうだ」
     どんと鈍い音を立てて、膝丸さんは自分の傍らに置いていたものを手に取って畳の上に立てて突く。僅かにだが、その深緑の鞘の中で金属音がした。
     刀、あれは刀。ずっと何なのかと思っていたが頭が働いていなかった。本物の刀なのだ。バンドマンじゃなかった……見当違いなことを私の頭は考える。
    「待って、じゃあ源氏ってあの、いいくにつくろうの」
    「いいくに?」
     膝丸さんは首を傾げた。馴染みがないのか、この語呂合わせ。日本史の年号なら一番有名なのだが。
    「あー、あの、壇之浦とか、源平合戦の」
    「ああ、いかにも。俺の歴代の主には源義経がいる」
    「え、ええ……義経……?」
     自分で聞いておいてなんだが頭がくらくらしてきた。これではまるっきりファンタジーではないか。
    「じゃあ、ここがその、本丸?」
    「そうだ、ここだ。わかってくれたか」
     ここ、のところでしっかり指で畳を指しつつ膝丸さんは頷いた。念押しのつもりのようだ。
    「いや全然、わからないけど。大体なんでそれで私がここに」
     私は、教室の扉を開けたつもりだったのだ。いつも通りに家を出て、登校して。それが扉を開くと目の前には膝丸さんが立っていてもう訳が分からない。
    「俺にも正確な理屈はわからぬが、たまたま空間が繋がってしまったのだろう。もしくは君がここに引っ張られたか」
    「そんなことあるんですかっ? そういえば、私小さいころその審神者の適性検査って受けて」
     そうだ、思い出した、そんなこともあった。一応国民の義務として検査を受けた記憶がある。一歳健診だとかそういうのと同じで、一定の年齢になったらそれを受けなくてはいけなくて、それで。
    「でも私、そのときは適性がないって言われたのに」
     あったらこんなごく普通の女子高生なんてしていなかっただろう。それだけはわかる。
    「素養は後天的に見つかることもあるという。君もそうなのではないか」
    「そんな適当なことある?」
    「加えて今この本丸は不安定でな。波長の合った君を引きずり込んだ可能性は高い」
     ずず、とやっと膝丸さんは湯呑に口をつけた。飲めるような温度になるまで随分かかったものだ。
    「不安定ってどういうこと?」
    「今この本丸には主がいない。だから自然と、そうなることのできる器を引き込んだということだ」
    「主、サニワ? なんでいないの? その人がいないとあなたたちって存在できないんじゃない?」
     教科書に書いてあった記述がありのままなら、この人、ではないトウケンダンシはサニワの力を借りて人間の姿になっているはず。魔法か何か、おとぎ話のようなことだが、それが正しいのなら。だからサニワがいないのなら、彼は魔法が解けて日本刀に戻ってしまっているはずだ。
     けれどその私の疑問に、膝丸さんはあっさりと解答を出した。
    「亡くなった。少し前のことだ」
    「亡くなった……?」
    「だからこの本丸には今主がいない」
     膝丸さんは湯呑が空になったのか、自分で盆の上にそれを置いて二杯目を注いだ。私にもどうだと勧めてくれたけれど、私の分はまだ一つも減っていなかったので首を振る。
     亡くなったという言葉に、どう反応すればいいのかわからなかった。これまで冠婚葬祭は結婚式さえも出席したことがない。お葬式のときはご愁傷さまであっていたのだったか。何も知らないのにそう口にするのは無神経だろうか。
    「えっと、その……」
    「その頃からだが、この本丸は外部と連絡が取れなくなった」
    「え?」
     しかし私が困惑しているのなど一切気にしないで、膝丸さんは続ける。別に今そのことは重要ではないらしかった。
    「なんで?」
    「理由はわからぬ。ただ、主の亡骸を政府が引き取っていって以来、政府との通信が途絶えた。後任が来るはずだったが、うんともすんとも言わない。だからここには今主がいない」
     それはやはり大ごとではないのか。詳しいシステムはわからないが、主もなく外からの連絡も取れないということはつまり。陸の孤島、雪山の密室。ここはそういう状態なのでは。
    「じゃああのう、なんで今膝丸さんはここに」
    「前の主と政府からの補助の名残だろう。主が死んで何もかもが消えるようでは困るからな。だが、このままで問題があることは確かだ。それでおそらく、君が迷い込んできたのだろうと俺は思う。本丸側がたまたま波長のあった人間を引き込んだということだな」
     巻き込み事故。
     そんな言葉が私の頭をよぎる。
    「じゃっ、じゃあ本当に私帰れないじゃない!」
    「先ほどそう言ったぞ」
     聞いてなかったのかと言わんばかりの顔で膝丸さんが首を傾げる。聞いていたが半信半疑だったのだ。
    「でも、でも困るよそんなの、本当に困る……っ」
     だってどうしろというのだ、ここで。私はサニワではないし、こんなところに取り残されたって。私は半分以上泣きそうになありながら膝丸さんを見たのだが、膝丸さんのほうは先程から一切顔が変わらなかった。表情筋が死んでいるんじゃあるまいか。というかやはり、美形の真顔は怖い。
     そんな真顔の膝丸さんは、二杯目の緑茶を飲み干すと一度咳払いをして居住まいを正した。二杯目はそれなりに お湯が冷めていてすぐに口にできたらしい。
    「それで君に頼みがあるんだが」
    「この流れで?」
     空気が読めないにもほどがある。こっちは涙が出そうなのに。
     しかし膝丸さんはお構いなしに私に頭を下げた。美形は頭の形さえも良い。綺麗な丸の頭頂部がこちらに向けられる。細くサラサラとした髪が畳の上に着いた。
    「一時的にでいい、俺たちの主になってはくれまいか」
    「待って、待って待って、なんでこの流れでそうなるの。っていうか無理、無理無理無理、無理です!」
    「ここに来られたということは、君には少なからず審神者の素養があるということだ。いつまでもとは言わない。政府と連絡が取れるまででいい、それまで俺たちの主としてここにいてくれ」
     頼む、と膝丸さんは畳の上に手を着いて深々と頭を下げたままだ。なんて居たたまれない。
     そんな、まだ何もわかってないし、混乱したままなのに。私は遂に正座に耐え切れなくなって足を崩した。痺れて立ち上がれない。
     帰れない以上は、私はここに置いてもらうほかない。そしてここにいるのなら、膝丸さんの要求を聞くしかないのだ。それ以外どうしようもない、選択肢がない。
    「わ、わかった……」
     顔を覆ってそう答えれば、すっと膝丸さんは体を起こして背筋も伸ばす。サラサラとバンドマン色の髪が揺れた。
    「そうか、恩に着る。先程も言ったが俺がこの本丸の近侍だ。何かわからぬことがあれば、俺に任せておけ」
    「キンジってなに……」
     返事をした自分の声は異様にか細かった。説明を始めた膝丸さんには申し訳ないが、そこからあと何を言われたかいまいち覚えていない。


    「おはようございます、開けてもよろしいでしょうか」
     誰、と呻きながら身を捩る。ふわふわと布団から太陽の匂いがした。よく干されているのか、いつもよりいい匂いがする気が……いつもより? 布団?
    「うわっ!」
    「どうかなさいましたか? 失礼いたします」
     私が飛び起きたのと、襖が開いたのは同時だった。ぎょっとしてそちらを見れば、おかっぱ頭のケープをつけた男の子がそこに控えている。あれは誰だ、ここはどこだ。
    「だっ、誰っ、えっ、ここどこ」
    「前田です。布団は寝苦しかったでしょうか? ちゃんと干したものを用意したのですが」
    「まえ、前田……?」
     ぽかんとそちらを見る私を余所に、にこりとした男の子は指を突いて礼儀正しく頭を下げる。
    「前田藤四郎と申します。この本丸では最初の短刀です、ここで何か不便がありましたらいつでも僕に」
     タントウ、担当……なんの? しかしそれを問い直す前に、前田君は一度咳払いをして体を起こした。
    「少々失礼いたします」
    「え?」
     すすすと膝を進めてきた前田君は手を伸ばすとピッと私の襟を正した。視線を下にやってぎょっとした。着ている浴衣の胸元ががら空きだったのだ。
     声にならない悲鳴を私があげている間に、前田君は正しく浴衣の前を直す。もう泣きそうになっている私の視界の中で、前田君はそれでも品よく笑った。顔色一つ変わっていなかった。
    「慣れない浴衣なのが悪かったのでしょう。今夜から何か別なものをご用意しますね。朝食ができています、食欲はありますか?」
    「すみません……」
     ああ、思い出した。そう言えば自分は昨日ファンタジーの世界に迷い込んだのだった……。タントウは短刀かと脱力する。まだ適応できていない。昨日はこのだだっ広い本丸とかいう屋敷を案内され、どっと疲れて風呂に入り、渡されたものをとりあえず着て寝落ちた。
     私は普段家でベッドを使っているので、布団はお盆か正月で帰省したときくらいしか使わない。干してくれたという言葉通り、ふかふかのそれを見る。
    「朝食は、普段どんなものを召し上がっておられましたか?」
     前田君はぼんやりとしていた私に優しく話しかけた。背格好は小学生くらいの男の子なのだが、随分落ち着いている調子だ。
    「あ、えっと……トーストとか、ヨーグルトとか」
     でもそんなものここにあるのだろうか。昨日案内してもらったこの大きな家は純和風だった。畳の部屋に、田舎の祖母の家でしか見たことのないような鴨居。板張りの廊下や部屋もあったけれど、フローリングでは決してない。私が毎朝食べてい朝ご飯はあるように思えなかった。
     しかし前田君はサラサラの髪を揺らして微笑む。その表情は私の何倍も年上のお兄さんに見えた。
    「よかった。どんなものがお気に召すかと思って、厨当番と色々試行錯誤しました。とおすと、とよおぐるとなら用意ができるはずです。伝えておきますね」
     それからおかっぱ頭の前田君は笑顔で畳んだ私のセーラー服を取り出して、差し出す。
    「着ていた着物は本丸で洗濯して整えさせていただきました。こちらをお召しください。慣れている服のほうがいいですよね」
     気遣ってくれているのだと流石にわかった。いきなりこんなところに来た私を、前田君は心配してくれているのだ。ぺこりとまた指を突いて頭を下げた前田君に、私は慌てて言う。
    「あ、あの、ありがとう、前田君……でいいのかな」
     前田藤四郎というのが名前なら、前田はきっと苗字だろう。いきなり名前で呼ぶのもなんだか馴れ馴れしいかもしれない。
     そう呼びかければ、髪の毛とお揃いの栗色の瞳を優しく和ませて、前田君は頷いてくれた。やはりいくつも年齢が上のお兄さんのようだ。
    「はい、前田で構いません。不便があれば何でもお申し付けください。お召替えが終わりました頃にまた参りますね」
     一礼して、前田君は出て行った。ここにいるということは、あの男の子も刀ということ、だろう。セーラー服に袖を通しながら思う。短刀だと自己申告があったことだし……。
     この本丸には他にも刀がいるのだと、あの膝丸さんは言っていた。しかし、昨日は全員の自己紹介を聞くほどの余力がなかったので断った。前田君もその一人なのだろう。いや、一人……でいいのだろうか、刀を数える単位がわからない。
     着替えが終わると洗面所はこちらですと前田君が案内してくれたので、私はそれに従って流し台がある場所まで来た。青い暖簾をくぐると、そこには横に長く、鏡がずらりと並び水道もたくさんある。なんだか小学校だとか中学校だとかで行った宿泊施設のそれに似ている。
     丁度そこでは一人、小柄な子が顔を拭いていた。柔らかそうなタオルから顔を上げたその子は、前田君の隣にいる私を認めると、明るいオレンジのセミロングの髪を揺らして駆け寄ってきた。えっ、女の子だろうか。
    「あっ前田! その人が新しくきた主さん?」
     ぱっと明るい笑顔になったその子は、私を見て前田君に聞く。ふわふわの兎の耳のついた洗顔用ターバンをしていた。男? 女? トウケンダンシって男の人じゃないのか。
    「おはようございます、乱。そうですよ。暫くここにいていただけます」
    「わあ! 初めまして、ボク乱藤四郎。前田の兄弟、よろしくね」
     兄弟? ということはやはり男の子なのか。しかしよく見れば、前田君のものとよく似たシャツはひらひらのパフスリーブであるし、体つきも華奢な……いや、胸は平たい。どっちだろう。
    「あ、あの、乱君、なのかな、ちゃん?」
     意を決して聞けば、暫定乱君はキラキラの空色をした瞳を真ん丸にして見開いてからあははと可愛らしい声で笑った。
    「どっちでもいいよ! 呼ぶのは主さんの好きなほうで呼んで。でもボクもちゃんと刀剣男士、よろしくね。他の皆も会いたがってるよ」
    「じゃ、じゃあ、乱君で、よろしくお願いします……」
     ぎゅっと手を握られる。確かに手のひらは女の子にしては固く、またしっかりとしていた。
     ……たまげたなあ、刀剣男士。私は開いた口を閉じれなくなっていた。何でもありなのだろうか。いや、まだ膝丸さん、前田君と乱君と三人しか挨拶していないのだけれど。
     私が顔を水で洗うと、準備のいい前田君がタオルを差し出してくれた。至れり尽くせりで申し訳ない。ありがとうとお礼を言ってからそれを使っていると、ひらっと暖簾が捲れる。顔を出したのは黒いジャージ姿の膝丸さんだった。
    「君、おはよう。よく眠れたか」
    「あ、うん、おはようございます」
    「それは何よりだ」
     何よりだという表情ではないのだけれど……。昨日同様真顔の膝丸さんは、自分も手を洗いに来たようだった。手にしていた軍手を外してポケットに入れると、固形石鹸で丁寧に泡立て始める。前田君が膝丸さんにもタオルを差し出した。
    「膝丸さん、今朝の水やりをやってくれたんですか?」
    「ああ、手が空いていたゆえ。前田、彼女の世話をご苦労だったな。ここからは俺が引き受けよう」
    「はい。では僕はこれで。また後程お会いしましょう」
     えっ行ってしまうのか。前田君がぺこりと頭を下げてケープを揺らし、踵を返してしまったので私は急に心細くなった。無表情の膝丸さんより優しい前田君のほうがいい。首を回して膝丸さんを見上げれば、膝丸さんは使ったタオルを傍にあった籠に放ったところだった。
     こちらに向き直ると、膝丸さんは低い声で淡々と言った。相変わらず派手な色の髪がサラサラと揺れる。
    「昨日も言ったが、この本丸の近侍は俺だ。無論前田のほうが女子の傍仕えには向いているが、ここでのことを取り仕切っているのは俺になるゆえ、不都合があれば言ってくれ。便宜を図る」
    「は、はい……」
    「朝餉がまだだろう。厨へ行くぞ」
     前田君よりずっと重い足音に私は付き従った。膝丸さんは上背もある。自分の同級生の男子よりずっと大きく感じた。いや、背丈はそう変わらないのかもしれないのだけれど、体格がいいからそう思うのだろうか。
     昨日はジャケットにしっかりとしたシャツを着ていた膝丸さんだったが、今日は黒いジャージの上下にグレーのシャツである。これはオフスタイルなのだろうか。そう言えば前田君も、乱君も体操服のような楽な服装だった。
    「今日は皆が君に挨拶をしたがっている。一度に覚えるのは難しいだろうが、聞いてやってくれ」
     歩きながら膝丸さんがそう言った。そうだ、昨日は疲れていて自己紹介を断ったのだ。先を行く広い背中に言葉を投げかける。
    「ごめんなさい、私昨日眠くて」
    「仕方のないことだ。皆それは心得ている、気にしなくていい。現在この本丸には四二振の刀剣男士がいるゆえ、順に」
    「四二っ?」
     思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。一クラスより人数が多い。というか、「振」と数えるのらしい。「人」じゃないんだ。
     私の声に驚いたのか、膝丸さんが振り返った。小首を傾げて、膝丸さんは不思議そうに言う。
    「これでも他より少ないほうだぞ」
    「ご、ごめん、他がわからないから」
    「ああ、そうだな。だがひとまず四二いることを覚えていてくれ。俺と前田と、乱が嬉しげに君に会ったと言っていたから、後は三九だな」
     それでも三九。やや頭がくらくらとした。あまり人の名前と顔を覚えるのは得意ではないのだ。暫く皆名札でも提げてくれないだろうかと思いながら再び歩き初め、はたと気づいた。
    「あ、ばたばたして私のほう名乗ってなかった、私は」
    「待て、君は名乗らずとも良い」
     途端にぴしゃりと膝丸さんが言い放つ。その勢いに驚いて口を噤んだ。首だけ回して、蜂蜜色の膝丸さんの瞳がこちらを見た
    「我らに名乗ってはならぬ。名前を告げるな」
    「え、どうして」
     膝丸さんは呆れたような、困ったような風で眉を顰める。そんな顔をされたってわからないのだが。
    「君は本当に何も知らぬのだな。名を知られることは魂を掴まれることだ。我ら刀の付喪神は末席とはいえ神。軽率に俺たちに素性を曝してはならぬ」
     全然わからない……。わからないけれど、仕方なしに私は「わかった」とだけ返事をした。自分の知らないルールが多いのだろう、きっと。ファンタジーの世界なのだから仕方ない。ほんの少しだけ私は自棄になっていた。
     膝丸さんは朝ご飯をもらいにまず私を台所らしき場所へ連れて行った。給食でも作るのかという広さと設備も、四二という数字を先に聞いていたのであまり驚かない。そこには背が高く眼帯をしたジャージ姿の男の人と、紫の髪を赤いリボンでポンパドールにした着物の男の人がいた。
    「こんにちは、初めまして。前田君から聞いて、トーストとヨーグルトを用意してあるよ。僕は燭台切光忠、よろしくね」
    「やあ……これはこれは、初めまして。君が昨日迷い込んできたと聞く女子だね。僕は歌仙兼定」
    「は、じめまして」
     名乗ってはいけないと釘を刺された後だったので、私はただ頭を下げた。ショクダイキリさん……とカセンさん。容姿が特徴的な二振だったので、比較的覚えやすそうだった。ただ漢字がわからない。どうしよう、と思わず膝丸さんを振り返れば膝丸さんはすぐにジャージのポケットを探ってメモ帳を取り出した。
    「燭台切殿、歌仙殿。すまないが号をここに」
    「ああ、そうだよね。ごめんね」
    「ああ、そうだね」
     二振は快くそこにペンで名前を書きつけてくれた。ペリとメモを千切った膝丸さんが、それを渡してくれる。燭台切……歌仙。少々難しい漢字が多いが、それでも響きだけで覚えるよりは。私はメモをスカートのポケットにしまうと、もう一度頭を下げた。
    「よろしくお願いします」
     盆に載せられた朝食を受け取って、膝丸さんと私は台所を出た。人のよさそうな、というのを刀に向けて言っていいものかどうか迷うけれど、ひとまず優しそうな刀剣男士だった。ホッと私は息を吐く。
    「心配しなくとも良い。ここに君を邪険にする者はいない」
     膝丸さんがそんな私の様子を見てか、そう声をかける。ついでに朝食の盆を持ってくれた。それはそうかもしれないが、と私はもう一度メモを取り出して見つめる。容姿だけで十分印象に残る刀剣男士たちだったけれど、忘れて次声を掛けられなかったら嫌だ。
    「それでも、名前間違えられたら嫌だよ。……というか、ごめん、楽に話していいって言われてからずっとタメ口聞いちゃった。膝丸さんだってここの偉い刀、なんですよね?」
     膝丸さんにしても、燭台切さんにしても歌仙さんにしても、同年代には到底見えない。刀の年齢なんててんでわからないけれど、ここでは私が一番新米なのだ。先輩にタメ口はまずいだろう。
     しかし膝丸さんのほうは小首を傾げて、歩みを止めることはなく、ただどこかに進んだ。
    「そのため……がなんなのか俺にはわからぬが、今まで通り俺には君の楽に話してくれていい。ここに序列はない」
    「そう……なんだ」
     これだけ人……もとい刀がいて序列がないのも不思議なことだ。だが私の盆を持ったまま廊下を歩く膝丸さんを見上げ、一応聞いてみることにする。
    「ちなみになんだけど、膝丸さん、いくつ?」
    「俺か? ざっと、ちとせというところだろう。君たちの言うところの千だ」
    「せっ、千っ?」
     私は細かいことを考えるのをやめた。ついでに、もう少し、自己紹介のとき色々聞くべきだということも学んだ。


     学生鞄に入っていた単語カードのリングを外す。それを四二枚のメモ用紙の束に通した。これで捲りながら覚えよう。ちなみに裏側には刀剣男士の特徴を書いて置いた。答え合わせができるというわけだ。
     四二振から名前を書いたメモをもらった。刀剣男士というのは全員美形で顔立ちも特徴的だったおかげで、覚えるのはさほど難しくなさそうだった。ふうと息を吐く。日本人離れした髪色や瞳のおかげで印象の紐づけができて助かる。しかし自己紹介をしてもらっていてわかったことがあった。
    「膝丸さん、私もしかして、全然刀剣男士のことわかってない?」
    「そうだな」
     今朝は庭仕事をしていたとかでジャージ姿だった膝丸さんも、朝ご飯を食べ終わった頃にはきっちりとジャケットにシャツ、それから袴のような不思議なズボン姿でやってきた。なんでも、近侍はいつもその服装でいなくてはならないそうだ。
    「どうしよう、短刀とか打刀とか太刀とか全然わからなかったんだけど!」
    「心配しなくていい、今から説明する。元よりそのつもりだった」
     さらっと膝丸さんが言った。それから立ち上がって本棚を探る。
     今いる部屋は執務室と言って、基本的に仕事をする部屋なのだと膝丸さんは言った。とはいえ私は仮の審神者であって、正式なものではないしそもそも政府と連絡が取れない以上、今は仕事がないに等しいらしい。その執務室にある本棚なのだから、仕事関係の書類があるのだろう。
     目当てのものを見つけたらしく、膝丸さんはファイルを引っ張り出して私に差し出した。それは普通の紙ファイルで、背表紙に初期マニュアルとある。
    「手引書のようなものだ、俺たちのことでわからぬことがあればその帳簿を見るといい」
    「マニュアルってあるもんね、わかった。それで?」
    「この項だな」
     膝丸さんが上からぺらぺらとページを捲り、色々な長さの刀が一列に並べられている図がある項を指した。
    「まず、俺たちには刀種がある。左から短刀、脇差、打刀、太刀、大太刀、薙刀、槍。この本丸にいるのはこの刀種だ」
     ずらずらとその図を膝丸さんの指に従って左から右に見る。刀剣男士の皆は、名前を言う前にこの刀種を言ってくれていた。これがそうだったのか。
    「これって長さで決まるの?」
    「いや、用途で決まる。例えば俺は太刀だ」
     少し待て、と膝丸さんは腰に手をやった。紫の紐でそこには日本刀が括り付けられている。いやあれ、本当に本物なんだろうか。昨日そうは言われたけれど、実感がない。
     刀を外すと、膝丸さんはそれを畳の上に置く。そんな無造作にしていいのか。
    「太刀は主に馬上用、作られた時代が南北朝以前だからだ。反りが強く、佩く際に反りを下向きにする。よく打刀と間違えられるが向きが逆で拵えも違うゆえ、よく見ておくといい」
    「ま、待って待って、専門用語が多かった。えーっと」
     反りはわかる、この弧を描く角度が強いということだろう。拵え、拵えとはなんだ。
    「俺の鞘や柄のつくりのことだ。あとで打刀を呼ぶ、比べて見ろ」
    「はくって言うのは?」
    「刀を提げることだ。このように、刀は用途によって種類が異なる。刃長で見分けるのは困難だな。例えば先程挨拶に来たにっかり青江は、刃長だけで言えば打刀ほどある。まあ、ある程度俺たち刀剣男士は刀種によってこの肉体が左右される。短刀ならば少年、脇差や打刀ならば年若い青年、俺たち太刀は成人男性ほどの姿と前の主からは聞いた」
     ざっくり、といった様子で膝丸さんが説明した。知らない単語が死ぬほどある。日本史をもっと真面目にしておけばよかった……。いや、日本史でどうこうなる知識なんだろうか?
     私が目を回しそうなのがわかったのか、膝丸さんは置いた太刀を手に取ってまた自分の腰に戻した。手早く蝶結びではない何か複雑な結い方でそれは括られる……いや、佩かれる。知らないことばかりだ。
    「徐々にでいい。いきなりすべてはわからぬだろう、俺が君のことを知らぬように」
    「……うん、ありがとう」
     ひとまずは名前を覚えるところからだろう……。クラス替えがあった四月と同じだと思えばいいのだ。四二、ちょうど一学級分くらいの人数だし。
    「君、今日は自己紹介で半日が終わったが、本来の職務を説明しようと思うのだが。構わぬだろうか」
    「え、あ、うん。すみませんお願いします!」
     びしりと私は背を伸ばして気を取り直す。とにもかくにも、私には刀剣男士の知識も審神者の知識もなさすぎる。ここに置いてもらうなら、通り一遍のことはできないといけない……と、思う。そのために置いてもらっているのだし。
     膝丸さんは先程の初期マニュアルをまたいくらか捲って私の前に出した。畳の上に置かれたそれを私は上半身を屈めて見つめる。
    「審神者が一日に刀剣男士と行う職務は大きく三つある。まず、俺たち刀剣男士の務めは、歴史修正主義者たち時間遡行軍を討つことだ。様々な時代へ飛び、敵を倒す。出陣、我らのもっとも重要な任務だ」
     出陣、私の頭の中で法螺貝が鳴った。いや、茶化すつもりはない。けれど初っ端から日常生活にかけ離れた単語がぶつけられたので混乱したのだ。
    「次に遠征。物資補給は大切だからな。俺たちの体はここで、主に四つのものを使って作られている。木炭、玉鋼、冷却材、砥石。この四つだ」
    「えっ、石? 膝丸さん、石でできてるの?」
     私が思わず声を上げれば、膝丸さんはやや説明する言葉を思案したようだった。黒い手袋の嵌められた手を顎のあたりに持って行く。
    「石、とは違うな。刀は鋼だ。木炭で火を焚き、鋼を溶かし、冷却材で冷やして整え、砥石で磨く。ざっとこの工程を経て俺たちは鍛刀される。その刀から審神者がこの肉体を励起するのだ。だから負傷した際はこれらを使わねば手入れできぬ。それゆえ、調達に出る任務が必要なのだ」
    「へ、へえ」
    「なお遠征は時間がかかるものが多い。必要だからと言ってそれを心得ておかねば、本丸が手薄になるゆえ、用心してくれ」
    「わかった……」
     買い出しみたいなものかな……。そりゃあ、大事だ。私はひとまず頷いた。でも、体はそういうものでできてても先程普通に食事は摂っていたから、そのあたりは別なのだろうか? 私はまたもや湧き出てきた疑問をひとまず置いておいた。あとにしよう。
     膝丸さんはつらつらとどこに行けば何が手に入ると書かれた表を指し示しつつ、後で見るようまとめた。それからぺらりとページを捲る。
    「最後は演練だ。他の本丸の刀剣男士と力を競う。審神者には一日に課される任務がある。演練は午前と午後、それぞれ五戦ずつ計十戦を政府より割り当てられるが、そのうち五戦を挑み三勝することが日課だ。ひと月の目標値もある」
    「け、結構、一日でやることが多いんだね」
     下手したら高校の予習や復習、定期考査よりもノルマとしては厳しいかもしれない。やや顔の表情が強張った気がした。すると膝丸さんはちろりと私の顔を見て、それからぱたんとマニュアルを閉じる。
    「が、今はこの三つのどれもできない」
    「えっできないの?」
     拍子抜けした。今までできないことの説明を受けていたのか。いや、知識としては必要だったのかもしれないけれど、でも。膝丸さんはマニュアルを机の上に置く。
    「できぬ。昨日も言ったように、今この本丸は外部との連絡が取れない。ゆえに、まず演練の割り当てがない。政府の演練場に向かえぬからな。出陣も遠征も無理だ、転送装置が動かぬ以上、俺たちは過去へ飛べない。したがって、日課のほとんどはできないということになる」
    「それは……膝丸さん達も、困ったね」
     思ったよりも事は重大のようだった。自分が帰れないばかりではない、このままだと膝丸さん達もかなり問題がある。膝丸さんは神妙な顔で「ああ」と言って頷いた。昨日からずっと思っていたが、膝丸さんはかなり真面目な質のようだ。動作や言葉の端々からそれを感じる。
    「じゃあ、その普段の日課ができない今は何をすればいいの? 一応仕事はあるんだよね」
     膝丸さんが居住まいを正した。正座をして、ピンと背筋を伸ばした膝丸さんは座っていても私よりずっと上背があり、かなり見下ろされる。怒られているわけではないのに、何となくそういう心地になってしまって私は委縮した。自然と背中が丸まってしまう。
    「ないな」
    「……ないの?」
    「ああ、ない」
     はっきりと、膝丸さんは言い切る。じゃあ、どうしていればいいのだろう。私はおそらく前の審神者の人が仕事をしていた場所でただ座り込んだ。膝丸さんのほうはすっと膝を立てて腰を上げる。
    「君にはひとまずこちらにいてもらいたい。何かあれば俺を呼べ、すぐに来る」
    「えっ、あの、膝丸さんはどこに」
    「俺は畑を手伝いに行くことになっている。なに、君の声は届く。夕餉は陽が落ちた頃だ、また今日の厨当番が君の食べやすいものを用意するだろう、心配は要らぬ」
    「いやあの、ちょっと」
     それだけ言うと、膝丸さんは出て行ってしまった。本当に、ここにいるだけでいいのだろうか。そんなはずないだろう。けれどきっぱり「仕事はない」と言い切られた以上、何も知らない私にできることを見つけることも難しく、何度か立ち上がろうとはしたが結局座布団の上に腰を下ろす。どうにも、拍子抜けをしたというのが一番近く、正しかった。相変わらず「審神者」が何なのかさっぱりわからないけれど、けれどただ部屋に座っているだけというのも。
     少しだけ、やさぐれた気持ちで部屋に大の字になりたくなった。しかしセーラー服のスカートであるし、それはやめた。この執務室という場所は縁側と中庭に面した開けた場所で、誰が通るかわからない。どうしたらいいかわからないために、ただ机の上を見つめてぼんやり座り耳を澄ませる。いい木なのか、机の上に額を乗せるとゴンと音がした。
    「帰りたい……」
     遠く、遠くにだが先程順繰りに自己紹介してくれた誰かの声が聞こえた。でもそれが誰なのかまでは、今の私には判別がつかなかった。
     しかしぐでっと机の上に倒れこんで首を回すと、誰かと目が合った。ぎょっとして硬直してしまう。青い、青い綺麗な目だ。
    「ぅわっ!」
     声を上げて跳ね起きれば、こちらを覗き込んでいた男の子もびくっとして一歩後ずさった。しまった、驚いてよくない反応をしてしまった。男の子は前田君より少しだけ背の低い、同じような体操服を着ている。
    「あっ、ごめんなさい、びっくりさせるつもりはなくて。僕は」
    「待って! 待って思い出すから!」
     さっき自己紹介をしてもらったばかりだ。私は上から下まで男の子を見る。青い綺麗な目、ピンクの髪、前田君と同じ服。前田君と同じ服の子は皆下の名前が同じだった。えーっと。
    「えーっと、藤四郎君、藤四郎君だよね」
    「はい!」
    「えーっと、えーっと」
     ピンクの髪の子は少なかった。一人はもっと背が高くて、ああそうだ思い出した!
    「秋田君、秋田藤四郎君!」
     東北の県、と覚えていたのだ。刀剣男士の名前、割と地名が多い。
    「はい!」
     正解だったらしく、秋田君は嬉しそうにして、白いタイツの脚を動かし私の前に正座する。丁寧に頭を下げ、溌溂としたキラキラの笑顔で話し始めた。
    「前田に聞いたら、新しい主君は今日は部屋にいるはずだって。少しお話するくらいならいいんじゃないかって聞いたので。驚かせてすみません」
    「ううん、いいの、ちょうど退屈してて。……退屈ってまずいかな、ごめん」
     私が言えば、秋田君は首を振った。ふわふわした髪が左右に揺れる。
    「いえ! 僕も今日は非番です。それより、僕の名前もう覚えてくれたんですね、嬉しいです」
     可愛いなあと私は純粋に思った。年の離れた子と接することが殆どなかったせいか、なんだか新鮮なのもある。とはいっても、膝丸さん然り、きっと秋田君も私よりずっとずっと年上なのだろうけれど。
     何かお菓子でもあればいいなと部屋を見てみたけれど、生憎どこに何があるのかさっぱりわからないし掻きまわすのも気が引けてやめた。秋田君の方に向き直って、せっかく話に来てくれたのだしと口を開く。
    「非番って、普段は何してるの?」
     先ほど膝丸さんは審神者の仕事については教えてくれたけれど、自分たちが何をしているのかは出陣だのなんだの以外に説明してくれなかった。お屋敷の中ががやがやしているところを見るに、皆何かしているのだろうが、聞いて邪魔するのもなんだかと思ってしまう。
     秋田君は私の質問に大きく頷くと、元気よく答えてくれる。前田君と同じ年の頃合いなんだろうけれど、前田君よりずっと秋田君は無邪気だった。
    「はい、戦に出ないときは畑や、お馬さんのお世話をします」
    「馬っ? ここ馬がいるの?」
    「いますよ! 今度見に行きましょう」
     畑はさっきう膝丸さんから聞いたが、馬、馬までいるのか……。私は若干脱力した。本当にファンタジーの世界だ。そんなの動物園や遠足で行った牧場でくらいでしか見たことがない。
    「い、色々あるんだね、やること……」
    「はい、僕らには毎日、役目がありますから」
    「役目?」
    「はい」
     秋田君は頷いて、指折り数え始める。
    「戦って、敵を倒します。任務を達成すると資材がもらえるので、遠征に出陣に、欠かせません。それがないときは、鍛錬して腕を磨く必要があります。他にもこの体は食べないとお腹がすくし、畑に厨に、買い出しに、皆で分担します。皆でやるんです」
    「そっか……一人でも欠けたら大変だね」
     はい、と秋田君は笑った。
    「例えば僕は短刀で体も小さいから、高いところのお掃除はできません。でもそういうときは、大太刀や太刀の皆さんに頼みます。膝丸さんも肩車してくれるんですよ」
    「へ、へえ……」
     膝丸さんが、秋田君を肩車。全然想像がつかない。私は苦笑いした。そういうことをするように、一切見えなかった。
    「でもその分、細かいところに手が届くし、狭いところは僕がお掃除するんです。僕はここでそういう風に過ごすのがとても好きです。だから新しい主君も、ここが好きになってくれるといいんですが……」
     あ、しまった。帰りたい、も聞かれていたのか。私はバツが悪くなって慌てて頷く。
    「もちろんだよ、こちらこそよろしくね。今のところ何もできないし、何にもわかんないけど……」
    「いいえ、主君はもう僕らの名前を憶えてくれたじゃないですか!」
     嬉しそうな秋田君が私の手を握ったので、私はホッと息を吐いた。小さいけれど、しっかりした手だ。それにとても温かかった。
    「ありがとう、それもまだ怪しんだけどね。頑張るよ」
    「はい!」
     遠くから「秋田ー」と呼ぶ声が聞こえて、あっと秋田君が振り返る。「細かいところのお掃除」が見つかったのだろうか。
     秋田君はまた遊びに来ますねと手を振って部屋を出て行く。私はまた部屋に一人になったけれど、今度は机の上に突っ伏す気にはなれなかった。
    「……役目かあ」
     あまり、今まで口に出したことのない言葉だった。
     私の今までの役目とは、なんだったのだろう。何となく考えて制服を見下ろす。学校に行って、勉強すること? 一日六時間座って、授業を聞いて……なんだか私以外の誰でも出来そうなことだった。
     今、向こうの世界は私がいなくなったことに誰か気付いているのだろうか。ふとそんなことを考えてしまって、ぎゅっと胸を掴まれたような気持ちになる。慌てて、机の上に置いてあった単語カードもとい刀剣男士の名前カードを取った。
     せめて、覚えよう。今日何もしないなら、今日が終わるまでに名前だけでも。ざわざわと波立った心を押さえて、私はそのカードを捲った。


     陽が落ちた頃、膝丸さんは夕飯だと執務室に迎えに来てくれた。畑に行っていた割には特に服が汚れたり、汗をかいている様子はない。出て行ったとき同様綺麗なままの膝丸さんだった。どうしてだろうと考えて、ジャージに着替えて行ったのだなと正解に辿り着く。日中ただ座り込んでいた私は、なら朝から晩までジャージでもよかったのにと思った。
     そんな、私と話すときだけ着替えなくても。そう口に出しかけて、やめた。
     執務室を出て廊下を進み、朝食事を摂った広い部屋に向かっていると廊下の奥から前田君が歩いてくるのが見えた。前田君はこちらに気づくとにこりと笑って速足になる。けれど足音はさほど響かなかった。
    「ああ、膝丸さんが呼びに行ってくれたんですね。今日一日慣れないことばかりでお疲れでしょう。今声を掛けに行こうとしていました」
     栗色のおかっぱ頭を揺らしてやってきた前田君を見ると、安堵して肩の力が抜けた。思わずほっとして一歩前に出る。
    「前田君、よかった」
    「よかった? 何かありましたか?」
     私の言葉に前田君は怪訝そうにした。それには慌てて首を振る。特に何かがあったわけではない。強いて言えば何もなさ過ぎた。なさ過ぎてやや疲れただけだ。
    「前田、後は頼めるか。俺は少し、あたりを見て回るゆえ」
     膝丸さんが言ったのに、前田君は頷いた。
    「おひとりでよろしいでしょうか、兄弟の誰かを行かせても」
    「いや、まだこの程度なら俺一人で問題あるまい。行ってくる。君、夕餉を食べたら今朝起きた部屋にいるといい。あそこは浴室も何もかもついている。朝は声を掛けに参るゆえ。では」
    「わかりました、お気をつけて」
     それだけ言い置くと、膝丸さんはくるりと踵を返して行ってしまった。黒い上下の衣服の膝丸さんは、明かりもあまりない廊下ではすぐにその姿が見えなくなってしまった。これから夕飯なのに、膝丸さんはどこに行ってしまったんだろう。けれど前田君は礼儀正しく、私に先を促した。
    「夕餉ができております、広間まで参りましょう」
    「あ、うん、前田君、あの」
    「なんでしょう」
     やはり前田君の足音は殆どなく、廊下には私の板間を擦るハイソックスの音しかしなかった。
    「昨日説明は受けたんだけど、近侍って、前田君に変わってもらうことできないのかな」
     そう言えば、前田君はぱちくりと目を丸くして瞬きを繰り返した。そうしていると、前田君も外見相応の少年に見えなくもない。
    「どうかしましたか? 近侍を交替することは不可能ではありませんが、膝丸さんは近侍を務めて長いですし、一番こちらの職務については知った方ですが」
    「あっ、いや、無理ならいいんだけどね、でもなんだかこう……その、居たたまれなくて」
     うまく言葉にできず、結局そう有り体に言った。膝丸さんには申し訳ないけれど、実際そうなのだ、許してほしい。真面目で、きっといい人なのはわかるけれど、前にすると蛇に睨まれた蛙の気持ちになる。
     するとそれを聞いて前田君はまた目を丸くし、それからあははと笑った。ふふ、と口元に手をやって育ちのよさそうな笑い声を漏らしながら前田君は肩を揺らす。
    「ま、前田君?」
    「失礼しました。申し訳ありません。僕を近侍にと言ってくださったことは誉ですが、でも、そういう理由でしたら。少しだけ日が経つのをお待ちになってください」
    「えぇ? どうして?」
    「膝丸さんはお姿こそ厳しく見える方ですが、そればかりではありません。あなたの……あなたの近侍を務めるには、ふさわしい刀だと僕は思います」
     前田君はそう言って柔らかく微笑むと、「さあ」と私に広間への道を示す。いまいち腑には落ちなかったけれど、私はそれに従った。
     大広間には午前中に自己紹介をしてくれた殆どの刀剣男士たちがいて、私にも親し気に話しかけてくれた。食事は家族旅行で行った旅館のご飯のように多く、食べながら「今日は一日どうだった?」だとか「本丸のご飯は美味しい?」だとか口々に聞いてくれる刀剣男士たちに、私は何とか返事をする。膝丸さんの言うように、ここの刀剣男士は一様に私のことを歓迎してくれているようで、少し気持ちが解れた。けれどいつまで経っても、私がやや多い夕飯を食べおえても、膝丸さんは大広間に姿を見せなかった。
     大広間から昨日寝室に使った部屋まではまた前田君が送ってくれた。古い作りの和風家屋らしく、ここは夜になると一気に明かりが少なくなる。電気がないというわけではない。雰囲気の問題だろうか。木でできた家でこんなに長く過ごすのが初めてなのもあるのかもしれない。
    「それでは、ゆるりとお休みください。厠もこちらの部屋にはございます」
    「すごいね、一人暮らしの部屋みたい。皆の部屋もそうなの?」
     私が聞けば、前田君は笑って首を振った。
    「いいえ、以前の主君が女性でしたから。できるだけこの部屋ですべてが済むように造られていたのです。どうぞご自分の部屋のようにお使いくださいね」
     そうか、前の審神者の人は女の人だったんだ。おやすみなさいと前田君は頭を下げ、襖を閉めて去っていく。途端にシンと部屋の中は何の音もしなくなった。不思議だ、もう少し歩く音だとか何かしてもいいはずなのに。
     部屋の奥の扉を開いてみれば、前田君が言ったように簡単にだが浴室とトイレがあった。昨日は疲れてそのまま眠ってしまったから、私はちゃんとそれらを使わせてもらうことにして備え付けの箪笥を開いてみる。バスタオルと、パジャマも用意されていた。前田君が今朝「使いやすいものに」と言ってくれていたのを思い出して暖かな気持ちになる。
    「どうしよう、かな」
     ひとしきりの寝支度を整えても、普段家で寝る時間よりずっとずっと早かった。それに、今日何もしていないせいで眠たくもない。困ったなと呟いたが、その声はいやに部屋に響いた。
     トイレもお風呂もここにある。となれば、もう部屋から出る用などない、けれど。
    「お水でも、もらおうかな」
     誰が聞いているわけでもないのだが、私はそんな風に呟いて襖に手を掛けた。部屋で寛いでくれ、この部屋を使ってくれとは言われたけれど、部屋から出るなとは言われていない。だからいいだろうとは思うのだけれど、なんだかこれだけぴったりと閉められていると躊躇う。ファンタジーの世界なのだから、不思議な力で鍵がかけられている、とか。
    「え、えい」
     なんとなく声を小さく上げてから、すっと襖を引いた。すると存外あっさりと襖は横に動いた。なんだ、開くじゃないか。首だけを廊下に出し、襖の持ち手を見てみる。いたって普通の、私も見たことがある襖だ。鍵なんか掛けられるはずがなかった。
    「そうだよね……」
     当たり前だ、そんなの当たり前なのだけれど。ふうと息を吐いて廊下を見回す。人の気配はなかった。
    「ま、前田君……?」
     呼べば、前田君なら来てくれる気がした。けれど当然すっと前田君は現れたりしない。
    「困ったときは俺を呼べ」
     ふと、脳裏に膝丸さんの言葉が戻ってきた。そういえばそんなことを言っていたような気もするけれど……。けれど今膝丸さんを呼んで、このくらい廊下にふっと出てこられでもしたら叫んでしまいそうだ。やめておこう。
     私は意を決して、部屋から出た。とはいえそんなに遅い時間でもない、誰かしら起きているだろう、きっと。
     まずはうろ覚えの記憶で台所に向かってみた。こっちだったはず、と足を進めると辿り着くことはできたが誰もいなかった。ピカピカに磨かれた台所と、大きなテーブルだけがそこに静かにある。ならば大広間と覗いたがそちらも誰もいない。刀は早寝なのだろうか?
    「嘘、本当に誰もいないの……?」
     暗い、暗い、古い和風家屋。それだけで不気味なのに、だだっ広い大広間は私をさらに不安にさせた。板張りの廊下から直接足の裏の皮膚にひんやりとした冷気が伝う。
     本当は、これは全部夢だったりして。ぼんやりとしたそんな考えが私の頭をよぎった。刀剣男士とか、審神者とか全部夢で、目を覚ましたら家にいたりして。だったら早く覚めてほしい、そうだとしたら、覚えている中でもかなり悪い夢だ。早く家に帰りたい。一歩後ろに下がると、ぺたりと裸足の音が響く。自分の足音だと理解しているはずなのに、意味もなく首の裏に鳥肌が立った。
    「や、だなあ、夢かあ」
     口に出さないと頭が変になりそうだ。早く覚めて、夢なら早く。
     そうだ、部屋に戻って寝直そう。私は一人で頷いてつま先を元来た道に向けた。寝て起きたら、きっと自分の部屋だ、そうに違いない。駆け足で廊下を進もうとしたとき、何かが奥を過ぎった。
    「な、なに?」
     もう考えていることが全て口から出てくる。赤い、赤い光だった。豆電球のような小さい光。ゆらゆらと揺れている。あんなの知らない、見たことがない。口の中が急に乾いてカラカラになった。
    「やだ、本当に、何?」
     あちらに進まなくては部屋に帰れない。けれどゆらゆら揺れる赤い光のほうはこちらに近づいてくる。怖い、という気持ちが私の足を後ろに進ませた。けれど何かに気づいたように赤い光は速度を上げて向かってくる。
    「やっ、やだっやだ、誰か!」
     誰か、助けてくれる、誰か。
    「膝丸さん!」
     悲鳴なのか、言葉なのかもうわからなかった。けれどそう叫んだ瞬間、手首をぐんと引かれて体が後ろに倒れる。
    「何故部屋の外にいるんだ、君は!」
     怒っているような、焦っているような声で返事をしてくれたのは膝丸さんだった。どうして、呼んだら本当に来てくれたのか。
    「えっ、だって、なんでここに」
    「っよりにもよって短刀か、失礼するぞ!」
     太い腕がいきなりお腹のあたりに回った。それからいきなり膝丸さんが走り出す。どう考えても私は膝丸さんに荷物のようにして抱えられていた。
    「どうして部屋から出た、早く休めと前田が言っていただろう!」
    「部屋から出ちゃだめなんて言われなかった!」
    「ほぼ同じ意味だ! だめだ、これでは腕が使えん、君ちょっと体勢を変えてくれ!」
     腹に腕を回して私を抱えていた膝丸さんは、今度は小さい子を抱っこするように脇の下とお尻のあたりに片腕を回してきた。どういう腕力をしているのだ、私だって女子高生相応の重さがあるんだぞ。
    「いいか落ちないでくれ、首に掴まるのは構わぬが目だけは塞ぐな、俺は太刀ゆえ、暗い中ではただでさえ視界が悪い」
    「わっ、わか」
    「話すと舌を噛むぞ」
     どっちなんだ。膝丸さんはバタバタと廊下をでたらめに走っている。どこに向かっているのかは、まだこの屋敷のつくりがわかっていない私にはさっぱりだった。しかし振り落とされないように膝丸さんの首に掴まったとき、背後を見てぎょっとする。
    「ひっ、膝丸さん、何っですか、あれ! ほ、骨っ? 骨が飛んでる!」
     頭蓋骨に尻尾がついたような、骨が飛びながら追いかけてくる。それもすごい速さだった。膝丸さんが追い付かれないように全速力で走っている理由をやっと理解した。あの赤い光は、追ってくる骨の目の光だったのだ。
    「敵短刀だ、殺傷力はさほど高くないが足が速い。だがあれ一体でも君一人くらいなら十分に殺せるぞ!」
    「じゅ、ころせ、えっ」
     敵とか言った? 敵は出陣しないといないのではなかったか。がちゃがちゃと膝丸さんが走るたびに腰に佩いている太刀が揺れた。あれを使えばいいんじゃ、と言おうとしたが、鞘がどこかにガタンとぶつかったのを見てすぐに察する。狭すぎて使えない。
    「ひっ、ざまるさん、もしかして、今、戦えないんですかっ?」
    「ああ、俺は太刀だ。室内戦は向いていない、夜戦もな!」
     弾みをつけて、膝丸さんが飛ぶように一息に廊下を進んだ。それからガンと立てられていた戸板を蹴倒す。そこでやっと、私はそこが縁側に面したあの廊下なのだとわかった。膝丸さんが吹っ飛ばした雨戸は割れたり砕けたりする音を立てながら派手に外れる。
    「前田ァッ!」
    「倒れなさいっ!」
     ヒュっと冷たい風と音が一度に耳元を掠めて行った。きらりと光った何かとタッセルのついたマントが視界の端を過ぎる。
     私は思わず膝丸さんの首元にしがみついた。指先が震えている。あれは一体なんだ。
    「これで最後か」
    「ええ、恐らく。少々数が多かったようです」
    「うむ……やはり結界が緩んだか。無理もない」
     至近距離で、膝丸さんの低い声がした。あの優しく笑っていた前田君は、体操服ではなく制服のような格好に着替えていた。前田君が手にしている短い刀は、青い月の光を反射している。その刀はあの骨の頭の部分を貫通して砕き、地面に叩きつけていた。前田君も、刀剣男士なのだ。
    「お怪我は」
    「ないと思うが……。君、怪我は」
     何事もなかったかのように、膝丸さんは私を縁側に運びそこに下ろした。茫然として、何も言えない。
     今のは何だったのだ。骨だった、飛んでいた、不気味だった。まぎれもなく、化け物だったのだ。怖い、気持ちが悪い、どうしたらいい。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、一気に涙になる。止めることも、止めようと思うこともできず、ぼろぼろと目から流れた。
    「どこか痛むか」
     膝丸さんが手を伸ばしたが、勢いよく振り払ってしまった。濁り、滲んだ視界で前田君がアッと口を開くのがわかる。
    「あれ、あれなに? 敵? あれが敵なの?」
     こちらに伸ばした手を上げたままで、膝丸さんは頷いた。
    「そうだ。あれが俺たちが倒すべき時間遡行軍、敵だ」
    「出陣はないって、膝丸さん言ったじゃない! 出陣できないからって、昼に!」
    「ああ、そうだ。こちらから向かうことはできない。しかし向こうが攻め込むことはできる。ここには今、主がいない。審神者は本丸の要だ、守護も審神者の霊力で行う。主がいない以上、ここの守りは甘い。こうしてたまに、はぐれが迷い込んでくる。だが君が来た、いずれ元通りになる」
    「そんなのっ! そんなのいつかわからないじゃない!」
     こんな風に自分が泣き叫ぶのが、いつ以来のことだかもうわからなかった。小学生か、それとももっと昔か。そのくらい取り乱し、拒絶し、怒る。膝丸さんは黙って、蜂蜜色の瞳でこちらを見つめていた。
    「私、私ただここで待ってればいいんだと思った! 主の代わりして、いつか帰れるの待ってればいいって!」
    「そうだ、それで正しい。君はここで待つしかない。俺たちも、外との連絡が通じるのを待つしかない。同じだ」
     再び伸びてきた手を今度は弾く。パチンと乾いた音がした。じんじんと手の甲が痛む。
    「でもあんなのが、あんなのがしょっちゅう来るなんてないよ! 勘弁して、そんなの死んじゃう! 帰れる前に、死んじゃうよ!」
    「死にはしない」
     低い声で、簡潔に、ただ答えて膝丸さんが言う。同時に暴れる私の手首を掴んだ。
    「君は死なない。それだけは。きちんと、現世に戻す。俺が約束しよう」
     膝丸さんが私に合わせて膝を突いていたために、今までで一番近く、薄緑のサラサラの髪と不思議な色合いの目を正面から見つめた。月明かりの逆光で、薄緑の髪は僅かに透ける。
     この人は、ヒトじゃない。刀だ。今腰から吊るしてある、刀なのだ。
     それなのに私の手首を掴んでいる手は、温かかった。
    「約束しよう、この源氏の重宝膝丸が君を必ず家に帰す。本当だぞ」
     なんで、どうして、私だったんだ。ぼろぼろと泣きながら、私は自分の手首を握っている膝丸さんの手に縋る。こんなところに、来たくなかった。普通の女子高生をしていたかった、ありきたりで平凡でも、こんなわけのわからない場所に来るよりはずっと。
    「帰りたいよぉ……っ」
     こわい、いやだ。早く家に戻りたい。
     でも確かに、今誰かを頼れるとしたら、このヒトではない別な何かの大きな手しかない。
     嗚咽する私の頭を、やや躊躇いがちに膝丸さんが何度か撫でた。それから私の手を握ったままで、ジャッとファスナーか何かを降ろす音が響く。
    「……戻ろう、今夜は俺が部屋の前に控える。前田、後は頼んだ」
    「はい」
     前田君は足早に私に近づいて、ポケットから出した綿の柔らかいハンカチを握らせてくれた。それとパジャマの袖を目に押し当てた私の背を膝丸さんが押す。
     膝丸さんによって雨戸が蹴破られたせいで、廊下には一筋真っ直ぐと月の光が差し込んでいた。私は今、この道しか選べない。悪い夢だと、誰か言って。明日起きたら、全部夢だって。
     白く伸びた真っ直ぐな月の光の道を、私は刀に手を引かれて進んだ。


     寝たような、寝ていないような。翌朝の私の頭はぼんやりとしていた。うつらうつらとして、僅かに聞こえた物音にびくついて起き上がって。その繰り返しだったのだ。しかし先程からパタパタとした足音なんかが畳を伝ってきていて、朝が来たのだろうと教えてくる。
     夢ではない。白くふかふかの布団の中で、私は枕に顔を埋めた。
    「……君、起きているか。膝丸だ、直に朝食だが、どうする」
     トントン、と襖を叩かれてのろのろと体を起こす。本当に、一晩そこに控えていたのだろうか。真面目なことだ。はあとため息をついて、私は襖に手を掛けた。引きこもっていたいが、そういうわけにもいかないとわかっている。
     夢でない以上、ここで私は生きていかなくてはいけない。それがいつまでなのか、いつまでもなのか、どちらかわからなくても。
    「起きてる……」
     襖を開くと、黒いジャケットがまず見えた。背の高い膝丸さんは、私が正面に立つと胸のあたりまでしか見ることができない。だからダイレクトに、上から膝丸さんの声は降ってくる。
    「そうか。気分が悪いなら、厨のものに言って何か取ってくる。今日は部屋にいたいというのなら、それで構わぬ」
    「……」
     私は黙って、首だけ振った。心配していると思ったのだ。自分とは違う、モノだけれど。昨日一日、刀剣男士には優しくしてもらった。歓迎されていたのは間違いなく事実だったと思う。だから……と思うにはまだ、少し無理があったけれど。
    「……すまなかった」
     ぼそりと膝丸さんが言った。ゆっくり顔を上げると、膝丸さんは僅かに開いた口をいくらか迷ったように噛んだが、それでももう一度言う。
    「君は何も、知らなかった。ゆえに、稀にでも敵が来ることは黙っておいた方がいいと思ったのだ。怖がらせる前に、俺が切り伏せればいいと。だがそのせいで、君に恐ろしい思いをさせた。すまなかった」
     本当に、何も知らないのだな。昨日何度も膝丸さんが言ったことを思い出す。私はそれを、てっきり、膝丸さんが私に呆れているのだと思っていた。
     よく見れば、膝丸さんの黒いジャケットの襟には土埃がついていた。襟はよれて、髪もやや乱れている。疲労、とは違うのだろう。けれど明らかに膝丸さんはずっと昨日から動き回っていた様子が見て取れた。
     きっと、私が夕食を食べているときから見回っていたのだ。大広間に一度も顔を見せないで、あの化け物が来ないようにしていた。
    「だが昨日約束したことに嘘はない。必ず俺が、君を家に帰らせてみせる。誓って、本当だぞ」
     はっきり、膝丸さんは言い切った。
     ああ、膝丸さんもだ。私は鼻を啜って擦る。これがきっと、膝丸さんの役目なのだ。ここにいる間、私の面倒を見る。きっとそれが……。
    「……たぶん、膝丸さんが思ってる以上に、私刀剣男士だとか、審神者とか、全然わかってないんだと思う。ごめんなさい」
     夜通しぐずっていたせいで、鼻が詰まってうまく話せなかった。濁った声なのが少し恥ずかしい。
    「……君が謝ることではない。それは仕方のないことだ。本丸が君を引き込んだのだから。君がここにいてくれるだけで、少しでもこの場は安定する。だから気にする必要はない」
    「そうかもしれないけど、でも」
     まだ、帰ることができないのなら。いつ帰ることができるかわからないのなら。
    「私を仲間外れに、しないでほしい……」
     やっと絞り出したのは、そんな子どもっぽい言葉だけだった。
     けどきっと、たぶん、一番は寂しかったのだ。ここで私だけが何もできず、一人でいることが寂しかった。
    「私ね、向こうにいる間は、ただ座って毎日授業受けてればそれで一日が終わってた。そういうものだと思ってたの。それが普通だって」
     クラスにいるとき、私はたぶんたくさんいるうちの誰か一人だった。皆同じ制服を着て、同じように列に並んで、授業を受けて帰る誰か。例えば今私がいなくなったことを、誰か気にしているんだろうか。そんなことを考えてしまうくらいの、誰か。
     でも、ここではきっと、そうじゃない。そうしていてはいけない場所なのだ。
     一振、一振に役目がある。役目があって、するべきことがある場所だ。だからきっと、私にもやるべきことがある。
    「全然わかんないけど、死ぬのも絶対嫌だけど。でもここにいる間は、ここでくらいは、私も何かしたい。皆優しいし、歓迎してくれたし、そういうところで何もしないのは、嫌だと思う。だから、面倒かもしれないけど教えてくれないかな、全部一からになっちゃうけど。でも皆の名前はちゃんと、覚えたから」
     教えてほしい、ここでどうして生きていけばいいか。
     私には、何ができるのか。
     こういうときはどうしたらいいだろう、私はただ頭を下げる。するとスウと一つ呼吸を置いてから、聞き慣れた低い声が答えた。
    「……ああ、任された」
     パっと顔を上げれば、蜂蜜色の瞳が僅かに細められ、なんと微笑んだ膝丸さんがこちらを見ていた。この人笑えたのか、なんて失礼なことを思う。
    「俺に任せておけ。君がここにいる間、俺は君の近侍なのだから。約束しよう、君がいつか帰るまで。俺が君の力になろう」
     黒い、手袋をした手が差し出される。握ってみれば、ぎゅっと握り返された。
    「膝丸さん、主君! 朝食が出来ています、どうかしましたか?」
    「ああ、前田、今行く。では行こうか、君」
    「……うん」
     私は一歩、自分の足で廊下を歩き出した。
       今日も頑張ろう


    「起床!」
    「ぅわっ!」
     いきなりものすごくよく通った声が響き渡って私は布団から跳ね起きた。なんだ、何事だ、慌てて周囲を見回せば私の枕元に仁王立ちの膝丸さんが立っている。
    「君、もう朝だ。起きるといい」
    「あ、あさ? いや、まだ若干暗いんだけど」
     窓の外は白み始めた頃のようで、障子の向こうが薄ぼんやりとしている様しか確認ができない。夜明け直後なのではないだろうか。
    「君はここで暮らすために必要なことを教えてくれと言った。だから俺たちと同様に過ごすのが一番だろう。朝は畑仕事がある、着替えて行かねば」
    「は、畑」
     そう言えばそうだった。あと馬もいるのだったか。私は立ち上がって、昨日借りたハンガーにかけてあったセーラー服を手に取る。いや、セーラーでいいのだろうか。生憎私は体操服なんかは持っていない。
    「膝丸さん、運動着借りれないかな。私これだとちょっと、あんまり動くのに向いてない気がする」
    「む、そうだな。少し待っていてくれ」
     腕組みをして立っていた膝丸さんは部屋を出て行った。その間にぱぱっとひとまず顔を洗ったところで、膝丸さんが戻ってくる。手には自分が着ているのと同じジャージを持っていた。
    「これを使ってくれ。洗ってあるから気にしなくていい」
    「あ、どうもありがとう」
    「俺は外で待つ、着替えたら声を掛けてくれ」
     スッと襖が閉められた。手渡されたのはジャージの上下と、グレーのポロシャツ。膝丸さんが着ていたのをそのまま一揃いのようだ。嫌な予感がする。
     うーんと思いながら袖を通してみるが……やはり大きい。ポロシャツは半袖丈のもののようだが、私が着ると七分に近い。ジャージの上着もダボッとして斬れなくはないが明らかなオーバーサイズ。下はもう試すのさえやめて、仕方なしにセーラー服のスカートを履いた。
    「膝丸さん、着たけど」
    「そうか、では行くぞ」
    「あー……」
     膝丸さんはすぐに踵を返して廊下を進み始める。下が合わないと言えなかった。見れば気づくだろうと思ったのに、膝丸さんは私の服装になど目もくれなかったらしい。まあ私が気を付けておけばいいか……。そんな風に思って玄関に行く。しまった、靴もローファーだ。運動靴……なんか借りれないか。
     玄関から出て、膝丸さんはそのすぐ前にある門を指した。ぴったりと閉ざされた、立派な門だ。修学旅行で行った大きなお寺だとかそういうところでしか見たことがない。
    「君、あれがこの本丸の門だ。今は閉ざしてある。ここから外には出ないようにしてくれ」
    「一応聞いてもいい? どうして?」
     まだ薄暗いそこで聞けば、膝丸さんは一つ頷いて門と同様に高い塀の向こうを見やった。
    「構わぬ、わからぬことはなんでも。この門の外はいつもならこの本丸のある場所に繋がっている。主には山だった」
     山、かあ。私も膝丸さん同様に塀の先を見つめた。確かに青々とした木々が見える。この場所がやけに空気が澄んで静かなのは、そういう理由だったのか。
    「しかし今は場所自体が不安定なのだ。この門を開くことはできる。外に出ることも。しかしひとたび表に出て、この門が同じ場所にあると保証が出来ぬ」
    「……どういうこと?」
    「門が正しい場所を維持できぬのだ。あったりなかったりする。ゆえ、今はここは閉ざしてある。何かが迷い込んできても困る、帰ってこれなくなっても困る」
     なるほど、本当にどこにも行けないのだ。表に出て行ったが最後帰ってこられなくなっては、どうしようもない。外からは鳥の声もして散歩なんてしたら気持ちよさそうだったが、残念。
     畑や馬小屋は塀の内、敷地の中にあるという膝丸さんに案内してもらう。寝起きしている母屋も相当な広さだが、この本丸という場所は広大すぎる敷地があるようだ。これだけの人数で自給自足しているのだから、当たり前なのかもしれないが。
    「主君、おはようございます。朝早く大変でしたでしょう」
    「前田君、おはよう」
     畑にはもう何振かの刀剣男士が先に来て作業を始めており、こちらを見た前田君が笑顔で頭を下げる。それからじっと私の服装を見た。
    「主君、失礼ですが……寒くはありませんか?」
    「えっ」
     上から下まで私は自分の格好を見る。やっぱり足か、足だろう。何と答えるか迷って、えーっとと言い淀んでいると「君」なんて膝丸さんに呼ばれた。
    「この本丸ではここら一帯で畑を興している。朝するのは収穫と、水撒き。昼には当番を振られたものが草むしりや種蒔きもする。どれも交代制だ。あの奥に見えているのが馬小屋、そちらも掃除餌やりが当番制だ」
    「当番制、わかった。私もこれから入るよね?」
     ぱちぱちと膝丸さんは何度か瞬きを繰り返した。それからうむと頷く。
    「君がそれでいいのなら。厨や掃除も当番制だ。暫くは俺と同じにしてもらう」
    「わかった。よろしくお願いします」
    「……ん」
     付きっきりで指導してもらえるのはありがたいけれど、若干申し訳ない。私が頭を下げると、膝丸さんは頷いた。それにしたって今日の膝丸さんはあまり目が合わない。どうしてだろう、と思っているとおーいなんて伸びやかな声が聞こえた。
    「主、おはよう、よかったらこれ抜いてみてよ! 食べごろだよ!」
    「あ、えっと安定君、おはよう」
     ポニーテールにした髪と青い着物、白い襷がけをした大和守安定君が手を振っている。ほくろの位置で名前を覚えた。
     安定君がいる場所に、野菜を踏まないようにして近寄る。土が思ったより柔らかい。耕されたものだからなのだろうか。これはローファーでは心もとない、やはり誰かに言って運動靴を借りよう。
    「安定君、これなに?」
    「大根だよ、これ一本抜けば今朝の味噌汁分にはなると思うんだよね」
    「大根……」
     抜く、これを。黒に近い色をした土に埋まっている大根は、立派な茎と葉を伸ばしている。この状態で見ても、結構大きい気がした。
    「これ、掴んじゃっていいの? 葉っぱ」
    「うん、じゃないと抜けないし。思いっきり行って」
    「お、思いっきり、わかった」
     よいしょと盛り上げてある畝を跨ぐ。それから大根の頭を掴んだ。
    「おっ、大将、いいねえ」
     眼鏡の薬研君が面白そうにこちらを見た。少し引いてみたが大根は抜ける気配を見せない。なんだこれは、硬い。というか長い?
    「あの、主君、足元が」
     前田君がわたわたとして言う。ぐっと私は安定君の言うように力いっぱい大根の葉を引いた。
    「うわっ!」
    「主君!」
    「主!」
     すぽんと大根は抜けた。白いそれが土から顔を出す。だがその拍子に私は思いっきり尻もちを搗く。辛うじて畝だけは避けた。
    「いった……」
    「大丈夫? 主。大根は立派だけど。掴まって」
    「そ、そりゃよかった……ありがとう」
     伸びてきた安定君の手を借りる。やっぱりローファーなんかじゃだめだ、踏ん張りがきかない。安定君が私の引き抜いた大根を持ちあげた。確かに大きい。
     朝から泥だらけになってしまった……なんて私が立ち上がろうとすると、膝丸さんが血相を変えてこちらにやってきた。
    「き、君、何故下を履いていない!」
    「え? 今さら?」
    「内番の履物を貸しただろう、何故着なかったのだ! 足がそのまま出ているではないか!」
     いやだから、今更気づいたのか。私はやや呆れた。顔を真っ赤にして膝丸さんが言うのに、前田君がおずおずと返した。
    「鯰尾兄さんか、厚兄さんにでも言って内番着を借りましょう。背の頃合いからしても丁度いいはずです。膝丸さんのものでは、主君に大きいですよ」
     ひとまずはこれで足をお隠しください、と前田君がつけていたケープを貸してくれる。それからこっそりと私の耳元で囁いた。
    「膝丸さんは古い時代のお生まれの方ですから、女性の主君の姿をあまりじろじろ見るのはと遠慮なさったんですよ。僕の方でご用意しますね」
    「あはは……そっか、ありがとう……」
     耳まで赤く染めた膝丸さんは収穫した野菜を担いで行ってしまう。私はそれをまだ歩きづらいローファーで追いかけた。さて、今日から頑張ろう。


     土を叩いて、結局私は今日のところは上に膝丸さんのジャージを借りて下は制服のスカートを着ることになった。膝丸さんが「今日はもう畑はいい」とげっそりした顔で言ったからだ。そういうわけで、私は本丸内の仕事を手伝うことになった。
     掃除、料理、洗濯、その他諸々。生活に必要なことのほとんどが本丸では分担されているらしい。まずは厨に行こうと膝丸さんは言った。もうちょっと親の手伝いだとかやっておけばよかったと私は思った。様々なことが些か心もとない。
    「無論、俺たちにも得手不得手はある。だから料理が得意なものは厨当番を多く担当するし、他も然りだ。君、何か得意なことは」
    「あ、あんまり思い当たらない……」
     呆れられるだろうか、と膝丸さんを見れば特に何か表情に出すでもなく「そうか」と言った。
    「あの、膝丸さんは料理、得意なの?」
     聞いてみると、ちらりと蜂蜜色の目がこちらを見る。
    「……俺が肉じゃがを作ると皆が喜ぶゆえ、よく作る」
    「へ、へえ……今度食べさせてね……」
     得意料理持ってた……。これはかなり頑張らないと本当に足を引っ張る。青ざめながら台所に向かえば、昨日とは違って、赤いジャージを着た爽やかな男の子ともう一人赤い着物の男の子が立っている。私は脳内で単語カードを捲った。青い目、黒い髪の男の子と、黒い髪、口元のほくろ。
    「ほ、りかわ君と、加州君」
    「おはようございます、主さん」
    「おはよう主。今日の昼当番は俺たちだよ」
     愛想よく挨拶してくれた二人の手元を見てみれば、何かをこねている。覗き込めば、それは餃子の種だった。
    「お昼、餃子?」
    「そうそ、ニラがいっぱいあったからさ。主も膝丸も手洗っといで」
     加州君に促され、私と膝丸さんは手を洗った。それからホッと息を吐く。良かった、餃子は作り方がわかる。傍に広げてあった材料の中から皮を取って、私は堀川君に聞いた。
    「包めばいいかな」
    「はい、人数が多い分タネも多いんで、主さんと膝丸さんはもう包み始めちゃってください」
    「わかった」
     ぐっと膝丸さんもジャージの袖をまくった。私もくるくると膝丸さんの上着を折る。
     餃子の皮を一枚取って、真ん中にタネを一口大に。それから水でのりをしてあとはひだを作って綴じる。単純作業だし、そう技術も必要ないから助かった。
    「主さんの餃子、綺麗ですね」
     堀川君が笑って褒めてくれる。堀川君はと言えば、手際よく肉と野菜とを混ぜてこねていた。
    「餃子って個性出るんだよねー。ほら膝丸のもそうじゃん」
    「む、おかしいか」
     膝丸さんのごつごつとした大きな手の上には、きちんと均等にひだの作られた餃子が載っていた。う、美しい。加州君は膝丸さんの言に首を振る。
    「んーん、店で売れるレベルって言ってんの」
    「そうか」
    「人によっては具が多すぎて焼いてて破けちゃったり、そもそも包むの苦手だったりするんですよ。主さん丁寧で助かります。さーて僕も包みますか!」
     元気よく堀川君も餃子の皮を手に取った。堀川君も模範的な包み方だ。加州君も然りである。しかも二人ともかなりてきぱきとしている。
    「二人はよく厨当番になるの?」
     二人に負けじと包みながら聞いてみると、加州君の方が「うーん」と首を捻った。
    「俺はまちまち。週一あるかないかくらい? 定期的にはやってる方だと思うけど」
    「加州さん感覚がいいから、手伝ってくれるのうまいし。僕は週に二か三回は入りますよ」
    「じゃあ得意な方なんだ、料理」
     きゅっとひだを作りながらそれには膝丸さんが答える。
    「この本丸で厨当番を務めることが多いのは、燭台切殿に歌仙殿、堀川に、前田や乱もそうだ。食事は三度、他に腹の空いたものは自分でここに立って作るものもいる」
    「そうなんだ……皆動くからお腹が空くのかな」
     私がそう言えば、堀川君があははと声を上げて笑った。その間にも手は忙しなく動いている。
    「きっと主さん驚きますよ。昨日は皆さん主さんに遠慮してあんまり食べなかったから。今日はその比じゃないくらい食べるだろうし」
    「足りるといいよねこれ」
     堀川君と加州君が用意した餃子のタネは大きなボウルに三つ分もある。包むのも焼くのも絶対に大変な量なのだが、これで足りない可能性があるのだろうか。ややゾッとした。私の周りにいた男の人と言えば父親くらいで、男の人が食べる平均量がわからない。
     私以外の膝丸さんと堀川君と加州君が非常に手早かったおかげで、想定していたよりはずっと短い時間で餃子の下準備は終わった。
     コンロの隣にあった黒い板の上に加州君が油を引く。それからぱちりとスイッチを入れ火をつけた。堀川君がバットに並べた餃子をフライ返しに載せる。
    「じゃ、あとは鉄板で一気に焼いちゃいましょう」
    「この広いの鉄板だったんだ」
    「うん。火傷しないように気を付けてね。こんくらいじゃないと一気に焼けないからさ。はい、主も」
     フライ返しを渡されて、私はややドキドキした。こんな大きな鉄板見たこともないし、一気に焼けるかどうかも自信がない。そう思っていると、後ろから膝丸さんが私の手を上から掴む。
    「載せて、置いて、蒸すんだ。焦らなくていい」
    「う、うん」
     テンポよく加州君と堀川君が餃子を並べていくのに、私もできるだけ合せて同じように置いた。段々とコツがつかめてきた頃に「もういいか」と膝丸さんが言うので頷く。支えられていた手が離れたが、私は何とか餃子を並べ終えた。カランとフライ返しをシンクに投げ込み、加州君が言う。
    「よっし蒸すか! 堀川よろしく」
    「はいはーい。これは危ないんで僕がやりまーす」
     元気よく出てきた堀川君は、大きな蓋のようなものともう片手には水の入ったグラスを持っていた。それからえいなんて掛け声とともに、勢いよくその水を鉄板に掛ける。弾けた油でジュっとものすごい音がしたが、堀川君はすかさず蓋をして油跳ねを避けた。
    「これでよし。少しこうしておきましょうね」
    「す、すごいね、私びっくりしちゃった」
     目玉焼きを作るときだとか、ああいう風に蒸すのは知っていたがこの広さの鉄板とあの量の餃子では流石に怖気づいてしまう。堀川君は照れ臭そうに肩を竦めた。
    「僕たち脇差はとても目がいいんです。だからこういうとき重宝するんですよ」
    「そうなんだ……」
     そういう特徴もあるんだ、刀剣男士。私が感心していると、膝丸さんが皿を出しながら補足した。
    「短刀ならば機動が高い、打刀は均等に能力があり脇差との連携もできる。そういう風に俺たちにはそれぞれ得意分野がある」
    「へえ、そうなんだ……ちなみに誰が一番目がいいの?」
     んーと加州君が斜め上を見てから、堀川君に聞く。
    「脇差だとにっかりだっけ」
    「うん、にっかりさん。にっかりさんの前じゃ隠しごとなんかできないから、主さんも気を付けてね」
     にっかり、私は頭の中で単語カードを捲る。特徴的な名前だったからよく覚えている。にっかり青江さんだ。んふふふと不思議な笑い方をしていた。
    「はい、できた! どんどん盛っちゃってください」
    「あ、はい!」
     堀川君が餃子の蓋を取ったので、私と膝丸さんと加州君はそれを今度は皿に移し替える。一度では当然焼ききれなかったので、堀川君は第二陣を焼き始めていた。
    「餃子は好きなの多いからきっとペロリだろうねー」
    「そうだろうな」
     加州君の言葉に膝丸さんが頷く。食べ物の好き嫌いがあるんだ。当たり前のことなのだけれど、私はそんなことを思った。
    「美味しいものを食べると、頑張ろうって気になるでしょう?」
     菜箸で鉄板に並んだ餃子の列整えながら、堀川君が言う。
    「うん」
    「僕らもね、この体になるまではわからなかったけど。でも美味しいご飯があるなあってだけで、今日ここに帰ってこようって思うじゃないですか」
     よいしょっと、と軽い掛け声と共に堀川君がまた水を鉄板に勢いよくかけた。バチバチと爆ぜる油を蓋で閉じて、ふうと息を吐く。
    「僕たち、結局戦ってるからいつ折れるかわかりませんけど……それでもできるだけここに帰ってこようって思えるように皆の好物を作るんです。ご褒美があるって思うと、案外この体って頑張れるんですね」
     にこりとして、堀川君は言った。いつ折れるか、わからないけど……。言われたことと心の中で復唱する。そうか、ここにいる刀たちは戦っているから、いつ死ぬかなんてわからないのだ。私のように、ただ学校に通うわけじゃない。
     私はまた餃子をお皿に盛り始めた。皆これで満腹になってくれるといい。
    「そうだ、主さんは何が好きですか? 僕たちで作れるものなら、順番で作りますよ」
    「そーね、あんまり手がかかるものだと人数的にちょっと厳しいから内緒でね」
     あははと私はそれに笑った。そうか、人数的に作れないものもあるのだ。そういうこともあまり気づかなかった。
    「君、米が炊けた。持っていくのを手伝ってくれ」
    「あ、うん!」
     膝丸さんが大きめの木でできた器を持つ。私は教えてもらいながら、それに炊けたお米を移す方法を教わった。炊飯器が見たこともないくらい大きかった。
     堀川君が驚きますよと言った通り、刀剣男士の皆はよく食べた。そう言っていた堀川君自身も結構食べた。容姿の話で言えばややほっそりしているくらいなのに、見た目には寄らないのだなあと私は思う。昼を作ったものが片付けもするというので私と膝丸さんは手伝いに行ったが、食器を洗うのは機械に任せるのだという。枚数が枚数だから、当たり前かと私は思った。
    「膝丸さんはそんなに食べなかったんだね」
     食洗器に皿を並べながら聞くと、膝丸さんは首をこちらに向けた後に傾げた。
    「そうか?」
    「他の皆に比べて少なかったかなって気がして」
    「人並だと思うが……。君、午後はどうする」
    「あ、ごめん、もし時間貰えるならあのマニュアル読む時間欲しいんだけど」
     きっとあれは教科書のようなものだから、読んでおいて損はないはずだ。わからないことはまだ多いだろうけれど、すべてを実地で覚えるより多少なりと知識だけでも身に着けた方がいいに決まっている。
     そう聞けば膝丸さんはそうかと一つ頷いた。
    「構わぬ。俺も昨日は不要だと思った説明は省いたゆえ。最初からするのが良いだろう」
    「ありがとう、じゃあよろしくお願いします」
    「ああ」
     堀川君たちに教えてくれてありがとうと伝えてから、私と膝丸さんは昨日の部屋へ向かった。この部屋は「執務室」と呼ばれていて、普段審神者の人はここにいることが多かったらしい。私にとっての教室のようなものかななんて考えながら、昨日同様に私は座布団に座る。ただ今日は、学生鞄に入れっぱなしになっていたノートと筆記具を持参した。元々日本史のノートだったので、途中から使っても問題はないだろう。
    「帳面を取るのか」
    「ちょうめ……あ、ノートね! うん。私は書いた方が覚えが早いから。あっもしかしてメモ取っちゃだめだった?」
     秘密にしておかなきゃならないことが多いみたいだし、これはいけないことだっただろうか。私がそう聞けば、膝丸さんは首を振った。
    「いや、問題ない。では始めよう」
    「うん、よろしくお願いします」
     昨日見せてもらったマニュアルを開く。結構な厚みがあるが、飛ばすわけにもいかない。ひとまず最初からだ。
     第一章、初期刀と初鍛刀。なるほど、もう知らない単語が出てきた。私は大人しく手を上げる。
    「膝丸さん、わかりません」
    「どこだ」
     初っ端からわからなくてすみません。私は大人しく一ページ目を指した。膝丸さんは黙ってそれを覗き込んだ。何もかもわからなくて申し訳なさしかない。
    「字から最初に選ぶ刀って言うのはわかるんだけど」
    「合っている。この冊子を受け取るときには既に初期刀は選ばれた後だ。簡単なことしか書いていないのだろう」
     初期刀と言うのは、審神者になった人が初めて選ぶ刀を言うらしい。政府の用意した打刀の五振の内から一振を選んで、顕現する。昔そういうゲームがあったななんて私は思い出した。最初の三匹の内から一匹を選んで、そのうちライバルがもう一匹を選んで、みたいな。
    「加州清光、歌仙兼定、蜂須賀虎徹、陸奥守吉行、山姥切国広の五振が最初に用意される五振だ」
    「加州君と、歌仙さんと……あれ、その五振だとでもこの本丸に殆どいるよね? 最初に選ばなかったらあとで手に入らないみたいなのはないんだ」
    「あるわけがないだろう、不便だ。初期刀とされている五振は比較的入手しやすく、能力も安定した刀剣だ」
     ……確かに。あのゲームだとそうはいかなかったから、つい。私は並んだ五振の名前を見て、ここで挨拶をしてくれた刀たちの顔を思い浮かべた。蜂須賀さんはお兄さんと微妙な関係の人で、陸奥守さんは方言の、あれ。一人思い至らない。ポケットに入れていた単語帳を捲ったが、名前もなかった。ここに名前がないということは、そもそも会っていないということである。
    「膝丸さん、山姥切国広さんは? 私会ってない気がする」
     もしかして、ここにはいないのだろうか。でも今比較的入手しやすいと言っていたはず。
     膝丸さんは私の問いにぴくりと指先だけ震わせた。それから手を伸ばし、ぺらと初期刀の項を捲る。次は初鍛刀の説明だった。
    「……今はここにはいない。山姥切殿がこの本丸の初期刀だった。戻ったら、君にも紹介する」
     今はいない、戻ったら。なんとなくそれ以上追求してはいけない気がしたので、私は黙って視線をマニュアルに戻した。膝丸さんは必要なことは言ってくれるはずだ。言葉にしないのなら、今は言いたくないか言うべきではないということなのだろう。
     膝丸さんは続けて初鍛刀の説明をしてくれた。審神者が初期刀を選び本丸に着任して、初めて打つ刀をそう呼ぶらしい。
    「鍛刀されるのは大半が短刀だ。ここでは前田がそうだな」
    「前田君、そんな最初からずっとここにいたんだ! すごいね、そりゃあ色々慣れてるのも当たり前かあ」
    「そうだな。俺も来て暫くは前田に世話になった」
     さらりと膝丸さんが言う。しかし私には衝撃だった。当たり前なのだが、膝丸さんにもここに来たばかりの頃という時期があるのだ。いや、当然なのだが想像がつかない。
     審神者はそのあと、初期刀と共に昨日説明を受けた出陣や遠征を行うらしい。一応一日のノルマのようなものがあり、鍛刀をしたり出陣先で刀剣を拾ったりすることで本丸の刀は増えていく、とのことだった。ここにいる一クラス分の刀剣もそうして集まったのかと思うと感慨深いものがある。
    「特定の戦場でしか手に入らぬ刀剣や鍛刀でしか呼ぶことのできる刀剣もある。だから皆が皆と言うわけではないが、大まかにはそうだな」
    「膝丸さんはどうやって来たの?」
    「俺は検非違使からの奪取報酬だ。検非違使に捕縛されていたところを取り返された」
     ケビイシ、また知らない単語が出てきた。私はマニュアルの索引を引いてそのページを開く。検非違使、同じ合戦場に連続して出陣することで出現する特に強い部隊。時間遡行軍も刀剣男士も攻撃の対象。
    「えっ、味方じゃないの?」
    「味方ではない。検非違使にとっては俺たちも時間遡行軍も歴史に介入してくる異物だ。排除しにくる」
    「えぇ……歴史守ってるんだから、加勢してくれたっていいのにね。協力したほうが楽なんだし……」
     私が素直にそう言えば、膝丸さんは眉をやや下げて笑ったように見えた。呆れているのとは違うらしい。マニュアルのそのページにもう一度目をやると、審神者さんの文字なのか丁寧な細身の筆跡で「注意」とある。赤いペンで書きこまれているところを見ると、間違いなく重要なことだろう。
    「部隊の最高練度の刀剣に合わせて強さが変化……?」
    「ああ、そうだ。検非違使は対峙した部隊の一番強いものに強さを合わせてくる」
    「えっ、じゃあ強い刀に紛れて弱い刀一緒にしてたら死んじゃうんじゃない?」
    「そうだ。主もだから編成が難しいと言っていた」
     厄介だなあと私はぼやいた。練度と言うのが私の知っているレベルと同じなら、強いレベルの子たちに守ってもらいながら低いレベルの子を育てるのが一番楽だ。それができないのは面倒だし、難しい。色々頭を悩ませることが多い敵がいるんだなあとしみじみ思う。
     そしてもう少し文字を追えば、確かに倒した報酬として膝丸さんの名前があった。稀に獲得、攻略本に書いてあったら脱力する言葉だなと思いながら見つめていると、膝丸さんの名前の上にはもう一振分記載がある。
    「髭切? 膝丸さん、この髭切って?」
     私がその名前を指さして尋ねると、膝丸さんがスウと一つ息を吸う音が聞こえた。形のいい爪としっかりした指先がマニュアルのその文章をなぞる。
    「髭切は俺の兄者の名だ」
    「兄……膝丸さんお兄さんいるのっ?」
     どこかに写真とかないのだろうか。ペラペラマニュアルを捲ってみたが残念ながらそれらしいのはない。他に刀帳と言う図鑑のようなものもあるのだが、そちらにはこの本丸にいない刀剣男士は載らないらしい。
    「兄者はここにはいない。まだ顕現していない」
    「えっ、そうなの」
    「ああ。主も随分探してくれていたが、縁がなくてな。まだこちらには来ていない」
     そうか、刀剣男士は拾ったり、作ったりして迎えるものなのだ。運次第で誰が来るかわからないし、誰が来ないかもわからない。そうなると、どうしてもこの刀は来る、この刀は来ない、と言うのもあるのだろう。事の重大さがまるで違うが、くじと同じだ。
     そもそも刀に兄弟があるものなのかと私には疑問だったのだが、どうやら刀剣男士は打った人が同じだったりするとそういう意識を持っているらしい。同じ親から生まれたような気持ちになるんだろうか。前田君の兄弟の藤四郎君たちや、虎徹さんたちなんかの兄弟たちを私はここに来ていくらか見た。
    「髭切さんも膝丸さんと同じ人に打たれたってこと?」
    「そうとも言われている、諸説あるがな。源氏の重宝となるべく同じ鋼を分けて、打たれたのが俺と兄者なのだと」
    「本当に兄弟じゃん、それ」
     あ、でも諸説あるってことはそれが正しいというわけでもないんだ。これも昨日知ったことなのだけれど、皆の中には来歴や色んなものがあやふやな刀もいるらしい。文献が残っていたりいなかったり、そもそも元になる刀剣が現存したりしなかったり。
    「だが、俺と兄者が仲のいい兄弟であることは変わらぬ。だからいずれ来るだろう、兄者はあの性格だ。どこかでゆっくりしているのだろう」
     あの性格って、どんな性格なのだろう。膝丸さんの口ぶりを聞くと、どうも膝丸さんとは随分違うような。のんびり屋さんと言うか……。
     けれどなんにせよ、膝丸さんがお兄さんのことがとても好きなことは私にもよくわかった。いつもどこか厳しく隙のない様子の膝丸さんが、珍しく心を許しているような。穏やかに名前を呼ぶさまが、何となくでも私にそう思わせた。
    「……じゃあ、早く後任の人が来て、出陣と鍛刀できるようにならないとね」
     私がここにいれば、外の政府と連絡ができるようになるかもしれないというのなら。そうしているうちにこの本丸にも本当の後任の人が来て、今まで通りに戦えるようになる。
     そうすればきっと、膝丸さんはお兄さんに会えるだろう。
    「そうだな」
     でも、そのとき私はここにいないということか。後任の人が来るということは、私は元の世界に帰れるようになっているわけで。このファンタジーの世界からも、怖い敵からも、刀剣男士ともお別れをしているはずなのだ。
     それは少しだけ、寂しいな。
    「膝丸さんの元になった刀剣って、まだあるのかな。私が帰った場所にも」
     それとも、「諸説あり」なら存在しないのだろうか。私の問いに、膝丸さんは首を傾げた。
    「複数あるぞ」
    「ふ、複数?」
     なんで? 普通一振じゃない?
    「俺だと言われている刀はいくつかある。所蔵されている場所もばらばらだ。だがあることはある。京の都に、箱根の山に」
     しかも点在している。私はへえ……と言った後にノートにメモをした。京都と、箱根。ここではスマホが使えない。向こうに帰ったらきっと、調べよう。
    「そっか、じゃあ帰っても膝丸さんに会いには行けるんだね。よかった」
     向こうで髭切さんというお兄さんのことを調べたら、顔なんか見られるんだろうか。それとも刀剣男士のことは全て隠されているのだろうか。自分が今まで何も知らなかったことが、聞こうとしなかったのか、そうでなかったのかわからないのが惜しい。
     膝丸さんは私の方を見て、緩く目を細めた。
    「厳密には俺ではないが……楽しみに、していよう。君が会いに来るのを」
     わ、と私は思わず口元に手をやった。それはとても綺麗な、そういう表現が一番ぴったりだと思える優しい笑みだったのだ。
    「膝丸さん、あの」
    「んっふふ」
     えっ、誰。急に笑い声が聞こえて私は慌てて振り返る。にーっと唇を緩めて笑う刀がそこに立っていた。覚えがある、あの刀は覚えがある。
    「にっ、にっかり青江さん」
    「よく覚えているねえ。主は物覚えがいいんだね」
     深緑色の長い髪をポニーテールにした彼は、んふふと笑いながら執務室に入ってくる。膝丸さんが首をそちらに向けた。
    「どうした、にっかり」
    「いや、主が怖がってしまってもいけないと思ったんだけど、主は知らないほうが怖がるらしいから一応伝えにね」
    「何か出たか?」
     膝丸さんが腰を上げる。何か、何が出た。私もぎくりとして後ずさった。
    「大したものじゃないよ、厠に低級霊がいたのさ」
    「なんだ、その程度か」
    「そっ、その程度っ? 今霊って言ったよねっ?」
     何でもない風で言った膝丸さんに、私は叫び声をあげた。低級霊? 厠ってことはトイレ? 絶対に嫌だ、使いたくない。今自分の部屋のトイレしか使わないことを決めた。
    「君、先に言っておくが、この本丸は今様々なところが綻びている」
    「わかりやすく言うとね、ボロってことさ」
     にっかりさんが大変いい笑顔で補足してくれた。両手を広げて肩を竦めるジェスチャー付きだったために、結い上げている髪がさらりと揺れる。
    「ぼ、ボロ……」
    「そうだ。だから敵以外にも低級のあやかしが紛れ込んでくることがある。大したものではないゆえ、俺やにっかりや神剣たちがその都度退治しているが……」
    「できるんだ、退治」
     そう尋ねれば、ふふとまたにっかりさんが低い声で笑った。
    「僕たちの中にはね、そういう幽霊だとか妖怪だとかを斬ったって言われる刀もいるんだ。そういう刀はね、得意なんだよ」
     得意、何を? そもそも幽霊って斬れるのだろうか。私は恐る恐る膝丸さんを見上げた。
    「膝丸さん、幽霊斬れるの?」
     すると膝丸さんはにぃと唇を上げるようにして笑う。尖った歯が覗いた。
    「ああ。俺は土蜘蛛を斬った刀だ。あやかし退治なら任せておけ」
    「で、出ないのが一番だよ!」
     低級霊って、一体どんなものが出るのだろう。ホラー映画は得意ではない。毎年ある怖い話の特番を興味が勝って見てしまうものの、そのあと入浴中なんかに決まって後悔する。あんなのは絶対に見たくない。
     青ざめた私を見て察してくれたのか、膝丸さんはマニュアルを取り上げてぱらぱらと捲った。目当てのページを開き、私に指し示す。
    「安心してくれ。審神者は元々神職。適性があるのなら、低級霊程度なら自分で追い払えるはずだ」
    「そっ、そんなのやったことないし、私審神者じゃ」
    「ここに辿り着いて、俺たちとやり取りができている時点で何らかの素養はあるということだ。方法さえ覚えれば簡単な結界程度造作もないだろう」
     シャーペンを握り直す。これだけは絶対にメモしておかなくてはいけない。にっかりさんがニコニコしながらまた小首を傾げた。さらりと深緑のポニーテールが揺れる。
    「主は頑張っていて偉いね。厠で取り逃がしてしまったから、探して斬っておくよ。あまり心配しないようにね」
    「あ、にっかりさん、ありがとう」
     穏やかな微笑みを浮かべたまま、ひらりと手を振ってにっかりさんは行ってしまった。気遣ってくれたのだとわかる。ここには本当に、優しい刀ばかりだ。
     気を取り直して、私は膝丸さんに結界の張り方を教わった。私にできるのか本当に疑念しかなかったが、覚えていて損はないはず。ひとしきり頭に叩き込んで、その日は夕飯の時間になる。まだまだ覚えなければならないことがたくさんあることだけは、明らかだった。


     翌朝も早いと聞いて、私は早々にお風呂に入って寝支度を整えることにした。今朝も夜明け前から動いていたために、かなり体に疲労感がある。よく眠れそうだ。
     お風呂場には前田君がまたパジャマなんかを一式用意してくれていた。ついでにその下に私のサイズに合った体操服らしきものを見つけた。シャツの襟元に「鯰尾」とある。
    「本当に兄弟に借りてきてくれたんだ」
     ふふ、と笑って私はそれを枕元に置く。明日借りることにしよう。今日着た膝丸さんの上着とシャツ……は洗濯場に出せばいいのだろうか。ひとまず脱衣所に置いておく。
    「あー、疲れた、なあ」
     有難いことに前田君が沸かしておいてくれたらしい湯船に体を沈める。適温のそれは、体育の授業以上に酷使された体に染み渡った。
     疲れた、けれど。今日は少しは何かできた。畑も、勉強もまだまだかもしれないが。でも何もしなかったわけじゃない。それに、刀剣男士の皆とも「お客さん」というより、ここで一緒に暮らす仲間として話せたような気もする。それはまだ、思い上がりかもしれないが。
    「明日からもがんばろ……」
     はあーと長く息を吐きながら、私は肩どころか耳のあたりまでお湯に浸かった。大丈夫、たぶん、やっていける、きっと。……たぶん。湯船の中で目を閉じる。もう一度深く呼吸をしながら、私は体を起こし……妙なことに気づいた。
    「……向こうの電気、消えてる」
     脱衣所が暗いのだ。どうして。先ほどの低級霊が怖かったのもあって、すべての明かりをつけたままにしていたはず。しかし擦り加工のされている浴室の扉の向こうは真っ暗だった。
    「いや、いやそんなまさか」
     でも、水場って、そういうのが集まりやすいんだよな。余計なことを思い出して私は慌ててぴたりと自分の背中を浴室の壁に着けた。
     そんなちょうどよく私のところに来ることがあるだろうか? けれどよくよく、冷静に考えてみればここにいるのは皆刀剣男士で、この中で言えば私が一番弱い。
     パチと音を立てて一度、電球が消えてもう一度点いた。
    「ヒッ……」
     落ち着け、落ち着いて。こんなこともあろうかと昼に膝丸さんから結界の貼り方を教わったんじゃないか。定期試験の前夜くらいの気持ちで作法を覚えた、大丈夫まだ頭にある。
    「まずは心を落ち着けることだ、集中力を欠けば付け込まれる」
     膝丸さんの声を思い出す。集中、落ち着いて、集中。だがまた消えかけた電球に背筋を悪寒が走って行った。本当にここは湯船の中だろうか。歯の根が合わない。
    「どんなものでもいい、君が心を預けられるものを持て」
     とにかくここから出なきゃ。バシャと音を立てて私は湯船から出た。脱衣所は暗いけれど音はしない。電気、電気のスイッチは浴室の扉のすぐ側だ。開けて手を伸ばせばいい。
     吸って、吐いて。深呼吸をしてから勢いよく浴室を開ける。殴りつけるくらいの気持ちで電気のスイッチを押した。ちゃんと明かりは灯る。そのことに安堵した。手早く体を拭いて、着替えを見やって……私は膝丸さんのジャージを手に取った。袖を通して、ファスナーを上げて蹲る。次はどうするんだっけと思うより先に、恐怖が勝った。
     助けて、助けてほしい。最初の夜みたいに、助けに来て。膝丸さん、と口に出そうとしたとき、くすくすと脱衣所から部屋に繋がる扉の向こうで笑い声がした。
    「情けのないことだ、そのように震えて」
     低い、落ち着いた声。
     膝丸さんの声だ。
    「何も知らぬ、小娘。相手をするにも骨が折れる」
     呆れたような、溜息も聞こえた。
    「何にもできないんだから、外と連絡が取れるまで大人しくしててくれるだけでいいのに」
     別な誰かの声もする。ぺたりと私は脱衣所の床に座り込んだ。
    「何もできない」
    「物覚えも悪い」
    「畑で一日動いただけでへばって」
     ……その通りだ。この外から聞こえてくる声に、耳を貸してはいけない。それはわかっているのに、否定ができない。だってそれは全部事実なのだ。
     ああ、膝丸さん、なんて言ったっけ。結界を貼るのに。でもそんなの教わってもちゃんとできるわけがない。私は何も知らない、知らなかった。ここに来るまで。自分に何ができるのか。自分が一体、どれほど何もできないのか。
     クスクス、クスクスと愉快げに笑う声が近づく。何とかしないと。けれど、なんとかって、なんだろう。
    「あれでは兄者も呼べぬもの」
     低い低い、膝丸さんの声。耳を塞ぐ。その声でこれ以上何も言わないで。
     ここで私にできることは、殆どない。学べば学ぶだけそれがわかる。ああ。お兄さんのこと、聞けばよかった。会いたがっている、お兄さんのこと。私じゃ絶対に、呼べないお兄さん。ごめんね、と口に出した言葉が濁っている。
     なんだかよくわからなくなってきた。ここはどこなんだっけ、なんでこんなところ来ちゃったんだっけ。クスクス笑いが段々と大きくなる。なんだかぼんやりしてきた。
    「……楽しみに、していよう」
     ふわりと、自分の袖口から別なの匂いがした。涙で歪みかけた視界が、ぱちぱちと瞬きすることでややはっきりする。
     自分の手を目の前に持ってくる。膝丸さんの、明らかに大きいジャージ。
    「厳密には俺ではないが……楽しみに、していよう。君が会いに来るのを」
     優しくそう笑ってくれたのは、今日の昼のこと。
     それなのに、言うだろうか。膝丸さんがそんなことを言うだろうか。
    「……言わない」
     言葉にすれば、蹲っていた自分の体の輪郭がはっきりした。
    「言わない、膝丸さんは絶対、そんなこと言わないっ!」
     言うわけない、そんなこと言わない。
     ピタ、とクスクス笑いがやんだ。私は床に手をついて立ち上がる。 
    「負けるな。心を負けさせてはならぬ。あやかしは君の弱い心に付け込むぞ」
     膝丸さんが言う声が聞こえる。
     私は何も、できないけれど。まだまだ知らないことばかりだけれど。だからこそ優しくしてくれる膝丸さんたちを疑っちゃいけない。
     「大きい大根」と笑った安定君を思い出す。綺麗な餃子と褒めてくれた堀川君と加州君を思い出す。頑張っているねと笑ったにっかりさんを、運動着を用意してくれた前田君を。
     昼に笑ってくれた膝丸さんは、そんなこと言わない。
    「膝丸さんはそんなこと言わない! 皆絶対、そんなこと言わない! だから出てって!」
     はっきりと、私は扉の向こうに叫んだ。
    「簡易的なものなら、塩も酒もいらぬ。君が信じる気持ちだけでいい。簡単だろう?」
     信じている。私は脱衣所の扉に手をかけて、思い切り開いた。
    「瘴気、断つべし!」
    「ぅわっ!」
    「おや」
     ヒュッと風を切る音がして、扉を開いたのとほぼ同時に向こう側にいた膝丸さんが刀を振り下ろした。後ろには同じように鞘から抜いた刀を手にしたにっかりさんがいる。腰が抜けそうになった。というか実際脱力して私はへたり込んだ。
    「君、なんともなかったか」
    「やっぱり主のところに逃げ込んでいたねえ。ここの居心地が良かったかな」
     膝丸さんが刀を鞘に納め、屈みこんで私を見る。にっかりさんも同じようにしてしげしげと部屋の中を見つめた。くるりと首を巡らせ、眉を下げて微笑んだ。
    「色々、君の思いがぐるぐると渦巻いているのが僕にでもわかるよ。思い至らなくて、ごめんね。一人で寂しかったね」
     にっかりさんの穏やかな声に、ジワリと視界が滲んだので私は慌てて首を振った。
    「違、違う、そうじゃなくて、私」
     安心したら、もう駄目だった。うわーっと声を上げて膝丸さんの腕にしがみつく。
    「私できないかと思って、何もできないかと」
     皆のことを、信じていた。でも自分のことは、信じられなかった。
     頑張ろうとは思っても、できることとできないことがある。それを目の当たりにすることが怖かった。
    「怖かったー……」
     鼻水を啜りながら私が言えば、膝丸さんはその体勢のままで顔を上げた。脱衣所の方を見やって、何でもない風に言う。
    「できているではないか」
    「……え?」
     ぽんぽんと背中を叩かれて、首を回した。別に何の変哲もないように私には映る。慌てて浴室から飛び出してきたために、やや床の濡れた脱衣所だ。
    「君にはわからぬかもしれぬが、きちんと結界を張れている。そもそも、俺たちはここまであやかしの気配は追えても見つけられなかった。君が追い出してくれたから、俺とにっかりで斬れたのだぞ」
     私がぼんやりとしていると、にっかりさんもうんうんと頷いた。
    「簡単なものだけど、ちゃんとしているよ。大丈夫」
     全然わからない……。全然わからないけれど。
    「俺が教えた通りにできているではないか」
    するすると大きな手が私の背中を撫でる。
     そっか、できていたのか。できていたんだ。
    「よかった、よかったぁ……」
     でももうこりごりだ、このぼろの本丸どうにかならないのだろうか。泣いている私を宥めるように膝丸さんが抱きしめる。縋りついていた腕を濡らすのは申し訳ないなと思ったけれど、今ばかりは甘えることにした。んっふふ、とにっかりさんの笑い声も聞こえる。
     何度も何度も、膝丸さんが大丈夫だと背中を撫でる。あのとき、私を引き戻してくれた匂いがはっきりとした。「心を預けられるもの」、そう言われたのを思い出して、一番に手に取った膝丸さんのジャージ。
    「……待て、何故君、この下に何も着ていない」
     ぴたりと膝丸さんの手が止まった。というより凍り付いたようだった。
    「え、あ、急いで手に取ってこれだけ着たから」
     そう言えばそうだった。それどころではなかった。オーバーサイズだったがために短めのワンピースのような丈になっているが、膝丸さんはまた顔を真っ赤にして口をはくはくさせる。
    「よっ、嫁入り前のおなごだろうっ! 何を考えてる、ここは男所帯だぞ!」
    「まあまあ、肌触りがね、いいんだよ。ねえ」
     にっかりさんが笑って膝丸さんの肩を叩く。別にそういうわけじゃない。何故にっかりさんは同意を求める風で私を見ている。
    「早く服を着てくれ、頼むから! にっかりもならぬ、外に出ろ!」
    「おやおや、初心だねえ」
    「見ることはならぬ! 早く出ろ!」
     ものすごい勢いで傍にあったバスタオルを私に被せた膝丸さんは、引っ立てるようにしてにっかりさんを部屋から追い出しピシャリと襖を閉めた。
     はは、とやっと笑いが出る。土なんかで汚れたジャージをまた着てしまったから、お風呂に入り直そうか。鼻を啜りながら立ち上がったとき「君」と低い声が襖の向こうからする。
    「……内番着は、粟田口のもののほうがいいか」
     ひっそりとしたその問いに、私は目を瞬いた。振り返れば明日の着替えのところに置いてある、おそらくサイズがぴったりの運動着。
    「上だけ、借りてもいいかな。膝丸さんの」
     下はどうやったって着ることができないから。今着ている、この上着とシャツだけ。
     膝丸さんが、ほんの少しだけゆっくりと息を吸うのが聞こえた。
    「ああ……もちろんだ。使ってくれ。明日は洗い替えを持ってこよう」
     トストスと廊下を歩いて行ってしまう音を聞く。ほっと私も息を吐いた。
     これは洗って、明日新しいものを借りよう。ジャージを再び脱ぐ。ああ、明日も頑張ろう。私は一度だけそれを抱きしめて、洗濯籠に置いた。
       忘れないで


     一週間が経っても、そこから暫く経っても、私が帰れそうな兆しはなかった。だがそれも仕方ないと、今日も私は布団から起き上がる。どうしようかなと思わないわけではない。このままなのだろうかという不安がないわけでも。
     けれど少し慣れればこの本丸は居心地がよく、辛いことはない。迷い込んだのがここでよかったとさえ思う。
    「君、起きているか」
    「あ、膝丸さんおはよう。着替えるから待ってね」
     それに、毎朝聞こえるこの声がなくなるのは、もう既に少し寂しくさえなっていた。



     シャッシャッと軽快なペンの音がする。私はそれにかなりびくびくしていた。あのシャッは丸だろうか、それともペケ? カツカツと何かを書き込む音が聞こえ始めた。もう点数計算してる。ジャージ姿の膝丸さんは、至極真面目な顔で私の答案を丸付けしていた。
    「六〇、まあ合格点だ」
    「あー。ぎりぎりだったー!」
     膝丸さんが私に答案用紙を返す。ようやく半分丸がつくようになった。ようやくだ。
    「それにしてもちゃんと毎日試験問題作ってくれるんだね、膝丸さん」
    「君が試験形式のほうが覚えやすいと言ったのだろう」
     だからって律義に毎日。私は込み上げてくる愉快さでくつくつと肩を揺らした。やっぱり元々が高校生だから、試験範囲を作ってもらって逐一テストしてもらうのが一番集中できたし効率が良かった。しかしそのためには試験問題が必要であるし、作ってもらう手間がある。だからどうしたものかと思ったのだが、膝丸さんはそれを聞くと「そうか」と一言だけ返事をして翌日には試験を作ってきた。正直その生真面目さに笑ってしまった。
     けれど膝丸さんの試験問題は作った膝丸さんの通り、かなり手強く実直だ。ここは出るんだろうなというところは外さないし、絶妙に忘れかけていたところを突く。言うなれば教科書の端に書いてある補足欄みたいなところが出題される。少し意地が悪い。
    「でもこのマニュアル、本当に助かるよ。審神者さん、すごく熱心な人だったんだね。小さく一杯書き込みがしてある」
     きっと同じように、審神者さんも勉強したのだろう。赤ペンの書き込みや蛍光ペンのライン。大事なところは見てすぐにわかるようにしてあった。なんだか先輩の教科書やノートを借りたような気分になる。
    「ああ……そうだな。真面目で、熱心な主だった。わからないことはよく尋ねたし、刀剣男士ともうまくやっていた」
    「そっか……」
     じゃあ、亡くなったときはきっと……とてもショックだっただろうな。初日に死んだと聞いたときよりずっと、胸がスカスカするような気がした。本丸に少しは馴染んだからかもしれない。
     ここに確かにいて、ここの刀剣男士たちと生活をして、色んなことを一緒にした人が確かにいたのだ。なんだかあの時よりずっと、その審神者の人のことを身近に感じる。ここで生きていた、人。
     膝丸さんはちらりと私の手元のマニュアルを見、それからすぐに居住まいを正した。
    「では間違えたところの復習からだ」
    「はい、お願いします」
     ノートを開いて、チェックマークをつけられた問題を見る。陣形だとか、やっぱり難しい。結局私は出陣ができない以上、知識を身に着けても仕方ないのかもしれない。けれどもしまた、敵が本丸に来たら。そういうときに役に立つかもしれない。
     どんなことでも、少しずつでもできることなら。無駄じゃないと思いたい。ここにいる間。
    「本丸の間取りもようやっと覚えたくらいだから、まだまだだよね。それでもわからない道があるし」
     この広いお屋敷なのだが、驚くべきことに隠し通路やら部屋があるのだ。まるで忍者屋敷である。それでも最近やっと、どこかに迷い込んでも自分一人で元の場所に戻れるようになったのだ。最初にふと寄り掛かった壁がひっくり返って別な通路に変わったときは、心臓が止まるかと思ったものだ。ちなみに迷って書庫と納戸の隙間にあるその通路にいた私を見つけたのは前田君である。
    「いや……本丸の間取りは一番の秘匿事項だ。足で覚える他ない。間取り図があることにはあるが、主が管理していたのでな。それを見せて教えられたらよかったのだが」
     本丸の間取りは、万が一敵に知れては大変なことになる。それは素人の私にもわかった。だから手探りで、迷わない範囲で、自分の足で覚えるしかなかった。
     そんな実地学習もあったけれど、私と膝丸さんでマニュアルを追う初心者講座はなんとか半分以上をそれを読みこむところまで来た。頭にきっちり入っているかというと、微妙なのだけれど。
    「あー、英単語よりはましなのかな、日本語だし。苦手だったんだよね、英語。日本史も得意だったかって言われると微妙なんだけど」
     もうちょっとちゃんと勉強しておけばよかったな、色々。そんな風に思いつつ、シャーペンを握る。日本史のノートはもうすぐページが終わってしまうから、次は数学でも使おうか。
    「……君は、現世でもこのように学んでいたのか」
     そんな風にマニュアルを捲りながら赤のついた問題を直す私に、膝丸さんが聞いた。膝丸さんが私の向こうの生活を聞くことは珍しい。だからコンコンとシャーペンの頭でノートを叩き、一つ頷いた。
    「うん。朝から大体夕方まで。六時間」
     たまに七の日もある。膝丸さんは驚いたようにパチパチと目を瞬いた。
    「……長いな」
    「途中昼休憩とか挟むよ。朝の七時過ぎに自転車に乗って学校行って、そうすると八時くらいに着くかな」
     四時間授業を受けて、昼休憩の後に二時間。なんだかそんな女子高生をやっていたのが遠い昔のように思える。ここに来て、たかだか二週間経つか経たないかくらいなのだけれど。
     ……向こうはどうなっているのだろう。どうしても、話をすると思わざるを得なかった。両親は、私が帰ってこないことをおかしいと思っているだろう。朝登校したままなのだから。友達や、学校は。
    「すまない、やはり思い出させたな」
     膝丸さんがふいと顔を背けたので私は慌てて首を振った。
    「いや、ごめんね、大丈夫。ちょっと向こうはどうなってるかなって思っただけで」
    「だが、寂しいだろう。親や友人と離れるのは。すまなかった」
     もしかして、そう思っていたから今まで何も聞かなかったのだろうか。……きっと、そうだろう。膝丸さんが優しいことを、今の私はよく知っている。
    「このくらいだと、文化祭とか体育祭の時期なんだよ」
     声を掛ければ、膝丸さんはゆっくりこちらを見た。
    「……祭? なんだそれは」
    「クラスごとに出し物出したりするの。お化け屋敷とか、食べ物売る模擬店とか。楽しいよ。体育祭はあんまりいい思い出ないけど。そんなに体育得意じゃなかったから」
    「体力を競うのか?」
    「うん、足の速さとかね」
     そう言えば膝丸さんはフンとどこか得意げな表情を浮かべた。整った鼻筋がひくりと少しだけ膨らむ。
    「ならば俺は負けぬだろう。足の速さには自信がある」
    「あ、そっか。膝丸さん太刀の中では足が速いんだっけ」
    「ああ」
     なんで自分も出る体で話してるんだろう、膝丸さん。私は思わずちょっと笑った。でもそれはたぶん、私が寂しくないようにだろうとわかっていたから突っ込みはしなかった。
    「君は現世でもその」
    「その?」
    「その……」
     膝丸さんがちらと視線を下にやる。しかしすぐに他所に向けて一息に言った。
    「短い履物でいるのか」
    「短い、ああ、スカート」
     今日の私は畑に出る予定がなかったために、上は膝丸さんのジャージを借りていたけれど下は制服のスカートだった。近頃は外で皆の手伝いをするときは鯰尾君のズボンを借りていたが、やはりこちらの方が着慣れている。
    「制服だからね。でも他の子と比べたら長い方だよ」
    「……ならぬ、十分に短い。腿が見える。もう少し長くしたらどうだ」
     ふいっと別な場所を見ながら膝丸さんが言うので、私は笑った。もう少し長くしたらどうだ、だって。
    「膝丸さん、お父さんみたい」
    「俺が父だと?」
     心外そうな顔で膝丸さんが返す。刀にお父さんは変だっただろうか。
    「現世の女子高生はこのくらいが普通の丈なんですー。乱君のスカートの方が短いよ」
    「乱は下に履物を履いている、それにおのこだ。足など見られても。だが君は違う。隠してくれ」
    「そんな大袈裟な。現世で女子高生見たら膝丸さん卒倒しちゃうよ。同級生だって皆こうなんだからね」
     何か言いたげに膝丸さんは口を開き、それから閉じた。不機嫌そうというか、どこか拗ねたような顔つきですらある。本当に珍しいなと私はその表情をしげしげと見つめてしまった。私の今まで見てきた膝丸さんとは違う顔。
    「……寂しいけど、寂しくないからね」
     そう声を掛ければ、そっぽを向いていた膝丸さんがまたこちらを向く。
    「どういう意味だ?」
    「確かに、家族に会えないのも、学校に行けないのも寂しくはあるけど……でも膝丸さんたちが居てくれたから、随分気持ちは楽だよ。ありがとう、膝丸さん」
     帰れないのは困るけれど、少なくとも、私は今一人ぼっちではない。それだけでかなりラッキーなほうだ。
    「だから気にしてくれるのはありがたいけど、聞きたいことがあったら聞いてくれて構わないからね。加州君とか乱君とかむっちゃんとか、結構現世の話聞きたがる子も多いし。やっぱり皆がいた時代と全然違うからかな」
    「……そうか」
     安堵したように膝丸さんがホッと息を吐いた。それからぽんぽんと二度私の頭を撫でる。私も少しだけ気持ちが落ち着いて、再びシャーペンを握り直した。しかしそこで急に背筋を伸ばした膝丸さんが口を開く。
    「では聞く……なぜ俺は膝丸『さん』なのだ」
    「え?」
     コンと音を立ててシャーペンの頭が机の上に落ちる。何を言われているのかさっぱりわからなかった。だが膝丸さんの方は再びそっぽを向きながらも、どこか低くジトっとした声で続ける。
    「前田も、乱も、呼び方が違うだろう。何故俺だけ『さん』なのだ」
    「……だって、膝丸さん、明らかに私より年上だし」
     それに別に膝丸さんだけではない。燭台切さんだって歌仙さんだって「さん」付けなのは変わらないだろう。雰囲気の問題だ、膝丸さんは間違っても「君」ではない。そういう顔じゃないだろう、まず。
     けれど膝丸さんの方はギッとすごい目力でこちらに向き直り、尚も食い下がった。
    「年の話で言えばここにいる刀は皆君より上だ」
    「そうかもしれないけど、ほら、見かけの問題だよ」
     どこからどう見ても、膝丸さんは同級生のように気軽に声を掛けられるような感じではない。正直なところ、タメ口を使うのさえかなり気を遣うくらいだ。ただ純粋に、使い分けただけである。だが膝丸さんときたらまだ首を振った。
    「合点がいかぬ。加州も大和守も、同じ太刀でも獅子王とて『君』だった」
    「それはまた雰囲気の問題というか」
    「何故だ、何故俺だけ『さん』なのだ」
    「えぇ……?」
     面倒くさい。思ったが口には出さなかった。言えばもっと面倒になる気がした。
     膝丸さんに引く気配がなかったので、私は観念して肩を落とした。呼び方一つ変えて納得してくれるならそれで。そう思って私は膝丸さんを手で制し、口を開いた。
    「わかった、膝丸……」
     いやしかし、君付け。君付け? 私は口を中途半端に開けたままで何も言えなくなってしまった。膝丸さんは首を傾げてこちらを覗き込む。
    「どうした」
    「いや、いやその、本当に君付けじゃないとだめ?」
    「問い返すようだが何故俺はその『君付け』ではだめなのだ」
     だめじゃないけれど……。
     意を決して私はもう一度息を吸った。ずずと畳の上をする音を立てて、膝丸さんも一歩分こちらに膝を進める。
    「膝丸」
    「うむ」
    「く……」
     君と一言言えばいいだけなのだが、異様に気恥ずかしい。なんで、普段前田君や乱君には使えているのに。
     膝丸さん相手にそう言おうとすると、喉の奥に拳でも突っ込まれたかのように言葉が詰まる。言いたくないわけではない、そう呼びたくないわけではない。けれどいざ口に出そうとすると、頬と耳が一度に熱くなる。
    「どうした、あと一文字だぞ」
     この鬼め。無情にも膝丸さんは真顔でそう促す。
    「ひ、膝丸、君」
     やっとのことでそれだけ絞り出した。今日一日分の体力を使った。このあと花壇の草むしりを約束していた前田君には悪いけれど、到底できそうにない。
     はーっと全力疾走したときのように息を吐きだして脱力する。これで膝丸さんも満足してくれただろうか。先ほどと打って変わってやや疲労感を覚えながら顔を上げて、私はそれを後悔した。
    「……うむ」
     なんで、そんなに嬉しそうな顔をしている。
     膝丸さんはいつもは真一文字に引き絞っている唇を緩めて、僅かながら微笑んでいた。私は弾かれたように立ち上がる。
    「わ、たし、前田君と草むしりの約束してるから、行ってくる」
     勉強はあとだ、今できるわけがない。膝丸さんは顔を上げ、同じように腰を浮かせる。
    「そうか。手が空いている、俺も行こう」
    「いや、いい、大丈夫だから」
     後ずさりして、私は俯いた。私からは膝丸さんの、ジャージを履いた足しか見えない。立ち上がりかけている、膝しか見えない。
    「……嫌だったのか?」
     先ほどよりやや落ち着いた風の声で膝丸さんが言うので、私は視線を下げたままで聞き返した。
    「……何が?」
    「呼び方を変えろと言ったことが、それほどまでに嫌だったのか」
    「違、いやそれは違うよ」
     慌てて首を振って膝丸さんの顔を見れば、あからさまにしゅんとしていた。そんな顔されたらいたたまれない。
    「そうじゃなくて、慣れてないから……心の準備がほしかっただけで」
    「そうか。では慣れるためにこれからも頼む」
    「えっ」
     これっきりではないのか。
     すっと膝丸さんは立ち上がった。やはり草むしりは一緒に行くつもりらしい。
    「草むしりなら、君は着替えてくるといい。俺が先に前田に伝えてこよう」
    「あ、うん、あの膝丸さ」
    「ンンッ」
     咳払いされた。
    「……膝丸君」
    「なんだ」
     私よりも一歩が大きい膝丸さん、もとい君はもう部屋の出口までたどり着いていた。背中を向けたままの膝丸君に、一応問う。
    「なんでそんな、呼び方なんかこだわったの?」
     気にすることでも、ないと思うのだが。でも私にとってそうなだけで、もしかして、刀剣男士にとって何か大切なことなのだろうか。そうなら聞いておかなくてはならないだろう。
     しかし膝丸君は少しの間、ただ押し黙っていた。私からは、広い背中とあの薄緑色の髪しか見えない。
    「膝丸君?」
    「……嫌だった。俺だけ違うことが」
     ぽつりと、膝丸君が答える。
    「嫌? どうして」
    「俺とて初めの日からずっと、君と接しているのに。まるで俺だけ、君と親しくないようだったから」
     先に行くぞ、ともう一度膝丸君は言った。
     それは一体、どういう意味で嫌だったんだろう。私は今度は別な気恥ずかしさで顔を上げられなくなる。耳と首の裏が熱くてたまらなかった。追いかけないと、前田君が花壇で待っている。着替えて、早く。執務室を出て膝丸君ともう一度呼ぼうとしたとき、件の前田君が廊下の向こうから珍しく足音を立てて走ってくる。
    「膝丸さん、主君! 早く来てください!」
    「どうした」
     相変わらず落ち着いた調子の膝丸君が言う。私はいつもと様子の違う前田君に驚いて足を止めてしまった。
    「通信機が動いてるんです!」
     ハッとして膝丸君が振り返る。どういう意味なのかほんの一瞬だけ考えて、私も駆けだした。


     詳しいシステムは秘匿情報らしい。まあ、ファンタジーの種明かしのようなものだから、仮に言われても私は理解できないと思う。ともかく、この審神者やら本丸やらの仕組みを作った政府には、過去と現在を繋ぐ技術がある。そうでなければ刀剣男士を過去に出陣させることはできない。だがその仕組みを動かすには適性のある審神者の「霊力」が必要なのだとマニュアルにはあった。不思議な仕組みの元は不思議な力だということだ。私にはその程度しかわからない。
     だから、どの本丸にも審神者がいなくてはならないのだ。刀剣男士を過去に飛ばし、敵を倒すため。現在と過去を行き来するため。
     つまるところ、その審神者のいないこの本丸はどこにも繋がっていない。ただここにあるだけだ。
    「雑音ばっかりだったのは、やっぱり私のせいかな」
     私が吐いた溜息に、隣でジャガイモの皮を剥いていた前田君が首を振った。
    「そんなことありません! 主君が原因なんてことは絶対」
    「でも私、正式な審神者じゃないから。きっと理由の一つではあるよね」
    「……そんなこと、ないです」
     唇をぎゅっと絞って前田君がもう一度言った。今日の晩御飯はカレーだそうだ。私はジャガイモより難易度の低い人参の皮をピーラーで剥いている。量が多い。流石大所帯。
    「ですが、不安定でもあの通信がどこかに繋がったのは確かです。それは主君がここにいてくださるおかげですよ」
     昼間、一瞬だけ繋がった政府との連絡に使っていたという通信機はノイズだけが聞こえていた。電波の悪い場所の通話のような音がずっとしていた。
    「聞こえるか、誰か聞こえているのか」
     膝丸さんが何度かそう尋ねたけれど、返事があったのかどうか全くわからない。それを聞き取るだけの明瞭さはなかった。なんなら、こちらの声が届いていたのかどうかさえ。
     結局、何も事態は進展していない。この本丸が助けられることも、私が現世に帰れることも。所謂ふりだしである。元々、そこから一歩だって動いていなかった可能性のほうが高い。それに落胆しないわけにはいかなかった。寂しくない、ここにいるのは楽しい。けれど帰りたくないわけでは、ない。
    「……主君、人参を切っていただいていいですか?」
     前田君が促してくれたので、私はうんと頷いてまな板と包丁を手に取った。カレーだから、イチョウ切りでいいだろうか。
    「主君はかれえ、辛くても平気でしょうか」
     ジャガイモの芽を取りながら前田君が言う。私より小さい手が器用にそれを抉り出していった。私はあの処理が苦手だ。
    「普通かな。あんまり辛いと苦手かも」
    「では主君の分はあの銅色の鍋でよそいましょう。僕らも好みがそれぞれですから、辛さを鍋ごとに分けてあるんですよ」
     そういえば、大きめの鍋が今日は三つ出してある。三種類なら甘いのと、中辛と、辛口くらいかな。私は何となくそんなことを考えた。
    「最初に、どこにも連絡が取れないと気づいたときは……僕たちもどうしたらいいかわかりませんでした」
     ぽつりと、しかしどこか穏やかな声で前田君が言う。
    「前の主君が亡くなって、皆まだ実感がない中で色んなものから取り残されてしまいましたから。出陣もできず、助けも求められず、主がいない以上、僕たちは怪我をしても自力ではそれを直せません。本当は僕たちは、主がいなければ何もできない存在なのだと、すっかり忘れていたんです。それが本当は当たり前だったのに」
     前田君は皮を剥き終えたジャガイモを分けて、新しくまだ泥のついたものを手に取る。蛇口を捻ってそれをたわしで洗った。何でもないありきたりな動作だ。汚れていたからそれを流す。でもたまに私も忘れそうになる。
     刀なのだ。前田君たちは、刀なのだ。本当なら手も足もない。自分の意志で動くことはできない。
    「ですから僕たち、決めたんですよ。これまで通りの生活をしようって。僕たちはまた、いつ刀に戻るかわかりませんから。だからそれまでって。運が良ければ明日も同じようにできるし、もしかしたら刀に戻っているのかもしれません。でもこの体のうちは、明日目が覚めるうちはって」
     薄く薄く、皮を剥く。前田君の包丁捌きは見事だった。私なら削ってしまう実もそんなことはない。泥まみれで武骨な形のジャガイモを綺麗に白い姿に変える。でもそうか、刀なんだから刃物の扱いはうまいに決まっているか。当たり前のことに今気づいた。
    「けど、そうしていたら主君がここに来てくれました。だからまだ、諦めるには早いです。何も変わってないなんてことないですよ。当たり前に毎日を過ごしていて、気づかないだけなんです」
     前田君は笑って、またジャガイモを分けた。いつの間にか手が止まっていた私に「手がお留守です」なんて言うのも忘れない。
    「……やっぱり多いね、材料」
     通信が通じるようになったら、まずは政府から給食のおばちゃんとか雇ったほうがいいんじゃないかな。そういうスタッフの人って呼べないんだろうか。
    「四〇振はまだまだ少ない方なんですよ。ほら主君、あと少しです」
    「はーい」
     カレーのルーどのくらい使うんだろう。そう思っていたら一つの鍋に二箱分入れなければならないのだと言う。途方もない量に私は笑った。
     キッチンにカレーの匂いがし始めた頃、ふうと息を吐いた膝丸君が入ってくる。やや疲れた表情をしていたが、鼻を一度だけスンと鳴らして顔を上げた。
    「今晩はかれえか」
    「膝丸さん、お疲れ様です。そうですよ。お腹が空いているようでしたら多めによそいますが、どうしますか?」
    「いや、普段通りで構わない」
    「膝丸君ってあんまり食べないよね」
     鍋を混ぜながら聞けば、膝丸君は片眉を上げた。
    「皆と変わらないぞ」
    「そう?」
     いや、小食なほうな気がするけれど他の皆がよく食べるからかな。膝丸君は水を飲みに来たようで、冷蔵庫を開けて冷えたそれを取るとグラスに注ぎ一息に空にした。膝丸君は私と前田君が夕飯の用意に向かっても通信機をいじっていたが何かわかったんだろうか。
    「駄目だな、本当に何かのはずみで繋がったようだ。元々、あれは審神者の操作するもので刀剣男士ができることは限られている。近侍の権限でも、できないことは多い」
     やっぱりそうか。私はぐるりと鍋を混ぜた。そうだろうと思っていた。それに、前田君のおかげで気持ちは前を向き始めていて、私は膝丸君に「そっか」とだけ返す。
    「だが今までこんなことはなかった。確実にいいほうに向かっている。気を落としてくれるな」
     膝丸君が言うのに、ふふと笑いながら私は隣に立っていた前田君に頭を寄せる。さらさらの栗色の髪が頬に触れた。
    「もう前田君に励ましてもらったから大丈夫でーす。ねー前田君」
    「む、先を越されたか」
    「ふふ、はい! 主君が元気になって何よりです」
     その様子を見て、若干の疲労が窺えた膝丸君もほっと息を吐いたようだった。それからうむと一つ頷いて、グラスを濯いで片付ける。それから膝丸君はジャージの袖を捲った。「俺も手伝おう」とだけ言うと、手を洗った後に戸棚から皿を出し始める。
     いつ刀に戻るかわからないから、今まで通りの生活を。明日目を開けることはなくても、その手足が刀に戻ってしまっていても。それでも、いいように。
     四〇枚もの皿が並べられ、白いご飯がよそわれていく様を見つめながら前田君の言葉を思い返した。
     私がここにいる間、その時間は続くのだろうか。正式な審神者ではない私でも、少しでも長くその生活を伸ばしてあげられるのだろうか。そうだと、いいけれど。私はただ、焦げ付かないように鍋を混ぜ続ける。
    「敵襲、敵襲ー!」
     体重の乗った足音が廊下で響く。私より早く、膝丸君と前田君が顔を上げる。キッチンの暖簾を捲って飛び込んできたのは加州君だった。
    「本丸内に複数適性反応あり! あっよかった主もここにいた!」
    「加州、敵はどこだ」
    「多分まだ母屋の中にはいないと思う! 脇差と短刀は外に出すよ、もう日が落ちてるから」
    「わかった」
     前田君が素早くコンロの火をすべて落とした。私も慌てて鍋に蓋をする。夕飯どころではない。
    「君は部屋へ。大丈夫だ、誓って君の所へは行かせない」
     着替えている余裕はないかと踵を返しかけた膝丸君に、私は慌てて縋って止めた。手首を掴むと思ったよりずっと太くて驚く。
    「待って膝丸君、私に何かできることないかな」
    「……君に?」
     パチパチと膝丸君は瞬きをした。それから考えるように視線を動かす。
    「ごめん、足手まといなら、部屋でじっとしてるから」
     でももし、何かできることがあるなら。膝丸君は何か迷っているようだった。すると隣にいた前田君が口を開く。
    「膝丸さん、主君に状況確認をお願いしてはいけませんか」
    「状況確認?」
    「ええ、審神者用の通信端末なら、僕らの状態と位置を確認できるはずです。ですから、それで。あれなら敵の動向もいくらか推測できます。万が一の時は、主君自身の身を守ることにもなるかと」
     それができるなら、と私は膝丸君を見る。一拍、膝丸君は逡巡したものの頷いた。足早に執務室に移動して、現世でも普通に売っているタブレット端末のようなものを手渡される。電源を入れると、確かに刀剣男士皆の名前と各自の状態一覧のような画面が表示された。ついでに現在地を示した本丸内のざっくりとした図も。膝丸さんの指がちょうど執務室の上を指した。この薄緑の点が膝丸さんなのだろう。
    「俺たちの位置が逐一ここに表れる。怪我をしても、行動不能になってもここに出る」
     行動不能、というのは折れたということなのだろうか。それともその寸前なのだろうか。私は怖くてそれが聞き返せなかった。その前に、敵を倒し切ってほしい。
    「……わかった」
    「それから、俺だけはここから話しかけてくれれば君の声が聞こえる。近侍だからな。何かあれば、呼んでくれ」
    「うん」
     私が端末を持つ手を、膝丸君が上から強く握った。
    「……必ずだぞ」
     温かく力強いその言葉に頷いて、私は膝丸さんが出て行った執務室の襖を閉じる。バタバタと外は騒がしくなりつつあった。もう誰か戦い始めているのかもしれない。タブレットの画面を見る。まだ目立った変化はなかった。
     こういうとき、審神者はどうするのだろう。棚のマニュアルを取って索引を引く。一体なんて調べればいい。敵襲のて、それらしい項目はない。状況確認のし、ここもない。そうだ、緊急のき。ぺらぺらと捲ると、項目ではなく「緊急対応」の章が用意されていた。
    「手入れ部屋を押さえられると戦力補充が出来なくなるため、まずは手入れ部屋の確保……でも私、手入れはできないし」
     あとは端末で状況を見つつ指示。ろくな経験もない私に、まともな指示ができるかどうか自信がない。焦れてページを捲る。すると赤い恐らく審神者さんの文字で書き込みがあった。
    「敵は審神者を真っ先に狙うので、要注意……」
     体が一気に冷たくなる。でも少しでも理屈がわかってきた今なら、それが何故なのかも理解できる。審神者は本丸で一番大事な存在なのだ。主が居なければ、ここは回って行かない。
     深呼吸して、端末に視線を落とした。画面を忙しなく動き回る点と、並ぶ名前を見つめる。何個か並んだ点が固まって一直線に動いているのが見えた。たぶんあの先に敵がいるのだろう。乱君と秋田君と……あれ。おかしなことに気づく。前田君の点が急にぴたりと動かなくなった。
    「膝丸君、膝丸君おかしい、前田君の位置が動かない」
     マイクの記号を押して私が言えば、走っていたのかハッと膝丸君が短い息を吐くのが聞こえた。
    「前田が? どこにいる」
    「裏庭のあたり。乱君と秋田君と一緒にいるんだけど、前田君だけ動きが鈍い、のかな、あっ」
     僅かにだが、前田君の欄にあるゲージのようなものが減った。
    「怪我してるのかも、何もまだ出てないけど」
    「わかった、俺が向かう。変わったことがあれば教えてくれ」
     乱君と秋田君の点が前田君のものと動き始めたが、先ほどまでと格段に遅い。これは前田君を引っ張って移動しているのか。
     心配だ、前田君に何かあったら。でも、ここを下手に動いても。襖の外に耳を澄ませる。特に何か聞こえてはこない。片手に端末を持ち、襖のほうを見つめて悩んだ。もし迂闊に外に出て、死ぬことになったら。
    「けど、そうしていたら主君がここに来てくれました。だからまだ、諦めるには早いです」
     ……折れてほしくない。前田君の言葉を思い出して、指先に力が篭る。教えてほしい、私に何ができる。どうしたらいい。
     マニュアルを握り締めた。何でもいい、何でもいいから教えてほしい。審神者さん、ここにいた審神者さん、教えてください。何か書いて、こんなときどうしたらいいか。
    「あなたの刀を折りたくない……」
     蹲ったとき、する、とマニュアルの隙間から何かがずれて落ちてきた。目を落として、ハッとする。これは、本丸の間取り図だ。端に細く見慣れた丁寧な文字で「山姥切、膝丸と共有済み」とある。山姥切……? この本丸には、いなかったはずなのに。いやしかし、これは。今まで何度も捲っていたマニュアルだったのに。
     慌てて広げてみると、隠し通路から部屋まですべてこまごまと書かれている。所々に審神者さんの書き込みも相変わらず見られた。鉛筆で書かれた刀の名前は、部屋の割り振り。裏返してみれば、数年前の日付と本丸着任の文字。
     ピピと端末が音を立てた。ハッとして見れば前田君の名前の横に軽傷の表示。ぎゅっと端末を見つめ、間取り図と視線を交互に動かす。
    「敵は、審神者を真っ先に」
     敵、敵って今どのくらい。何振か刀剣男士が固まって動いている。だが追いかけまわす様な移動は大分落ち着いていて、ある程度戦闘が終わりつつあるような気がしていた。前田君と乱君と秋田君だけが、動かない。膝丸君がそちらに向かっている。
    「膝丸君、膝丸君聞こえる?」
     マイクの記号を押してもう一度言う。走っているらしい膝丸君の声はぶれていた。
    「どうした、何かあったか!」
    「違う、膝丸君、裏庭の、母屋挟んで反対側に行ってほしい! 屋根登れる?」
    「何を言ってるんだ?」
     執務室の隠し通路を抜ければ、梯子があって屋根に出られる。この間取り図にある。審神者さんの文字で「頭上注意」とあった。
    「今日は月が明るいから、屋根は絶対に目立つと、思うの」
     敵が、審神者を見つけてそちらに向かってくるのなら。明るい月夜なら、開けた屋根なら、太刀の膝丸君も問題なく動けるはずだ。太刀の長さでは、室内戦のほうが不利で、裏庭なら月が陰ってしまう。
    「待て、まさか君、それは無茶だやめろ! 何かあったらどうする!」
    「何かあったら! 何かあったら、膝丸君、助けに来てくれるでしょう?」
     絶対に来てくれる。今までだって何度も、来てくれた。
    「死んだら帰れなくなるのだぞ、わかっているのか!」
    「でもこのまま放っておいたら、私、向こうに帰れたって一生後悔する!」
     誰かが折れてしまったら。このまま、誰かが。
    「仮だけど、いるだけだけど、もしここにいる皆が私がここにいる間に折れちゃったりしたら、私だけ生きて帰れたって嬉しくない!」
     はあ、はあと走って乱れた呼吸だけがいくらか聞こえていた。迷っているのがわかる。どうにかしたい気持ちはあるけれど、膝丸君に協力してもらえなければ前田君を助けられない。
    「……いいか、君のほうが早く着く。だから今からゆっくり六〇、きちんと数えてから執務室を出てくれ」
    「六〇……」
    「その間に俺が向かう。君一人で何もするな、いいな、絶対だ、絶対だぞ」
     首を縦に動かして、それでは聞こえないと気づいて私は「うん」と口に出した。プツリと通信が切れる。六〇、一分、数える。
     きっちりゆっくりと数を頭の中で唱えながら、私は戸棚を押して動かした。この後ろに隠し扉がある。なんだか他と比べて小さい戸棚だと思った。まさかこれを隠しているとは。五九、六〇と確かに呟いてから、扉を開けて屈んでくぐる。暗い。通信端末の明かりで何とか先に進んだ。細く暗い通路。その先にあった木の梯子に手をかけて登った。
    「いたっ」
     ゴチンと軽く頭をぶつけて、それが一番上なのだと気づいた。頭上注意とせっかく書いてあったのに。それにしまった、靴を履いていない。でも屋根なら、何も履いていないほうがかえって滑らなくていいだろうか。靴下を脱ぎ、下に落とす。手が震えた。ここを出たら、もう隠れる場所はない。
    「……まだ若いし、目は悪くないし、避ける、だけなら」
     自分を励ます言葉が陳腐すぎていっそ笑えた。でもそれ以外にできることがないのだから、仕方ない。
     大きく一つ深呼吸をして、ぐっと天井を押す。暗い通路に白く光りが差し込んだ。
    「っ眩し」
     瓦のいくつかが扉になっていて持ち上がる。確かに母屋の天井だった。裏庭に面しているのと逆側の屋根。よかった、出てきてすぐに見つかるようなへまをしないで済んだ。そろりと棟から庭を覗き込んだ。
    「前田! 前田大丈夫っ!」
    「う、乱、秋田、僕はいいですから」
     前田君が膝を突いている。ここからでははっきりとはわからないが、具合が悪そうだ。一体どうしたんだろう。私が来た初めての夜、飛び出してきて敵を仕留めた前田君はもっと軽やかに動いていた。
     敵は短刀と脇差が見える。夜だから、きっと敵も夜戦が得意な編成なんだ。あの何振かだけでもこちらに引き付けられたら、今は前田君を庇いながら動いている乱君と秋田君が何とかしてくれるはず。
     カタリと微かな音がして、驚いて声を上げそうになったのを堪えて振り返る。しかしそこにいる人影を見て、私はホッと息を吐いた。それから笑って震える膝を叩き、立ち上がる。若いし元気だから、大丈夫。本当にそうかどうかわからないけど、でも。
    「まっえだくん!」
     声が裏返った。けれどちゃんと届いたようで、勢いよく前田君が振り返る。栗色の髪が揺れた。目を丸くした乱君と口を開けた秋田君もこちらを見た。
    「しゅくん」
    「あっ主さん! 何やってんの! 危ないよ!」
    「主君、そんなところに登ってはいけません!」
     赤い目が自分のほうに向いたのがわかった。あの、下半身が人間じゃない脇差はどんな動きをするのだろう。どのくらいの速さでここに来るのだろう。骨のお化けみたいな短刀が早いのは、知っている。
    「主さん! 逃げて、そっちに行っちゃう!」
     悲鳴に似た乱君の声。瓦の上を一歩後ずされば、裸足の足の裏は張り付くような感触があった。でも動けなくはない。靴下は脱いできて正解のようだ。滑るところだった。
    「い、いいよ! こっちだよ、見えるでしょ!」
     予備動作があるのは、時間遡行軍も人間も同じようだった。一瞬だけ、敵の短刀が助走のように体を下げたのがわかった。一歩下がる、避ける、屋根から落ちない。その三つだけ頭の中で繰り返した。私にできること、しなきゃいけないことはその三つ。
     息を吸って、詰めたまま私は身を翻す。傾斜のある屋根だから勢いをつけすぎると落ちる。背を向けるのは怖いが、私は後ろ向きに下がれるほど器用ではない。
     それに、私が名前を呼ぶのを待っている刀がいる。
    「膝丸君!」
     瓦を踏みしめる音がした。私とすれ違うようにして、飛び出していく。
    「シャアアアッ!」
     鉄の砕ける音は思いの外軽かった。前はそんなの気にしている余裕もなかった。結局勢いがつきすぎて転げそうになるのを、手を突いて堪える。それでも一回転して体を打ち付け、何とか顔を上げたとき膝丸君が手にしていた太刀で脇差を叩き斬るのが見えた。
     ああ、綺麗だ。鞘を抜いたところをちゃんと見たことがなかった。明るい月の光が刀身を照らす。屋根の上に出たときよりずっと眩しかった。
     あんなに、綺麗だったんだ。膝丸君は、こんな風に敵を倒す役目のために振るわれる、本当の姿は。
    「前田! 乱秋田! 怪我は!」
    「ボクらは平気! 膝丸さん、主さんは」
    「ああ、君、大丈夫か」
     棟に片足をかけた膝丸君が振り返った。這い蹲るような姿勢ではあったけれど、私は何とか片手を上げた。
    「だ、大丈夫、生きてる、一回転したけど」
    「手を貸そう、もうここらの敵は殲滅したはずだ」
     カタカタと瓦を鳴らして、膝丸君がじわじわとこちらに降りてきた。膝を突いて伸ばされた手を取ろうとしたとき、首のあたりがゾワリとする。
    「膝丸君、後ろ!」
     掴んだ膝丸君の手を引っ張る。膝丸君のほうが反応は早かった。私が引っ張った勢いを利用して振り返りざまに敵打刀の頭を真っ二つにする。しかし私のほうは思い切りバランスを崩して倒れた。
    「ぎゃっ」
    「っ君!」
     今度は膝丸君が私の腕を掴んだ。屋根から落ちる寸前だった私の視界は反転したが、何とかそのまま静止する。
    「あ、ありがとう……」
    「……はあ」
     ぐいと引っ張られて、もう一度明るい月夜と瓦が映ったのも束の間のこと。私の目の前は一面グレーの布地になった。
    「だから履物を短くするなと言っただろう……そんなに動いては捲れるぞ」
     抱きしめられているのだと気づくのにしばらくかかった。肩に回った腕にしっかりと力がこもって、するりと大きな手が首筋を撫でる。
    「ご、ごめんなさい……」
     ただそれしか返せずに私は俯く。もう一度膝丸君が大きくため息を吐いたのがわかった。
     


     前田君の負傷は私には手入れできない。けれど刀身を確認した膝丸君が、今すぐどうこうという傷ではないから暫く安静にさせていようと言うのでひとまず部屋に運んだ。
    「もー! 二度とあんなことしないでよね主さん! 結局怪我しちゃってるし!」
    「本当です! 屋根に上りたかったら今度僕が鬼ごっこにお誘いします!」
    「あは、ごめんなさい」
     乱君と秋田君にも散々怒られる。硬い瓦の上で一回転した私は、適度に擦り傷と打ち身ができていたけれど、それこそどうとでもない傷だった。生きている以上、この傷は自然に治る。
    「次から無茶はしないでくれ。俺の……俺の心臓が止まりそうだったぞ」
     執務室で至極疲れた顔の膝丸君が救急箱を閉じながら言う。本当に心底疲労しているのか、髪は乱れているし声がか細い。
    「いやその、本当にごめんね」
    「今回は何もなかったからいいものの、いや怪我をしているな、何もよくない」
    「平気だよ、こんなの二、三日したら瘡蓋なんだから」
     一応の弁明をしたが、膝丸君の蜂蜜色の目がじっとりとしてこちらを睨んだのでそこまでにした。それより私は前田君の怪我のほうが気になる。
    「本当に何でもないの? ……折れちゃったりとか」
    「暫くは安静にさせる。だが軽傷で折れることはない。今後前田は敵襲の前線から下がらせる」
     それを聞いて私は胸を撫でおろした。そうか……誰も折れないで済んだんだ。
     ああそうだ、忘れないうちに。私はマニュアルに挟んでいた間取り図を取り出した。どうして急に見つかったかわからないけれど。でもきっと、審神者さんが助けてくれたんだ。この不思議な場所では、そんなこともあり得る気がした。心配した審神者さんが、手を貸してくれた。私はそう思いたい。
    「これ、膝丸君に渡しておくね」
    「む……君、これはどこで」
    「見つけた。もし私が帰っちゃって、またどこにあるのかわからなくなったら困るから。次の人が来るまで、膝丸君が持ってて」
     受け取った間取り図を、膝丸君が広げた。指で審神者さんの文字をなぞる。書き込んであった山姥切の名前を見て、膝丸君がぽつりと呟く。
    「……この本丸の初期刀は、山姥切国広でな」
    「え……」
     今はいないと、聞いていた刀。初期刀だったのか。でも、それなら一層疑問が深まる。どこにいるんだろう、山姥切国広さんは。
    「近侍もずっとそうだった。だが俺が来て、練度が安定したころ主が俺と交代させたのだ。俺が第一部隊で出陣していれば、兄者をより早く見つけられるやもしれぬと。そのとき、この間取り図を見せられた。万が一のときのため」
     細々と書き込まれた審神者さんの文字。緊急時の脱出経路、避難部屋。備蓄をしまっておく場所。大切にされていた場所なのだ、ここは。
    「本当にいい人だったんだね、元の審神者さん」
     少しだけ眉を下げて瞳を緩めた膝丸君は「うむ」と一度頷く。
    「俺たちを、とても大切にしてくれた。心配になるほどだった、君のようにたまに、無茶もした。君たち人間は俺たちのように手入れはできぬというのに。自分よりも俺たちの怪我を嫌がる人間だった」
    「……」 
     チクリと僅かに胸が痛む。それからどうしても、羨ましいと思ってしまった。
     その人は、ここで膝丸君の主だった。膝丸君たちを正しく大切にできた。怪我をしたら手当てができて、役目を果たさせることだって。その分、膝丸君たちだって審神者さんのことが好きだっただろう。
    「やっぱり、死んじゃって悲しいよね」
     なんでそんな当たり前のこと聞いたんだろう。唇を噛む。わざわざ問わなくたって、そんなの当たり前だ。でも私は口に出していた。膝丸君は間取り図を畳み、今度は机の引き出しにしまう。
    「……悼む間もなかった。それが惜しいとは思う。彼女はいい主であろうとした、そうだった。弔う暇もなかったことは申し訳がない」
     ……私が、いなくなったら。膝丸君は私のことをそんな風に覚えていてくれるだろうか。主でもない私のことを。
     嫌だ、どうしてそんなこと考えてしまうのだろう。私は何気なく顔周りの髪を耳に掛けようとして、捻ったらしい手首がやや痛んだ。湿布を貼ってもらえばよかった。でも動かさないと気づかなかったのだ。
    「君、どこか痛むのか」
     こちらに顔を向けた膝丸君が言う。慌てて首を振ったけれど、その拍子にぼろと涙がこぼれそうになって焦って指で押さえる。膝丸君はそれを見て息を吐く。
    「やはり怖かったのだろう。だから執務室にいていいとあれほど」
    「そ、そうかも。そうかもしれない……」
     気が動転しているんだ、まだ。実際敵も怖かった。久しぶりに転んだ。高いところも得意かと言われればそうではない。だからきっとこの涙はそれなんだ。
     辛いんじゃない。やきもちじゃない。だってそうだったとしたら。
     ポンと大きな手が頭に触れる。髪を乱さないようにしているのか若干ぎこちなかったけれど、膝丸君のそれが何度か私の頭を往復する。
    「だが……立派だった。君はよく頑張っていたぞ。君のおかげで、前田の怪我はあれだけで済んだのだから。礼を言う。前田を守ってくれてありがとう」
     吸った空気を吐きだせなくなって、唇の形が歪む。
     ……違う、そうじゃない。そうだったら困る。今胸が痛むのは、怖い思いをしたからだ。体のあちこちを打ち付けたからだ。そうでなくてはいけない。
     そうでないと、帰りたくなくなってしまう。
    「まだ痛むなら、薬研を呼ぼう。女子の体だ、傷が残っては困るだろう」
     涙を拭うようにして膝丸君の手のひらが頬を撫でる。最初にここに来たあの日から、ずっと私の傍にいてくれた温かい手だった。
    「どうした、君。何故泣いているのか、俺に教えてくれ。君がここにいる間、俺は君の近侍なのだ。君の憂いは俺が晴らそう」
     今、正直に、膝丸君が好きだと言えたなら。
    「膝丸君、私が向こうに帰っても、忘れないでいてくれる?」
     絞り出せたのはそれだけだった。あの蜂蜜色の瞳がほんの僅か見開かれ、それから緩む。サラサラとした薄緑色の髪が鼻先に触れて、唇が重なった。手のひらは硬くて武骨でも、そこは柔らかい。
     それが私の人生で初めて、好きな人、もとい刀としたキスだった。
       また会う日まで


     守ってやらねばならぬと思っていた。
     最早背水の陣だった俺たちにとっては願ってもみない幸運、しかしここに迷い込んできた彼女にとっては家族や慣れ親しんだ世界から引き離される不運だった。それも、審神者に選ばれて覚悟を決めたわけでもない。ただ、外からの連絡を待ち望んだ俺たちと本丸に引きずり込まれる形で迷い込んできたのだ。
     だから守ってやらねばならぬと思った。決して死なせるわけにはいかぬ。何も知らない、まだ若い娘だ。家族がいるだろう。友人もいるだろう。ここで死なせてしまうわけにはいかない。いつか家に帰してやるまで、俺が守らねばならない。
     けれど彼女はここに馴染もうとした。自分でやれることをここで探そうとしていた。責任感から来るものなのか、寂しさを打ち消そうとしていたのかは俺にはわからない。だがとにかく彼女は慣れない早起きをして、厨に立って、畑に一緒に向かった。
     ただその姿をとても、いとおしいと思った。



     朝起きたとき、全身が筋肉痛を訴えていた。屋根の上で大騒ぎしたのが原因だろうことは明らかで、パジャマを捲ってみれば打ち付けた腕や足はあちらこちらが青あざになっている。
    「あーあ」
     流石に今日は制服のスカートを履く気にはなれなかった。いつも通りに上は膝丸君のジャージを、下には鯰尾君のジャージを履く。まだら模様の足をさらすのは嫌だ。ただでさえ、好きな人、もとい刀とキスをしたあとで。
    「どうしよ……」
     いや、どうしようもこうしようもない。私は両手で顔を覆ったが解決策は思いつかなかった。
     昨夜、キスをした後膝丸君は特に何も言わなかった。私の頬から手を離して、手早く救急箱を抱えて「ではまた明日」と執務室を出て行ったのである。それはどういう反応なのだと聞きたかったけれど、そこまでの勇気はもうなかった。
     トントンと襖を叩かれて肩を跳ね上げる。普段通りなら、朝起こしに来るのは膝丸君なのだ。
    「はいっ!」
    「あ、やっほー。俺、加州清光」
    「えっ加州君」
     拍子抜けして確かめれば、立っていたのは加州君だった。ひらひらと手を振っている。
    「起こしてきてって言われたんだけど、もう起きてたんだね。すごいじゃん。もう早起き慣れた?」
    「あ、うん。そうだね」
     なかなか寝付けなかったとは言いづらい。しかし、膝丸君が来られないときは前田君が来てくれていたのに。前田君はそんなに悪いのだろうか。
     私の顔で考えていることを察したのか、加州君は肩を竦めて首を振った。着回しのできる正確なんだなあといつも思う。
    「あー、違う違う。膝丸が大事取って前田に今日は動くなって。膝丸そっち見に行っててさ、俺に起こしに行ってくれって言うから」
    「そ、っか。……よかった」
     一応、私も昨日前田君の様子は見に行った。体の傷は放っておいても人間並みのペースで治るらしく、擦り傷やらなにやらは気にしなくていいと薬研君から聞いている。でも刀の傷はそうではないし、前田君たちにとっては刀の方が本体。だから安静にしているようにと前田君は言われていた。
     ポンポンと加州君が私の背を叩く。加州君はなんだか、向こうにいるときの同級生くらいの距離感でいつも接してくれていた。それはとても心地いい。
    「大丈夫だって。それよりあんた今日履物違うってことは足あざだらけでしょ? もー、だめだよ人間なんだから無理したら」
    「あはは、ごめんありがとう。加州君、前田君の好きなもの知ってる? 朝ごはんできればそれ作ってあげたいな」
    「もちろん、張り切っていっちゃおーね」
     ぐっと加州君が力こぶを作る。前田君の好物は卵とじのおじやだと聞いて、今朝の朝食当番だった私と加州君は大きな鍋いっぱいにそれを作った。
     普段通りなら、朝食後片づけを終えてからは執務室で勉強をする。でも今日に限って言えば、膝丸君は来るのだろうか。向こうも気まずくて来なかったり、なんて考えがよぎった。でも別に……付き合おうとかそういう話をしているわけではない。というかそもそも、刀と人間で付き合うなんてできるのだろうか。政府の方で恋愛禁止とかにしていないのか? 刀剣男士は美形ぞろいなのだし、そういう取り決めがあると言われても驚かない。私は一人でマニュアルを捲った。索引の「恋愛」なんかで規定されていないかな。
    「君、遅くなってすまない。備蓄の整理に時間がかかった」
    「うわっ」
     れ、の欄を見ていたらいきなり声を掛けられたので、私は思わずびくついた。振り返ればジャージ姿の膝丸君がいつも通りの風でこちらを見ている。使っていたらしい軍手をポケットに突っ込むと、膝丸君は隣の座布団の上に正座した。
    「昨日の続きでいいか。直しが途中だっただろう」
    「え、あ、うん。というかごめん、昨日全然勉強できてないから、試験出されてもわからない」
     あまりにも膝丸君が普通だったので、私もごく普通の報告をした。あれだけバタバタしていて、試験勉強どころではなかったのだ。
    「俺も流石に問題を作る余裕がなかった。明日でいいだろう」
    「そう、そうだよね」
     冷静な顔で膝丸君が言うので、私はうんともう一つ繰り返した。ノートと昨日の答案を出す。マニュアルを捲って間違っていた問題を直した。それ自体はこれまでやっていたことと変わらない。変わらないが最高に気まずい。
     逆に何故膝丸君は全く変わらない態度なのだろう。女慣れ? 慣れているのか? キスの一つや二つ特に歯牙に掛けるほどでもないのだろうか。あれは膝丸君にとっては挨拶程度か?
     色んなことが頭をぐるぐると回る。結局私は観念して口を開く羽目になった。到底勉強なんかできそうにない。
    「あのー、膝丸君」
    「どうした」
     膝丸君は別にどこも見ていない。私の手元に目をやっていると思っていたのだが、顔はそうでも視線自体ははっきりしていないのだ。一応手に赤いボールペンを持っていたが動いていない。
    「昨日の、ことなんだけど」
     ピクリと膝丸君の耳が動いた気がした。そしてふいと顔を背けられる。
     若干、いやかなり私はショックを受けた。そっぽを向かれた、この状況で。何とも思っていないのかと想像していたら、むしろ嫌がっていたのだろうか。もしや場に流されてキスした?
     しかし膝丸君が発したのは全然別な言葉だった。
    「……謝らないぞ」
    「え?」
    「俺は謝る気はないゆえ、怒りたければ怒ればいい」
    「何が……?」
     何を言っているんだこの人は。いや刀か。全然わからない、何に怒れというのだろう。
    「膝丸君、何かに怒ってるの?」
     念のため聞いてみれば、僅かにだが膝丸君がこちらを見た。けれどそれは細さで透ける薄緑色の前髪越しなので、いまいち感情が読み取れない。
    「怒るのなら君の方だろう」
     会話がてんで噛み合わない。何故。私は困惑しきってただ膝丸君を見つめることしかできない。だがそれさえ何かに責められていると思ったのか、膝丸君はまだ別な方に目を向けた。
    「……嫁入り前の娘の唇を奪ったことは悪いと思っているが、取り消すつもりはない。だから口づけをしたことは謝らぬゆえ、怒るなら好きにしてくれ。甘んじて受けよう」
    「……」
     ……なにそれ。なんで私が怒ると思ったのだろう。
     私にはさっぱりわからないけれど、膝丸君の方は完全に反省モードに入っていて叱られるのを待っているようだった。
    「……はは」
     なんだかおかしくなって笑いが零れる。間違いなく笑っている場合でないことは確かなのだけれど、神妙な顔の膝丸君を見ていると我慢が出来なかった。
    「何を笑っている」
    「は、あはは、いや、いや、だって」
    「笑い事ではないだろう。俺とて責任を取りたいが……今はそういうわけには、いかぬゆえ」
     低い声で言っていた膝丸君が、不満げな様子で振り返る。
    「責任取りたかったって、そんなすごい何かしでかしたみたいな」
     事の重大さと表情と言動がすべて釣り合っていない。けれど笑い続ける私を見て、膝丸君の方はだんだんじっとりとして目が据わり始める。ほう、と地を這うような声が言った。
    「君は口づけ程度どうとも思わないということか?」
    「ふ、ふふ、そうじゃないよ。ただ言い方がおかしかっただけで」
     むっと眉間に一度はしわを寄せたものの、膝丸君は私が笑っているのに安堵したのかそのうちに普段通りの表情に戻った。そrから静かに、穏やかな声音で言う。
    「……何もおかしくない、本当にそう思っている。本当だぞ。だから笑わないでくれ」
     男の人なのに、随分すべすべとした指先が伸びてきて私の頬をなぞる。最初は指の腹だけだったが、手のひら全体で撫でられた。
    「……うん」
     ほっと息を吐く。膝丸君の手が離れた頬は少しだけひんやりとした。
     ……はっきりした言葉を言わないのは、そういうことなのだと思う。私もそこまで馬鹿ではない。ここに来て色々知ったこともある。それに私は初めからいつかここから帰るのが決まっていた。だから膝丸君は何も言わない。
     それでもと口を開いてしまうのは、やっぱり苦しいから。
    「もし、もしもだけど」
     膝丸君は答えない。
    「もしも私が現世に帰れて、もし、本当に審神者になれたら」
     そのときは。
     視線を下げていたために、私にそのときの膝丸君は唇しか見えなかった。どんな顔をしていたのだろう。見ておけばよかったと後になってから思う。
    「膝丸さん! 前田が!」
     乱君が飛び込んできて、それ以上私は言えなかった。膝丸君が勢いよく立ち上がる。私もそれは同じだった。前田君が、一体。
    「前田、起きているか」
     走って前田君の部屋に向かうと、粟田口の子たちが勢ぞろいして前田君の布団を囲んでいた。そこに横たわっている前田君は眠る前のような、そんな穏やかな顔をしていた。けれどどう見ても普通ではない。
     何と表現したらいいかわからない。ただ有り体に言うのならば、生気がない。死ぬ間際とは違うと思う、強いて表現をするのなら、寝る前に似ている。
     置物の、人形のようだ。私はぞっとした。
    「……ひざまるさん」
     首をもたげて、前田君は部屋に飛び込んできた私と膝丸君を見た。
    「ほうこくが、おくれましてすみません。ほんとうはすうじつまえから、てのうごきが、おかしかったんです。そのせいで、きょうだいにもめいわくをかけました。もうしわけ、ありません」
     いつものはっきりした喋り方ではない。ただならぬ様子に私は慌てて前田君の傍に駆け寄ろうとし、膝丸君に肩を掴まれ留められる。
    「だめだ、前田に近寄ってはならぬ」
    「っなんで、前田君、どうしたの、怪我が悪いの?」
     私を見て、前田君は緩く首を振った。
    「ちがいます。あなたのせいじゃないんです。どうかきにしないでください」
    「でも……っ」
     前田、前田と周りを囲んだ兄弟が前田君に話しかける。怪我は大したことがないと言っていた。審神者用の端末を見ても、軽傷としかなかった。マニュアルの負傷の項は何度も読んだからわかる。軽傷じゃ折れたりしない。それなのにどうして。
     素人目に見ても、前田君はもう今目を閉じたら二度と開けないのだとわかった。理由がわからないのに、どうして。
    「前田君、前田君やだ、前田君!」
    「だいじょうぶです、あんしんしてください、ぼくはおれるわけでは、ないのですから。なかないで」
     前田、と声をかけた膝丸君も私の肩を掴む手が震えていた。前田君は私のほうに手を伸ばしかけて、やめる。布団に落ちたそれはピッと軽い音を立てて布を裂いた。間違っても、ヒトの肌の音ではなかった。爪でもない。前田君の指が置かれたそこから綿が飛び出す。
     刀だ、刀なのだ。
     私を押さえていた膝丸君が屈みこみ、前田君に語りかける。優しい、年の離れた兄のような調子だった。
    「前田、心配せずともいい。皆俺が同じ場所にしまう」
    「ええ、ありがとう、ございます。てまをかけて、すみません」
     ほうと前田君が息を吐きだす。それから前田君は、静かになった。それ以上でもそれ以外でもなく、ただとても、静かになった。
    「……前田君、どうしちゃったの」
    「……すまないが、そのうちに『戻る』はずだ。拵の世話は兄弟に任せていいか」
     私の問いに答えないで、膝丸君が粟田口の少年たちに言った。彼らはただ頷いて、何も言葉を発しない。
    「君はこちらに来てくれ、説明をするから」
     肩を掴んでいたのを滑らせて、手を握った膝丸君に引っ張られる。戻るってなんだろう。前田君は一体どうしてしまったんだろう。
     膝丸君は廊下を進むと、普段鍛刀をする場所だという鍛冶場のすぐ隣の部屋の戸を開いた。私はここに来たことがない。鍛刀ができないからだ。
    「紹介が遅れてすまない。……山姥切国広だ」
    「え……」
     その部屋は、木の棚が壁沿いにぐるっと置かれていた。その真正面に、掛け台の上に、一振刀がある。黒い鞘の、あの置き方は打刀だ。
    「山姥切国広って、ここの初期刀だったんじゃ」
    「そうだ。主がいなくなって暫くしたころ、最初に刀に戻った」
     嘘。一歩足を踏み出すと、ギシリと木の床が音を立てる。近寄ってみても、当然だがその刀は何も言わなかった。私の目の前にあるのは刀で、刀剣男士ではない。
    「前田も、明日になれば自然とこの器を失って刀に戻る」
    「っどうして! だって私がここにいれば、ひとまずでも本丸は維持できるって」
    「っねえ主! もー、こんなところにいた、大変だよ!」
     私が問い返したのとほぼ同時に、今度は加州君が飛び込んでくる。大変ってなんだ、前田君のことはもう知っている。しかし加州君は私に駆け寄ると両肩を掴んで揺さぶった。
    「転送ゲートが動いてるんだよ! あんた帰れるんだ!」
    「えっ」
    「……やはりか」
     膝丸君が踵を返す。今度は加州君に引っ張られて廊下を走った。玄関の横、タッチパネルが光っている。私が来てこの方、それが動いているのなんて見たことがない。
     近寄った膝丸君がぱちぱちと操作をする。ちゃんと機器は反応しているようだった。加州君が興奮気味でそれを指す。
    「ね? ほら、動いてる、どうしたんだろう、何の弾みで」
    「……だめだ」
    「え?」
     首を振ると、膝丸君のサラサラの前髪が揺れた。
    「これは人間しか通れない」
     人間しか。加州君が機器と膝丸君と、私を見比べる。ここにいる人間は私一人だ。
    「それ、どういう」
    「俺たちはここを通れぬゆえ、彼女を帰すことしかできない。俺たちは人間ではない、人間が通れる場所も、刀は無理だ。周波数が違うと以前主が言っていた」
     そういえば、と私はマニュアルを思い出す。
     時を遡るのは刀剣のみ。蛍光ペンのラインが引いてあった。審神者であっても、同伴して出陣することはできないそうだ。生きている人間は鋼なら耐えうるその移動に耐えられない。それと同じで、人間なら可能な移動も刀にはできないということだろうか。審神者さんの言うことが正しいなら、刀と審神者が同じ移動をするなら専用のルートを通らなくてはならない、と。
    「じゃあ、これって意味ないの……?」
     加州君が言うのに、膝丸君は表情を変えないままでもう一度首を振った。
    「いや、君を家に帰すことができる。明日までは通じているはずだ。帰り支度をしてくれ。君の服がまだ洗濯場にあったな、取ってくる」
     帰り支度、帰れる。言葉がうまく呑み込めない。家に戻れると言われたのは確かなのだろうか。
    「ま、待ってよ! なんでそんな明日までとかわかんの? これなんで繋がったんだよ」
     玄関から去ろうとした膝丸君の腕を加州君が掴む。確かにそうだ。急なことで何もわからない。無表情の膝丸君は加州君の腕を払いはしなかったもののさほど気にすることなく、顔をそちらに向けることはなかった。
    「……前田のおかげだと思う」
    「前田の? なんで、前田どうし」
    「先ほど刀に還った。おそらく、前田の体のあるうちはこの通信は繋がっている」
     矢継ぎ早に、加州君の言葉を遮って膝丸君は言った。前田君の? 衝撃を受けた表情の加州君が、膝丸君の腕から手を離してだらりと垂らす。膝丸君は訥々と、ただ話を続けた。私と加州君がちゃんと聞いているかどうかなんて、意識にない。
    「山姥切のときもそうだった。山姥切の体がある間、この本丸はどこかに繋がっていた。ただあのときは今よりずっと不安定で、まともに働かなかった。先日通信機がどこかに繋がったのは、前田の体が戻り始めた頃。だから思うに、俺たちがこの体を手放す僅かな間は、ヒトの体からモノに戻るまでの間は、現世とこことの懸け橋になる。……前田は君を家に帰したかったのだろう」
     何も言えなくて、ただ膝丸君が再び廊下を歩きだす足音を聞く。
     前田君が。でも、でも私だけ帰っても、意味がないのだ。この本丸に後任の審神者が来て、また皆元通りに暮らせるようにならなくては。
    「待って膝丸君、私が、私一人で帰って、ここの場所を知らせることってできないの? 本丸って、場所ごとに番号があるんだよね? それを政府に伝えれば」
     追いかけて膝丸君に問う。膝丸君は振り返らなかった。
    「無理だ。前も言ったが、この場所は不安定だ。門が同じ位置にないと言っただろう。座標番号が狂っている」
    「っじゃあ帰らない! 私帰らないよ!」
     私の後をついてきていた加州君が目を見開いた。ぴたりと流石の膝丸君も足を止める。
     帰らない、帰れるはずがない。皆を見捨ててなんて行けない。私が帰ったら、またここには主を務める人がいなくなる。私だって正式な審神者ではないけれど、ここにいればほんの少しだけ場所を安定させられた。ボロは減ったし、敵の襲撃も最初の夜と昨日くらいだったのだ。でも私がいなくなれば、また元に戻る。
    「また、通信が通じるまで待てばいいよ。別に大丈夫、生活も慣れてきたし」
    「……あんた」
    「そりゃあ、ちゃんとした審神者じゃないからちゃんとしたことはできないけどでも、でも通信の切欠くらいは作れるかもしれない。私ここにいる、ここにいるよ」
     大きく、黒いジャージを着た背中が上下した。加州君が私と膝丸君を交互に見比べる。どうするのが正しいのか判別しかねているようだった。
    「私がこのまま残ったら、その政府とは連絡が取れなくても、皆は今のままいられるよ。取り残されたりしないで、ずっと」
    「……それはならぬ、だめだ」
    「どうして!」
    「俺たちは武器なのだぞ!」
     びくりと私は肩を揺らした。そんな風に膝丸君が声を荒げたのは初めてだった。やっと振り返った膝丸君は眉間に皺をよせ、歯を噛み締めて言う。
    「ここで永遠に人間のように、ただ暮らせというのか。戦いに出ることもなく、そうしていろというのか。俺たちは刀だ、武器だ、敵を討つために顕現した。その役目を果たすことなく、ただ朽ちるまで生きろというのか。そんなものは俺たちが望むものではない!」
     息が吸えない。拳を固く握りしめて、私は体を動かせなくなっていた。
    「帰れ、ここは君のいるべき場所じゃない。君は俺の主ではない。元居た場所に帰れ」
    「おい!」
     加州君が声を上げたが、膝丸君はそのまま行ってしまった。広くて黒い背中が視界から消える。
    胸がつかえてしまって、涙も出ない。どうしたらいいかわからなくなって俯きかけたとき、加州君が私の両肩を掴んだ。
    「ごめん! ごめん、違うから、そんな風に思ってないよ。あんたは、あんたはここに来てから本当に俺たちのために色んなことしてくれた。俺たちそれには本当に感謝してるんだ。あんたが来てくれなかったら、きっともっと早く、前田はだめになっちゃってたし……」
     加州君も言葉を詰まらせる。私は反射的に自分より少し背の高い加州君を抱きしめていた。
     怖いに決まっている。このまま、刀に戻ることが。段々体が動かなくなって、ある日目が覚めなくなる。それが怖くないはずがない。それは明日かもしれない、明後日かも、もっと先かもしれない。そのときは、自分一人になっているのかも。
    「加州君、私、私一人でなんか帰れないよ」
     ぎゅっと一度加州君が強く私の体に腕を回してしがみつく。温かくて、でも膝丸さんよりは細い腕だった。
    「ううん……ごめん、ありがとう。あんたが、残るって言ってくれたのは本当に嬉しいけど、でも帰ったほうがいいと思う。ここに残らせるわけにはいかないよ」
     眉を下げた加州君が顔を上げた。首を振ると結ってある襟足が揺れる。耳に着けたイヤリングがキラキラ光った。
    「せっかく帰れるんだもん。次がいつかなんかわかんないし、敵が襲ってきても困るし……あんたに、俺たちが鉄に戻るとこ、いちいち見せるの悲しいもん。あいつもそういうこと言ってるんだと思う」
     膝丸君が行ってしまった廊下の先を見つめ、加州君は言った。
    「俺たち、戦ってたら今日死ぬのも仕方ないって思えるよ。だってそういうモノだもん。折れるのだっていきなりだった。明日が来るのは当たり前じゃない、そう思える。でもそれって主の人間もそうなんだと思う。……ここは今そうじゃない。今の俺たちは人間みたいに暮らしてる。ここにいる限り、俺たちはある日突然いなくなって、最後は誰か一振を残すことになる。死ぬのがいつもより遠ざかるから、余計怖いんだ」
    「加州君……」
    「それにさ、手足とか口があるうちに、お別れ言っておきたいじゃん」
     優しく、もう一度だけ加州君は私を抱きしめてくれた。それを抱き返しながら、泣かないように唇を噛む。お別れしたくない。こんな風に、別れたくない。
    「あんた、いい審神者になるよ。現世に帰ったら目指してみたら? ちょっと経験積んだんだしさ。そのときは俺のこと初期刀にしてね。頑張っちゃうよ」
     よろしくと明るい声で加州君は言って、ポンと背中を叩かれる。
    「加州君」
    「夕飯食べてから帰んなね! 明日まで持つみたいだし。俺皆に伝えてくるから、じゃああとで!」
     手を振って、加州君も行ってしまった。私は一度だけ手の甲で涙を拭って、ぶかぶかのジャージの上着を見る。黒い、膝丸君のジャージだ。着替えなくちゃ、とぼんやり考えた。


     急に帰ることになった私を、皆惜しんでくれた。刀剣男士たちは口々に「帰れるようになってよかったなあ」と言い、堀川君が大慌てで餃子を作り、秋田君が庭を駆けまわって花を集めてくれる。代わる代わる挨拶に来てくれる刀剣たちの間を見計らって、私は前田君の部屋をもう一度訪れた。
    「……前田君」
     最初にここに来たときに、お菓子とお茶をくれた。肌蹴た浴衣を整えてくれたのも前田君だったし、私が来てからずっと、気にかけていてくれた。
    「前田君、ありがとう。私、帰るからね」
     目を閉じて静かに横になる前田君は、明日には刀に戻ってしまう。触れてはいけないと思って、ぎりぎりまで頬を寄せればひんやりとした鉄の冷気が伝わってきた。戻ってしまった刀は、新しく審神者が来て再び励起すれば元通りに動けるようになるのだと、他の刀剣たちが教えてくれた。僕は折れるわけではないからと、前田君の言っていた意味を理解する。
     だから前田君は、いつかまた目覚めることができるかもしれないのだ。新しい審神者さえ来たならば。
     少しの間自分の部屋だった和室に戻る。学習鞄に日本史の教科書とノート、筆記具を詰めた。それから膝丸君のジャージを脱いで、グレーのシャツと一緒に畳む。部屋には洗いに出していたはずのプリーツスカートが掛かっていて、膝丸君が持ってきてくれたのだと気づく。久方のセーラー服に袖を通して、スカートのホックを留める。
    「痣だらけだな……」
     紺色のハイソックスを履いても、膝小僧やら何やらの傷は隠せなかった。帰ったら、どう思われるだろう。自分の頼りない足を見下ろす。
    「……君、少しいいか」
     襖の向こうから膝丸君の声がして、首を擡げて上げる。振り返って、襖を開けた。すると最近あまり見なくなっていた、あの黒いジャケットと白いシャツが目に入る。相変わらず声は上から降ってきていた。
    「支度は」
    「ごめん、荷造り今、終わったから」
    「……そうか」
     チャックの閉じられた学習鞄をちらりと見やり、膝丸君は入っていいかと尋ねる。頷けば、膝丸君は手にしていた何かを持ち上げる。お盆と、お皿だった。まだ湯気の上る、肉じゃが。
    「まだ腹には入るか」
     膝丸君の、得意料理だ。「俺が肉じゃがを作ると皆が喜ぶゆえ、よく作る」と言っていたのを思い出す。そう言えば、まだ食べれていなかった。
     机の上に、膝丸君は皿とお箸を並べる。それからいつものように正座した。今朝、そういう風にして執務室に座ったのが遠い昔のような気がする。そもそもここに来たのだって、それほど前ではなかったはずなのに。
    「いただきます」
     膝丸君の隣に座って、手を合わせた。箸を手に取って柔らかいジャガイモをつまむ。ほくほくとして温かい。
    「声を荒げて悪かった」
     ジャガイモを口の中で潰して、人参を取ったとき膝丸君が言った。ゆっくり首を回せば、膝丸君はまっすぐと机の上を見つめていた。早く返事をしたかったが、存外熱いジャガイモを咀嚼するのと飲み下すのに時間がかかる。
    「ん」
    「……だが間違ったことは言ったと思っていない。君は今日、帰るべきだ。この機を逃してはならぬ」
     玉ねぎが甘い。みりんと、味付けに使っている砂糖が多めなのだろうか。確かに好きな味かもしれない。皆が喜ぶというのが、わかる。返事をするつもりだったのだけれど、結局もそもそと肉じゃがを口にする。冷めてはいけないと思った。できるだけ出来立てで、食べたかった。
    「ごちそうさまでした」
     もう一度手を合わせる。ほうと吐き出した息さえも温かい。お腹のあたりだけではなくて、胸のあたりまでぬくもる。
    「……まだ納得したわけじゃないよ」
     お腹がいっぱいになると、気持ちが落ち着いて言葉も混乱しなくなった。だからちゃんと話せる。
     諦めては、いけないと思う。この本丸が今後どうなるかわからないのは、実際にここにいた自分がよくわかっている。変化は殆どなく、膝丸君が言うのなら「ただ生きているだけの日々」。私はそれが不幸だとは思わない。でも、膝丸君もそうだなんて一言も言わなかった。
    「私、ここにいるの楽しかった。だから、このままになんてしておけない。でも……膝丸君の言うように、ここにいるだけじゃ何もできない」
    「……」
    「だから向こうに戻ったら、できる限りのことしてみるよ。絶対に」
     私がここに来たのだから。向こうからここに来られないはずがない。どれだけの数の本丸があるのか、知らないけれど。どれほど途方もなく当てのないものだとしても。
    「私、審神者になろうと思うの。どうやってなるのかさっぱりわからないけど、調べてわからないことじゃないと思う。やってできないことじゃないと思う」
     どれだけの時間をかけても、必ず。そう思えることが自分にできた。
     きっとその気持ちだけで、私は頑張れる。
    「君はよくやったぞ」
     膝丸君が静かに言った。机の表面を見ていた視線をこちらに向けて、優しく微笑む。眉を下げ、瞳を和ませ、それでも悲観の色は一つもない。
    「胸を張ってくれ。君はここで、よくやった」
     黒い皮の手袋をした膝丸君の手が、私の手を握る。同じだけ、胸がぎゅっと締められた。
    「誰がどんなことを言おうと、君がどう思うと。俺はそれを忘れない。長く生きているが、これでも記憶力は確かだ。永遠に、俺は君を忘れない」
     自分よりずっと大きな手を握り返す。私も忘れちゃいけない。どんな些細なことも、ここにもう一度戻ってくるために。
    「絶対に見つけて、迎えに来るから。だから待ってて、諦めないでここで待ってて。そのときは、きっと私、膝丸君の主になるから」
     今度こそ、あなたの主に。
    「……ああ、では、そうしよう。君が来るまで、もう一度あの門をくぐるまで。俺はここで待つ。約束だ」
     手を上げて、膝丸君がするすると手袋を外す。白い手がもう一度だけ私の頬に触れた。
    「君のものになれる日を、待っている」
     大袈裟な言い方、と私は笑った。堪えきれなかった涙が一粒流れる。永遠に、忘れられないだろう体温だった。肉じゃがの匂いと、ほんの少しだけする品のいいお香の匂い。鼻をこすり合わせて、二度と忘れないように。
     好きになったのが刀だなんて、普通の女子高生じゃありえない。でもそのありえないことに出会えた幸運を、私は心の底から感謝した。


     学生鞄を持ち、玄関に向かう。トントンと石の三和土の上でローファーのつま先を鳴らした。
     玄関まで皆が見送りに出てくれた。通信機器の操作だけは膝丸君しかできないために、タッチパネルを彼が弄る。チカチカと少しだけ、横開きの玄関の戸がまた太刀多様な気がする。
     ああ、もう行かなきゃいけないんだ。
    「それじゃ……ありがとう。私、ここに来てよかった」
     さよならじゃない。もう一度帰ってくるから。
     膝丸君が一つ頷いて、玄関を指さし促す。その美しい指を見ていた。真っ直ぐな蜂蜜色の瞳と光に照らされる薄緑の髪を見た。
     私の恋した、刀を見た。
    「さあ、振り返らずに行け。戻ってはならぬ、躊躇ってはならぬ。未来ある君には、前を向いているのがふさわしい」
     ガラガラと響く、古い和風家屋の引き戸の音。一歩私は前に踏み出す。ぱっと目が眩んで、フラとよろめいた。貧血を起こしたときのような感覚だった。何もかもの音が遠ざかって、消えて、それから。
    「っ!」
    「うわっ!」
     突然聞こえた物音に頭を振って顔を上げる。そして……目を見開いだ。
     そこは見慣れた、教室だったのだ。
     勢いよく振り返ってみる。窓の並んだ廊下。但し外の景色は枯れ木だらけで、私が最後に見たときと大きく異なっていた。
    「えっ、嘘、お前どうしてここにいるんだよ!」
    「先生! 先生!」
     騒ぐクラスメイトの声を聴きながら、ほろと一粒だけ涙がこぼれる。
     私は元の世界に、帰ってきたのだった。
       The Greatest Journey


     あの不思議な場所に行ってから、私は浦島太郎になっていた。私にとってはたかだか半月と少しくらいの体感だったのだが、元の世界――現世では三か月以上経っていたのだ。しっかり捜索願も出されていて、戻ってすぐは病院で脳の検査やら事情聴取やら忙しかった。
     しかしそのおかげで、比較的すんなり審神者として養成される施設に入れたとも言える。
    「審神者様、審神者様あ! 本当によろしかったのですか、本来ならば新任で就任で来たんですよぉ!」
    「だからいいって言ってるじゃん、政府預かりのほうが楽に動けたし」
     足元を歩き回る管狐に私は答えた。全く、審神者の人材不足はわかっているけれどしつこい。通信端末を操作して、移動座標を入力する。もうマニュアルを見る必要も、こういった機器の説明書もいらなかった。
     ジジと音と風景が歪んで転移が完了する。本当はこのとき身体的な負荷も半端ないのだけれど、もうすっかり慣れた。何度も何度も、繰り返したからだ。
    「それにしたってもの好きですねえ! 圧倒的に楽なんですよ、ご自分で本丸を持たれたほうが! それをこんな風に転々として」
    「いっぱい動ける方が私には得なの! ほらこんのすけ、早く位置特定して」
    「仕方ないですねえ」
     ぶつくさ言いながらもこんのすけは自分用の端末を肉球で操作し始めた。
     今の私は、政府所属……というにも微妙な政府「預かり」の審神者だった。正式に言うと、所属がない。所属できるための場所をずっと探しているからだ。
     所在不明になった本丸というのは、随分な数があると知ったのは審神者養成施設を卒業してから。審神者がいなくなって場が不安定になるのは常々問題視されていたそうだ。近頃やっと研究が進んで定点観測が可能になったという。遅すぎる。
    「審神者様、あと北に二キロほど転移をお願いします。それで直接門の内側に干渉できるかと」
    「了解、門は不安定って言ってたもんなあ」
     ピピピと音を立てた計測器を見て、こんのすけが指示をくれる。私は再び転移座標を修正した。ちょこまかと移動する。これは捕まえづらいはずだ。
    「でも約束ですからね! 審神者様が転移事故被害者だったからここまで我儘が利いたんですよ! 見つけたら今度こそそこに就任していただきますよ!」
    「わかってるわかってる。……そのためにここまで来たんだよ」
     あれから、私は色んな場所を巡った。香川丸亀、それから石川加賀。箱根の権現、京都もあちこち巡った。長く、遠い旅だった。
     そうして縁をかき集めたのだ。
     どうしてあの場所に私が辿り着いたのか、今でもわからない。けれどそれなら、もう一度向かうためにありったけの記憶と縁を繋げればよかった。そうして手を伸ばし続ければよかった。諦めないと、約束したのだから。
     荒れ果てた、玄関の前に立つ。引けばガラガラと音がするだろう。それを私は、知っている。
    「……責任、やっとだけど、取ってもらおうかな」
     手をかけて、私はその扉を開いた。


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    2023/04/12 17:10:04

    【Web再録】The Greatest Journey

    #膝さに #刀剣乱夢 #女審神者
    本丸に迷い込んだ女子高生が主を亡くした膝丸と出会う話。

    ATTENTION!
    ・オリジナルの女審神者がいます
    ・独自の設定、解釈を含みます。

    2020年10月発行した膝さに本の再録です。
    お手に取ってくださった皆様、まことにありがとうございました。

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