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    しおり
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    しおり
    愛の歳時記


     正直なところ、彼の言う「季語」の判定がわからない。
    「季語ですね」
     不意に中庭に目をやった五月雨江が言った。中庭は今ツツジがちょうど盛りで、私はてっきりそれのことを指しているのだと思った。
    「ああ、ちょうど盛りだよね」
    「いえ、篭手切のことです」
    「え?」
     紫色の瞳は、ツツジではなくその手前で靴ひもを結んでいる篭手切に向けられていたらしい。レッスンの最中に解けたそれを結び直しているようだ。汗が流れてきたのか、首にかけているタオルでこめかみを拭う。
     それが季語? 私が知っている季語とはまた違うような。学校でいくらか習ったけれど……。
    「あっ五月雨さん! れっすんの時間ですよ! 村雲さんも呼んでください!」
     靴ひもを直し終えた篭手切が、中庭から元気よくこちらに手を振る。五月雨はそれに対して「はい」と穏やかに返事をした。
     そして呼んでくださいと言われた村雲江はと言えば……。五月雨江が縁側に近い部屋まで戻る。私も何となくそれについて行って部屋を覗き込むと、村雲はそこで昼寝をしていた。お腹にひざ掛けが被せられている。随分気持ち良さそうなので、起こすのが少し可哀想だ。五月雨は村雲の隣に屈みこんで、じっとその寝顔を見つめた。
    「お腹痛かったのかな?」
    「どうでしょう。ですが、季語ですね」
     また季語。すやすやと眠っている村雲のどのあたりが季語なのだろう。ついでに言うといつの季語なのだろう。まあ、髪の色なんかを見ると春っぽい気もするが。
     篭手切が五月雨と村雲を呼んでいるのはわかっている。けれど縁側から吹き込んだ風がそよそよと柔らかく村雲の髪や五月雨の服を揺らしていくので、私はもう暫くこうしていたかった。なんだかつられて眠くなってくる。
     そんな静かで和やかな空気の中で、五月雨が突然言ったのだ。
    「頭も、季語です」
     顔を上げれば、てっきり村雲を見ているのだろうと思っていた五月雨は私の方をじっと見つめていた。すみれのような凛とした紫の瞳はいつもと変わらず涼やかだ。
    「え、あ、ありがとう……?」
     他に何と答えればいいのかわからなかったので、私はひとまずそう言った。すると比較的無表情なことの多い五月雨には珍しく、和らいで微笑む。
    「はい。雲さん、起きてください。れっすんです」
     まあ誉め言葉の一種だろうと私はその季語判定を流してしまったのだが、実はそれが愛の告白だったらしい。本当は起きていた村雲から指摘されるまで、私はそれに一切気が付かなかった。



     季語だと告白されて、五月雨と恋人同士になった。よくわからないが。
     もしや私が無学なだけで、「季語」という言葉にそういう意味があるのではと思って広辞苑を引いてみたのだが、そこには「連歌・連句・俳句で、句の季節を示すためによみこむように特に定められた語。例えば、鶯は春の季語、金魚は夏の季語。季の詞。季題。」と私も小学校の授業なんかで聞いたことのある説明が書いてあるばかりだった。季語って何なんだろう。念のためと歳時記も捲ってみたが、少しばかり私に雅な語彙が増えただけだった。これには初期刀の歌仙も喜んだ。
     それに、恋人になったからと言って五月雨の態度も特に変わらなかった。数日経って告白したと思ったのは村雲の勘違いだったのではと思い、大変恥ずかしかったが確認もした。けれど五月雨はいつもの至って冷静な顔で、「相違ありません」と言った。私はとても恥ずかしかった。
     ただ問題が一つある。
     それは私に五月雨に対する恋愛感情がないことだ。決定的な問題すぎた。
    「どうしよう……」
     誰もいない執務室で私は眉間にしわを寄せた。今日の仕事は終わってしまったので、近侍をお願いしている歌仙も自由時間で歌を詠みに行った。私の本丸は皆してどうして歌を詠んでいるのだ。さっぱりわからない。
     告白に対する「ありがとう」は基本的に了承の返事だと考えると思う。一般的に。現に五月雨にもそういう認識があったようで、先日確認しに行った際にしっかり言われた。
    「頭がお嫌なようでしたら、他の刀剣に私たちのことを言うつもりはありません。とはいえ、何故か江のものにはもうわかってしまっているようですが……」
    「いっ、嫌、嫌なわけじゃ、ただその」
     一応そのとき言おうとした、わけもわからず褒め言葉だと思って返事をしたと。けれど言えなかったのだ。
    「そうですか。……それは、嬉しいです」
     間違いですなんて、口にできるはずもなかった。
     五月雨は微笑んでいたのだ。いつもあまり変わることのない表情を和らげて、幸福そうに。
     それなのに今更、この間の返事はなかったことにしてくれないかなんて言い出せなかった。
     そういうわけで、とにかく私と五月雨は恋人同士になった。人、いや刀。恋刀が正解なのだろうか。まあ過程はどうであれ、問題はこれからである。私は気を取り直してそう思うことにした。人生は未来のほうが大事なのだ。
     幸いなことに、五月雨と私はそれなりに良好な関係を築けている方だと思う。もちろんそれは審神者と刀剣男士としてであって、それ以上でもそれ以下でもない。ないけれど。
     だから、これからは今まで以上に、五月雨とコミュニケーションを取ろうと思っている。
    「五月雨、お茶が入ったんだけど、飲む?」
     五月雨は姿が見えないなと思うと大抵縁側にいる。きちんと座布団を敷いて戦装束に身を包み、数枚の短冊を脇に置き、発句に励んでいるのだ。急須と湯呑の載ったお盆を持って行くと、五月雨は短冊から顔を上げてこちらを見た。それから座布団から降りて私に指し示す。
    「いただきます。頭、どうぞ」
    「え、いいよ、自分で持ってくるよ」
    「いいえ、どうぞ。私が持ってきます」
     スッと立ち上がると、五月雨は近くの部屋からもう一つ座布団を取って置く。首に巻いている黒いストールがひらりと揺れた。
    「わざわざお茶をありがとうございます」
    「ううん、ここにいて邪魔じゃない?」
    「ええ。いてください」
     いただきます、と丁寧に前置いてから五月雨は湯呑を手に取る。ふうと一つ息を吹きかけてから口を付けた。
    「美味しいです。頭はお茶を淹れるのがお上手ですね」
    「あ、ごめんこれ、歌仙が淹れてくれたの持ってきただけで」
    「……そうですか」
     ぴくりと五月雨が指を震わせたのはわかった。……気まずい。せっかく褒めてくれたのに申し訳ないことをした。自分が淹れたことにして誤魔化せばよかっただろうか。
     五月雨はそのあと特に何も言わなかった。五月雨は元々無口ではないが、お喋りと言う風でもない。話し始めると立て板に水の勢いで句や季語の話を始めるけれど、その勢いがつくまでが長いのだ。でも別に何も考えていないわけではないと思う。きっと、五月雨が黙っている間はそれこそ、自分が目にしているものにぴったりそぐうものを「季語」の中から選んでいる。だから私も黙って歌仙の淹れたお茶を飲んだ。美味しい。
    「頭は」
    「えっ?」
     唐突にエンジンがかかったらしい五月雨が口を開いたので、私はびくっとしてそちらを見る。本当に急だ。
    「頭は、私のどこが好ましいのでしょうか」
    「え……」
     湯呑を手の上に置いたままで、五月雨が私をじっと見つめる。さらさらと縁側を吹く風が五月雨の紫をした髪を撫でた。
     季語の話じゃない。いや、それ以前にどこが……? 好ましいということは、どこが好きかと聞かれているということで。いや、よかった今回は何を言われているのかわかる。しかし答えに困る。
    「よろしければ、お答えください」
    「えっと……」
    「はい」
     こういう場合、どう答えるのが正解なのだろうか。五月雨の好きなところ、好きなところ。
     模範解答はわかる。優しいだとか、ここが得意なところだとか、色々。褒めようと思えば五月雨を褒めることはできる。けれど刀剣男士相手でも、人間が考える範疇のことを褒めて嬉しくなってくれるのだろうか。いっそ切れ味なんかを褒めるほうが正解なのか?
     私が冷や汗を流しながら悩んでいる間も、五月雨はこちらをいつもの涼やかな瞳で凝視していた。あまり瞬きをしない。あれで平気なのだろうか、結構目も大きいのに。乾いたりしないのか。それにしても無表情だ、何を考えてこれを聞いたのだろう。何を期待して。
    「えっ、えっと、その」
    「はい」
    「えっと……」
     はくはくと何度か口を開いたり閉じたりして、私はやっと一つ単語を絞り出す。
    「か、顔」
     勢いと圧に押された。というかこちらをじっと見てくる印象が強すぎた。
     だが口に出してから、まずい回答だったと流石に自覚する。よりにもよって顔。他にもっとあっただろうにどうして。
    「顔、ですか」
     けれど五月雨のほうは私の答えを復唱し、自分の頬に指先を当てる。嵌めているグローブの手のひらにある肉球が見えた。
     がっかりしただろうか。それともあまりにも低能すぎる返答に失望した? 私は答えてからも冷や汗を流し続け、凛々しい五月雨の横顔を見つめる。今度はあべこべにこちらが五月雨を凝視する番だった。
     だが他にもある、他にも五月雨のいいところあるよと今度こそ言おうとしたとき。すっと五月雨は背筋を伸ばして再びこちらに向き直る。
    「わかりました、どうぞ」
    「……え?」
     ややキリっとした表情で五月雨はこちらを見た。わざわざ表情を整えたようにも思えるから、所謂キメ顔というやつなのかもしれない。
    「え、何」
    「私の顔がお好みなのでしたら、どうぞ存分にご覧ください」
    「は……」
     一拍、二拍置いてから、真面目極まりない様子の五月雨の申し出を理解する。
    「は、あはははは! なにそれ、あっはははは!」
     一気に力が抜けて、私は足を崩して肩を揺らした。顔を好きだと言ったから、そのためにキメ顔までしてくれたのか。一方の五月雨はと言えば、若干きょとんとした顔で首を傾げる。髪と一緒に、耳の雫飾りが揺れた。
    「今の顔はお好みではなかったでしょうか」
    「ちが、違うけど、ふ、んっふふ、ありがとう、いや、うん、嬉しい、ありがとう」
     そんなふざけ方をする刀だと思っていなかった。本刃は大真面目なようだが、それがかえって面白い。私がくつくつとずっと肩を揺らしていると、暫くそれを見つめていた五月雨もふっと僅かに唇を緩める。
    「……我がおもて、ゆかしと言ひて君笑う」
    「え?」
    「いいえ。お茶のおかわりを淹れましょう。茶には詳しくありませんが」
     無表情に戻った五月雨が急須に手を伸ばす。ふふとまだ口に残った笑いを押さえながら、やっぱりまだちょっとわからないなと私は思った。
     わかるように、これから頑張らないといけないなと思った。



     恋刀のことがわからないので、わかるための努力をしようと思った。
    「五月雨、午後は暇かな」
     仕事を終えて、昼食後。五月雨を捕まえて聞けば、五月雨はいつもの静かな紫の瞳でじっとこちらを見た。
    「午後、何かありましたでしょうか。出陣でしたら仕度を」
    「ううん、よかったら少し出かけない? 私も午前中で事務仕事は終わらせたから、どこか」
    「行きます」
     即答だった。それどころかやや食い気味だったので、私は若干面食らって身を引く。
    「そ、そっか。よかった」
    「旅は良いものです、できれば北に行きたいです」
    「北? 本丸から北だと、裏の山になるのかな」
    「そうですね、ではそこに行きたいです」
     北に一体何が。私がやや引いていても、五月雨は身を乗り出して頷く。旅に出たいというのは前から言っていたことだし、外出は嬉しいのだろう。ピンと紫の尻尾が立っているような気さえする。……あれは作り物だったはずだけれど。
     一応仕度を整えてきてからでいいか聞けば、五月雨は「どうぞ」と言ってくれたので一度部屋に戻る。山、というからには動きやすい服の方がいい。私は自分の服装を見下ろした。午前中ちょっと畑を手伝ったからジャージだ。これはいけない、流石に曲がりなりにもデートにジャージはだめだ。私は箪笥からそれなりの機動性はありそうなパンツを出してきて着替える。まあ、あまりおしゃれ着というわけにもいかないし、このくらいがちょうどいいだろうか……。五月雨とデートをするのに何が正解なのか、正直わからない。
     何度か鏡の前で首を傾げたが、あまり待たせるわけにもいかない。たぶん大丈夫だと自分に言い聞かせ、私は部屋を出た。少し時間をかけすぎたかもしれない。小走りで玄関まで行くと、五月雨はお行儀よくそこに座っている。ゆら、ゆらと左右に尻尾が揺れていた。
    「ごめんね、待たせた?」
     そう声を掛ければ、振り返った五月雨が立ち上がって首を振った。
    「いいえ、君待つと、と言いますから。こういった心地かと思っていました」
    「え? そ、そっか。えーっと、歩きやすい靴の方がいいよね」
     何か和歌を引用されたことはわかったが、意味がわからなかったのが申し訳ない。あとで調べよう。
     スニーカーを取り出して履く。その間も五月雨はじっとこちらを見つめていた。凝視するのは五月雨の癖なのだろうか。少々落ち着かない気持ちで私は靴紐を結び終える。
    「歩いて行くのでいいかな」
    「ええ、構いません」
    「いい散歩になりそうだね」
     気持ちよく晴れている日でよかった。適度に暖かな風が吹いて、散歩日和だ。念のため、厨から小さいサイズではあるが水筒なんかを貰って来ていたので、私は肩から鞄を提げた。それを見て、五月雨が腕を伸ばしひょいと取り上げる。
    「私が持ちましょう」
    「え、いいよ。そんなに重いわけじゃないし」
    「いいえ。私が持ちます」
     ちょっと女の子向けのピンクの色味の鞄を選んでしまったのだが、いいのだろうか。しかし五月雨自身はあまりそれを気にしていないようで、無表情のままでピンクのトートバッグに肩を通す。それで五月雨の後ろ姿が少々可愛らしい感じになったので私は少し笑った。
     本丸の門から出て、まずは五月雨の言う「北」に足を向けた。本丸の裏手がちょうど北の方角に当たり、そこには山がある。たまに刀剣男士達が山菜を取りに行ったりする山だ。危険な獣も今のところ見たことがなく、気晴らしがてら、遠乗りがてら、よく出かけていく場所でもある。
    「五月雨はこの山行ったことある?」
     そう聞けば、半歩前を歩いていた五月雨はこちらを見て答える。
    「はい。山道は、鍛錬にもなります」
    「なるほどね。確かに足腰強くなりそう」
     私はそこまでしっかりこの山に来たことはない。せいぜいが麓の辺りまでの散歩や、ちょっと傾斜のある所を少し登って降りて位のものだ。だからひょいひょいと歩いて行く五月雨を見ると、やっぱり体力があるなあとしみじみしてしまう。
     しかしそんなことを考えていたら、ぴたりと五月雨が足を止めた。
    「申し訳ありません、私の足が速かったでしょうか」
    「えっ、いや、ごめん大丈夫、そういう意味じゃなくて。平気平気、ちょっと登るくらいなら大丈夫だから、気にしないで五月雨のペースで歩いていいよ」
    「いえ、女性の足と私の足が違うのを失念していました。頭の歩調に合わせます」
     少し下がって五月雨が隣に立つ。気を遣わせてしまった……。一歩踏み出すと、五月雨もそれに従って歩き出す。申し訳ない。
     この上はせめて会話でも弾ませようと思ったけれど、五月雨は何かのスイッチが入ったらしくじっと目を見張って周囲を見つめている。何かを探している。たぶん季語だろう。
     紫色をした五月雨の瞳が、何一つ余さず見るものを拾い上げようとしている。私は黙って暫く歩いた。空は良く晴れて、遠くで鳥の鳴く声がする。見上げれば高いところを鳶が行く。本当にいい日和だ。
     そのうちに「ほう」と一つ五月雨が息を吐いたので、私はそちらを見る。
    「何か季語があった?」
    「……ええ」
     声音は静かなものだったけれど、確かな満足感を含んだ様子で五月雨が言う。表情自体はあまり変化がないが、五月雨はかなり感情が豊かだ。
     こちらに無理のないようにしてくれているので、五月雨は先ほどよりゆったりと歩みを進めている。普段鍛錬をするような道のりなのだし、物足りなくはないだろうか。それを聞こうとすると、先に五月雨が口を開いた。
    「頭の速度で見る風景はこのようなものなのですね」
    「私?」
    「ええ」
     私は五月雨の丁度右側を歩いているので、分けられた前髪から覗くすっきりとした横顔がよく見えた。五月雨は前を向いたままで、歩みを崩すことなく進んでいく。
    「大抵、この辺りは駆けて通り過ぎているものなので」
    「やっぱりそうだよね。物足りなくない?」
    「ええ、全く。頭の視線で見つめる山々もまた、季語だと思っていました。楽しいです」
     ふふと思わず私は笑ってしまった。本当に、些細なことから必ず美しいものを見つけてくる。五月雨はすごいなあと思いながら、私は空を指さした。五月雨が季語探しをしている間、私も周囲を見ていてよかった。
    「ほら、五月雨。鳶が飛んでるよ」
    「……」
     五月雨は私と同じように青空を見つめ……それからこちらに向きなおって言った。
    「頭、あれは鷹です」
    「えっ」
    「足と尾が長く、翼が丸いので。あれは鷹だと思います」
    「嘘、私ああいうのは全部鳶だと思って」
     というかここから見て足と尾なんてわかるのか。翼の丸みなんて全然わからない。私が呆気に取られて鳶、もとい鷹を見上げていると、五月雨は同じように視線をあげながら追加の説明をする。
    「鳶と鷹と鷲は一般には見分けづらいと聞きますが、鳶は、そうですね、高い声で鳴くと言います」
    「……あ、確かに。小学校とかでトンビの歌歌った」
     私が言えば、今度は五月雨が首を傾げた。
    「とんびの歌、ですか。そんなものがあるのですか」
    「あるよ。ピンヨロ、ピンヨロって」
     その特徴的な部分しか覚えていなかったので、私はそこだけ繰り返し歌う。ピンヨロ、ピンヨロ。高い鳶の鳴き声。
    「……鷹飛ぶや、ぴんよろぴんよろ君歌う」
     目を閉じてそれを聞いていた五月雨がぽつりとそう言った。それからもう一度空を見上げて、僅かに瞳を緩めた。
    「字余りですが。ではあれは鳶ということにしておきましょう」
    「え? 鷹じゃないの?」
    「案外鳴いてみたら、鳶かもしれません」
     どこかおかしげに五月雨が言うので、私もくすくすと笑った。
     五月雨が、冗談を言っている。それがこんなにも面白く、楽しい。こんな風に五月雨と話をする日が来るだなんて思わなかった。
     私と五月雨はそれから見かけたものを指さし言い合って、ゆっくり何となく山を登った。



     ……痛い、足の裏が。
     私と五月雨は山道を暫く登り、中腹辺りにある開けた野原で少し休んだ。そこで持って行ったお茶を飲んだり、また少し話したりしてそろそろ帰ろうかとなったのだが、そのときには自分の足が痛いことが無視できなくなっていた。
     確かに普段からあまり動く方ではない。けれどこのくらいのトレッキング程度ならと思っていたのに、そうではなかったようだ。いやしかし、そうだとしても、山を下りるまでは我慢しなければ。
     そう思っていたのに、立ち上がった瞬間に膝から力が抜けてよろめいた。
    「ぅわっ」
    「頭!」
     五月雨がサッと私の肘の辺りを掴んで起こす。バランスを崩した体は何とかそれで持ち直した。
    「ごめん、ありがとう。石にでも足取られたかな」
    「……頭、足が痛いのではありませんか」
     誤魔化しては見たものの、聡い五月雨は私の腕を離さない。大丈夫と言おうとしたが、五月雨のじっとこちらを見る眼光に負けて遂には肩を落とした。
    「運動不足が祟ったみたい、ごめんね。歩くのもゆっくりなら全然問題ないと思うんだけど。普段からもうちょっと動いておけよかったな」
     あははと冗談めかして言ったのだが、五月雨は黙って私の足を見つめていた。それから不意に掴んでいた私の腕を引っ張り、自分の背に載せる。あまりにその身のこなしが鮮やかだったので、抵抗する間もなく私は背負われた。
    「五月雨っ?」
    「あまり動かさない方がいいでしょう。このまま下ります」
    「い、いいよ、自分で下りれるから!」
    「私に負われるのは嫌でしょうか」
     そういうわけではない、けれど。言葉に詰まったのをいいことに、五月雨はそのまま歩き出した。トートバッグは邪魔にならないよう前に回して、やや前傾姿勢ですたすたと五月雨は山を下ろうとしている。
    「い、いいよ、降ろして、ね? 五月雨潰れるから!」
    「頭の一人二人背負ったところで、私は潰れません。上に雲さんが乗っても平気です。……いえ、頭が潰れますね、雲さんの上に頭にしましょう」
    「乗らない! 村雲の上にも乗らないから! ねえ五月雨」
    「構いません、そこにいてください。頭の美しいその足が傷ついては、私が困ります。下りの方が負担は大きいですから」
     美しいって、そんな。惜しげもなくさらりとそう言って、五月雨は私を負ぶったままで山道を降りていく。ゆっくり、一歩一歩確かな歩みは私を気遣ってのものだと言われなくたってわかった。
     多分無表情だと思う。顔を見れば、きっと普段通りの涼やかな顔をしている。けれど今日は一日、いいやたぶん毎日五月雨は私のことを思いやってくれている。
    「普通の、足だよ……」
     胸が苦しい。だから私はやっとそれだけ絞り出した。五月雨の黒いストールに顔を埋めて、じっとその背中に体を預ける。
    「……いいえ、私には違います。大切なあなたの足です」
     五月雨の言う「美しい」は本当に心から思う「美しい」で、「大切」も同じだ。
     今の私にはそれがわかる。
     一時間近くかけて、五月雨は私を背負ったまま行きよりもゆっくりと山を下りた。腕が痺れなかったか気になったので聞けば、五月雨は相変わらず無表情のまま、その場にいた村雲を持ち上げたので、村雲が「キャン」と高い声で鳴いた。



     恋刀と、最近よくデートをする。
     特に約束をしたわけではないけれど、私と五月雨は昼下がりよく一緒に縁側で過ごすようになった。
     会話は多くない。五月雨は短冊片手に庭を眺めている時間が多いし、私は私でその隣でお茶を飲んでお菓子を食べている。そうして日が落ちて、風が少し冷たくなった頃に、五月雨はこちらを見て「もう冷えますから、戻りましょう」と言う。大抵、それの繰り返しである。
     今日もお茶でも用意して向かおうかなと執務室から立ち上がりかけたとき、トントンと開け放してある襖がそれでも叩かれた。
    「主、すまないんだけど、ちょっといいかな」
    「あれ、松井君。どうしたの?」
     緑色の上着を揺らして顔を出したのは松井江だった。手には何か書類を持っている。松井君は近侍ではないが、事務方の仕事をよく手伝っているからそれだろう。
    「ちょっと貴方に見てほしい数字があって。どこか行くところだった?」
    「大丈夫、いいよ」
     松井君が持ってきたのは諸々の予算だった。春が来るとこういう折衝もよくある。パチパチと松井君が持参した算盤を弾いて、ここは減らしてここにだの、こっちをもっと増やせないかだのあれこれ言いあう。
     五枚あった書類を全て捲り終えると、三十分はかかっていた。ジャッと算盤の珠を揃えた松井君が、壁にかかった時計を見上げて謝った。
    「すまない、少しだけのつもりだったんだけど」
    「ううん、大事なことだから。ありがとう、うちは歌仙もあんまり数字には強くないし、私もやっと勝手がわかってきた程度だから松井君がいてくれると助かるよ」
     事実、松井君が来てからというもの経理関係のことはかなりスムーズに回るようになっている。率直にそう伝えれば、松井君はにこりとした。
    「実務が得意だからね。役に立ててよかったよ。……そういえば、五月雨とのこと村雲に聞いたけれど」
     ぎくっと思わず肩が震える。第三者から五月雨のことを指摘されるのは初めてだった。
    「あー、うん。ごめんね、私から言わなくて」
    「いいや、おめでとう。僕も同じ江のものだから、何か困ったら言って。うちは癖があるのが多いし、五月雨はああだし……」
     松井君が思いきり自分のことを棚に上げているので、私は少しだけ笑った。松井君だってだいぶ個性が強い方だと思う。
    「ありがとう。そう言ってもらえると兄弟ができたみたいで嬉しいな」
    「貴方がそう思ってくれるのは僕も嬉しいよ。でも少し驚いたな、まさか相手が五月雨だとは思わなかったから」
     ほんの少し、その言葉にどきりとした。
     まさか五月雨と。傍から見てもそう思えるのだ。……そりゃあ、そうだろう。
     松井君はこれで予算を仕上げるよ、と執務室を出て行く。私はよろしくねと答えて判子を押し、手を振った。もうおやつの時間だから、五月雨は縁側にいるはずだ。
     けれどそうわかっていても私は立ち上がれずに、座布団の上でじっと文机の天板を眺めた。
     五月雨とこうして「恋仲」と呼ばれる関係になって暫く経つ。私が口にしないから、五月雨もまた言いふらすような性格ではないから、こうして密やかに過ごしているけれど、なんとなしに察している刀剣男士もいるだろう。
     そうしたら、今のように五月雨のことを私に話す刀もいるはずだ。
    「どうしたらいいんだろ……」
     私はその場に流されて五月雨と付き合うことにしてしまった。しかもそれを正直に口にできないでいる。最初は前向きにこれから五月雨のことを知っていけばいいと思っていたけれど、知れば知るほどに近頃は苦しい。
     五月雨は優しく、傍にいると心地がいい。村雲が癒されると言っていた気持ちを私は心の底から理解した。穏やかで、身の回りの細やかなものを慈しむ五月雨の隣は暖かい。
     天板に頬を付けてみる。ひんやりとしたそれで、多少だが肌がひんやりとした。木が冷たい。
     縁側に、行かなくちゃ。五月雨が待っている。
     けれど私にその資格があるのだろうか。
    「季語かあ……」
     机の端に置いてある分厚い歳時記に手を伸ばす。五月雨とこうなったとき、季語がわからなくて書庫から持ってきたのだ。そこには四季ごとにつらつらと単語が並べられていているだけだ。しかも季語には収集にこれで終わりと定める期間がなく、日々増えるらしい。キリがない。
     ぱらぱらとそれを机に凭れたまま捲ると、古い本の甘い匂いがした。深呼吸して、目を閉じる。
     どのくらいそうしていただろうか。私がハッと気づいたときには、少し冷たい風が頬のあたりを撫でる時間になっていた。起き上がると首や肩のあたりからするりと何かが落ちる。
    「ストール……?」
     黒いそれを見て、誰のものなのか気づき焦って顔を上げる。すると開け放した襖の向こう、中庭に面した縁側に五月雨が背を向けて座っていた。慌ててそちらに駆けよれば、五月雨はいつもの短冊を持って正座している。
    「文机の、木目に映えたる白い額。ですかね」
    「さ、五月雨! ごめん、私寝ちゃってて」
    「風邪は、引かれていませんか」
    「大丈夫、これ、ありがとう」
     五月雨は私が差し出したストールを受け取ると、もう一度それを私の首周りに巻いた。ストールのない五月雨を初めて見る。すっきりした首筋が綺麗だなと私は思った。
    「それはよかったです」
    「ごめん……待っててくれたのに、行かなくて」
     五月雨の隣にはラップの掛けられたお菓子があった。私が行かなかったから、五月雨の方が探してきてくれたのだろう。しかし五月雨は特に気にした様子もなく、ただ首を振った。
    「頭が来なければ、私が行けばいいだけの話です」
    「でも」
    「それだけです」
     でも、それでも。
     謝らなくてはいけないことが本当はたくさんある。
     私が座り込んで俯いていると、パタと軽い音がした。それから伸びてきた指が私の髪を掻き上げて耳に掛ける。先ほどの音は、五月雨が短冊を置いたものだった。
    「私が、頭に会いたかったので来ました」
    「……五月雨」
    「それだけです」
     柔らかい指の腹が、ほんの少しだけ頬を撫でる。五月雨はそれ以上私には触れなかった。紫色の瞳を緩めて、風の吹く中庭に視線を戻す。さらさらと紫陽花に似た髪が揺れた。
     この刀を、好きになれたらいいのに。
     好きだと、言えたらいいのに。
    「菓子が乾かないようにと雲さんが薄い膜を張ってくれました。食べますか」
    「食べる……」
    「夕飯前ですが、まあいいでしょう。甘いものは別腹だと雲さんも言っていました」
     ふふと小さく笑えば、五月雨もこちらを見て唇を緩める。ストールで口元が隠れていない分、普段よりちゃんと五月雨の笑った顔が見えたので、いつもこうならいいのにと私は思った。



     恋刀の言うことがわからないので、勉強することにした。
     五月雨の言葉を理解できないのは、ひとえに私に学がないせいである。ならば学ぶほかないだろう。知識に近道などないのだし。
    「そういうわけで、よろしくお願いします」
    「そういうわけって君ねえ……まあ、いいけれど」
     歳時記とノートと筆記用具を持って初期刀の歌仙の元を尋ねれば、歌仙は苦笑いで肩を竦めたけれど快く筆を執ってくれた。文机の上には、五月雨の傍らにいつもあるのと同じ短冊が積まれている。こんなノートでは用意が足りなかっただろうかと私はそれを見た。
    「君が風雅に目を向けてくれるのは嬉しいけどね」
    「やっぱり理由が不純?」
     私が歌を勉強しようと思ったのは、五月雨の言うことをわかりたいからだ。純粋な知識欲からではない。本気でその道を進む人からすれば、ちゃんちゃらおかしいと一蹴されても仕方ないかもしれない。
     けれど歌仙はいくらか考え、青と紫を織り交ぜたような色の瞳を和らげて首を振った。五月雨と同じ色ではあるが、歌仙の髪は少し癖がついてふわふわと揺れる。
    「……いいや、歌を詠む理由は人それぞれだ。貴賤はないよ。そもそも、和歌には元来恋の歌が多いのだから」
     少しばかり緊張していた私の肩から力が抜けた。ホッと息を吐いて、ノートを開く。
    「……そっか、よかった。ありがとう」
    「だが、やるからには僕は手は抜くつもりはないからね。僕は歌仙兼定、名高い三十六歌仙から名を戴いた文系名刀だよ。厳しくするから覚悟したまえ」
     コホンと一つ咳ばらいをして歌仙が言う。きりりとした表情を作ろうとしていたが、若干嬉しそうなのは隠せていなかった。歌仙は今までも、よく私に本や歌を勧めてくれていた。だからだろう。
    「ふふ、うん、ありがとう。よろしくね」
    「それで、我が主にはどの程度知識があるんだい?」
    「ああ……あの、大変申し上げにくいんだけど、もう本当に高校教育レベルの知識しかなくて」
     まあ、仮に和歌や俳句を前にしても辞書とそれなりの時間を与えられれば対訳を取ることくらいはできるかもしれない。けれどそれを楽しんだりだとか、そういう余裕はない。ましてや、自分で詠むことなんて現時点では不可能に近いだろう。
    「別に現代語で詠んでも構わないんだよ、歌は。どこにしまったかな、確か僕も一冊程度なら現代短歌の本を持っていたと思うけれど」
    「そんなの持ってたの?」
    「ああ。君も、口語ならわかるだろう?」
     歌仙は立ち上がると、机の横に積んであった本の山を眺める。前々から思っていたのだが、歌仙の部屋はモノが多い。とはいえ辛うじて整理整頓され、棚やらなにやらにそれぞれ収められているけれど、それにしても多い。
     うーんと言いながら上から下に歌仙は本の背をなぞり、本塚の中腹の一冊で手を止めるとスッとそれを引き抜く。さながらジェンガだったが、本の山は崩れたりしなかった。
    「これだ。せっかくだから君に貸そう」
    「ありがとう、読んでみる」
    「けれどねえ、五月雨江が引用するのはそうではないから。現代短歌は君の架け橋や入り口にはなっても、やはり地道に知識を付ける他ないだろうね」
     やっぱりそうですよね。私はそれに曖昧に笑った。そうだろうと思ってはいたから、ショックではない。千里の道も一歩からだ。
     歌仙はぽんぽんと私の肩を叩いて、励ますつもりなのかぐっと拳を握る。
    「大丈夫さ。言葉は積み重ねだから、僕だって未だに学ぶことがある」
    「……ありがとう、頑張る」
     手始めに歌仙から渡された本を開いて捲り始めると、歌仙は暫く私のことを見つめていた。それからまたコホンと一つ咳払いをする。
    「……水臭いじゃないか。僕に何も言ってくれないなんて」
     その言葉に顔を上げれば、歌仙はふいと明後日の方向に首を向けていた。少しだけ考えてやっと、私は歌仙が五月雨のことを言っているのだと気づく。
    「あ……ごめんね、なんだか言う機会を逃しちゃって」
    「僕が小舅よろしく五月雨に何か言うとでも思ったのかい。失敬だな。僕と五月雨は既に歌の力で打ち解けているとも」
     ふんと鼻を鳴らしながら歌仙が言うので、私はなんだかおかしくなってしまった。そうじゃ、ないのだけれど。
    「ふふ、うん、次何かあれば歌仙に一番に言うよ」
    「べ、別に、言いふらせと言っているんじゃないんだよ。忍ぶ恋こそ真なれと言うだろう」
    「そうなの?」
    「物言わぬ思いこそが最も尊いという意味だよ。覚えておきたまえ」
     トントンと歌仙がノートを指で叩いて言うので、私はくすくす笑いながらメモを取った。忍ぶ恋こそ真なれ、ですね。ちなみにこれは何の引用なのだろう。和歌なのだろうか。
     私がそんなことを考えながら筆記具を走らせていると、歌仙はじっとそれを見た後にぽつりと言った。
    「……でも、僕は少し安心したんだよ」
    「何が……?」
    「君も、少しは仕事以外のことがこうしてできて……心を誰かに、預けられるのだと思ってね」
     眉を下げた笑みを浮かべて、歌仙が私の書いた文字をなぞる。就任してすぐのころは、こうして顔を突き合わせ、ノートにああでもないこうでもないと様々なことを書きつけながら二人で本丸のことを話し合った。私も歌仙のことをよく知らなかったし、歌仙もそれは同じで、小競り合いをしながら一所懸命に。あの頃を考えたら、確かにこうして余暇が出来て歌の勉強をしているなんて目覚ましい進歩だ。それだけの時間が、ここで過ぎたということだ。
    「君は、初めからあまり弱音を吐かなかっただろう。僕はその、文系なだけに力任せにしてしまうことが多かったし、初めのころは……君に厳しくしすぎて、それに拍車をかけてしまったのではないかと思っていたよ」
    「……そんなことないよ」
    「いいや。でも、それでも君が思っていることや悩むことを他の誰かに少しでも預けられるようになったなら、僕にとっても嬉しいことだ。それがたとえ、人間じゃなく刀でも。僕は祝福するよ、おめでとう」
     少しだけ躊躇った後に、歌仙はぽんぽんと二度私の頭を撫でた。
     何と言ったらいいかわからなくなって、私はただ小さく「ありがとう」とありきたりなことだけ呟いて筆記具を握り締める。ギチとペンの芯が鳴った。
    「……歌仙は」
    「うん?」
    「歌仙はどうして、歌を詠むの?」
     ただ一言、言えばいいのに。わかりやすく、伝わる言葉で。
     それなのに何故、わざわざ歌にするのだ。
    「ふふ、決まってるじゃないか。それが一番ふさわしいと僕が思うからだよ」
    「ふさわしい……?」
    「ああ。僕が大切だと思ったこと、いとおしいと思ったこと、悲しいこと辛いこと。僕が一つ一つ選んだ言葉で、伝えたいだろう? 思いを込めてね。君もそうしてごらん」
     白い短冊を手渡される。
     ああ、間違いない、私は、取り返しのつかないことをしている。
    「……ごめん、歌仙、言いだしておいて悪いんだけど私急ぎの仕事思い出しちゃった」
    「ん? 君、また何か書類でも放置したのかい。仕方ないな、持っておいで、一緒にやろ、う」
     こちらを見た歌仙がぎょっとして言葉を止めたのがわかった。
     大粒の涙がぼたぼたと何も書いていない短冊に垂れる。白い和紙が濡れて灰色に変わった。ああ、私は、なんてことをしたんだろう。
    「主、どうし」
    「失礼します」
     涼やかな声に、凍り付く。足音も立てずにやってきた五月雨が私の手首を掴んだ。
    「っ五月雨、あの」
    「歌仙、後で事情は説明します。頭をお借りします」
    「さ、五月雨!」
     引っ張られて足が勝手に立ち上がる。五月雨は即座に踵を返して歌仙の部屋を出た。いつもよりずっと速足で五月雨が廊下を進む。どこに向かっているのかわからなかった。でたらめに歩いているだけのような気もする。少なくとも、五月雨の部屋や私の部屋が目的地ではない。
     黒いストールを揺らした五月雨はただずんずんと歩いている。仕舞いには縁側の突き当りまで来てしまった。そこでやっと、五月雨はぴたりと足を止める。
    「私ではなく、歌仙に教えを乞われたのは少々不快でした。次はやめてください」
     やっと五月雨が私に言ったのはそんなことだった。手首は掴まれたままだ。
    「……ごめん」
    「いえ。それだけですから。急に手を引いて申し訳ありませんでした」
     それだけ言って五月雨がこちらを向いたので、私はもう今しかないと思った。
     これ以上、続けられない。
    「五月雨、ごめん、待って。聞いてほしいことがあるの」
    「……今でなくてはいけませんか」
    「……今聞いて」
     小さく私の手を握る五月雨の手が震える。それを振り払うことはできなかった。そうするべきなのに。ずっとずっと、そうしなければならなかったのに。
    「ごめんね、私、最初五月雨が好きだって言ってくれたの、わからなかったの」
     深く頭を下げたので、五月雨がどんな顔をしているのかわからなかった。言葉が喉の奥でつかえる。けれど全て正直に話さなくては。
     私はずっと、この優しい刀を騙していたのだ。
    「季語だって言うの、褒め言葉程度にしか思わなくて、だからありがとうって返しちゃった。そういう意味じゃないって知ったのに、今更そうじゃないって言えなかった。正す機会、たくさんあったのに」
    「……」
    「でも五月雨はずっと優しかったから、五月雨のこと少しでもこれからわかっていけたらって、思って」
     だめだ、口に出せば出すほど言葉が軽くなる。
     ぐっと奥歯を噛んだとき、私の手を握っていない方の五月雨の手が伸びてきて頬に触れた。ゆっくりとだが、五月雨は私の頭をあげさせる。顔を見るのが怖い。けれど意を決してそちらを見れば、五月雨はいつもと変わらない表情で私を見つめていた。
    「頭は、私がお嫌いですか」
     頬に手を添えたまま、五月雨が問う。
     私は首を振った。そんなわけない。
    「違う、嫌いじゃない。五月雨を好きになりたかったのは本当だよ、五月雨のことを好きになりたいと思った。これからでも、好きになれたらいいって」
    「……」
    「でもそんなの虫がいいよ、ごめんね。本当に、ごめんね……」
     季節の風雅を愛するこの刀に、私はなんてひどいことをしたのだろう。
     雨だれの落ちるひとつひとつの音や、風が通り過ぎるたびに揺れる草木を愛することができる刀に、なんて不実だったんだろう。
     歌は、自分が大切だと思ったもののために。歌仙はそう言った。そして五月雨もきっとそれに近いはずだ。何故なら五月雨はいつだって、この縁側に静かに座って、山に登って、ひとつひとつ言葉を選びながら、季語としながら、大事に句を書きつけていたのだ。
     それを踏みにじった。わからなかったからなんて理由で、私は五月雨の大切な季語をなあなあにした。そういう扱いをしてしまった。
     この刀が一つずつ丁寧に紡いだ句に、私は泥を塗ったのだ。愛したものとして詠んでくれた句に。愛してくれた一句一句を嘘にしてしまった。
    「ごめんなさい……」
     ここにきて、涙を流すようなことはしたくなかった。だから堪えて、くしゃくしゃになっているだろう酷い顔を五月雨がゆっくり撫でる。
     怒っていい。怒鳴ったっていい。それなのに、するすると五月雨は私の顔にできた皴の一つ一つを伸ばすように指で頬をなぞっていく。
    「……流石に、気づいていました。頭は私の言葉を断れなかっただけだろうと」
     ぽつり、といつもの涼やかで落ち着いた声で五月雨が言う。
    「……ごめんね」
    「しかし、構いません。それから、頭がそこまで気に病むこともありません。私は言質が取れれば良いかと、思いましたので」
    「えっ?」
     しれっとした言い方に、思わずガクッと私はずっこけそうになった。ちょっとそれはどうなのだ。いや、仮に思っていても口に出さない方が。だが五月雨の方はやや愉快そうに瞳を細める。
    「ちょ、ちょっとそれ、狡く、ないかなあ」
    「ふふ、私にとって狡いは褒め言葉です。忍びですので」
     忍者……。やや脱力する。私は、この刀が歌人で犬で忍びで、かつちょっとお茶目だったことをそこでやっと思い出した。そういえば先ほども足音がしなかった。
     しかしそれで私の顔の力が抜けたからか、五月雨が安堵したように息を吐く。掴むようにしていた手を、五月雨は握り直した。
    「それでも思いのほか、堪えるものでした。頭といて嬉しければ、嬉しいほど。不思議ですね」
     穏やかな声で五月雨は言うと、ゆっくり一度瞬きをして再び私を見る。凛とした、すみれの花と同じ色の瞳だ。
    「覚えていますか。まだ私が頭の刀になったばかりのことですが。縁側にいた私のところに、来てくださったことがあったでしょう」
    「……いつだろう?」
    「冬のことです。時間があってと、言っていました」
     ……ああ、そんなこともあった。
     五月雨が来てすぐのころ、私は秘宝の里のノルマでバタバタしていて、同じ江の皆に五月雨の案内なんかはお願いしてしまっていた。だからちゃんと話す機会がなくて、五月雨は縁側で冬で何も咲いていないような庭を眺めているというから、少し時間ができたときに話に行ったのだ。
     寒いのに五月雨はきちんと正座をして、今と変わらない様子で短冊と筆を持ち座っていた。流石に縁側も硝子戸を締めていたのだが、それでも風が吹き抜けるとつい首を竦めてしまうくらいなのに、五月雨はしゃんと背筋を伸ばしていたのを覚えている。
     何をしているのか聞いても、あのときの五月雨は「句を詠んでいます」としか言わなかった。会話に困った私は短冊に触っていいか聞いて、五月雨の了承が得られたので一つ手に取ったのを覚えている。
     達筆で、実は全然読めなかった。いや、読めても内容が分かったかどうか知れたものではない。けれど美しい字が何かを雄弁に語っていることはわかった。
    「これって何を詠んだの? 庭には花も咲いてないのに」
    「花はまだ眠っていますが、上に降る雪が美しいと」
    「へえ……私から見たら寒くて、それだけなんだけどな」
     けれど五月雨にはそう見えているのか。だがそう言われてみると、不思議と私にもあの雪の下には素敵なものが詰まっている気がしてきた。春を待って咲く花が白い布団で眠っている。
     そういう風に普段から見えるなら、それはどんなにか素晴らしいことなんだろう。
    「私にはわからなかったなあ」
     ただそう言って、それだけ。本当にたったそれだけだった。
    「……ですがその、わからないと笑った顔がとても可愛らしかったのです」
     眉を下げて、切なそうな、それでいて嬉しそうな五月雨の笑み。
    「心から、ああ一句詠みたいと、思いました。頭が季語になったのはそのときです」
     切れ長の瞳を緩めて、五月雨が微笑む。私の頬に当てていた手を滑らせて、もう片方の手を取ると、五月雨はそれを握ったまま自分の胸に押し当てた。
     いつも無表情で、静かで。そんな五月雨の胸は熱く、少しだけ早く鳴っている。
    「それから痛みも、寂しさも、私の心は訴えるようになりました」
    「……うん」
    「ですがそれも、私は季語とします」
     はっきりと、五月雨は言い切る。五月雨はいつもしっかりとした口調で喋るほうだけれど、ここまで直接的なものは初めてだった。
    「嬉しさも楽しさも、寂しさや苦しささえ、頭からいただけるものはどれも私にとっては、季語に値するものでしたので。私は、頭が好きなのだと思いました」
     ほんの少し、指先から伝わる五月雨の鼓動がまた早くなる。
     初めて「好きだ」と口にされたのに、私は不思議とこれが最初だと感じなかった。けれどそれも当たり前だ。
     五月雨は毎日、季語に託して私にそれを伝えてくれていた。一つ一つ、言葉を選んで句に詠んで。言葉の意味がわからなくても、五月雨の愛情だけは毎日ちゃんとわかっていた。
     ずっと我慢していたのに、ほろと一粒涙が零れる。
    「……季語は、一日一日増えるものです。歳時記にはこれからも増えます。ですから、頭の心にもいつか私が思うよりも多くの季語が増えるかも……いえ、それはないですね。私の季語が倍で増えますので」
    「なにそれえ……」
     濁った涙声で返せば、五月雨が握っていた手を引き寄せる。
    「頭が、毎日傍にいてくださるので。私の季語も頭の倍で増えています。……私はそれで構いませんので、良しとしていただけませんか」
     鼻がぶつかりそうな距離で、五月雨が囁く。雨音のように穏やかで優しい声だった。
    「いつまでも私の季語ばかりが増えるので構いません。いつかそのうちの一つでも、頭が私に与えていただけるなら。いつか一度だけでも私を季語としていただけるなら、それだけで」
     指を絡ませると、五月雨の指は思ったより長いのだなと気づいた。爪が紫に塗られた、筆と刀を持つ手。
    「……でも」
    「それに一度ありがとうと言ってくださったのですから、頭に二言はありませんね」
     う、と言葉に詰まる。それは確かだけれど。
     けれどそれで、いいのだろうか。もう何もかも分かった後で、それでいいとしてくれるのだろうか。
     五月雨はいつもの無表情のままだった。だがしっかりと、私の手を握っている。
    「やっぱりそれ、卑怯だと思う……っ」
    「ふふ、言ったでしょう、それは褒め言葉です」
     俯いて泣いていると、五月雨の指がそれを払う。涙が一粒一粒頬を伝って落ちた。
    「ほろほろと涙の落つるたまゆらや」
     ふふふとかすかに笑いながら、五月雨が言う。顔を上げて、私は聞いた。最初から、そうすればよかっただけの話だ。
    「今の、どういう意味?」
     私が聞けば、五月雨は瞳を細めて答える。
    「あなたとの一瞬が、惜しいほど愛おしいということです」



     恋刀のことがわからない。だから最近は、一つ一つ聞くことにしている。
    「五月雨、今朝の俳句わからなかった。これどういう意味だったの?」
    「頭が私抜きで雲さんとお菓子を食べていてずるいという意味です」
    「それ昨日謝ったじゃない。五月雨夜戦中だったから、先に食べてただけだって」
     今朝方襖の間に挟まれていた薄い紙を持って行ったのだが、五月雨はこちらを見もせずに答えた。短冊に何か書いているが、あれも遠回しな恨み言の可能性が高い。
     最近気づいたのだが、五月雨は案外お茶目で、また一人にされたりすると相応に拗ねる。一昨日用があって歌仙と二人で万屋に出ていたら、「私を置いて旅に出たのですか」とまるでこの世の終わりを見たような顔をされた。万屋までの距離に旅も何もないと思うのだが。
     でもまあ、それも私には少し楽しい。そういう可愛いところもあるのだなと嬉しくなってしまう。
     おやつを早めに貰って、私は縁側までやってきた。いつの間にかそこには自然と二つ座布団が並べられるようになっていて、今日も拗ねているにもかかわらずそれを用意してくれたらしい。
    「お詫びにお菓子持ってきたから食べないか聞こうと思ったのになあ。怒ってるなら余所に持っていこうかな」
    「食べます」
     すっと素早く五月雨がこちらを向いた。現金な。持っていた盆を下ろして、縁側に座る。良く晴れて、いい日和だ。一方の五月雨はと言えば、皿の上を見て首を傾げている。
    「これは初めて見る菓子です。何というものですか?」
    「シュークリームだよ。中にクリームが入ってるから気を付けてね」
     不思議そうな顔で五月雨はスンと皿ごと手にしたシュークリームの匂いを嗅いだ。また目を見張って凝視している。初めて見るものや気になっているものを前にしたときは、いつもそうだ。そのくらいはわかるようになってきた。
     雲さんより思いきりがいい方なので、ちょっと様子を見た後すぐに五月雨はシュークリームを食べる。一口口に含んですぐに、ピンと五月雨の尻尾が立った。
    「季語ですね」
     おお、合格らしい。私はくつくつと肩を揺らした。
    「シュークリームは季語判定クリアなんだ」
    「はい」
    「ケーキはクリスマスのとかだと冬の季語らしいけど、シュークリームはまだ歳時記に載ってないみたいだよ」
    「勿体ないですね、載せましょう。しゅうくりいむ、六音ですか。少々難しいですね」
     考えながら食べたせいか、溢れたクリームが指に着いたらしい。「ああ」なんて言いながら五月雨がそれを舐める。
    「ハンカチあるよ」
    「いえ、もう……頭もついてますよ、口元に。砂糖でしょうか」
    「え、どこ」
     表面にまぶしてあった粉砂糖だろうか。私がポケットを探っていると、五月雨が腰を浮かせた。
     さらさらの紫色の髪が鼻先を掠める。口の端に一度当たった唇が、二度目にちゃんと重ねられた。瞼を閉じればいいのに、五月雨はまたもあのすみれの瞳を開けたままだ。
    「物言えば唇甘ししゅうくりいむ……では字余りですが」
     スッとなんでもなかったように五月雨は再び座る。私は驚いて数拍動くことができなかった。やっと我に返って手に力が入りそうになり、柔らかいシュークリームのことを思い出してまた慌てた。
    「五月雨っ?」
    「お嫌でしたか」
    「そ、うじゃないけど……」
     ふふふ、と五月雨がまた吐息だけで笑う。そういう、茶目っ気のある刀なのだ。
    「安心してください、私は待てもできます」
    「できてない!」
    「今日もいい句が詠めそうです」
     日々増える季語を、五月雨は今日も綴っている。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/05/11 16:30:41

    愛の歳時記

    人気作品アーカイブ入り (2023/05/26)

    #雨さに #刀剣乱夢 #女審神者
    五月雨江に「季語です」と言われたらそれが告白だった話。

    以前pixivに掲載していたものの再掲載です。

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