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    彼と彼女の優しい初恋 それはとても、幸せな初恋だった。
    「ヒトの子が持つ一番美しい感情を、主は知っているかい?」
     まだ出会って間もない頃、縁側に座っているときに審神者は歌仙にそう尋ねられた。歌を詠むための短冊と、気に入っている筆とを手にして。逆光だからかわからないけれど、歌仙の姿がいつもよりずっときらきらとして見えていたのをよく覚えている。
    「……ううん、知らない。なあに?」
    「おやおや、勿体ないねえ。きみはこれまでずっとヒトだったのに」
    「そこまで意識しなかったから。だって生まれてからずっとこうなんだもの」
     彼女の言葉に歌仙はふふふと唇を緩め、それからふわりと藤色の色の髪を揺らして答えてくれる。
    「それはね、恋だよ」
    「……恋」
    「ああそうだ、恋だよ」
     歌仙曰く、動物の生殖は本能でしかない。植物の受精は生存戦略でしかない。だから意識を持って誰かを愛し、その実を結ばせようとする恋という感情は、ヒトの子しか持ち合わせないのだと。
     晴れ渡る高い空を見上げながら、歌仙は目を細めて微笑む。翻ったマントの裏地が紅く目に焼きついた。
    「古来から恋は歌にも物語にも詠まれてきたじゃないか。僕はこの長い年月、とんとそんな感情を表に出す術を持たなかったけれど。ああ、今日も世界は風流で美しい」
     なるほどそうか、じゃあ。
     審神者は目を瞬かせながら、嬉しげな歌仙のその様子を眺めつつ納得した。もしも歌仙のその言が正しいのなら。自分の心の中できらきらと輝くこの感情は、恋というものなのかもしれない。
     それはとても、とても幸せな初恋だった。



     彼女は朝早く起きる。なぜなら彼女の初期刀もまた早起きで、かつ早朝といえど一切の隙のない整った服装で姿を現すものだから、彼女も気を抜いていられないからだ。できるだけきっちりとした服を選び、化粧をするほどの年齢でもないため、最低限荒れのないよう保湿だけ済ませる。ただ髪だけが厄介だった。癖のつきやすい質のせいで、いつもうまくまとまらない。だからこればっかりは仕方がないとため息をついて、一つにまとめて部屋を出る。せめてもっと、綺麗に結えればいいのだが。あまり器用ではないせいで、そううまくもいかないのだ。
     私室は縁側に面しているので、襖を閉じてきょろきょろとあたりを見渡す。するとやはり、庭で佇んでいる黒いマントを見つけることができた。そのことにことりと心臓が跳ねる。
    「歌仙」
     声をかければ彼はマントを翻し振り返る。それからふわりと笑みを浮かべた。
    「やあ主、おはよう。早起きだね。今日は何して過ごすんだい」
    「いつも通りだよ」
    「そうかい」
     彼女はそれからほんの少しだけ歌仙の次の言葉を待ったけれど、歌仙はそれから何も言わずに庭の奥へと消えていった。今日もいつものように、少し早朝の散歩をして、一首歌でも詠んで、それから朝食を仕込んだりなんだりするのだろう。
     ほんの少しだけ肩を落とし、審神者は自分も朝の家事当番を手伝うために厨へと向かう。今日は何がいけなかったのだろうか。きちんとした服を選んだはずだ。髪だって、せめて寝癖くらいは整えたのに。それでもやっぱりだめだったのだろうか。
     一喜一憂する忙しない心に若干の疲労を覚えつつも、気持ちを立て直す。審神者の仕事の不備を出せば、それこそ歌仙に叱られて落胆されかねない。
     彼女は今、恋をしていた。それも、初めての恋だった。
    「また、だめだったの」
    「うん、だめだったの」
    「……歌仙はあれでいてとても不器用だから、主に対して何か怒っているとかでは、ないと思うよ」
     しゅんとして書類を整理しながら、審神者は小夜左文字に相談を持ちかける。歌仙とも知己の仲である小夜左文字は、彼女の初鍛刀であった。初期刀に歌仙兼定、初鍛刀に小夜左文字という細川家縁故の刀剣たちで始まった彼女の本丸は、最初は三人で何とかやっていたが、今はかなり結束も強く安定した戦績を修める本丸だ。こんのすけもいつも上機嫌にそう伝えてくれる。昔と比べて人員も増え、戦力も増え、随分楽になったはずなのに。それでも最近、彼女は悩みが絶えない。
    「嫌われちゃったのかな」
    「そんなこと、ないと思うよ」
     小夜は優しく彼女の背を撫でる。きっかけは、近侍を小夜に変えてほしいという歌仙の一言だった。
    「僕はもう随分練度が上がってきた。次はお小夜の番だ。お小夜に近侍を変えたらどうだろう?」
     歌仙はそう言って、ずっと自分が勤めてきた近侍の交代を申し出た。その言にどこも間違いはなく、確かに歌仙は練度の上限も見えていて、戦力を安定させるなら夜戦で強力な一撃を放てる小夜を今度は育てていくべきだった。けれど近侍でいることで何となしにいつも歌仙と一緒にいることができた審神者は、それに少しだけ落胆した。もしかしたらその一瞬の表情が、歌仙にも伝わってしまったのかもしれない。
    「歌仙、ずっと私には立派な主になってほしいって言ってたもの。私が、練度のこと以外で歌仙と一緒にいたいって思ってたのがばれちゃったのかもしれない」
    「……気持ちが伝わるのは、いけないことなの?」
    「……わからないけど。幻滅されちゃったのかもしれない。だから朝も、散歩に誘ってくれなくなったのかも」
     きっかけは近侍でなくなって、一緒にいる時間が減ったこと。その次は、今まで毎朝だった散歩がなくなったこと。
     ある朝、早起きした審神者の部屋の前の庭に、歌仙が立っていたことがあった。歌仙はいつものようにしっかり着物を着込んでいて、思わず息を呑んでしまいそうなほど綺麗で。着替えていたとはいえ寝起きだった彼女は大層驚いた。
    「歌仙?」
    「ああ、主。おはよう。今日は早起きだね」
    「おはよう、どうしたの? そんなところに立って」
     そう聞くと歌仙は手にしていた短冊と筆を上げて微笑んだ。
    「いい朝だから、一首詠めそうな気がしてね。だから散歩がてら庭を歩いていたんだ」
    「そう、だったの。驚いちゃった、襖を開けたらいたから」
    「驚かせたかい? すまないね。……お詫びといっては何だが、どうだい? 一緒に散歩でも」
     歌仙は一度矢立を懐にしまって、彼女に手を差し伸べた。ことり、ことりと彼女の胸が跳ね始める。躊躇して、でもあまりに待たせるのも不自然な気がして、しばらくしてからやっと彼女はその手をとって庭に下りた。石段に気をつけて、とずっと審神者の手を握っていてくれた歌仙は、おやとその顔を見て笑う。
    「さにつらふ、だねえ。風流だ」
    「え?」
    「いいや、いいんだよ。さあ行こう」
     それから、早起きをすると歌仙が庭のどこかにいることが多くなって、そうすると自然に一緒に散歩をすることになって。彼女はそのために早起きをして、ちゃんとした服を選び、髪も整えて部屋から出るようにしたのだ。それなのに。最近、歌仙はあまりその散歩に誘ってくれなくなった。
     もしかしたら、今までもたまたま外にいたから声をかけていてくれたのかもしれない。だから彼女から声をかけるのは迷惑かも。それに断られたら立ち直れない。そう思って、彼女は自分から歌仙を誘えなかった。
    「好きだって、言えばいいんじゃないかな」
    「い、言えないよ!」
    「どうして」
    「だって、それでもし嫌いだって言われたら」
     そんなの、心がばらばらに砕けてしまう。そんなこと言われると考えただけで、息ができなくなるほど悲しいのに。ぎゅうっと彼女が着ているスカートを握り締めて俯いてしまったので、小夜が困ったように眉を下げ少しだけ寄り添うように距離を縮めた。そのことに彼女は「ありがとう」と呟き、ため息をつく。
     せめて審神者の仕事くらいはきっちりしないと。歌仙が恥じないような主でいないと。思い直して背筋を伸ばし、再び彼女は書類や兵書に向かった。
     こうしてきちんと仕事をこなしている間は、歌仙を想うことも許されているような気がしたのだ。本当は、「いい主であれ」と願う歌仙がこんな気持ちを望むはずがない。それは彼女も予想ができた。それでもやっぱり、好きだから。せめても歌仙が胸を張ってくれるような主でいたい。
     そう、思っていたのだが。
    「ご、ごめんなさい」
     審神者は青ざめた顔で負傷した部隊に頭を下げた。まさか陣形を見誤るなんて、そんなこと今まで一度もなかった。「そういう日だってあるよ、たいした怪我でもないし」と刀剣男士たちは笑ってくれたけれど、歌仙は厳しい表情で「主」と彼女を呼び止める。近侍の小夜を伴って、彼女と歌仙と三人は部屋で膝を突き合わせた。
    「一体どうしたんだい、あんな防げる間違いをして」
     ぐっと彼女は押し黙った。反論なんてできるはずがない。小夜がちらりと審神者を見て、助け舟を出した。
    「歌仙、主だって疲れている日もあります。大きな損失はありませんでした、そこまで怒らなくても」
    「お小夜、そうも言っていられないよ。もう僕らの本丸は以前のような規模ではないんだ。主に今までどおりの気持ちでいられたら困るよ」
    「……ごめんなさい」
     彼女がますます縮こまり、小夜も黙って視線を伏せる。歌仙ははあと息をついて額に手をやった。そのちょっとした動作ひとつで、審神者はびくりと肩を震わせて俯く。
    「……最近、どうしたんだい。何かに気が散っているんじゃないのかい?」
    「そんな、ことは」
    「本当かい? 一番大切な審神者の仕事を疎かにしなきゃいけないようなことが、他にあるのかい? それは、僕にも言えないことかい?」
     ぎゅうと唇をかみ締め、彼女はスカートを握り締める。滲みそうになる視界を必死に抑えて、ぶんぶんと首を振った。
     言えない、言えるわけがない。こんな風に言われて、諭されて、本当のことなんて口に出せない。ばっと立ち上がり、言葉も出せなくなった彼女は一度だけ礼をして部屋を飛び出した。
    「主!」
     後ろから歌仙が呼び止める声が聞こえたけれど、結局一度も振り返らずに部屋に駆け込み襖を閉める。ぴしゃんと結構な音がした。一瞬頭の中で「雅じゃない」と声が聞こえた気がして、いよいよ堪え切れなくなった涙が決壊する。
    「っ、ふぅ、んっ、ぅ」
     せめて嗚咽だけはあげたくなくて、必死で口を押さえた。これで泣き声なんてあげてしまえば、本当に幻滅されかねない。
     やはりそうなのだ。「一番大切な審神者の仕事」を疎かにしていると思われていたのだ。気が散っていると、歌仙にばれていた。これ以上はいけない。これ以上、嫌われてしまうわけにはいかない。その前に、こんな気持ちを捨てなければ。
     けれどわからない。恋をするのは初めてだから、恋を捨てる方法なんてわからない。
     ぼろぼろと大粒の涙を真っ暗な部屋で流しながら、彼女はただ蹲っていた。



    「……歌仙」
    「……」
    「歌仙」
    「……わかっているよ」
     小夜の咎めるような声音に、ううと呻きつつ歌仙は答える。こんなつもりではなかったのにと額を押さえた。最近いつも失敗してしまう。
    「あれでは、ただのお説教です。励ましではありません」
    「う、でもあれは相談してほしいという意味で」
    「伝わりません」
     歌仙兼定は物凄い人見知りだった。ただの人見知りではない。「物凄い」人見知りなのだ。故に、人付き合いは得意なほうではない。言いたいことや気持ちを、素直に伝えるなんてことは不得意中の不得意だ。だが今日は頑張るつもりだった。
     というのも、彼の主が最近元気がないようなのだ。いつもどこか上の空で、しゅんとしていて。それを少し気にしていたら、今日は珍しい間違いまでした。普段の彼女なら考えられない。だからきっと何かあるに違いない。そう思って声をかけて、もし何か歌仙が言いよどんだときのために小夜にまで控えてもらって、話す場を設けたのに。その結果がこれだ。
    「主、泣いていると思いますが」
    「僕は主のために良かれと思って」
    「そうですね、言っていることはまあ正しかったですが、言い方がよくなかったです」
    「うう……」
     歌仙が顔を覆って俯いていると、小夜は困ったように息をついて首を振った。小夜左文字は、見目は幼子と言えど生きている年数は歌仙よりずっと上であるし、踏んできた場数もてんで違う。そのあたり歌仙は小夜にまるで頭が上がらない。
    「素直に言えばいいじゃないですか。毎日、わざわざ主の部屋の前を早朝に歩いているって」
    「う……」
    「心配だから、もっと自分を頼って話してほしいって、言えばいいじゃないですか」
    「直接言うのは、雅じゃない」
    「でもそれで伝わらないのは意味がないと思います」
     今度こそぐうの音も出ずに歌仙は黙り込んだ。しかし小夜の言うとおりである。
     歌仙兼定は、恋をしていた。それも、初めての恋をしていた。
     切欠がどんなことだったか思い出せない。けれど気がついたらその気持ちは歌仙の心に芽吹いていた。きっと本当は、心細いだろう。家族と離れて一人こんなところへやってきて。男所帯の中、刀剣男士を率いなければならないし、あんな若い女子が兵法なんてわかるはずもない。だが一度だって、主は泣き言を言わなかった。
     とても暖かい気持ちだった。彼女を見ていると、どこか優しい気持ちになって、苦しくなったり切なくなったりして。それでもやはり、幸せな気持ちだった。
     自分ひとりではそれを持て余してしまって、ついつい小夜に相談したものの、小夜は素っ気無い。もっと優しくしたらいいと思いますだとか、素直になったらいいと思いますだとか、通り一辺のことしか教えてくれない。歌仙はもっと、別なことが知りたいのに。
    「主は何が好きだろうか、お小夜は知らないかい? 何か贈り物でも」
    「本人に聞いたらいいと思います」
    「じゃあ好きな本か何か、ないだろうか? 一緒に話ができたらとても雅だと思わないかい?」
    「それも、自分で聞いたらいいと思います」
     そんな殺生な、と言わざるを得ない。だって歌仙は、「物凄い」人見知りなのだから。
    「僕だって、主にとっていいことをと思っているんだ。本丸の運営は第一だろう? それが楽になるように、もっと戦力が上がるようにと思って、お小夜に近侍を譲って、練度をあげてもらおうと」
    「主からしてみれば、距離をとられたと思うかもしれませんね」
    「元気がないようだから、散歩は酷かと」
    「余計に距離をとられたと思うでしょうね」
    「だから元気がないなら、僕に相談してくれても」
    「言い方が素直ではないです」
     身も蓋もない小夜の物言いに、がっくりと肩を落とした歌仙は俯く。わかっている。もしかしたら、自分の気持ちは欠片も伝わっていないかもしれないなんて。でも怖いのだ。初めて得たこの気持ちを、彼女にいらないなんて言われたら。そんなこと言われたら、この身は軋んで砕け散ってしまうかもしれない。
    「歌仙」
     ふわりと小さな手が歌仙の藤色の髪を撫でた。よしよしとなだめるように、何度も何度もその手は歌仙の頭を行き来する。
    「今の僕たちには、体と心があります」
    「……そうだね」
    「今までずっと、歌仙が欲しがっていた言葉があります」
    「……うん」
    「何も言わずにするお別れは、とても辛いですよ」
     ハッと歌仙は目を見開いた。
     遠い遠い、昔のこと。ずっと一緒にいた短刀が売られて行った。歌仙はその短刀のことがとても好きだったのに、別れを告げることはおろか、さよならさえも言えなくて。ただその短刀が細川の手を離れていくのを見つめることしかできなかった。だがもう歌仙は物言わぬ鋼ではない。手もあるし足もある。口を利くこともできる。
     それなら、今歌仙がすべきことは……。
    「お小夜」
    「なんですか?」
    「……主は僕のことが、好きだろうか」
    「……自分で聞いてみたら、いいと思いますよ」
     毎朝毎朝、彼女が出てくるのを待った襖の前に立ってみても、なかなかそれを叩くことはできなかった。伝えたいことはたくさんあるのだけど、どう言葉にしたらいいのかわからなくて。こういう時のための和歌だと思って短冊を手に取り、気持ちがまとまらなくてやめる。まどろっこしいことはよくわかっているけれど、どうしてもあと一歩が踏み出せない。
     結局何も言えないでいる歌仙を、ものすごく物言いたげに小夜が見ていた。それに余計に焦りながらも、今日も無言で彼女の前に立つ。
    「じゃあ……行ってくるね」
    「主、本当に僕はついて行かなくていいの」
    「うん、今日は講演会を聞いてくるだけだから。近侍はいなくていいって。夕方には帰るね」
     じゃあと足を踏み出した主に口を開きかけ、閉じる。すると痺れを切らせたのか小夜が後ろから歌仙の背中を押した。
    「あっ、るじ」
     びくりと肩を震わせた彼女が、おずおずと振り返る。それを見て歌仙はすぐさま引き返して部屋に閉じこもりたい気分になった。
     怯えている。とても悲しそうな顔をしている。だが後ずさろうとしても小夜がしっかりその背中を押えていた。
    「か、髪が解れているよ。直してあげよう。そのままでは風流ではないからね。後ろを向いて御覧」
    「あ……ごめんなさい」
     怒ったわけでは、ないのに。彼女が浮かない顔をしたまま背を向けた。歌仙は一度は結い上げられたその髪を解き、さっと編みこんでまとめ直す。その間も何か声を掛けたかったのだけれど、やはりうまくまとまらない。悩んでいる間に、髪は結い終わってしまった。
    「終わった、よ」
    「……ありがとう」
     ぎゅっと唇をかみしめて、彼女はそのまま門を出て行った。小さな背中が消えていくのを見送って溜息を吐く。せめてごめんね位言えればよかったのに。
     花や和歌を贈ったり、気持ちを伝える手段なんてたくさんある。でもそれは、どれもそぐわない気がした。何かに託して、この想いを告げるのでは、決定的なものが欠けてしまいそうで……。
     パチンと部屋に活ける紅花の枝を切りながら、歌仙はじっとその花を見つめる。
    「人知れず……とは、いかなかったね」
     こんなにたくさん、言葉は知っているのに。
    「歌仙!」
     スパンと襖が開かれ、息を切らせた小夜が飛び込んできた。尋常でないその様子に歌仙も息を呑む。
     主が、とそこまでは小夜の声が聞き取れたのだが、そこから先はもうじっとしていられなかった。



     この気持ちを捨てなくてはと思った。せめて歌仙の望む主でいられるように、立派な審神者でいなければと。たくさん泣いたせいで瞼は酷く晴れていて、とてもではないが早朝に外なんて出られるような状態ではなかった。それに、外に出ていつも通り歌仙がいるかどうか確認するのも恐ろしかった。
     やっとのことでちゃんとした主でいようと服装を整え、相変わらず癖の酷い髪をまとめる。皮肉にも今日は審神者の研修の日で、講演を聞かねばならない。近侍の小夜と歌仙に見送られながら本丸を出た。
    「髪が解れているよ。直してあげよう。そのままでは風流ではないからね。後ろを向いて御覧」
     そう言われて、髪を直してもらう。歌仙が背後に立っているというだけで、心臓は喧しく鳴った。風流でないと言われたのに、ただ傍にいるというだけでこんなにも嬉しくて、髪を直してもらえるというだけで、情けないくらいにときめいてしまって。それを悟られないように、小さなお礼だけを言って、門をくぐった。
     ……この恋は、殺さなくては。こんなことではいけないのだ。あんな、ただ近寄られただけで頬を染めているようではいけない。そうでなくては、本当に歌仙に見放されてしまう。主でもいられなくなってしまう。何でもいい、でも離れるのは嫌だった。
    「……そう言えば、初恋って叶わないんだったね」
     苦笑交じりにそう言ったときだった。彼女に向かって演目を掛けた台が降ってきたのは。酷い衝撃と共に視界が真っ暗になり、それからのことはあまり覚えていない。
     ……ガンガンと頭が痛み、ああ遂に罰が当たったと思う。神様に、身の程も知らない初恋なんかするから。いい加減現実を見ろという啓示だ。う、と呻いて彼女は何とか体を起こそうとした。けれどその体は誰かに抱えられていて、一定のリズムで揺れている。仄かに良い香りが鼻を擽った。
    「おや、目が覚めたかい?」
    「えっ!」
     穏やかな声で一気に覚醒して、彼女は歌仙の背から跳ね起きた。ついでに頭が痛んで再び突っ伏す。肩に掛けられていたらしい歌仙のマントがずり落ちかけ、慌てて押えた。今まで講演会にいたはずでは? 何故歌仙に背負われている? ここはどこだ?
     見渡せば本丸へ行くまでの道のりのようだった。木立をゆっくりと歌仙は歩いている。
    「駄目だよまだ、そんなに動いては。頭を強く打ったらしいからね」
    「か、歌仙? どうして?」
    「お小夜がね、主が政府で怪我をしたと教えてくれたものだから。僕が迎えに来たのさ」
     小夜……と彼女は顔を覆った。諦めようとしていたというのに。小夜はきっと気を利かせてくれたのだろうが、これは拷問すぎる。
    「歌仙、私降りる。大丈夫だから」
    「いいや、だめだよ。本丸までは僕が連れて帰る。一人で飛び出して来てしまったものだから、背負うのも僕しかいないんだ」
    「じ、自分で歩けるよ」
    「怪我をしているんだから、大人しくしていなさい。雅じゃない」
     ぴしゃりとそう言われて、彼女は仕方なしに再び歌仙の背に凭れた。
     ゆったりと歌仙は彼女を背負ったままで歩いていく。暖かな体温と、その優しい歩みに段々と哀しい気持ちになってきて、彼女は俯いて歌仙の着物にしがみついた。
    「かせん、ごめんなさい……」
    「何を謝るんだい?」
    「私、私、歌仙の立派な主になれなかった」
     ピタリと歌仙が歩みを止める。土を踏む音もしなくなった。
    「歌仙が、自慢に思ってくれるような主になりたかったのに、なれな、かった」
    「……どうしてだい?」
    「わ、私いつも、服とか、取り繕って選んでるの。しっかりして見えるような服、そうじゃないと、歌仙は嫌がると思って」
    「……そんなことないさ」
    「か、髪だって、癖があるせいで、うまくまとまらなくて」
    「僕と揃いの、癖のある髪だ。まとまらないなら僕が結うさ」
    「でも、でも」
     恋が叶わないのならばせめて、あなたが一番誇りに思ってくれるような主でいたかった。
     ぐすぐすと泣き出した彼女を背負い直し、歌仙は再びゆっくりと歩きはじめる。さくさくとしかししっかりとした足音が再びし始めた。
    「……昔、本当に昔だけどね。親しい友人と別れたんだ」
    「え……?」
     静かな声音で歌仙は話し出した。負ぶわれているせいで、彼女は耳を当てている背からも歌仙の声がしている気がした。
    「僕はそのとき刀だったから、別れも言えなかった。まあ、当然のことだからね。それに不満はないけれど……とても寂しかったのは、よく覚えているのさ。せめて一言、何かと……。後悔と、言うのかな」
     すぐに、小夜左文字のことを言っているのだと審神者は気が付いた。細川で一緒にいた二振は、あるとき飢饉のため小夜左文字が売りに出されてしまい、離れ離れになった。きっとそのことをさしているのだろう。
    「だから、僕はこうしてヒトの身を得たとき、とても嬉しかった。言葉が、遣えるからね。自分の思いを、自分で言葉に出来る。何と嬉しく、幸福なことかと……。でも僕は、あまりその遣い方がうまくないらしい。お小夜に言わせれば、ものすごい人見知りだと言うことだけど……いつもうまく、君に伝わらない」
    「……私に?」
    「今日だって、肝が冷えたさ。また何も、うまく伝えられないまま、あのときと同じように主はどこかに行ってしまうのかと思ったよ。でも、ぴったりの言葉が見つからないんだ。君に、どう伝えたらいいか。僕は文系だからね、言葉にはこだわりがある。ちゃんと選びたかったのさ。けれどそれで、伝わらなくては何の意味もなかったね」
     とくとくと、暖かな心臓の音が歌仙のマントと彼女との間に響いた。よく耳を澄ませると、それは二つ。自分のものと、歌仙のものだった。
    「前に、主にヒトの子が持つ一番美しい感情を知っているかと、尋ねたね」
    「……うん」
    「どうして僕がそれを知っているか、君はわかるかい?」
     揺れる、藤色のふわふわとした髪。こちらを一切振り向かないけれど、僅かに覗く耳は赤く染まっていた。
    「君が、それをくれたからだよ」
     じわりと視界が滲む。話を聞いている間止まっていた嗚咽を、再び上げてしまった。
     歌仙はなおもゆっくりと足を進めている。本丸に着くにはまだ時間がありそうだった。体を揺すって、歌仙は彼女を背負い直す。
    「……しっかり掴まっていてくれないか。外套を、落とさないようにね」
     ふふ、と笑って彼女は肩のマントを引き上げて、それを歌仙にも掛けるように彼の首に腕を回した。人見知りだから、言葉をたくさん知っているけれど、不器用だから。きっとこれで正解なのだ。
     でも彼女はあまり言葉を知らない。何せこの感情も、初めてのものだから。だからそっと一言だけ彼女は歌仙に囁いた。
    「歌仙」
    「なんだい」
    「……好き、大好きよ」
     そう言えば、同じように歌仙も微かな笑いを零した。
    「……なんだ、たった二文字で、よかったんだね」



     少し動きやすい服を選び、簡単に肌の保湿だけを整える。朝食の仕込みやらなにやらをするのに、今までの服は勝手が悪かったのだ。それから髪は梳いて寝癖だけを直した。仕事をするときに渡せるよう、柘植の櫛だけをしまって、彼女は襖を開ける。
     するとそこには縁側に座る黒い外套の背中があった。
    「おはよう、歌仙」
    「やあ、おはよう。今日は何をして過ごそうか」
    「いつも通りかな」
    「そうかい。じゃあ朝は、散歩からだね」
     彼女に手を差し伸べて歌仙は立ち上がる。その手を取り、彼女も庭へ降りた。手を繋いで中庭へと進みながら、ふと彼女は思い出す。
    「ねえ、最初に散歩をした時も何か言っていたよね。あれはなんだったの?」
    「……ああ、あれかい。いや、うーん、そうだな」
     歌仙はやや頬を染めながら、それでも微笑んであのときの歌の続きを諳んじる。
    「さ丹つらふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひわたるかも、とね。主が頬を染めていたから、思い出しただけだよ。さあ行こうか」
    「え、それどういう意味の歌? あ、待って引っ張らないで力が強いんだから」
     耳と首を真っ赤に染めた歌仙と、それに引っ張られた審神者が中庭を歩いていくのを見て、小夜左文字はほっと胸を撫で下ろした。だがそのあとにすぐ、苦笑する。
     また、言葉が足りませんよ歌仙。心の内でそう小夜は付け足した。
     妹、というのは古来妻をさす言葉なのだ。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/09/15 17:40:14

    彼と彼女の優しい初恋

    #歌さに #刀剣乱夢 #女審神者
    審神者と歌仙兼定の初恋の話。

    以前pixivに掲載していたものの再録です。

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