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    【Web再録】私の歳時記①   第一章   第一章


    「……それなら、私は季語じゃないかもしれない」
    「えっ」
     不意に主が言ったことに五月雨江が答えられなかったのは、混乱したからである。
     季語じゃない、何故。そもそも自分にとって季語でないものなんてこの世に存在するのだろうか。探しても探したりないほどなのに。現に今だって、五月雨は母屋の南側に面した庭で季語探しに勤しんでいたのだ。
     そんなことを考えて五月雨が口を噤んでいると、彼女はハッとして何でもないように笑ってひらひらと手を振った。
    「ごめんね、気にしないで。大したことじゃない」
    「いえ、あの、頭」
    「そろそろ執務室に戻らないと。発句の邪魔をしてごめんね、またあとで」
     さっと立ち上がって彼女は行ってしまった。けれど五月雨は短冊と筆を手にしたまま、すっかり動くことができなくなる。
     自分は、季語ではない。どうして彼女はそんな風に思うのだろうか。結局五月雨はそのとき手にした短冊には、今も何も書けないままでいる。



     自分の主は「死なない」のだと、五月雨が聞かされたのは本丸に来てすぐのことだった。
    「詳しく話すと長くなるから、それはおいおい。でもとにかく皆がここで戦っている間私は死なないから、それだけは安心して。皆のことは最後まで私が責任取ります」
     さらりと彼女はそう言った。五月雨は驚いて何も返せなかった。顕現したてで全てのことが初めてだったため、告げられたことを何ひとつ理解できなかったせいもある。ただ返事をしないのは失礼だと思ったため、五月雨は辛うじて「わかりました」とだけ言った。実際のところは何もわからなかった。
     そして「おいおい」と言われたけれど、結局彼女からそれ以降説明はなかった。だがそれに関しては五月雨も仕方ないと思っている。彼女はこの本丸にいる数多の刀剣男士たちの主であり、彼らを管理する立場でもある。五月雨が顕現した段階での刀剣男士の所属口数を考えれば、五月雨にしっかり構っているだけの余裕は彼女になかったのだ。
     そういうわけで、彼女に「自分は季語ではない」と言われて混乱した五月雨を見かねて事の仔細を教えてくれたのは、江のもののなかで最も彼女と関わりのある刀、松井江だった。
    「本当に、死なないそうだよ」
     部屋で洗濯当番から返却された衣服を畳みながら松井は言う。改めて聞くその衝撃的な発言は、二度目であっても五月雨の思考を混乱させた。その頃には顕現していた村雲江も一緒になってその話を聞いていたのだが、やはり釈然としない表情を浮かべている。
    「……死なない? どういうことですか」
    「そのままの意味さ。主は死なない。僕が知る限り、もう何年も年を取っていないようにも思う。古くからいる刀もそう言っていたから、きっと気のせいではないんだろうね」
     比喩ではなく本当に死にもせず年も取らないなら、彼女は人間……というより最早生物ではないのではないか。五月雨が首を傾げると、松井は薄く笑んで洗濯籠の中から自分の内番着を取った。
    「政府のね、施策だそうだよ。良い審神者が、ずっと良い戦績を挙げられるように。審神者になれる人間は多いわけではないから。その少ない人間を探し当てて、更に育てて本丸を運営させるよりも、既に戦績を出せて、正しく本丸を運営できていて、刀剣男士から好かれるような審神者がずっとそこにいた方がいい。それに、ただでさえ審神者は殉職者が多い。だったら一人に永遠に役目を果たさせたほうがいいだろう。理には適っているね」
    「でもそんなことできるの? 人間って死ぬものでしょ、少なくとも俺はそう思ってたけど……」
     村雲の言う通り、この世に生まれたものは、須らく死ぬ。長さに差こそあれ、命あるものは必ずその終わりを迎えるというのは、逃れられない運命だ。それはモノである五月雨江とて例外ではない。作りだされた以上、いつか壊れる日は必ず来る。
    「それがね、できてしまったんだよ。主は実験体だそうだ」
    「実験?」
    「そう。政府の方で研究を進めて、実際に試そうという段階になったときに、使われた人間が主なんだ」
    「ですがそんなことが、許されるはずが」
     生命の形を、こちらの都合で歪めていいはずがない。五月雨が手ぬぐいを握り締めている間に、松井は江のもので揃いにしてある内番着の上を畳み終えていた。
    「許されてしまうんだ。これは戦だから」
     返ってきた答えに、五月雨は心の臓が冷えるような心地がした。だが松井が言うことは倫理の上では間違っているが、論理の上では何も矛盾しておらず、嘘もない。
     とても、悲しいことだけれど。
    「実験の段階で死ぬ恐れもあったそうだけど。現状主は死んでいないし、それ以来年を取ることもなくなったそうだから、結局、その実験は成功したってことになるのかな」
     片付いた衣服をまとめて持つと、松井は五月雨に背を向けて箪笥を開いた。引き出しの中にそれらをしまう松井の方に視線をやらずに、五月雨は呟く。
    「……ですが今後もそうとは限らないのでは」
     後天的な不老不死が「成った」かどうかなんて現状判断はつかないはずだ。それを証明することはおおむね不可能である。彼女が死んだ時点で、「成っていない」と言えてしまうからだ。その上、これは当然だがたった一度の死亡で二度と取り返しがつかないことになる。彼女は審神者の素質はあるとはいえ、元はただの人間なのだ。一時的にそういう状態になったとしても、その研究とやらの効果が永続するかなんて誰にもわからないではないか。
     だが松井は静かに箪笥の引き出しを押し込むと、低い声で答えた。
    「いや……色々試して、もう死ななくなっただろうとほぼ確証が取れているそうだよ」
     色々試して、がどういうことなのか五月雨は考えたくもなかった。死なないかどうか試行するということは、そういうことである。それは隣にいた村雲も同様だったようで、青ざめた顔で腹を押さえていた。
     松井は洗濯籠の中に残っていた衣類を畳の上に空けてしまうと、籠を取り上げた。あれは洗濯場に戻さねばならないものだ。きっと返してきてくれるのだろう。
    「……一応、言っておくけれど。この本丸で、主の不死を喜んでいる刀は殆ど……いや、全くいない。一人の主にずっと使われることは、もしかすると僕らの本懐だったかもしれないけれど。あまり望ましいことでは、なかったみたいだ」
     こちらを見ないままで松井はそう呟くと、部屋を出て行った。あとには途方に暮れた五月雨と村雲が残される。畳もうと持っていた手ぬぐいはすっかり皴になってしまっていたので、五月雨はおもむろにそれを膝に広げ、手で皴を伸ばした。
    「雨さん……どう思う?」
     村雲もまた何となく内番着を片付ける作業に戻りつつ、おずおずと五月雨に尋ねる。何かしていないと、応えも出ないことをずっと考えてしまいそうだった。五月雨は緩く首を振る。
    「……まだ、よくわかりません。雲さんは、どう思いましたか」
     五月雨の問いかけに対して、村雲もまた俯く。手にしていた内番着を抱え込むようにして膝を立てると、村雲は小さく呟いた。
    「俺もよくわからないけど……ただ、主、可哀想だなって、思った」
     そうですね、と五月雨は返す。それと同時に、ああと少し納得がいった。
     顕現して暫く、五月雨とてずっと彼女が「死なない」と言っていたことは気になっていた。しかし彼女本人から「おいおい」と言われた以上は待つつもりであったし、それにこちらから彼女とやり取りをしようと試みなかったわけではない。だが審神者としての執務が忙しいことや、この本丸にいる刀剣男士が多いことを差し引いたとしても、彼女はいつも誰かしらと一緒にいることが多かった。一人でいることは殆どない。だからこそあの「季語ではない」と言われた日でさえ、五月雨は僅かな時間でも彼女が声をかけてくれたことが嬉しかった。
     けれどそんな状況なのは、きっといつも誰かが彼女の様子を見に行っているからなのだ。彼女のことが心配で、……可哀想で。
    「ですが、だからと言って季語ではないはずがない、と思うのですが」
     ぽつりと五月雨はこぼした。
     彼女の事情は分かった。少なくとも言葉の上では理解できたと思う。だが先日の発言に関しては全くわからなかった。
    「雲さんは、頭は季語ではないと思いますか?」
     顔を上げて五月雨がまた聞けば、村雲はぎょっとした後に首を振った。
    「なっ、なんで、そんなわけないよ」
    「どうしてそう思うのですか?」
     やや考えた後に、村雲は言葉を選びながら答える。
    「や、だって、可哀想、だけど……主は負け犬の俺にも良くしてくれるし、俺はここにいるの、嫌じゃないし。まだあんまり主とちゃんと話したことないけど、それでも主が雨さんの言う季語じゃないってことはないと、思う」
     悩んだためか最初視線は伏せられていたが、最後ははっきりとこちらを見て村雲は言った。緊張したのか、それから少し顔を青くして腹をさする。五月雨も村雲のやや丸まった背中に手を添えた。
    「そうですよね」
     五月雨も同様に、そんな風には思えなかった。確かに五月雨は彼女のことを良く知らない。けれど周囲の刀剣男士の反応や、ここでの暮らしぶりを見れば彼女が「良い審神者」であることはわかる。だからあとは五月雨自身が彼女と会話をして、今わからないことを知っていけばいいだけだ。
     すっくと洗濯物をまとめて抱え、五月雨は立ち上がった。善は急げである。
    「そういうわけですから、頭と話をしてきます」
    「えっ、今?」
     いきなり行動を起こした五月雨を、村雲が驚いて見上げた。しかしそのときには既に五月雨は洗濯物を箪笥に戻し、つかつかと歩いて部屋から出るところだった。
    「今です。行ってきます」
    「いっ、行ってらっしゃい」
     とりあえず執務室に行って、不在なら探そう。五月雨は真っ先にそこへ向かった。幸い彼女は近侍の加州清光と在室中で、五月雨が中を覗き込めばすぐに顔を上げてこちらを見る。
    「五月雨、どうかした?」
    「お話中申し訳ありません。ただいま少々お時間よろしいでしょうか」
    「なに、何かあったの?」
     彼女に一拍遅れてこちらを振り返った加州も五月雨を見た。上から話し続けるのもなんだったので、五月雨は少し離れたところに膝をつく。
    「急ぎではないのですが、頭と話をする時間をいただければと」
    「珍しいね。清光、この編成の話は明日でもいい?」
     机の上に広げてあった紙を持ち、彼女は加州に尋ねた。加州はまだちらりと五月雨の方に視線をやりつつ何となく頷く。
    「まあ急ぎじゃないからそれは全然いーよ」
    「じゃあこれはまた明日。五月雨、座って。お茶は冷たいのでいいかな。すぐに用意できるから」
    「はい、ありがとうございます」
     怪訝そうな顔をしつつも、腰を上げて加州が出ていく。その間彼女は側の棚から一つ硝子の器を取り出してお茶を注いでくれた。五月雨にはそれが匂いで麦茶だとわかった。はいと彼女は文机の端、五月雨の前にくるようにその器を置く。それから麦茶の入った容器を文机の上にそのままにして、静かに口を開いた。
    「実はね、来るんじゃないかと思っていたの」
    「私が、ですか?」
    「うん。ついさっき廊下でね、松井君に会って。私の了解を得ずに色々話したって謝っていたから。私がちゃんと時間を取れなかったんだから、松井君には気にしなくていいよって言った。でも五月雨なら、もしかしたら直接こっちに話をしに来るかなと思って」
     視線を伏せた彼女の目の辺りを見て、そういえば五月雨は彼女の歳を知らないと気づいた。それは女性に年齢を聞くのは憚られたからだ。だが、一体今いくつなのだろう。言われてみれば……程度ではあるが、確かに彼女は見た目の年齢よりも落ち着いた雰囲気があった。単に物静かな人なのだろうと、五月雨は今まで思っていたけれど。
    「それで、松井君から聞いたのかな」
     彼女は微笑んで言った。
    「ごめんなさい、ちゃんと私から話せなくて。ただ内容が内容だから、説明するのにタイミングを見ていたの。新入りの子は最初、自分のことでいっぱいいっぱいだろうから、私のことまで気に掛けてくれなくていい」
     穏やかなその言葉は、かえって五月雨の心をざわつかせた。確かに、顕現当初にこれを聞かされて平静でいられたかと言えばあまり自信がない。
    「……ですが驚いたので、次からは最初から、知っておきたいです」
     五月雨がそう言っても、彼女は気を悪くした様子はなく、笑んだ表情のままただうんと一つ頷いた。
    「わかった、そうする。ごめんなさい」
     静かに頭を下げた姿はやはり、年若い女性のものだ。五月雨は僅かに覗いたほっそりとした首筋を見つめて尋ねる。
    「お体は、変わりありませんか」
     おかしな問いだということは五月雨にもわかっている。彼女がそういう状態になったのは松井から聞くに、いくらか前のことだ。五月雨に出会った当初から、彼女は「死なない」体だった。だがそれを今更尋ねるのは変だと理解しつつも、五月雨は聞かずにはいられなかったのだ。それに対して、彼女は特に怪訝そうにすることもなく答えてくれる。
    「うん、元から丈夫だから」
    「丈夫、ですか」
    「小さい頃から大きな病気も、怪我もしたことない。勿論持病もないよ。ただ体力は人並みだし、特別運動神経がいいわけじゃないけれど」
     冗談めかして彼女は言った。けれどそういう意味ではないときちんと分かっているのか、少し麦茶を飲んでから続ける。
    「あと、怪我の治りがすごく早いよ」
     五月雨はぎゅっと、膝に置いていた手で履物の膝を掴んだ。
    「瞬時に治るのは無理だけど。それでもたぶん、他の人が治るのに一週間かかる怪我なら、私は次の日には傷口が塞がって、三日目には痕もなくなる。一か月かかる怪我なら、一週間で元通りになる。程度にもよるかもしれないけど。大体のものは処置しなくても、自然と治る」
    「……他には」
     正直なところもう既にお腹がいっぱいの気分ではあったが、五月雨は続きを促した。まだ知らないことがある以上、聞いておくべきである。彼女はやや考えこんだ。
    「欠損は、厳しいかな。でも取れた部分が手元にあってs状態が良ければ、よしんばくっつく可能性があるとは聞いてる。ただここを」
     彼女の手が自分の首を掴む。五月雨はその指先をじっと見つめた。
    「ここを切られちゃったら、流石にだめかもしれない。だけど試したことがないから正確にはわからないな。逆に、心臓を突かれた……だったら、自然治癒は無理でも処置が早ければ、助かるかもしれないよ」
     なるほど、と五月雨は返した。つまり、政府の「研究」というのは彼女の体に元々備わっている新陳代謝や自然治癒力を極限まで高めているようなものなのだろう。だから怪我の治りが早いという意味で「不老不死」を可能にしようとしている。
     要は彼女だけ時間の流れが止まっているような状態なのだ。どこかが損なわれることがあっても、逆戻りするように治っていく。五月雨が顕現する前のいつか、どこかの時点で彼女の時間は静止している。
     そこまで理解してやっと、五月雨は合点がいった。顔をあげて、再び麦茶を飲んでいた彼女に問う。
    「それで、季語ではないとあのとき仰ったのですか」
     季語というものは、字の通り「その季節を象徴する言葉」である。その季節に盛りを迎える草花、旬の食べ物、その瞬間にしか見られないものが「季語」として歳時記に綴られる。
     だが時間が停滞している彼女は、どの季節でも同じままだ。
    「……本当にごめんね、うっかり口に出て。気にしたよね」
     ややバツが悪そうに彼女は五月雨に言った。普段どんな時も穏やかな笑みを浮かべている彼女には珍しい表情だと五月雨は思った。だがひとまずそれは置いておいて、すぐさま首を振る。
    「私のことは構いませんが、頭が季語ではないなんてことはありません。雲さんも今しがたそう言っていました」
    「村雲も?」
     それを聞いて、彼女は僅かに笑みを浮かべた。五月雨はすかさずもう二度三度頷く。
    「はい。頭は季語です。季語ですよ」
     念押しのように繰り返せば、彼女はわかったわかったと肩を揺らしながら片手を振る。ふふと口元に当てられた方の手の甲の隙間から笑い声が聞こえた。
    「ありがとう。五月雨がそう言ってくれるなら嬉しいよ」
     お茶飲んで、と彼女に促されて五月雨は麦茶に手を伸ばした。氷は入っていなかったけれど、硝子の器は少しひんやりとしている。お菓子もどうぞと薄皮饅頭を差し出されたので、五月雨は両手でそれを受け取った。
     わかってくれたのなら、よかった。やはり直接話に来てみて正解だった。ホッと五月雨は息をつく。彼女が季語でないなんてそんなことない。けれど五月雨は包み紙を開きつつ彼女に言った。
    「ですが頭は間違っておいでですね」
    「え?」
     何度か瞬きを繰り返しながら、彼女はこちらを見上げる。彼女が季語でないなんてことはないが、誤解は正しておかねばなるまい。
    「季節で色の変わらぬ常緑樹も、歳時記には載っています」
     ふっと彼女が噴き出す。
    「それは失礼しました」
     くすくすとしながら彼女は軽く頭を下げた。五月雨もふふと僅かに微笑んだけれど、饅頭に口を付けながら考えた。
     彼女が忙しいのは、間違いないだろう。この一城の主たる審神者、それが彼女の役目だ。数多くの刀剣男士を従える……と言ってしまえば些か冷たい表現に感じるが、刀剣男士を管理し、ここでの生活を保障するのは他ならぬ彼女の仕事である。単純な出陣計画や編成などの戦に関わること以外、本丸内での予算の運用やらその他諸々。やることは山積みだ。五月雨のように何日か置きに非番があるわけでもない。季語に意識を払えないことは、仕方がないのかもしれない。
     しかし自分を「季語ではない」と思い詰めるのは良くない傾向なのではないだろうか。不老不死の是非はおいておいても、彼女がこれからも長い年月を生きると言うのなら尚更、その認識は改めてもらわねばならない。
    「……頭も、季語を探しにいきませんか」
     不意に、言葉のほうが先に五月雨の口をついて出た。だが次の瞬間には五月雨はその提案に納得していた。
    「え?」
    「ええ、ええ、それがいいです。頭も一緒に、季語を探しましょう」
     問い返した彼女に、畳みかけるように五月雨は言った。
     ここで言葉を尽くすよりも、どんなものも季語なのだと自分でわかってもらうのが一番いい。そうに決まっている。百聞は一見に如かずだ。
    「お忙しいのはわかっております。ですが少しの時間でも、難しいでしょうか」
    「でも、季語を探すとは言ってもね。私、俳句は詠めないから」
    「構いません。初めから歌を詠まれずとも」
     ただ少しでも、何か心に触れるものに出会えるようなことが、今の彼女には必要なのではないだろうか。
    「それとも私と出掛けるのは、気が進みませんか」
     五月雨は意図的に、視線を伏せて落ち込んだような素振りを見せた。視界の上の方で、彼女が焦ったような表情をするのがわかる。
     元々彼女の方は五月雨と接する時間を取れていなかったことを気にしていた節があった。だからそういうのは有効だと思ったのだ。案の定、そのうち彼女は折れて肩の力を抜く。
    「わかった。あまり長い時間は取れないかもしれないけど。それでいいなら」
     ホッと五月雨は息を吐く。一度約束してもらえたのなら、あとはこちらのものである。
    「構いません。ありがとうございます」
     では明日にでも、様子を見つつお誘いに上がります。そう言って五月雨は饅頭の包み紙を丁寧に折り畳んで一礼し、腰を上げた。しかし部屋を出ようとする寸前、彼女が五月雨を呼び止める。
    「……五月雨江、ああ言えば私が折れるとわかっていたね?」
     怒っているのかと思ったが、彼女は悪戯っぽい表情でこちらを見上げていた。だから五月雨もまた静かに笑って答える。
    「卑怯、は忍びの私には褒め言葉です」
     五月雨の返答に彼女は瞳を細める。その穏やかな面差しは外見の年齢よりもどこか落ち着いて﨟󠄀たけたもので、やはり彼女本来の年齢はきっと、もっと上なのだろうと五月雨は思った。



     しかし様子を見つつ……とは言ったものの、暇を見つけて彼女を連れだすことは結果としてなかなか困難だった。今日も執務室までやってきた五月雨は、中を伺って肩を落とす。いない。見回りか、どこかに呼ばれて出て行ったのだろう。
    「……せっかく今日は、天気もよく、紅葉も見頃なのですが」
     誰もいない室内を背に、縁側から空を見上げる。天高く馬肥ゆる秋、季語もたくさんである。仕方なしに、五月雨は内番用の履物から銀杏の葉を取り出して文机の上に置いた。中庭を掃除したとき、綺麗なものを一枚拾ってきたのだ。
     あの日から毎日、五月雨は一日のうち必ずどこかで彼女を誘おうと試みてはいた。しかしやはり多忙な審神者、どうもうまくいかない。それでも約束を忘れてほしくはなく、また季語のことも頭には残しておいてほしかったため、結局五月雨はこうしてごんぎつねよろしく連日何かを持って来ては置いていっている。
     けれど本来約束したのは、「一緒に」季語の元へ出向くことなのだから、これはやはり趣向が違う。彼女に直接季語に触れてほしいという目的にも、沿っていない。
     とはいえ、だ。五月雨は気を取り直して深呼吸した。幸いなことに五月雨は気が長い方である。待つのは苦ではないし、何より既に言質は取ってあるのだから、根気強くやろう。それがいい、今できることはやっている。
    「頭のために季語を探してくるのも、悪くはありません」
     気を取り直して、五月雨は自室の方へ取って返した。庭掃除も済ませたから、今日はもうあと何もない。部屋を覗き込めば、昼寝でもしようとしていたらしい村雲が綿毛布を手にしている。
    「雲さん、お昼寝ですか」
    「あ、うん。雨さん、主いなかったの?」
    「ご不在でした」
     それを聞くと、ここ最近毎日五月雨が執務室に通っていることを知っている村雲は、そっかと綿毛布を置いた。かたや五月雨は部屋を進み箪笥を開けて、しまっておいた巾着袋を引っ張り出す。
    「残念だね、天気がいいから紅葉狩りに行きたいって言ってたのに。……それで雨さんはどこに行くの?」
    「どんぐりでも拾おうと思いまして」
     掃除をしているときに、いくらか落ちているのを見つけたのだ。どんぐりは言わずもがな季語であるし、工作すれば駒にして遊ぶこともできるし、実は食べることもできる。なによりつやつやで綺麗だ、彼女も喜ぶだろう。
    「ど、どんぐり?」
    「はい。雲さんも拾いますか、どんぐり」
     五月雨の提案に、村雲はやや考えた後に頷いた。五月雨同様、村雲も彼女とはあまりしっかりと話ができていない。二人で拾ったのだと持って行くのもいいだろう。
     そう考えて五月雨と村雲は二人して庭に降り、落ちているどんぐりを拾い集めた。やれ穴が空いているだの、傷が入っていてよくないだの言いながら選んだためいくらか時間はかかったが、八つ時に執務室の方に行けば、今度は在室していた彼女に巾着袋いっぱいのどんぐりを届けることができた。
     だが紐を蝶結びにされたその巾着袋を見て、微妙そうな顔をしたのは近侍の加州である。
    「普通、女の子にプレゼントでどんぐり渡す……?」
    「えっ、だめなの」
    「いけませんか」
     想定外の加州の反応に五月雨と村雲には衝撃が走ったものの、彼女はくすくすと笑いながらそれを受け取る。どんぐりでいっぱいになった巾着は彼女の手のひらの上にころんと乗った。
    「いいや、ありがとう。たくさん拾って来てくれたんだね。さっきの銀杏も」
     文机に置いた銀杏の葉は、五月雨からだと彼女はわかっていてくれたらしい。五月雨はホッと息をついた。言質は取ったが、負担になるのは本意ではない。だからいつも書置きも何もつけなかったのだ。
     それから巾着袋を手にしたまま、彼女は壁に掛けられた時計に目をやった。そしてなにやらうんと一つ頷く。
    「清光。もう何日も五月雨との約束を反故にしてしまったから、少し出てくるよ」
    「よろしいのですか」
     忙しい彼女相手ではどんぐりを直接手渡されただけでかなりの僥倖で、正直そこまでは期待していなかった。だがこれはとても喜ばしい成果である。やはり彼女もぴかぴかのどんぐりが嬉しかったのだろう。
    「でも主、もうすぐ日が落ちるよ」
     この頃日が短くなって、昼過ぎとはいえ加州の指摘通り太陽は天頂を超え、既に傾き始めていた。しかし彼女は緩く首を振ると、机の上に置いていた薄い通信端末を手に取る。
    「大丈夫、きちんと救援用の通信端末は持って行く。それに五月雨も村雲も、打刀だから。いざというときでも夜目が利くよ」
    「俺もいいの?」
     自分の名前も連なったことでおずおずと尋ねた村雲に、彼女はにこりと笑った。
    「もちろん。村雲が嫌じゃないなら」
     遠慮がちに村雲がこちらを見たのがわかったので、五月雨もまた首を縦に振って促す。季語探しは何人で行ってもいいものだ。
    「はい、一緒に行きましょう、雲さん」
    「う、うん、雨さんが行くなら、行く!」
     村雲がぱっと表情を明るくしたので、五月雨もまたわくわくとした。遠い未来に「刀剣男士」になってヒトの体を得るなんてことは、五月雨はもちろん村雲だって予想していなかっただろう。だがそういう想定外の出来事であっても、「主」は「主」に違いない。彼女がどういう人間なのかはもちろん知りたいし、せっかく話したりできるのだから一緒に過ごしたい。きっと村雲だって、これまで同じように思ってきたはずだ。
     いくらか加州は不安げに襟足の髪を掻いたが、こちらの様子を伺って肩を竦める。
    「じゃー二人とも武装してきて。主と出掛けるときは完全武装じゃないとだめ。夕飯までには帰ってきてよねー」
     食事の時間までは、あと二刻ほどある。日没が早いことを考えても、まだ近場を出かけるには十分な時間だった。五月雨と村雲は急いで立ち上がる。
    「うん!」
    「わかりました」
    「それじゃあ玄関で待ってるね」
     はいと彼女の言葉に返事をするや否や、バタバタと慌ただしく五月雨と村雲は部屋へ戻った。今日は掃除やら何やらをするだけだったため楽な服装だったのだ。二振揃ってしっかり防具を整えて本体を腰に差し、今度は玄関に急ぐ。
    「よかったね雨さん、主と出かけられて」
     駆け足で廊下を進む途中、村雲がこちらを見て言った。昼過ぎに不在で今日もだめだと思ったのもあり、確かに嬉しい。だから五月雨もはっきり返事をした。
    「はい、雲さんも一緒に季語を探しましょう」
    「うん!」
     彼女は上着を着て、運動靴を履いて玄関に腰かけていた。お待たせしましたと五月雨が声を掛ければ、こちらを振り返って首を振る。
    「早かったね」
    「急ぎました。頭はどちらに行かれたいですか?」
    「任せるよ。季語探しは初心者だからね」
     冗談めかして彼女が言ったので、隣に立っていた村雲がくすくすと少し笑う。玄関を開けてみると、空は変わらず良く晴れたままだったので五月雨は彼女の方に向き直って聞いた。
    「紅葉が見頃です。少し歩きますが、紅葉狩りでもよろしいでしょうか」
    「大丈夫」
     それなら、と五月雨たちは本丸の門を出て敷地沿いにてくてくと歩いた。本丸の裏手には低山があり、木立には紅葉も植わっている。そこは刀剣男士達も普段から山菜を取りに行く場所であるし、きっと秋らしい季語が多いことだろう。冬に向けて澄みはじめた空気を吸いながら五月雨は足を進め、半歩後ろにいる彼女を振り返った。
    「お体が辛くなるようでしたら、すぐに教えてください」
     傾斜も緩く自分にとっては大したことのない道だが、彼女の足にはどうだかわからない。そう思って声を掛けたのだが、彼女は「ははは」と明るく笑った。
    「平気、体は丈夫だって言ったでしょう?」
    「そうですが」
    「私の足よりも、村雲のお腹の方を心配したほうがいいかもしれないよ」
    「おっ、俺? 俺は別に、気に掛けてもらわなくても」
     話を振られた村雲がビクッとして首を振った。しかし彼女の指摘も一理ある。五月雨は村雲にも言った。
    「もちろんです。近頃冷えますから、雲さんも体調が悪くなったら教えてくださいね」
    「うん、ありがとう雨さん」
     木立に囲まれた山道に入るまでの間、五月雨と村雲は彼女を挟んで横一列になって歩いた。雲一つないと言ってもいいほどよく晴れた空は、太陽からの光が斜めに陰っていても十分に明るい。
    「行楽日和っていうのは、こういう日のことを言うんだろうね」
     彼女が空を見上げて言ったので、五月雨は「はい」とそれに答える。
    「ええ。こういう日は外に出なければいけません。季語もたくさんです」
    「でも、主いつも忙しいのによかったの?」
     歩きながらの村雲の問いに、彼女は何でもないように首を縦に振った。
    「うん、このぐらいなら何でもないよ。このところ五月雨が毎日机の上に何か置いていくから、気になっていて」
    「約束しましたから」
     すかさず五月雨が言えば、くすくすと彼女が笑う。明るい日差しの下で彼女がそうしているのを見るのは五月雨にとっても、恐らく村雲にとっても初めてのことだ。
    「それに顕現してから村雲とも、きちんと話せていなかったからね。ごめんね、時間が取れなくて」
    「いいよ、負け犬の俺のことなんか気にしなくたって」
    「どうして? 私の刀なのには、変わりないのに」
     そう答えると、彼女は慌てた様子の村雲にも丁寧に顕現してから不便がないかなど聞いていった。五月雨はそれを聞きつつ、なるほどやはり彼女は「審神者」として優秀なのだろうと再認識する。村雲の緊張が徐々にだが解けている。「主」として申し分ない人間なのだろう。
    「頭、あの辺りはもう葉が赤く染まり切っています」
    「本当だ。綺麗だね」
     低山の中腹、よく日の当たる辺りまで来て五月雨は紅葉の木を指さした。真っ赤に色づいたそれは、あちこちに葉を落として地面に散らばっている。風で小さく枝が揺れると、はらはらとその上にさらに紅葉が落ちた。
    「山道の大地彩るもみじ葉や」
     五月雨が呟けば、ふふと彼女は穏やかに笑う。
    「すごいね、すぐ歌にできるんだ」
    「頭も慣れればできますよ」
    「あ! 雨さん、きのこ! 食べられるきのこかな」
     村雲が駆けだすと、落ち葉がカサカサ音を立てる。薄桃色の村雲の髪が、木立の中に差し込む日光に透けて綺麗だった。真っ直ぐな五月雨のものと違って、ふわふわとして細い村雲の髪。
    「季語ですね」
     隣に立つ彼女は、村雲のように走っていくことはなく「こっちだよ」と言う村雲の方を見つめて手を振る。
    「きのこが?」
    「いえ、雲さんの髪が綺麗だと思いましたので」
    「髪? それも季語でいいの?」
    「ええ、もちろん」
     そう、という彼女の返事は木立を吹き抜ける風で掻き消えてしまうほど小さく、またどこか平坦なものだった。それが僅かに気になったものの、五月雨は村雲の指す木の根元まで近寄って、生えているきのこを見る。残念だがそれは食用のものではなかった。



     暫くの間五月雨たちはのんびりと紅葉の生えているあたりを散歩した。そうしているうちにせっかくだから綺麗な葉を探そうと村雲が言ったので、各々しゃがみ込んで落ち葉を拾い集めたりもした。五月雨が見つけてきた汚れもなく真っ赤な葉は、彼女に贈ることにした。
    「ありがとう。執務室に戻ったら押し花にするよ」
     受け取った彼女はそう言って、折れたりしないように持っていた手巾の間にそれを挟む。その頃には日が落ち始めたのもあって彼女の手元も暗くなってきたので、そろそろ下りようかということになった。いつの間にかすっかり緊張しなくなったらしい村雲が、帰り道も嬉しそうに歩く。
    「流石雨さん、季語を探すの上手だね」
    「ふふ、歌詠みですから」
     村雲に答えつつ、やはり五月雨は彼女が気になったので再び半歩後ろにいた彼女の方を振り返る。こちらに気づいた彼女は顔を上げて、小さく首を傾げた。
    「どうかした?」
    「……紅葉狩りはあまりお気に召しませんでしたでしょうか」
     二度ほど彼女は瞬きを繰り返した。それから少し先を行く村雲の背中をちらりと見て、五月雨に問い直す。
    「どうして?」
    「楽しくない、というのは違うと思うのですが」
     だが強いて言うのであれば、感情の起伏が見られなかった……という表現が正しいかもしれない。
     彼女は紅葉を見て「綺麗だ」とは言うし、紅葉を渡せば嬉しそうにする。それに普段から素直に謝ったりする彼女が、その場しのぎの誤魔化しや嘘を吐くようには五月雨には思えなかった。けれどその返ってくる言葉や反応の振れ幅が、かなり小さかったように見えたのだ。
    「……ごめんなさい」
     いくらか視線を伏せて彼女が謝罪したので、五月雨は首を振る。それは悪いことではない。
    「いえ、趣味や嗜好というものは人それぞれですから。紅葉狩りが合わなかったのでしたら、また別な季語を探しに行けばいいです。次はそうしましょう」
     彼女の好みがわからなかったから、奇をてらわないものを選んだのだが、そうか。五月雨は体を前に戻しながら考えた。季語はどこにでもあるのだ、今度は現世の人間向けの何かを選んでみよう。外見年齢と実年齢で振れ幅はあるかもしれないが、彼女もまた五月雨の知る時代のはるか先で生まれた現代人なのだし……。
    「……五月雨」
    「雨さん」
     はい、と反射で返事をしてから、五月雨は今、彼女と村雲と同時に話しかけられたことを理解した。考えごとをしていたために目線を落としていたため、ひとまず正面にいる村雲の方を見、五月雨は足を止めた。三歩ほど前に進んでいた村雲は既に本体に手を掛けている。
    「雲さん」
    「……お腹痛くなってきた」
     木立で薄暗い進行方向に、四体ほどの時間遡行軍の気配がする。彼女もそれに気づいたのか、僅かに後ずさるような、土の上を靴が擦る音が耳に入った。
     本丸からさほど離れていないはずなのに、どうして。いや今は余計なことだ、それはあとでいい。今はここを突破して、無事に本丸に戻ることを考えなければならない。五月雨も村雲同様に柄を握る。視認できるのは四体、だが山中などいくらでも身を隠すことができる。あれで全てと思わない方がいいだろう。
    「頭、私たちの傍から離れないでください」
    「……ちょっと、狭いね」
     ぼそりと彼女が呟くのが聞こえた。確かに山道は幅が広くはなく、やや傾斜している上に、下っていく方向に敵がいる。本丸に帰るなら敵陣を突っ切るか、殲滅するしか方法はない。けれど数が正確に把握できない以上、殲滅は良い手とは言えなかった。
    「雨さん、先に主のこと連れて逃げて。雨さんの方が俺より足早いから」
     じりじりと遡行軍の赤い眼光が近づくのを認めて、遂に村雲が鞘から刀を抜いた。しかしそれは彼女がすぐさま却下する。
    「それはだめ。少し耐えて、今救援信号を出したから」
     ハッと五月雨が振り返ると、彼女が履物から通信端末を取り出して見せた。以前、あの機械は現在地を探知できると聞いたことがある。彼女はここを耐え凌ぎ、進行方向から来る救援部隊で敵を挟むつもりなのだ。
    「……承知しました」
    「う、わかった」
     幸い五月雨も村雲も練度は積んでおり、日が落ちて打刀が有利になる夜戦に持ち込める。五月雨もまた、刀を抜いて構えた。季語探しに来て、季語を荒らす敵に遭遇するなど五月雨には言語道断である。何より彼女も同伴しているというのに。
    「雨さん、そっち行った!」
    「はい!」
     進行方向を陣取られたとはいえ、幸い上位の利は生きている。上から押し返すつもりで五月雨と村雲は進んだ。だが案の定というべきか、四体を倒しても他に遡行軍は沸いてきており、救援が来るまでの持久戦は避けられそうになかった。
    「遅いですね、暗いのがよくないのでしょうか」
     後方の彼女を気にしながら、五月雨は向かってきた敵短刀を叩き落とした。振り返れば身を潜めていた彼女も若干顔を顰めている。ひとまずは無事なようだと安堵しかけ、五月雨は慌てて踵を返した。
    「頭!」
     光ったのは、ほんの一瞬だった。彼女の手にした端末の画面が何故だか明るくなった瞬間、彼女の背後に遡行軍の太刀が現れる。
     しまった、明かりで彼女の位置が知れた。だが駆け寄る間もなく、五月雨の顔にビシャリと何かが飛び散る。
    「うっ」
    「えっ? 雨さ、何」
     どさりと落ち葉の上に何かが倒れる音。それが一体何かなど火を見るよりも明らかだった。鉄錆の匂いの、生暖かい液体が五月雨の頬を伝う。不思議と、突然周囲が静かになった。代わりに静かな山中の冷たい土の上を何かが伝う、密やかな音が耳に届く。
     足元に目を落とす。五月雨の靴の爪先を汚していたのは、血液だった。
    「っ頭!」
     それでやっと足を動かし、五月雨は倒れ伏している彼女を抱き起こした。仰向けになった体の、肩から袈裟懸けにざっくりと斬られている。首や手足は重力に従ってぐったりとしているのに、髪だけが血で張り付いていた。
    「頭、しっかりしてください、頭!」
    「くそっ、主、主! 主どうしたの、返事して!」
     五月雨の代わりに、村雲が一振で残っている敵に向かう。枯れた枝が折れたとも、遡行軍を破壊したとも、判別のつかないパキパキと華奢な音が暗闇から響いていた。
     どうしたらいい。流れ落ちた血液は尋常な量ではなく、辺りには生臭い嫌な匂いが充満している。それだけで既に彼女の状態が重篤であることがわかった。救援はまだ来ないのだろうか。やはり暗い山の中で、五月雨たちの位置が上手くわからないのか。このままでは彼女を無事に本丸に運ぶどころか、五月雨も村雲も危うい。
     鉄と鉄のぶつかる歪な音が響く。追い込まれた村雲が五月雨を背にして敵打刀を押さえていた。
    「う、ごめん、雨さん、俺が、負け犬じゃなかったら」
    「っ雲さ」
     呆けている場合ではない、援護しなければ。右手に握ったままだった刀を五月雨が振り上げようとしたそのとき、スゥと耳元で呼吸音が聞こえた。
    「……違うよ」
     耳をつんざくような警報が突然響く。ハッとして五月雨が腕の中にいた彼女に目をやれば、いつの間にか瞼を開けていた彼女が通信端末の画面を押していた。けたたましい音は端末が上げたものだったらしい。
     それが何なのか五月雨が問うよりも早く、冴えた一撃が閃いて村雲が押さえていた敵打刀の首を刺し抜く。夜の闇の中でもわかる真っ赤な襟巻。
    「絶対逃がすな、一体残らずぶっ殺せ!」
     華奢な体に見合わない低い声で加州が叫ぶ。がさがさと複数の足音が響いては木々の間を走り抜けていく。加州が五月雨の傍に膝を着いた。
    「主、具合は?」
    「も、少ししたら、平気」
     小さな声で答えた彼女の様子を見て取って、加州は僅かに奥歯を噛んだようだった。しかしすぐに立ち上がり、踵を返す。
    「……わかった。五月雨、主についてて。村雲、動けそうならこっち手伝って」
    「う、うん」
     こちらを気にして振り返りながらも、村雲は加州に従って木立の中に消えていった。まだ剣戟の音がする。逃げた敵を追い込んでいるようだった。目まぐるしく起きた出来事に、五月雨はやや呆然として僅かに揺れる木の葉を見つめた。
    「清光に任せておけば、大丈夫。私が死ななかったことを、遡行軍に知られるわけにはいかないから。でも掃討に少し、かかるかもしれないね」
     囁くようなその言葉と、疲れて脱力した彼女に五月雨は慌てて首から襟巻を解いた。ひとまずの安全は確保できたとは言え、彼女が重傷なことには変わりない。
    「不躾かとは存じますが、お許しください」
     念のため前置いてから、強めに襟巻を彼女の体に巻き付ける。黒い色をしたものでは彼女の出血の程度がわからないため、それが適していないことは五月雨も理解していた。しかし斬られてすっかり衣服の体を成していない布になってしまったものを、そのままにしておくわけにはいかなかった。たとえ既に、傷口を押さえている彼女の手から血液が溢れることがなくなっていることに気づいていても。
     上着も脱いで彼女に着せると、五月雨は木の幹に彼女を寄り掛からせる。彼女の呼吸は弱かったけれど、いくらか落ち着いてきていた。
     ……というよりも、いつ息を吹き返したのだろう。眉を顰めて、五月雨は彼女に着せた上着の襟を整える。倒れていた彼女を抱き起したとき、彼女は確かに「息をしていなかった」。脈までは確認できなかったが、あのときの彼女は間違いなく死んでいた。ざっくりと体を斬られていたし、普通の人間ならばそれが当然だった。
     それなのに。
    「ありがとう。少しじっとしていれば、多少は動いても平気になるから。上着は五月雨が着ていた方がいいんじゃないかな。もう寒いよ」
     先ほどよりややはっきりした声で彼女が言う。考え込んでいた五月雨は首を振った。
    「問題ありません。頭が着ていてください」
    「ごめんね、せっかく連れてきてくれたのに」
    「いえ、こちらこそ申し訳ありません。……迂闊でした」
     この低山は本丸から近く、普段から刀剣男士が鍛錬や山菜取りに出入りするような場所だったから、油断していた。まさか遡行軍と会敵するような危険性があるとは思わなかった。だが彼女を連れている以上、防護結界が貼られている本丸から外の敷地は細心の注意を払うべきだったのだ。
     けれど緩やかに彼女は首を横に振る。短時間で大量に失血したせいか、まだ顔色は青白かった。
    「ううん。今のは私が悪い。警報を鳴らすの久しぶりで、押すボタンを間違えて画面が光ったみたいだから。間の抜けたミスで嫌な思いさせたね。あとで顔を拭いてもらうんだよ」
     そう言われて五月雨はやっと自分の頬のあたりに触れた。飛び散った彼女の血が張り付いて乾いている。
    「……申し訳ありませんでした」
     もう一度、五月雨は繰り返す。そうしなくてはならないと思った。たとえ居所が知れたのは彼女の失敗だったとしても、やはりここに連れ出したのは五月雨だ。
     静けさを取り戻した五月雨と彼女の周囲で鈴虫が鳴き始める。もう剣戟の音はだいぶ小さくなっていた。
    「今日は運が悪かっただけ。平気だよ」
     宥めるような彼女の声音はとても穏やかで、ほんの数分前に袈裟懸けに斬られた人間のものだとは思えなかった。運が悪かったと言うのでさえ、まるで出かけたら雨が降ってきた程度のことのように言う。それが何だか五月雨には腹立たしかった。
    「平気だとわかっていたから、斬られていても落ち着いていたのですか」
     硬い五月雨の声に、彼女は諭すように答える。
    「だって……言ったでしょう? 私は丈夫だって」
    「こういったことを、政府でも、試されたのですか」
     だとしたら、とてもじゃないが五月雨は政府の人間を許せそうにない。
     生命を、こんな形にするなんて。理屈はわかる、松井から聞いた説明が至って合理的であったことも理解している。けれどそれで許されることではない、こんなことは。
    「……いや、色々試されたって言っても、私はその間寝てることの方が多くてね」
     五月雨が黙っていると、僅かに肩を竦めて困ったように彼女は言った。
    「流石に意識のある人間にあれこれするのは気が引けるじゃない。だからほら、寝てる間に……まあ、色々。起きたら全部終わってることが殆どだよ」
    「それは頭が何かされていい理由にはなりません」
     即座に五月雨は答えた。どんな大義名分があったとしても、それは誰かを痛めつけてもいい理由になんて決してならない。
    「頭の体を、傷つけていい理由なんてどこにもありません」
     血で汚れた彼女の手を握る。それだけは、彼女にわかってほしい。ここでどんな道理が無視されたとしても、それだけは。
     彼女は何度か瞬きを繰り返し、それから息を吐いて言った。
    「……五月雨は優しいね」
     一体、どういう取り決めで彼女はそんな風になってしまったのだろう。顕現する前のことだから、五月雨にはわからない。だがこの本丸にいる刀剣男士は恐らく止めたはずだ。それなのに。
    「今からでも、元の体に戻りたいと思いますか」
     そんな方法があるのかどうか、わからないが。五月雨が尋ねると、彼女は木の幹に後頭部を当てて体重を掛けつつ、何となく上の方を見つめた。
    「じゃあ……私のこと斬ってくれる?」
     日頃、あまり自分の表情が変わらないことを知っている五月雨だけれど、流石に頬の辺りが引き攣ったのがわかった。
     今何と言った。だが五月雨をよそに、つらつらと彼女の方は話し続ける。
    「刀剣男士に斬られるのはね、試していないんだ。だから前に清光がもしかしたらって、言っていた。……そのときは頼めなかったけど」
     ヒトが、もうヒトでないものになってしまったかもしれない彼女を殺すことが不可能なのだとしたら。
     ヒトではない、付喪神の刀剣男士なら、あるいは。
    「……あなたが、それを、望むのであれば」
     喉の奥から声を絞り出す。自然と俯いてしまっていた。
     戦争のために彼女の命を歪めた責任は、この戦いにおける武器である五月雨にもある。すぐに終わらせられなかったから。もっと強い力をもってして、勝敗を決することができなかったばかりか、今日は怪我までさせて。
    「……冗談だよ」
     暫くした後、穏やかな、しかし乾いた声で彼女が言った。
     顔を上げれば、彼女は普段通りの落ち着いた表情で微笑んでいる。
    「そんな苦しそうな顔しながら嘘をつかなくていいよ。酷いことを言ってごめんなさい」
     二度三度、彼女は自分の胸の辺りを確かめるように撫でた。既にいつも通り会話ができているし、かなり顔つきもはっきりしてきている。信じがたいが、ある程度回復したのだろう。
    「申し訳ないけど、肩だけ貸してもらえるかな。流石に一人で歩こうとしたら、お腹から内臓出ちゃいそう」
     ふふと冗談めかして彼女が言うのに、五月雨は手で制止する。
    「お待ちください」
    「でも、清光の様子を見に行かないとね」
    「頭は、死にたいのですか」
     あまりにも酷い問いだと思った。だが彼女は表情を変えることはなかった。凪いだ海のような静かな様子で首を振る。
    「……わからない。少し前までは、やっぱりほんの少し、辛いこともあったけど」
     冬になりかけている澄んだ夜風が、血なまぐささをいつの間にか拭い去っていた。ひんやりとするそれは、こんなときでも心地がいいと五月雨は思った。けれど彼女はやはり「いつも通り」だ。
    「私は納得して実験に参加した、でも死ねるなら死にたいと思ったことはあったよ。怪我は治るけど、さっきみたいに遡行軍が目の前に来れば怖いと思う。怪我をすれば、当然痛いと思う。不老不死でも痛覚はあるからね。ただそれも、時間が過ぎたら『そういうものなんだ』とわかって……その頃には何にも感じなくなってしまった」
     美しい紅葉を見ても、きのこを探しても、こうして出歩いていても、心が振れることはない。室内でも屋外でも、ただ穏やかに微笑むだけ。
     五月雨が今日感じた違和感の正体は、これだったのだ。紅葉狩りが嗜好に沿わなかったのではなく、彼女はもう、森羅万象のすべてが。
    「でもありがとう、五月雨が季語を探そうって言ってくれたことは嬉しかった。本当だよ」
     ゆらりと彼女は立ち上がった。やはりもう出血は止まっている。彼女の体は元通りになろうとしている。
     どこかで止まった、その時間に戻ろうとしている。
    「待ってください」
     膝を着いたままだった五月雨は口を開いた。ゆっくりと彼女の方を見上げる。着ている衣服は切り裂かれてぼろぼろで、胴体に巻いてやった襟巻にも血が染みて酷い有様だ。ぶかぶかの五月雨の上着だって、あちこちに彼女の血が飛び散っている。
     ただそれでも、五月雨は彼女のことを季語ではないなどとは思わない。
    「次はどこに、行きますか」
     自分も立ち上がって、五月雨は彼女に向き直った。ほんの僅かにだが彼女が目を見開く。
    「……五月雨、もうわかったでしょう」
    「ですが約束しました、一緒に季語を探しに行くと。まさか頭は私に嘘をおっしゃったのですか?」
    「……」
     諦めてはいけない、このままにしてはいけない。
     このままでは彼女は本当に体も心も時間が止まってしまう。
    「頭はもう、この世界に美しいものはないと。あなたの心を動かすものはないとおっしゃるのですか。そんなはずありません。数百年生きた私が、まだ季語を探したりないと言うのに」
     いかに不老不死と言えど、それでも彼女は五月雨よりずっと年下のはずだ。それなのにこの世界を見飽きたなんて言わせない。そんなはずない。
    「見つけられないのであれば、探す方法を変えればいいだけです。頭は季語探しは初心者、とおっしゃいましたね。それならやはり、私と探しに行きましょう」
     血で汚れた手を繋ぎ直す。もうそれはすっかり乾いて、重なればカサカサとした。しかしそれでも両手をしっかりと握る。
    「頭に二言はありませんね」
     一度、約束したのだから。それに、不老不死、いいではないか。時間の制限がない。この際そう思うことにしよう。
    「……やっぱり、狡いとは思わない?」
     はあと息をついて、彼女は観念して呟いた。木々を渡る夜風が彼女に羽織らせた五月雨の上着を揺らす。
     ああ、こんなときでもやはり、美しいと思う。
    「前にも言いましたが、それは褒め言葉です」
     ふふと小さく五月雨は微笑んだ。
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    2023/09/19 19:19:43

    【Web再録】私の歳時記①

    人気作品アーカイブ入り (2023/09/20)

    #雨さに #さみさに #刀剣乱夢 #女審神者
    死なない審神者と季語を探す五月雨江の話。

    2023年1月に発行した本の再録です。
    お手に取ってくださった皆様ありがとうございました。
    全編を複数回に分けて再録いたします。

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