朝を迎えに 静かに明かりを灯し続けるホテルのロビーを抜けて、うっすらと白みはじめた未明の街へ一歩踏み出す。途端に夜気とかすかな潮風の温度を含んだ外気が全身を包むのを感じながら、手配をしていたタクシーのランプを道路沿いに見つけて彼とふたりまっすぐに足を向けた。
夜明け前のロウアー・マンハッタン。ばたん、とドアを鳴らして乗り込んだ車内のナビゲーションシステム画面の上端には、今日の日付と時刻が表示されている。六月七日、午前四時三十二分。
普段通りに劇団運営の全体像を見渡しながらスケジュール調整を進めるさなか、どうやらこの日が自分たちの六月最初のオフに当たると気が付いたのはひと月ほど前のことだ(このごろではすっかり恒例となった誕生日合わせの内輪の食事会は、参加メンバーの予定の兼ね合いで明日に設定されている)。
なにげない調子を装い当日の予定の希望を尋ねると、思案を巡らせた彼からぽつりといらえが返された。ひとつだけ行ってみたい場所がある。
ほかならぬ彼の望みとあれば、ひとつと言わず叶うだけ何処へでも。思わず口をつきかけた本音をいったんどうにか飲み込んで、彼の心地好いテノールがつむぐ事の仔細に耳を傾け――崚介の誕生日である六月七日、拓真は彼とともに明け方の海沿いの街をタクシーで進んでいた。
目的地はマンハッタンの最南端、ホワイトホールターミナル。スタテン・アイランドへ向かう片道三十分ほどのフェリーが昼夜を通して運行している港駅である。
進行方向に目を遣れば、日の出まではまだしばらくあるもののうす明るい空が朝の色に染まり始めている。朝靄に滲む景色を眺める彼の横顔は未明の街と同じように静かだった。なにかいまここに相応しい言葉というものがあるように思え、それを探して口をつぐむ。
「……うん?」
「いえ、その、」
けれども拓真がそうして思案を巡らせる前に、決まって彼は聡く視線に気がついてこちらに問いを投げるのだ。結局のところ咄嗟に返すことができたのは「寒くはないですか」などとひどく他愛のないもので、少しばかり決まりがわるい。
彼はといえばこちらの胸中を知ってか知らずか「ああ」とちいさく頷いてから、おまえは、と視線だけで問うてくる。彼の澄んだ赤のなかによく知ったやわらかないろを見とめれば、決まりのわるさなど途端にほどけてしまうのだから我ながら現金なものだ。初夏とはいえ早朝の海風を見越した上で衣類を調節してきたので、船上でも寒さに苦慮することはないだろう。拓真のいらえに安心したのか、彼の双眸がゆるく眇まる。
「この季節で良かった。冷え込む時期の甲板にお前を連れ出すわけにはいかないからな」
「?」
「いや、……あとで話す」
さて彼はなにを続けようとしたのだろうか。今回の外出については拓真は場所の希望を聞いているだけで(むろん宿や車の手配はしたけれども)、理由については彼が話し出すのを待っている。現地に着くまでわけを語らずにいることにも意図があるのだろう。黒木崚介というのはそういう男だ。そしてまた、それまでの彼とのやりとりのなかで自分なりの仮説を立てるのも自身にとってささやかな楽しみのひとつになっていることも確かだった。
車通りの随分と少ない街路を、タクシーは順調に進んでゆく。さほど移動に時間が掛からない立地に宿を取ったので、あと五分ほどで目的地へ着くはずだ。彼の視線と意識が窓の外へ向いているのを横目でそっと確かめて、到着までのわずかな残り時間をさきほど彼がこぼした言葉の欠片を辿るために充てることにする。
口ぶりから察するに、彼は初めから時期を決めていたわけではなかったのだ。つまるところは現在の彼を取り巻くスケジュールのうちのなにかによって、今回の希望を述べるに至ったのだろう。一度その仮定に立ってしまえば、続く選択肢の取捨選択にさほど困難はない。
今年はジェネシスのブロードウェイでの活動開始から、ちょうど五年の節目にあたる年だ。――以前から要望の多かった『GENESIS』の初めての再演を、近々行うことになっていた。
船着場近くの停車エリアにタクシーがゆっくりと滑り込む。料金を支払い車を降りると、明け方の海風が上着の裾と髪を思うさま揺らしていった。すぐそばに佇む建物の入口には、現在地を告げる英字型のオブジェが大きく連ねられている。ホワイトホールターミナル。
「静かですね」
「ああ。元旦だけはこの時間でも観光客で混み合うらしいが」
「なるほど、初日の出ですか」
住民の生活インフラとして二十四時間稼働しているフェリー乗り場だが、さすがにこの時間は閑散としている。ふたりぶんの靴音が静かな構内に重なって響くのを聴きながら、改札を抜けて乗り場へと向かう。乗り場には既に船が停泊しており、まばらな乗客たちを波の音とともに迎え入れていた。
移動する間に空の端は随分と明るさを増している。三十分ほどの航海のうちに、水平線の向こうから朝日が昇るだろう。船上から遠く望むマンハッタンのビル群が朝のひかりに照らされていくさまは、眠っていた街がゆっくりと瞼を押し上げる目覚めの瞬間にちがいなかった。
階段を登り上階に向かう。無人の甲板。おだやかな船の軋み、鴎の鳴く声と潮のにおい。知らず、隣を歩く彼を呼んでいた。黒木くん。
「君のそういうところが好きですよ」
「……、……なんだ、急に」
「いいえ、なんだか、伝えたくなったので」
「……そうか」
不意をつかれたのか、彼の赤がほんのわずか面映ゆそうに揺れる。珍しいことだ。微笑ましく感じながらいとけない表情を眺めていると、彼のひとみがまばたきをひとつ。おや、と思う間に拓真の指先によく知ったぬくもりがふれて、自身の手を軽く引いてからふいと離れていった。
「――……、」
「あちらのほうが眺めがよさそうだ」
行こう。
いたずらめかしたひそやかなテノールが拓真を呼ぶ。身を包む潮風の温度も一瞬忘れて、夜明けを待つ海原のうねりが眩しい。
娯楽を奪われた鈍色の街の目覚めを、創世の朝日を、いまの彼はどう彩るのだろう。呼び声にただ頷いて、歩き出す彼の隣に並びついた。
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20230607Wed.
HappyBirthday,dear Ryosuke!