穹の道行き マンハッタンの夜に聳える摩天楼が、濃藍の天蓋を染め返すように煌めいている。裏通りを吹き抜けて髪を揺らした風の強さにふとおもてを上げると、敏く気付いたらしい傍らの男が首を傾げてこちらを見た。
「黒木くん?」
「……いや、」
ジェネシスのブロードウェイ公演初日まで、あと数日。劇場スタッフとの最終打ち合わせを終えて、手配したタクシーの到着を待っているところだった。
ここから活動拠点のスタジオに戻る予定だが、この時間ならばまだメンバーのほとんどがレッスンのために居残っているだろう。劇団創設時からビジョンとして掲げてきたブロードウェイでの公演を目前に控え、静かに増幅しつづけてきた熱量はピークに達しようとしていた。稽古場の雰囲気にも過不足なく、良い意味での緊張感に満ちたフロアの空気を思い返し、今夜レッスンルームへ向かう前に処理が必要なタスクについて早々に思考を巡らせた。
案件のいくつかは男――拓真との共有が必要だが、さほど検討に時間を要するものは残っていない。腕時計を確認して稽古場に合流できる時間の目処をつけ、拓真に問う。
「お前も稽古場に戻る予定だったな」
「ええ。切り上げ役も必要でしょうし」
「……そうだな」
稽古場を牽引しているであろうメインキャストの面々もそれぞれ場の取り回しに長けているためあまり心配はしていないが、士気に水を差さない範囲で全体を統括するのはやはり主宰である男の役目だ。
心地よい高揚を湛えてかすかに笑む男に同じものを返し、表通りから滲む街明かりを眺めた。煌々と輝くネオンや車のヘッドライトを、とめどなく行き交う人々の多様なシルエットが遮りながら流れてゆく。自身の視線を追って目を向けた男が、ふいにぽつりと呟いた。
「君が、」
「……うん?」
「以前見ていた景色と、いまは違いますか」
隣に立つ男の横顔を見上げる。眼鏡のレンズに映りこんだひかりでつぶさな表情は読み取れなかったが、この男が自身の眼差しの向かう先を気にかけていたのはそのためだったのだと思い至って緩く目瞬く。
エンターテインメントの粋を謳って華やかに煌めくこの街の、舞台裏にある過酷や不条理を知っている。かつてひとりきりで見上げた摩天楼の輝きに感じていたはずの息苦しいほどの質量は、風にほどけるように消えていた――否、本来は風にさらわれてしまうほどの重さしかなかったのかもしれなかった。
「本質的には何も変わっていないのかもしれないが」
「……、」
「俺には、景色も風も違うもののように思える」
傍らにこの男がいる。同じ高さを見据えていると信じるに足る同僚がいる。新たに加わった座付き作家とともに創り上げてきた「Genesis」は、新天地での第一歩に過ぎない。高揚だけを抱いてその日を迎えられることを、嬉しい、と思う。
「お前にはどう見える」
自身を劇団へ引き入れるために、この男は海を渡って交渉にやってきた。黒木崚介に見える景色が様変わりしたように、灰羽拓真をとりまく景色も変わっているはずだった。
男がこちらを見る。ようやくレンズ越しのひとみと視線が噛み合う。かちり。
「はてしない、と、思います」
「…………」
「これから君と――皆さんとどこへ行こうかと、ときどき子どものように考えてしまうほどに」
「……そうか」
「……楽しみですね」
「ああ」
眼前に迫ったスタートラインを確実に見据えながら、男は前を向いている。心地好く胸裡を揺らす青の熱さに、笑んで応えた。
***
20240607Fri.
//HappyBirthday, dear Ryosuke!