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    【Web再録】私の歳時記③   第三章



     化け物に、なったのだと思った。
     それは包帯で全身を巻かれて麻酔から目覚めたときでも、包丁で切った指の皮膚が瞬く間につながったのを目にしたときでもない。現世の古い友人たちの集まりに誘われて、そこに顔を出したときのことだった。
    「やっぱり就いてるのが特殊な仕事だし、時間の流れが違うのかな」
     苦し紛れにそう言った友人たちと、自分の容姿があまりにも違っていることに、彼女も流石に気付いていた。気味が悪いだろうと、彼女もそれ以降現世の知人の集まりには誘われても顔を出していない。家族からのたまには帰省してこないのかという便りも、適当な理由を付けて断っている。とはいえいつまでも逃げているわけにはいかないと彼女も理解していた。人間の時間は限られている。
     しかしもしも、そこでもしも親しい人たちから自分に向けられる視線がこれまでと全く違うものだったら。そう考えると彼女はもう、足が竦んで動けなくなってしまうのだ。
     いずれ自分は、たった一人きりになる。それは疑念でも、漠然とした不安でもない。彼女にとっては目を背けることのできない事実だ。
     だから、心を鈍らにしようと決めた。それ以外方法はないと思った。彼女とて生半な気持ちで政府の「実験」に参加したわけではない。それに審神者の仕事は辛く厳しいことはあっても、彼女は刀剣男士たちのことを好ましく思っていた。主として未熟な自分でも大切にしてくれる彼らに報いられることがあるのなら。刀たちは戦場で自分たちの命を張っているのだ。彼女も同等のものを賭けるのが筋だ。
     納得している。それは間違いない。だがこれからの長い時間でもし一瞬でも、彼女の心が何かを後悔してしまったら、そのときは。
     ……そのときは。
    「では頭、本日分をお選びください」
    「この札……本当に尽きないんだね」
     五月雨が並べたもう見慣れたそのカルタのような札を、彼女はいっそ感嘆しつつ眺めた。彼女とて人間をやってそこそこ長い。それを良くもまあ毎日、全く見聞きしたことのないようなものを並べられるものだ。それも毎回、五つも。
    「尽きるわけがありません、季語ですから」
    「季語ってすごいね」
     彼女のそれは揶揄い交じりのものだったのだが、五月雨はそれに対して大真面目に頷いた。
    「はい、すごいです」
     その裏表のない素直な物言いに、彼女はつい笑ってしまう。五月雨が微かに小首を傾げたので、彼女は首を横に振り札に手を伸ばした。昨日は右端のものを取ったから、今日は左にしよう。彼女が指させば、五月雨がそれをひっくり返して読み上げる。この時ばかりは、彼女も少々緊張した。
    「では本日は、政府の食堂の『めが盛りかつ丼』を食べに参ります」
     メガ盛りかつ丼……。彼女は記憶を必死で手繰った。それは確か、完食すれば無料になるものだったはずだが、店頭に飾られている食品サンプルの時点で、結構な高さと量のあるアレのことでは。
    「……待って、誰が決めたのそれ。誰がその、札の内容」
    「完食で無料になるそうですね。心配はいりません、私も努めます」
    「そういうこと言ってるんじゃなくて」
     しまった、そんなことになるのであれば今朝の朝食は控えめにしておくのだった。確かにお昼前でお腹は空いているが、月並みである。メガ盛りなんて食べられる気がしない。
     だが五月雨はどこか得意げに、そして満足そうにふふふと微笑みながら札を懐にしまい込んだ。
    「楽しみです、今日は一体どのような季語に出会えるでしょうか」
     彼女の事情を抜きにしても、五月雨はおそらく「メガ盛りかつ丼」に心から期待しているし、きっと誰よりも楽しむことができるのだろう。それがわかっているのでひとまず完食の懸念は置いておいて、彼女はうんと一つ頷いた。
    「そうだね。頑張って半分は食べるよ」
    「ご無理はなさらないでください。では参りましょう」
     ごく自然に五月雨は彼女に手を差し出した。もう何度も、彼女は自分が差し出した手に対して彼女は「お手」ではないと言ってきたけれど、近頃は向こうからそうしてくる。
     だが彼女もまた、もう既にそれを否定するのをやめていた。


     江のものは案外、それぞれがそれぞれで好き勝手にやっているらしいと彼女が気付いたのは最近のことだ。普段から刀剣男士の動向に気を払いたいと思っているが、如何せん彼女一人の目や意識ではやはり限界がある。だから最近までずっと、江のものは同じ刀工に打たれた兄弟のようなものなのだし、何となく常に固まって行動しているのかと思っていた。しかしそうでもないようで、一緒に行動しているのは「れっすん」のときくらいらしい。
    「……あれ、五月雨は? 留守?」
     江が共同で使っている部屋を彼女が覗き込めば、そこにいたのは篭手切江一振だった。篭手切は何やらノートパソコンを操作していたのだが、彼女の来訪に顔を上げてこちらを見る。
    「主、こんにちは。五月雨さんですか?」
    「あ、うん、こんにちは。空き時間だし、ここにいるかと思ったんだけど」
    「すみません、この一刻ほど私も見ていません。五月雨さん、部屋にいらっしゃることのほうが少ないんですよね。私もどこで何をしているのかわからないことの方が多くて」
    「そう、なんだ」
     てっきり、何もないときは部屋で過ごしているのだと思っていた。彼女が困惑したのがわかったのか、篭手切は立ち上がって彼女に部屋の座布団を勧める。
    「もう少ししたられっすんの時間なので、きっと戻っていらっしゃると思います。それまでよろしければ、ここでお待ちください。簡単ですが、お茶を用意します」
     そういえば、近頃篭手切と二人で話をすることはなかったと気づき、彼女は一つ頷く。最近は清光と五月雨が結託して仕事をこなすから、彼女にもいくらか空き時間もできるようになった。刀剣男士たちと過ごす時間も作っていかなければ。
    「じゃあせっかくだから、いさせてもらおうかな」
    「はい! 今用意します、少し待っていてくださいね」
    「ふふ、お構いなく。お茶は篭手切も一緒に飲もう。今は何してたの?」
     篭手切が部屋の戸棚に手を伸ばしたので、彼女も隣に立って茶器を出した。中には七つ色違いの湯呑と、客用なのかそれとは別なものが並んでいる。彼女は縁が黄緑色のものと客用のものを取り出した。篭手切は茶筒と急須を手にして卓袱台の上に置く。
    「すていじの振り付けを確認していました。私と皆さんとでは少し、手足の長さに差があるので調整しなければいけないところがあって。れっすんの動画を見直しているところです」
    「そんなことまで篭手切がしているの?」
     いや、そうは言っても他に誰がするのかと言われればそれも。彼女は驚いたが、そう思い直した。本丸内でレッスンなんてしているのは江のものだけであるし、その中で振り付けやステージングを誰がするのかと言えば篭手切しかいない。
     湯呑を給湯ポットに持って行って湯冷ましを作りながら、篭手切は微笑んだ。茶葉をきっちり測って急須に入れていく。
    「自分で言いだしたことですから。細かいことは私がします。もちろん皆さんも手伝うと言ってくれるので、そのときはお願いしますが。そのお願いができるまでの最初の準備は、私がしなくては」
     篭手切の言っていることは、至極真っ当で何も間違っていない。そうわかっているけれど、彼女はそれが本当に難しいことだということも理解していた。
     自分が言い出したことだからと、役目と責任を果たすことは時に辛く、苦しい。
    「……そっか、てっきりみんなでしてるのかと思っていた。ごめんね、できることはサポートするって言ったのに、きちんと把握していなくて」
     彼女の言葉に、篭手切は慌てたようにぶんぶんと首を振る。それから湯冷ましを急須に注いだ。ほこほこと湯気が口から上がる。
    「いえ! 主には練習場所や予算を便宜してもらいましたから」
    「ううん、私は生憎アイドルは詳しくないけど、そういうことでならいくらでも協力できるから。いつでも言ってね」
    「ありがとうございます! あ、茶菓子も出しますね」
     いそいそと篭手切は最中を出してくれた。ありがとう、と彼女はそれを受け取る。
     それにしても、そうか。非協力的とは違うのだろうが、てっきり皆でアイドル活動に勤しんでいるのだと思っていた。
    「案外、この部屋は空室なことが多いんですよ。皆さんは皆さんで好きなことがあるので、松井さんは事務室にいることが多いですし、桑名さんは畑で、りいだあは遠乗り、せんぱいは道場ですかね。村雲さんは部屋でのんびりしていることも多いですが、場所が縁側になることもありますし……。五月雨さんは言わずもがな季語探しでいらっしゃらないときもあります」
    「そっか。……私は自分が思ったより、皆のことちゃんとわかっていなかったみたい。ごめんね」
     通り一遍のことしか、知らなかった。やはり忙しさにかまけて目が届いていなかったのだ。彼女は改めて反省した。言い訳になってしまうが、こんな体になってから基本的な審神者の業務に加えて検査や健診が増えた。それで余計に自由な時間が格段に減ったというのは間違いないが、それは彼女の事情であるし、それで自分の本丸の刀たちを蔑ろにしていいことなんてない。
    「いえ! 主は主でやることがあるんですから。それに近頃は皆さん、前より主と過ごせて嬉しいって言ってるのを聞きます。……私も、今日主が部屋に来てくれて嬉しいです」
     最後はそっと、やや控えめに付け足した篭手切に彼女は微笑む。
     そうだ、きっとこれからだって遅くない。それに幸い、彼女には時間だけはこれから先たくさんある。今、早い段階でそう気づけただけで十分だ。そう考えれば、これも悪くないと彼女はいくらか思える。
    「そうだ、今私に何か手伝えることある?」
     彼女が篭手切に尋ねれば、篭手切は眼鏡をずり上げながらパッと表情を明るくした。
    「いいんですか? でしたら、れっすんの動画を一緒に見ていただけると」
    「構わないよ」
     そうして三杯ほど篭手切と一緒にお茶を飲み、レッスンの様子を録画したものを見つつああでもないこうでもないと言っていると五月雨が部屋に戻って来た。手に短冊と筆を持った状態で、五月雨は部屋を覗き込む。
    「頭、何故部屋にいらっしゃるのですか」
    「五月雨、おかえり。五月雨を探しに来たんだけど、いなかったから篭手切とお茶してたんだよ」
    「失礼しました。呼んでいただければすぐに戻ったのですが」
     持っていたものを手早くしまって、五月雨は彼女の隣に正座した。まあ、五月雨に持たせている通信端末に連絡することも考えないわけではなかったが、別にいいかと思ったのだ。急いでいたわけでもなし。
    「大したことじゃなかったから呼ばなかったの。気にしないで」
    「ですが呼んでほしいので、次からは呼んでください」
     すぐさま五月雨が返事をしたのに、彼女は苦笑して肩を竦める。こういうところが、犬っぽいと思う。
    「わかった」
    「それで、ここで何をなさっていたのですか? 篭手切、頭もれっすんをなさるのですか?」
    「いえ、主にはれっすんの動画を見ていただいていました。観客からの目線も大切だと思いまして」
     篭手切は彼女に、気になることがあれば言ってほしいとだけ頼んだ。だから彼女は、本当に基本的な、この立ち位置では斜めからだと被って見えないのではないかだとか、ここの振りはもう少し広がって踊ったほうが綺麗に見えるんじゃないかだとか、そういう感想だけ伝えていたのだ。
    「ごめんね、あんまり参考になることは言えなかったと思うけど」
    「そんなことありません! 私たちからはすていじの上からの景色しかわからないので、助かります」
    「そう? 私は歌って踊ったことなんかないから、それだけで江の皆はすごいと思うけどな」
     何気なく、本当に何気なく彼女はそう言った。だがそれを隣にいる五月雨は聞き逃さなかった。
     ぐるっと首を回して彼女の方を見ると、五月雨は何故か彼女の言葉を繰り返す。
    「歌って踊ったことは、ないのですか?」
    「え? まあ、こういことにあんまり縁がなかったから」
     音楽は人並みに聞いていたつもりだが、アイドルグループを追いかけるほどではなかったし、こういったコンサートもあまり馴染みのあるものではない。ましてや自分が歌って踊ることなど。
     しかしそれを聞いた五月雨は、顎のあたりに手を当てていくらか考える。そして再び彼女に向き直った。
    「わかりました、ではやりましょう」
    「えっ?」
     やりましょうって、一体何を。彼女は訳が分からずただ問い直した。
     だが五月雨のほうはもう自分の中で方針が固まってしまったのか、今度はあれこれ篭手切に尋ね始める。こうなるともう彼女は置いてけぼりだった。
    「篭手切、頭でもできるれっすんはありますか」
    「主がですか? それはもちろん、女性あいどるは昔からたくさん」
    「待っ、待って待って、それは無理、絶対無理。私歌なんてもう何年も歌ってないし」
     慌てて彼女が止めに入ったが、五月雨はそれを別な意味で解釈したらしい。そうですか、と一応の相槌を打った後に篭手切にもう一度聞く。
    「では踊る方だけにしましょう」
    「そういうことじゃないから! 五月雨!」
    「心配いりません、私も一緒に踊ります。私が先に教わって、頭にお教えします」
    「あ、でしたらだんすも普段私たちが踊るようなものとはじゃんるを変えましょう!」
     何故だか楽し気な篭手切がもっと訳の分からない提案をする。ジャンルってなんだ、踊ること自体が無理なのに。
     しかしあれよあれよという間に五月雨は篭手切に彼女用のレッスンを先に教わる約束を取り付けていた。何故、どうしてそうなる。
     ろくでもないことを口走ってしまった……。彼女はそう思ったが、もう既に後の祭りであった。
    「……本気? 本当にやるの?」
     その日の夜、それも夕食やら何やらが済んだ時間帯に彼女と五月雨は二人、道場に立っていた。何でも練習するには広く、板張りの床の部屋がいいらしい。彼女が道場に来たときには、五月雨が既に暖房などの用意はしてくれていた。それでも冷えるかもしれないから、寝巻などではなく普段着で来てほしいとは言われたが、当の五月雨は内番着である。腹が丸出しだが冷えないのか。
    「ええ、もちろんです。ではまずお手をお貸しください」
    「手、手を? 待って待って、最終確認させて。本当にするのね?」
     そう問えば、五月雨はこちらに手を差し伸べたままでいつも通りの鉄面皮で答える。
    「はい。心配いりません、きちんと篭手切に習いました」
    「……いや、そういう、心配をしているんじゃない、んだけど。そもそも私も五月雨もしたことがないことをするっていうのが根本的な目的なんじゃなかった?」
     苦し紛れに彼女が問えば、五月雨はきょとんとした表情で首を傾げた。そんな何を言っているかわからないみたいな顔をするな。
    「私も知らないすてっぷでした。問題ないのではないでしょうか」
    「……」
     そう言われてしまうと、どう返したらいいのかもうわからないのだが……。逃げ場が一切なくなってしまったではないか。
     困惑して彼女が黙り込んでしまうと、五月雨はこちらを覗き込むようにしてからもう一言付け加えた。
    「私は頭に怪我をさせたり不利益のあるようなことは、しません。……二度としません」
     二度と、という言葉で彼女は五月雨が何を言っているのか理解した。彼女はあの紅葉狩りのことは気にすることなどないと思っているし、あれは彼女自身にも十二分に落ち度のあった出来事だ。けれどそう宥めたところで、五月雨は納得しないのだろう。
     もう彼女でさえ愛想の尽きてしまったこの体を、五月雨はあれからずっと大切にしようとしてくれている。
    「……わかった」
     五月雨の手に、自分の右手を重ねる。踊るという行為は彼女にとって恐ろしく恥ずかしいことだが、もう仕方がない。一生に一度のことと思って割り切るしかない。
     手を握った時点で、彼女は篭手切が教えてくれた「踊り」というのが普段江のものが練習しているような、アイドルたちがするようなダンスではないとやや察していた。そっちはもっと知識がないのだが大丈夫だろうか。彼女は緊張して五月雨の次の指示を待つ。
    「もう片方は私の肩にお願いします」
    「肩?」
    「掴むようではなく添えるようにしていただけると」
    「……すいません」
     思いきり掴みにいってしまった……。彼女は少々気恥ずかしい気持ちで顔を顰めた。仕方がないではないか。踊るなんて初めてのことなのである。仮に普通に現世で普通に暮らしていたとしても、こんな機会はきっとなかっただろう。
     しかし彼女がそうしてあれこれ考えている間に、五月雨は一歩こちらに距離を詰めた。僅かに、しっとりとした品のいい香りが薫る。
    「失礼します」
     空いていた五月雨の腕が彼女の腰に回った。思わず彼女はぎくりとしてしまう。しかし五月雨はそれはあまり気には留めず、重ねていただけだった彼女の手を握り直した。
    「では一歩引いて、左から」
     物静かな五月雨の声がそう言ったので、彼女は慌てて尋ねた。唐突に左と言われても、歩幅だとか色々ある。
    「ま、待って、それって五月雨から見て左? 私から?」
    「頭から見て左です」
    「左に、左にどうするの?」
    「一歩踏み出してください。こうです」
     すっと先に、五月雨の方が一歩動いた。五月雨が軽く手を引いてくれたので、彼女もつられるようにしてそちらに足を動かす。
    「お上手です」
     五月雨がどこか楽しげに言う。何が上手なのだ、足を一つ動かしただけなのに。やや恨みがましい気持ちで彼女は五月雨を見上げる。
    「一歩動いただけだから」
    「ですが殆ど、同じ動きですので。開いた足を戻してください」
     ついとまた五月雨が一歩彼女の手を引いて動く。つられて彼女は五月雨に合わせて体を揺らした。
     足を、踏みそうだ。やや強張った顔で彼女は下を見やった。体の距離が近い分、咄嗟に五月雨の足を避けるのも難しそうである。自分が痛いのはさほど気にならないが、逆は嫌だ。そうなるとできるだけ早く正確にステップを覚える他ないけれど、如何せん初めてのことであるし、それまで五月雨を無傷でいさせられるだろうか。
    「頭」
    「な、なに?」
     呼ばれたので顔を上げる。すると五月雨はずっとこちらを見つめていたようで、すみれ色の瞳と視線がかち合った。
     落ち着いた五月雨の目は普段通りで、そこから焦りやら何やらを読み取ることはできなかった。初めてのことに慌てふためいている彼女と違って、本当に平常心なのかもしれない。だが不思議と、それを見つめているといくらか気持ちが穏やかになっていくのがわかった。
     いくらか彼女から力が抜けたのがわかったのか、五月雨は彼女の手をもう一度握り直す。
    「篭手切に聞いたのですが、こつは、足元を見すぎないことだそうです」
    「足元を?」
     思わず俯きかけた視線を、その言葉で元に戻した。静かで澄んだ瞳がこちらをじっと見つめていた。
    「はい。不安だとは思いますが、できれば視線はそのままで」
     正直なところ、できればしっかり確認しつつ足を動かしたい。だがそれでも、彼女は何とか一つ二つ頷いた。
    「……では、深呼吸しましょう」
     すう、と二人して大きく息を吸う。それから五月雨が背筋を伸ばし直したので、彼女も同じようにした。
    「一歩、下がってください」
     行きますよ、と五月雨が言ってくれたので彼女は一歩後ろに下がる。それに合わせて五月雨は一歩踏み出した。次はどちらだったかと彼女が迷っていると、「左です」と言ってくれたのでそちらに足を向ける。
     篭手切も加減してくれたのか、五月雨が刻んだのはとても簡単な左右に揺れるだけのステップだった。だから彼女も最初の数分ですぐにそれを覚えることができて、少しだけ安堵する。それに彼女も普段座り仕事が多いせいか、このくらいの単純なものでも体を動かすのは多少気分がすっきりする。
    「お上手です」
    「本当にそう思っている?」
     再び五月雨が言った。彼女も今度はやや余裕があるので、片眉を上げて答えた。だが五月雨の涼やかなな瞳はやはりあまり表情を変えていない。
    「勿論思っていますよ。回ってください」
    「えっ回る?」
    「こうです」
     急に初めての指示が来たので彼女が戸惑っていると、五月雨は握っていた彼女の手ごと腕を上げて、くるりと一回転彼女の体を回した。
     それは乱暴な動きではなかったので、彼女は緩やかに、そしていくらかの弾みをつけて元の向きに戻ってくる。それでも突然で驚いたこともあって少しよろければ、五月雨の腕が今度は背中に回って支えてくれた。
    「びっ、くりした」
     視線は先程よりも斜め上を向いた。それでも五月雨がこちらを見下ろしていたので、目だけはしっかりと合っている。五月雨の腕が腰から背中に移動して、やや顔の距離が近づいたことには彼女も流石に気付いていた。
    「楽しいですか?」
     低い五月雨の声が聞くのに、彼女は苦笑する。
    「どう、かな」
     久しぶりに体を動かしてそれで気分がいいのは間違いないが、緊張してそれどころではないと言うのが正しい。最初の内は体が強張っていたから、きっと明日は手足が痛むだろう。
     だが彼女の返答に五月雨は小さく首を傾げる。
    「では辛いですか?」
    「そんなわけないよ」
     彼女は慌てて首を振った。そりゃあ戸惑いはしたけれど辛いのとは違う。
    「では、どう思っておいでですか?」
     どう、と言われると。彼女はそれに答えかけて、息を吸ったが躊躇った。
     緊張した、困惑している。だってこんなのは、彼女が生まれて初めてすることだ。それだけではない、おそらく彼女ひとりきりであればしようと思わなかったことだ。だから本当は、一歩踏み出すごとに鼓動が早くなった。いつもより距離が近かったから、それが五月雨にわかるかもしれないと思うと余計に、胸がどきどきした。
     こんな風に思う気持ちを、一体何と呼ぶのだったか。近頃はよくある、この気持ち。暫く自分から遠ざかっていた、遠ざけていた気持ち。
    「……楽しいよ」
     やっと、彼女はそう口に出した。そうするとやっと、彼女は自分が今「楽しい」のだとはっきり認識できた。
     しかし五月雨のほうは怪訝そうな表情で、こちらをさらに覗き込みつつ確認する。五月雨がそうしたものだから彼女は上体を反らして距離を取ろうとしたのだけれど、背中に五月雨の腕が回っているために、大して離れることもできない。
    「本当ですか?」
    「ほ、本当です」
     じっとすみれ色の瞳が彼女の目を見つめる。こうなってくると彼女も意地になってそれを見返してしまう。何故だかそうして睨み合った後、五月雨は体を起こした。
    「でしたら何よりです」
     どうやら納得してくれたらしい。再び五月雨は彼女の手を取り直してゆったりとステップを刻み始める。彼女はホッと安堵してまた体を左右に揺らした。もう危なげなく踊れるので、意識して顔を上げておく必要もない。それに誰かとずっと目を合わせているというのはなかなか緊張する。
     だから彼女は不自然でないように首を回して顔を余所に向けたのだが、手を取ってダンスをしているとどうしても寄り添いあっていなければならない。それはそれで些か、彼女の心臓には悪かった。
    「現世で大会があるそうです。一緒に出ますか?」
     もう回ったりすることもなく、彼女と五月雨はただ静かにリズムを取っているだけだった。それで大会に出られるほどマスターできたはずがないのに、五月雨が随分強気な提案をするので彼女はクスクスと笑う。
    「そこまでちゃんとはできないよ」
    「そうでしょうか。十分、お上手です。これから練習すれば、きっとその大会にも出られます。出るなら勝ちましょう」
     もう、彼女は五月雨が嘘をついたりおべっかを使ったりしないことはちゃんとわかっている。だからきっと、この「お上手です」は五月雨の心からの賛辞なのだ。
     したがって五月雨は本気で彼女に練習をしようと言っていて、大会に出るつもりで、しかも優勝まで狙っていて。
     そういう、これから先、楽しい未来の話を五月雨はあの日から彼女にずっとしていた。
    「……本当かな」
     夜も更けていて、道場は皆が過ごす母屋からは離れている。だから二人きりでただシンプルなステップを踏んでいるだけのここはとても静かだった。横を向いている彼女の耳は、五月雨の胸元に近く、微かにだがゆっくりとしたその心臓の音が聞こえている。
    「右左、胸に響くや君の音」
     鼓動が聞こえていたのは、五月雨も同じだったらしい。わざわざ歌にしなくてもと彼女は思ったが言わなかった。
     一生に一度と割り切ろうとしたけれど、死ぬことのないこの体ではこれは永遠の思い出になってしまうと、彼女はそこでやっと気づいた。


    「それでは本日は、流星群を見ます」
     その日五月雨が読み上げた札の内容を聞いて、彼女は初めて、困惑以外の「どうしよう」を考えた。だが言葉に詰まった彼女に視線をやり、助け船を出したのはたまたま所用で執務室にやってきて隣に座っていた清光である。
    「それ主やったことあるよ。ねえ主」
    「そう、だね」
    「そうなのですか」
     僅かにだが目を丸くして、五月雨がそう言った。彼女は頷こうかやや迷う。
    「もう結構前だっけ、なんか皆で夜更かししてさ。酒飲みはずっと宴してたけど。とにかくその日は流れ星がよく見える晩だから、皆で見ようって」
    「うん、ちょうどこの時期の流星群だったね」
     清光の説明は事実だったため、これは同意せざるを得ない。だから彼女はそれを肯定した。あれはまだ、彼女が審神者になって間もない頃だ。ニュースでその晩が見頃だと言っていて、冬に見える有名な流星群だからと彼女が説明すれば、刀剣男士たちはじゃあせっかくだからという話になって。もう「懐かしい」と言ってもいいくらいの思い出である。
     だがそれを聞いて、五月雨は些かしゅんとして耳や尻尾が垂れたようにも見えた。手にした札を見つめて、普段よりやや元気のない声で言う。
    「そうですか……。この札は今日頭が引かなければ抜くつもりでおりまして、丁度手に取ってくださったので、良い機会だと思ったのですが」
    「ま、あ、そうだね、流星群の見頃ってそんなに何日もあるものじゃないから……」
     彼女が相槌を打てば、はいとしおらしい返事が返ってくる。
    「一年に一度と聞きましたので、良い季語だと思っていました」
    「……」
     どうしよう。表情はあまり変わらないのだが、すっかり落ち込んだらしい五月雨を見て彼女は焦った。彼女自身は流星群観測をすることは別に構わない。しかしこれまで五月雨は「自分も五月雨も経験したことのないことを一緒にすることで、新たな季語を探す」ということに努めてくれていた。それを今更、そんなの気にしなくていいよとすんなり流してもいいのだろうか。
     困って何も言えないまま彼女が黙りこくっていると、文机に頬杖を突いていた清光が斜め上の方に視線をやって、更にいくらか口をとがらせてぼやく。
    「いーじゃん、やれば」
    「え?」
    「え」
     彼女と五月雨が同時に清光の方を見る。清光は髪の毛先を指でいじりながら言った。
    「やりたいんでしょ? じゃあやればいーじゃん」
    「ですが」
     五月雨が躊躇ったのも、清光は何でもないようにパチンと指を鳴らして一蹴する。
    「確かに星、見たことあるけど。でも今日流れる星はあのときの星じゃないし。今日見る星は、初めての星。気になるならこれでどーよ」
     ぱちくりと五月雨は何度もあの切れ長の瞳を瞬いた。彼女は苦笑いして首を傾げる。思い切り屁理屈なのはわかっていた。
     けれど五月雨のほうは何故だかそれですっかり納得したようで、やや萎れて丸まっていた背をスッと伸ばす。それから彼女に向き直った。
    「では頭、今日はそうしましょう」
    「……うん、いいね。嫌いじゃないよ、天体観測」
     持ち直したのならそれでいい。小さく笑いながら、彼女は返した。本丸の周辺は明かりもなく、静かだから星は綺麗に見える。後は天気だが、たぶん問題ないだろう。執務室の開け放った襖から見える空は高く、真っ青で雲一つなかった。
    「では本丸のできるだけ高い位置で星が見えるよう用意しておきます」
     すっくと五月雨が立ち上がって言ったので、彼女も何度か頷いた。確かに庭だと場所は開けているのだが、本丸内の明かりでやや見づらかった記憶がある。
    「あ、うん、そうだね。二階の、倉庫みたいにしちゃってる部屋片づけようか」
    「ねー、本丸より裏の山のほうがよく見えるんじゃないの」
     不意に清光がそう言ったので、五月雨は再び驚いたようにして清光を見た。珍しく、本当にびっくりした顔だ。
    「……良いのですか」
    「皆で行けばいーでしょ。星にかこつけて飲みたいやつだっているだろうし、掲示板にお知らせ出してきなよ」
     それを聞いて、五月雨は一拍、いや二拍ほど動かなかった。気になって彼女が声を掛けようとすれば、ぎゅっと札を握って大きく頷く。
    「わん! 行ってきます」
    「よろしくねー」
     駆け足で五月雨が出ていく。彼女はそれを見送ったが、出て行ってすぐに慌てて清光に問いただした。
    「清光、いいの?」
     頬杖を突いていた清光はよいしょと体を起こし、座り直した。いつもの人懐こい笑みを浮かべると、清光は彼女にも頷いて見せる。
    「皆で行けばこの間みたいなことにはならないでしょ。それに、五月雨がいつまでも万屋以外のどこにも主連れて出掛けられないようなら困るし? 丁度いいよ」
     ホッと彼女は息をついた。確かに、それは彼女も気になっていたのだ。あの紅葉狩りのことがあるのか、五月雨は人出の多い政府の関連施設にしか彼女を連れて行こうとしない。彼女には五月雨があえてそういうものを選んでいるようにも思えた。これで少しでもあの晩のことを忘れさせてやれるなら、それに越したことはない。
    「ありがとう清光、気を配ってくれて」
     彼女がそう言えば、清光はふいっと視線をそらして襟足を掻いた。付き合いの長い彼女は、それが清光の照れているときの仕草だとわかっている。
    「べっつにー。デートするなら遠く行けたほうがいいでしょってだけだし」
     しかし唐突に全く意図していなかった単語が出てきたので、彼女は面食らった。
     デート、誰が誰とだ。だがこの場にいたのは清光と彼女と五月雨だけで、この文脈なら五月雨相手のことを言っているのだろう。
    「五月雨はそういうんじゃないよ」
     彼女はできるだけ冷静に返したが、清光はにやっとした悪戯っぽい笑みでこちらを見る。やんちゃな印象を持たせる八重歯がちらりと覗いた。
    「えー、ほんとにー?」
    「本当だよ。どうしてそうなるの」
    「だって毎日一緒に何かしらしてるでしょ。ちょっとはなんか、そういう感じにならない?」
    「清光」
     いくらか咎める気持ちを含めて彼女が呼べば、清光は素直に「ごめん」と言った。悪ふざけはしても、清光は彼女の嫌がることは決してしないのである。
     だが、そう見えても仕方ないのかもしれないと彼女は静かに思った。五月雨と「季語探し」を始めるよりもさらに前から、彼女は様々なことに意識と時間を取られて、刀剣たちの数が増えたのも相まって、あまり刀剣男士たち一振一振と丁寧に接してこられなかった。前はこんな風ではなかった。もう少し気軽に話をして、一緒に遊んだりもしてこれていたはずなのに。
     無意識で、彼女もわかっていたのだ。刀剣男士たちが、こんな体になった彼女のことをずっと気遣って、心配して、労わろうとしていたことに。それはとても有難く、幸せなことだと理解している。彼女の刀剣男士たちに対する気持ちも変わらない。けれどどうしても、やりづらいときがなかったわけではない。
    「……でも最近の主、ちょっとは前みたいな、力が抜けた顔になって来たよ」
     嬉しそうな笑みを浮かべて穏やかに、清光が言った。少し体を屈めて、清光は彼女を覗き込む。赤い瞳が和らいだ。
    「五月雨のしてることはまあ、確かに突拍子もないけどさ。俺はそういうの、純粋に良かったなあって思うけど。たぶん皆もそうだよ」
     一番長い間、彼女の傍にいる清光はきっと今口に出していること以上に彼女のことを考えただろうし、思っていることもあるだろう。それでも彼女が黙っている間は、清光も口を噤んでいてくれたのだ。
    「……ありがとう」
     ごめんねと言いかけたのを、やめて彼女はそう口にした。彼女だって、そう言われたほうが嬉しい。
     えへへと笑った清光は、ほんの少しだけ彼女の肩に額を乗せた。艶のある黒い髪が耳元に当たる。彼女も僅かにその形の良い頭に頬を寄せた。
    「そういうつもりがないならないで、別に全然いいけど。ここで生きてくのに、もし誰か一振を選んだって。それでもいいって、俺は思ってるからね」
    「……」
    「あんたがそれで幸せなら、俺は何だっていーよ」
     優しい声に、ほんの少しだけ鼻の奥がツンとする。彼女が黙っていると、清光は体を起こして明るく言った。
    「でも俺があんたの初めての刀だから! それだけは譲らないけどー」
    「……うん。一番可愛いって思ってるよ」
     自分は間違いなく、数多くいる審神者の中でもかなりの幸せ者だ。ふふと彼女が笑えば清光もへへへと微笑んだ。


     五月雨が昼前に掲示板に貼りだしておいた天体観測のお知らせを見て、それなりの数の刀剣男士たちが夜間裏山に行くことになった。もちろん本丸を空にしてしまうわけにはいかないのでいくらかには残ってもらったけれど、そんな彼らも快く「楽しんできてね」と彼女に言った。
    「皆さんも季語を楽しみたいのですね、良いことです」
    「皆が皆そうではないと思うけどね……」
     隣でどこか満足げにしている五月雨に、彼女はやや笑いながら答えた。もちろん流れ星を見たい刀が半分くらいだろうが、お弁当や酒類を相当用意しているのを見るに宴会目的だってそれなりにいる。宴会組は山の中腹、開けた場所に敷きものを広げ、周囲にランタンを置き、もうだいぶ出来上がっているようだった。賑やかに話をする声がそこから少し離れている彼女の耳にも届く。
    「桜や、紅葉の頃もこうして皆さんをお誘いすれば良かったです」
     そちらを眺めて五月雨が言う。彼女はそうだね、と答えた。
    「来年はそうしたらいいよ。喜んでくる子もたくさんいるだろうし」
    「そうします」
     夜の山は暗く、特に季節も相まって寒い。だが歩くのに十分な明かりは手にしているし、何より顔を上げれば既にかなりの星が見えていた。
    「本丸の周りだって、星を見るには困らないくらい暗いと思っていたけど。山はやっぱり違うね」
    「もうしばらく歩きましたから、頭の目もだいぶ暗闇に慣れたのでしょう。寒くはありませんか」
     五月雨の口元は襟巻で半分ほど覆われていたが、それでも吐く息は白い。彼女も巻いてきたマフラーを引き寄せて首を振った。
    「大丈夫、ありがとう。結構着こんできたから」
    「……でしたら少し、歩けますか。もう少しだけ進めば、木々が開けて空が広くなります」
     普段からこの山に鍛錬をかねて登るという五月雨は、天体観測に向いている場所を知っているのだろう。彼女も特に、足が辛かったりこれ以上運動するのが嫌だと言うことはなかった。だからすぐに了承しようとしたのだが、五月雨のほうが振り返って付け加えた。
    「ですが皆さんと離れることが不安でしたら、ここでも」
    「……大丈夫だよ、行こう」
     彼女ははっきりとそう答えた。すみれ色の瞳はそれでもやや迷ったように宴会をしている方を見つめる。だが口を開いて、そちらに向かって言った。
    「すみません、少々頭をお借りします! 上にいます!」
    「はいはーい」
     暗くて姿は見づらかったが、清光の声が返って来た。それを確認してから、五月雨はいつものように彼女に手を差し出す。
    「これで大丈夫です、行きましょう」
    「うん」
     肉球が描かれたグローブに、今日は手袋をして手を重ねる。暗いから、山だから、今日は手を借りなければ厳しいだろう。そんな言い訳じみたことを考えてしまった。
     静かな山中に、サクサクと落ち葉を踏む音が響く。僅かにだが、先程までの道よりも傾斜が強いように思えた。彼女の手を引いて半歩前を行く五月雨の吐く息が、白く浮かんでは消える。
    「辛くはありませんか」
    「大丈夫、丈夫だって、前にも言ったでしょう」
     それには五月雨は答えなかった。ただ少しの間黙々と歩いて、木立を抜け、確かにいくらか木々の少ないスペースに辿り着く。歩いたおかげで、彼女の体温もやや上がっていた。マフラーをしている部分だけに、僅かに汗が浮かんでいる。
    「場所が開けてはいますが、あの辺りは崖になっています。あの木より先に行かないようにしてください」
    「ありがとう、わかった」
     ひときわ目立つ背の高い杉を指さし、五月雨が言う。暗い中でもそれは判別がついたので、彼女は頷いた。
     手元に一つだけ持ったランタンを頼りに進んだため、集団で山を登った先程よりも更に目が慣れてはっきり夜の闇の中が見える。顔を上げれば、さっき以上に夜空を光る星々を追うことができた。
    「見えますか」
    「うん、よく見える。……すごいね」
     通り一遍の表現ではあるが、「満天の星」というのはこういう光景をいうのだと彼女は思った。天頂から、木々の先が作る円形の空を隙間なく埋め尽くす星。彼女は自分の足元に持ってきていたランタンを置いた。そんな小さな明かりすら煩わしいと思えるほどの星々だったのだ。
    「流星群、どの方角なんだっけ」
    「東の空です。あれが北極星ですから」
     紫色に塗られた五月雨の爪が空をなぞるのを彼女は追いかける。真北を示す一際輝く星から、するすると紫色の尾を引いて、ある一点へ。
    「あのあたりが、放射点になると本で見ました」
    「そっか。じゃあ待っていれば、流れるかな」
     目的地には着いていたけれど、五月雨が手を繋いだままでいたので彼女もそのまま立っていた。突然離しては五月雨も変に思うだろう。だからそうしていたのだが、不意に五月雨が小さく握った手に力を込めた。
    「加州に、今夜は頭と二人で過ごすようにと言われました」
    「……清光」
     余計な気を回さなくていいと言ったのに。彼女はやや困って五月雨の方を見たが、五月雨は変わらず空を見上げていた。寒さのためか、僅かによく通った鼻の頭が赤くなっているのが下からの明かりでぼんやりと照らされていた。
    「前に一度、頭と雲さんとこの山に来たときからずっと、考えていました。私が頭にできることは、なんなのかと」
    「……私に?」
    「はい」
     星を見に来たはずなのに、彼女はただ五月雨の整った横顔を見つめていた。静かな夜に五月雨の低い声が響く。
    「私は頭に、心を鈍らにしないで頂きたかったのです」
     小さく彼女は、五月雨の言ったことを繰り返した。
     心を、鈍らに。何も感じないように、できるだけ波立つことのないように。彼女は時間をかけて、感情が、心が、凪いだ水面のようになるのよう努めてきた。
    「この世にはたくさんの季語があるのに、それを諦めないで頂きたかった。自分から、時計の針を止めないで頂きたかった。ですから私にできることは、季語を探して、一緒にそれを楽しむことだと思いました」
     すみれ色の瞳がこちらを見る。五月雨のもう一方の手が伸びてきて、空いていた彼女のもう片方の手も握った。
    「頭の、体を元通りにすることは、おそらく私にはできません。とても、悲しいことですが」
     ほんの僅かに五月雨の眉が歪む。きっと本当に、ずっとそれを考えていてくれただろうことはその表情だけで痛いほどわかった。
    「ですが私は、人間よりずっと長生きです。頭と一緒に、これからも季語を探し続けることはできます」
     これからも、一緒に。恐らく刀剣男士の五月雨江だからこそ、できること。
    「犬は裏切りません。私はどこにも行きません、ですから」
    「五月雨」
     しかし彼女は、五月雨の言葉を遮って視線を下げた。
     はあ、と一つ吐いた息が視界を白く濁らせる。マフラーを巻いているせいで、暖かな呼気は鼻の頭を湿らせた。
    「五月雨、ありがとう。……でも」
     ああ、嬉しい。嬉しいはずなのに。どうしてだろう。
     心の奥が冷えていく。だが彼女が本当に恐れていたのは、きっとこれだったのだ。
    「……勝手なこと、言わないで」
     何故だか彼女は自分の口が笑みを浮かべていることに気づいた。嬉しい気持ちと、悲しい気持ちがめちゃくちゃになって、表情だけが勝手に喜んでいる。
    「五月雨がどこにも行かない保証がどこにあるの」
     だって刀の終わりは、人間とは違うではないか。
     人間だったはずの彼女は、死ななくなったことでその終わりを永遠に失ってしまった。だから将来的に、彼女は必ずたった一人になってしまう。友達もいない、家族もいない、そんな世界に、いつか必ずなる。
     それがわかっているから、彼女はもう自分には「ここ」しかないのだと思った。
     五月雨の言う通り、自分と同じ、時間の理の外側を生きる刀剣男士達と生きていくことが、彼女にとって唯一保てる「日常」の暮らし。
    「家族も、友達も皆私より先に死んでしまう。それならもう、私には皆しかいない。だからここで、ずっと、これまで通り生きていけたらそれでよかった」
     そうできたのなら、きっと自分は納得したまま、これでよかったのだと思ってここで過ごせる。彼女個人としてではない、審神者としての役目を全うすることができる。
    「でももし、もしも誰か、誰か一振でも、特別な誰かが出来て、その誰かが急にいなくなったりしたら」
     きっと、自分は、後悔してしまうだろう。自分で決めてこうしたはずなのに、嘆いて、悔やんで、誰かを責めて、恨んで。
    「いやだ、こころまで、ばけものになりたくない……」
     こちらに向けられた五月雨の顔が歪んで見える。彼女は慌てて俯いた。
     もう、この凪いだ心だけが彼女が人間である証だったのだ。
     自らの意志で感情をコントロールし、自分で決めたことを遵守して役目を全うする。それだけに努めて、刀剣男士たちの「いい主」でいる。ただ、それだけが。
    「頭」
     一歩五月雨の重いブーツがこちらに歩み寄ろうとしたのを見て、彼女は急いで下がり五月雨が握っていた手袋から手を引き抜いた。痛いほどの冷気が手のひらに触れる。
    「やめて、これ以上近寄らないで、お願いだから」
     彼女が後ずさっても、五月雨は追いかけるようにしてこちらに手を伸ばす。わかっている、そこから先に行ってはいけないと、先ほど五月雨が示した杉の木は彼女のすぐ背後にあった。
    「ですが頭、それ以上はいけません。危ないです、こちらに」
    「いいってば! どうせ落ちたって死んだりしないんだから!」
     ワッと叫んでしまってから、焦って彼女は五月雨の顔を見た。五月雨は目を見開いて、困ったような、悲しそうな表情を浮かべている。
     今まで、ずっと五月雨はそれを承知で、彼女が一度たりとも怪我をしないように心を尽くしてくれていたのに。混乱して、寒さで、手が震える。
    「ごめん、ごめんね、本当に、私」
    「っ頭、構いませんから、こちらに戻ってください」
    「でも、もう」
     もうどうしたらいいのか、わからないのだ。
     ずると踵が後ろに滑った。ああ、これまで何とかやってきたのに、刀たちに迷惑をかけてしまう。でも裂傷や骨折からの復帰は、そこそこ痛いんだよなあ。僅かな間に彼女の頭は色々なことを考えた。
     だがもし、もしこれで、何かの間違いで、死んだとしたら。
     もし、そうなったとしたのなら……。
     しかし視界が空を向く前に、物も言わずに五月雨が彼女の手首を掴むと一息に引き上げた。勢いをつけて持ち上げられた体は、すぐに硬い地面ではなくて、積み重なった枯葉の上に落ちる。そのために音こそ派手ではあったが、彼女はあまり痛みを感じずに済んだ。
    「わっ、う……」
     何度か肩のあたりを擦って、彼女はゆるゆると起き上がった。置いたランタンから少し離れてしまったため、彼女の目では僅かに照らされた黒い木々しか映らない。
    「……五月雨?」
     ハッとして彼女は首を回した。五月雨がいない。まさか自分を引き上げた拍子に下に落ちたのか。彼女は這いつくばって、崖だと言われた方にもう一度近寄る。するとガサリと暗がりから木の枝が揺れる音がした。
    「来てはいけません!」
    「っ五月雨!」
     顔は見えなかった。しかし覗き込める範囲の木の枝に、五月雨の紫色の爪が見える。どこかに掴まっているのだろう。だが彼女が身を乗り出そうとすると、五月雨からはそれが見えているのかもう一度鋭い声が飛んできた。
    「いけません! こちらに来ては、いけません」
    「でっ、でも」
     誰か呼んで来なくては。彼女一人では五月雨を持ち上げることはできない。だが五月雨の手は何度か確かめるように木を握り直していた。
    「っ平気です、問題ありません。ですから頭は、こちらに来てはいけません。自力で上がれます」
    「じ、自力で?」
    「はい。ですが頭に怪我をさせるわけにはいきませんので、そこから、下がっていただけますか」
     彼女は急いで、立ち上がって元居た場所に戻ろうとした。しかし流石に驚いて腰が抜けているのか、うまく動けずに結局再び地面に手を付いていくらか距離を取る。
     そうすると五月雨の方は音で彼女が離れたのがわかったらしい。ガサリとまた木々の揺れる音がしたかと思うと、ふわりと暗がりに紫がかった襟巻の裾が広がる。地面に着地したときさえ、五月雨はよろめかなかった。
    「はい、大丈夫です」
     何でもない風で木の葉なんかを払いながら言う五月雨に、ぽかんと彼女は口を開けたままそちらを見てしまった。
     そりゃあ、刀剣男士が身体能力が高いことはわかっている。わかっているけれど。
    「頭、お怪我はありませんか」
     けれど本当に何ともなかったらしい五月雨は速足でこちらに近づくと、呆然としている彼女の手を取ってひっくり返したり触ったりしながら検める。まだ紫の髪の毛に季節外れの紅葉がついていた。
    「……」
    「引き上げる際着地点にしか気を払えませんでした。どこか打ち付けたりしていませんか」
    「ど、こも痛くない」
     やっと彼女がそう答えれば、五月雨は安堵して一つ息を吐く。丸く白い呼吸が浮かんで消えた。
    「よかったです。今度はお怪我をさせずに済みました」
     片膝を着いたしっかりとした姿勢だったけれど、それでも五月雨がいくらか脱力したのがわかった。自分の方が大怪我をしかねない状態だったというのに、何に安心しているのだ。
    「ごめんなさい……」
     自分の涙が熱くて頬に沁みる。泣けば余計に五月雨が困るのはわかっていたのだけれど、もう止めることができなかった。五月雨は上着に仕舞っていたらしい彼女の手袋を取り出して、むき出しになっていた手にはめ直させてくれる。
    「頭、大丈夫です。見てください。私もどこも怪我はしていません、忍びですから」
     忍びってなんなんだ。何でもかんでも忍びだからで片付けようとしていないか。
     おかしいやら、悲しいやら。笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからず、彼女はただ刀を握るにしては繊細で綺麗な手が、自分の指を手袋に通そうとしているのを見つめる。
     こうなってしまうのが、恐ろしかった。ここで、特別に大切な誰かができることが彼女は怖くてならなかった。彼女はここでだけ、今まで通りに過ごせていたから。皆が彼女を「人間」として扱ってくれたから。
     それでもやはり自分は、化け物なのだと思うけれど。
     きっとそれは、間違いないのだけど。
    「わたしも、つれていって」
     寸分の隙もなく、きっちりと着こまれた緑の上着に縋りつく。いつか自分が血塗れにしたその上着。
    「五月雨のいる季節に、私も連れていって……」
     いつかで止まった時間が動くなら、あなたのいる場所に行きたい。
     そう思ってしまったから。
    「……もう、あなたのそばにいます」
     暖かな腕が肩と体に回る。普段から五月雨が使っている品のいいお香の匂いに入り混じって、土と冬の夜の匂いがした。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/09/19 23:20:36

    【Web再録】私の歳時記③

    #雨さに #さみさに #刀剣乱夢 #女審神者
    死なない審神者と季語を探す五月雨江の話。

    2023年1月に発行した本の再録です。

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