不在 ヘルムート・チェルハは単独で運用することを想定された騎士である。であるから、その年齢や騎士団在籍年数のわりには部隊を率いることが少ない。とはいえ全くないわけではなく、今回の作戦では本陣に待機し指揮を執る立場であった。
曇天、気温はさほど高くなく、空気はやや湿っていた。雨が降るかもしれない。ヘルムートは天幕の外を確認してからまた机の前に戻り、広げられた砦の図面とその上に並べられた駒を見た。予定通りにことが運べばこうなっているべき、という配置に並べられている駒。
「隊長!」
そのとき、慌ただしい気配とともに一人の騎士が天幕に飛び込んできた。足が速く俊敏い彼はよく伝令として使われる。
「どうした」
「オーウェンが落ちました、作戦遂行は絶望的です!」
ヘルムートは眉を寄せ、図面の上の駒をひとつ取り上げると手中で弄んだ。ぽっかりと空いた穴は大きく、埋めなければそこから崩れてしまうだろう。
「サイモンをそっちに回して、……あー……」
いないんだったか、と呟いたヘルムートは親指でこめかみを掻いてから駒を再び図面の上に置いた。
「俺が出るか」
「えっ、でも」
指揮官が着る大仰な外套を脱ぎ、傍らにいた補佐に渡すとウインクをする。
「あとはお前に任せるよ、こういうのは俺より得意なくらいだろ」
そして反論を受けるより先に、天幕から外へと飛び出していった。
……その男を表する言葉はいくつかある。「皆殺しの」「塩を撒く」ヘルムート。立場上それは広く浸透しているわけではなく、特に他部署所属の騎士は彼をただの温和な男だと思っていることが多い。……穏やかで人当たりの良い、優しげでごく普通の人間のような顔をした男が、人間の骨を砕き肉を弾けさせているところを想像出来る者は少ない。
砦を進むヘルムートは、特殊な素材で出来た体にぴったりと密着するスーツを着ている。布擦れの音さえしないその装備は隠密任務を想定したものであるが、ヘルムートが身に着けているとそれは隠密のためではなく身体の動きを阻害しないためのものとして機能していた。
通路の曲がり角から無音で飛び出し、ぬるりと蛇のように見張りへと組み付き締め上げて無力化するのはヘルムートの得意技である。……ただ。
ごきん、と首の骨を外してから、ヘルムートははたと瞬きをした。
──あまり殺してはいけないんだった。
物言わぬ死体となってしまったそれを床に寝かせ、溜め息を吐く。彼の後輩であればきっと殺さずに無力化しただろうが、ヘルムートは殺すことに特化した兵器のような存在であり、相手を捕らえる即ち殺害への布石としか考えられない種類の人間であった。
今回の目的は殲滅ではない。本来であれば殺す必要はないのだ。
だが結局ヘルムートはその砦にいた人間のほとんどを殺し、僅かな生き残りには完全に行動不能になるレベルの負傷を負わせていた。手足を砕かれ呻く彼らは芋虫に似ている。帰還後上司から貰うであろう小言を想像し、ヘルムートは渋い顔をした。
ともあれ、砦を制圧したことには変わりない。一旦報告に帰還するべく、砦の屋上へ出たヘルムートは小さな笛を口に咥え、鳴らす。高い音が長く響き、少ししてから不意にその頭上に影が落ちた。
「お迎えにあがりました!」
「ねーう!」
見上げた空から滲み出るように現れたのは、大きな猫のような生き物である。翼を動かし空中に留まっているその幻獣の背に跨がっているのは、若い蒼騎士だった。
「今回の回収係はお前か、バーニー」
「はい。お久し振りです、ヘルムート様」
その蒼騎士、バーニー・リドフォールの手を借りて幻獣の背へとよじ登ったヘルムートは、二人乗り用の鞍に跨がり幻獣の背を軽く撫でた。三角形の耳が機嫌良さそうにぴくぴくと動く。それから翼を一打ちし、高度を上げた。
じっとバーニーの後頭部を眺めていたヘルムートは、うーん、と唸り声をあげた。僅かにバーニーが首を傾げる。
「どうしました?」
「いや、俺としたことがこんなことに気付いてないなんてなあと思って」
お前の兄さんのことだよ、と言うヘルムートにバーニーはますます怪訝そうな顔をした。慣れた様子で手綱を動かしながら問い返す。
「サイモン兄様がどうかされましたか?」
「いや、サイモンが『使える』からって使いすぎてた。サイモン並みに動けるやつをもう少し用意しておかないと駄目だ、これじゃあウォルターのことが言えない」
──「誰か」は常にお前の隣にはいてくれないぞ。
頭を掻きながら溜め息を吐いたヘルムートをちらりと振り返って、それから少しだけ口元をもごもごと動かしたバーニーは結局何も言わずに前を見た。己の兄を褒める言葉にどこか誇らしいような面映ゆいような気持ちで目を細める。
「……ああ、これは他の奴には秘密だぞ。急所を晒すことになる」
「はい」
「特にサイモンには言うな、まだまだあいつを褒めてやるわけにはいかない」
「はい、……ふふ」
思わず笑みを零したバーニーに、ヘルムートは眉を寄せた。なんでもありません、と咳払いをした相手をそれ以上問い詰めることはしなかったが、どこか不本意そうにしている。
ぬるい風が肌を撫でる。ヘルムートは目の前で揺れる干し草のような金髪を眺めながら彼の兄弟を思い、今後の新人指導について考える。ぽつぽつと、雨が降り始めていた。