手合わせの後で 医務室はちょうど空で、連れだって訪れた二人の騎士のうち片方……若い方、サイモン・リドフォールが慣れた様子で棚から薬や包帯などの治療用具を取り出した。怪我をしている張本人であるヘルムート・チェルハは、大儀そうに椅子へと腰掛けそれを眺めている。その顔にある殴打の跡は、無害げな彼の顔からはとても浮いて見えた。
アラン・リドフォールとは医務室へ来る前に別れていた。ヘルムートが追い払った、と言ってもよい。聖騎士隊のある騎士が彼を探していたと伝え──嘘ではない、数日前の話だが!──、心配げに己を見ていた青年を早々に戻らせたのだ。
所属部隊の違う後輩に気を遣わせるのが心苦しかったというのもあるが、……「兄を見る弟の目」と「弟を見る兄の目」のすれ違いを見ているのが現状では──ただでさえ傷が痛むのに──面倒だったというのもある。ヘルムートは情深い男ではあったが、時折ひどく酷薄であった。
黙ってヘルムートの前に薬の類いを並べてから水袋へと水を汲みにいくサイモンを見送り、ヘルムートは溜め息まじりに消毒薬の蓋を開けた。
「ウォルターのやつ、おじさん相手に容赦ないんだもんなあ」
などとぼやくのに、サイモンが背を向けたまま言葉を挟む。
「よく言いますよ、急所は外しているんでしょう?」
「いやあ、だって、あいつの攻撃がまともに急所に入ったらいくら俺でも無理だろ」
あいたた、などとわざとらしい悲鳴をあげながら消毒を終えた擦り傷に軟膏を塗っていくヘルムート。それから戻ってきたサイモンから受け取った水袋で鼻筋を冷やした。少しくぐもった声で言葉を続ける。
「俺はお前の生まれる前から騎士やってるんだぞ? まだまだ偉大な先輩でいないとなあ」
「そろそろ後進に場所を譲って下さっても良いんですよ」
澄ました顔で言うサイモンに、ヘルムートは声をあげて笑った。この男が引退するにはまだ時間がかかるだろうことはサイモンもよく知っている、こんな言葉は冗談としても現実味がなさすぎた。
「俺がいなくなったら寂しくて枕を涙に濡らすんじゃないか?」
であるから、返る言葉もかなり雑だ。ヘルムートは口角を上げたままサイモンの目を覗いたが、そこにあったのは冷たい氷のような色だけである。
「気持ちの悪いことを言わないで下さい」
呆れた様子の大きな溜め息もおまけについてきた。踵を返して棚へ向かい、元あった場所へ薬を片付けていく手に迷いはない。きちんと記憶しているのだろう。彼はそういう──優秀な、……優秀すぎる──男だった。
「サイモン」
「なんですか」
「後でお前もやるか」
サイモンは、何をですか、とは問い返さなかった。一瞬だけ手を止めて、それから振り返る。葡萄酒の色がサイモンをじっと見ている。しばらくそれを見返してから、サイモンは頭を振った。
「やめておきます。勝ったところで、『怪我をしていたから』と言い訳されても困りますからね」
「はは、自分が勝つ様を想像出来ていない癖にそういうことを言うもんじゃない」
無遠慮に切り捨てるような台詞に、ぱたん、とサイモンは音をたてて棚の扉を閉めた。
「……挑発のおつもりですか」
「そう聞こえたなら図星なんだろうよ」
ヘルムートの目が湛える酒はその底になにがあるかを見せない。サイモンの視線を飲み込むような、深く、暗い色をしている。……しばらく考える素振りを見せたあと、結局サイモンは目を伏せ、囁くように拒絶の言葉を口にした。それを聞いたヘルムートは、そうか、と気分を害した様子もなくあっさり引き下がった。それから勢いをつけて椅子から立ち上がる。
手足の屈伸をするヘルムートの背を氷の目が見ている。何を考えているのか、その眼差しから推し量ることは出来なかった。