なくし物の回収について 天幕の下に騎士達が整列している。その前に立っているのは立派な鎧姿の威厳ある男性騎士だ。
「ここは放棄する」
今回の作戦指揮官であるその男の宣言を、ヘルムート・チェルハは諦念のうちに受け入れざるを得なかった。これ以上この地に固執したところで利点は少なく、むしろこれは英断ですらある。だが、一点だけヘルムートには懸念事項があった。
「待ってくれ、ベラドンナがまだ戻っていない」
そう、別働隊として動いていた騎士がまだ戻っていないのだ。ベラドンナ・ヴェレーノ・カンタレラ、ただでさえ継戦能力が低く短期決戦向きの彼女である、もし帰還地点を失ったらどうなるかなど、詳しく述べるまでもない。
「……やむを得まい。これ以上待つ余裕は我々には無い」
しかし指揮官は頭を振る。……この返答もヘルムートの想定内ではある。今回の部隊の中には比較的若手の騎士もおり、彼らを安全に撤退させようと思うとギリギリまで出立を遅らせるというのは分の悪い博打でしかなかった。
――じゃあ俺が回収に行く。
そう言おうとしたヘルムートの先手を打ったわけではないだろうが、撤退にあたっての指示が早々に下される。若手を何部隊かにわけて熟練者を引率にし撤退させる、その引率を行えとのことである。成程、ヘルムートは勤続年数二十年を超えるベテランであり、常日頃から若手に気を配っているため信頼関係も構築されている。その役割を与えられるのは妥当だと言えた。……離脱したい旨を言い出すことなど出来るわけもなく、ヘルムートは部隊の編成を確認に向かった。
* * *
天秤にかけるべき事柄ですらない。これから先あらゆる可能性に満ちた未来のある若者をここで死なせてしまうわけにはいかないし、彼らを守ることは俺なら十分可能なのだから、それに全力を投じるべきだ。個人的な情に振り回されるような年頃はとうに過ぎた。自分のやるべきことを見失うな。
吐き気がする。
女の死体がどことも知れぬ場所に転がっている様が生々しく脳裏に浮かび、喉の奥から妙な唸り声のような音が漏れた。半身を引き千切られるような苦痛を感じる。だというのに俺の手はてきぱきと荷物を整理し、声をかけてきた後輩に落ち着いて指示を出すことも出来る。行動と感情が乖離していて、己のことをひどくおぞましい生き物のように感じた。
……吐き気がする。
ただ一人を救いに行くことすら出来ず、「やりたいこと」ではなく「やるべきこと」を信仰する俺は、ひどく、滑稽だ。
「……ベラドンナ、」
漏れた声は情けないくらいか細かった。握った手の甲を額に押し当てる。きつく目を閉じてゆっくりと深呼吸する。なるべく彼女のことを考えないように、意識の端に追いやるように努める。……ヘルムート、と呼ぶ声を思い出してしまった瞬間今までで一番強く胃が捻れるような感覚を覚えた。
「ぅ、」
堪らずうずくまり嘔吐した。ほとんど胃の中身などなかったから、げえげえと嘔吐いたところで出てくるのはほんの少しのどろどろした粥のような物体と胃液くらいだ。涙で視界が滲む。地面に爪を立てて必死に呼吸を整えながら、なんだかおかしくなってきた。俺は何をしているのだろう。体すら言うことをきかなくなってきているじゃないか。
――信仰を捨てよう、今だけでも。
口元を拭い、立ち上がる。……決めたなら早く動かなければ。時間は、あまりない。
* * *
「サイモン」
撤退準備をしていた若い騎士に声をかけたヘルムートの表情はどこか硬い。振り返ったその若者――サイモン・リドフォール、彼の息子でもおかしくないほどの年齢の騎士だ――は怪訝そうに眉を寄せ、己の先輩が浮かべている珍しい表情を見やった。笑みでもなければ困り顔でもない、緊張しているような、真剣な表情だ。
「どうされました」
姿勢を正したサイモンはヘルムートに向き直り、その言葉を待った。ヘルムートは少し沈黙した後、ゆっくり単語を選ぶように口を開く。
「俺が担当してる新人部隊の引率、お前に頼んでもいいか」
その言葉にサイモンは顔にこそ出さなかったものの驚いた。……ヘルムート・チェルハという騎士は身内、特に後輩や若手を庇護対象とみなしており、非常時にその側から離れることは滅多にない。何より、彼がサイモンに作戦上の「指示」や「命令」ではなく何かを「頼む」のは非常に珍しい。下手をすると初めてかもしれない。
「無理ならいい、可能かどうか考えた上で正直に答えてくれ」
「貴方はどうするんですか?」
この問いが返ってくるのは想定出来ていただろうに、ヘルムートは一瞬口ごもった。それからどこか後ろめたげな、だが切実な、思い詰めたような語調で答える。
「あいつを迎えに行く」
声が少し低いのは、……恐らく罪悪感を覚えているのだ。彼は、ヘルムート・チェルハは熟練の黒騎士として後輩達の規範となろうと己を律していたし、特別な理由がなければ命令には従うべきだと考えるタイプの保守派である。それがたった一人の黒騎士の……女のために与えられた役割を放棄しようとするなどと。その後ろめたさを察しているのか、サイモンはあまりヘルムートの目を見詰めないようにしていた。目を合わせるという行為は大抵の場合において相手に威圧感を与えるものである。
「ヘルムート卿の担当は四人でしたか……問題ありません、引き受けますよ」
少し思案した後軽く頷いてそう言ったサイモンにヘルムートはほっと息を吐いたが、申し訳なさそうに眉を下げたままで相手を見ている。葡萄酒色の目は普段に比べて少し滲むような色をしている。
「悪いな、こんな……俺の勝手に付き合わせて」
サイモンは瞬きをした後、どこか生意気な子供のように口角を上げた。そういった表情を浮かべると普段は冷たい印象の顔立ちが年相応に幼くなる。
「だって貴方、俺に我が儘言うの初めてじゃないですか。一回くらい良いですよ」
これで味をしめて何度もされては困りますけど、と冗談めかすサイモンにヘルムートは笑った。参ったな、と頭を掻く。
「ほら早く行って下さい。俺に協力させておいて失敗するなんて醜態を晒す貴方じゃあないですよね?」
「はは、わかったよ。……ありがとうな」
ヘルムートはその場から走り去り、サイモンはまたすぐに撤退の準備へと戻る。特に気負っている様子はなく、面倒をかけられたとも思っていなければ逆に頼られた喜びを感じているようにも見えなかった。あくまで外見は、であり、本当のところはわからないが。
一方のヘルムートは馬の繋いである場所へ到着し、一頭拝借するとそれに跨がった。少しでも速く目的地へ向かうため鎧は身に着けておらず、武器――普段使っている長柄の鎚――だけを馬に積む。ヘルムートはそこまで早駆けが得意ではないが、騎士である以上まったく乗れないわけでもない。よく慣らされ訓練されたエレイーネの馬である、多少の未熟は馬の能力でカバー出来ることを願うしかない。ヘルムートは真剣な面持ちで手綱を鳴らし、馬を走らせた。
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足を引きずり走る女。帰還ルートから外れ始めているが、修正する余裕はない。森の中に身を隠すようにしながら追手を振り切ろうとしているようだが、速度が足りず振り切りきれていない。太股に布が巻かれ、血が滲んでいる。普段であれば軽々とその体を運ぶ足が、今は重たい荷物でしかない。
女は……ベラドンナは、追手の気配がまだ遠いことを確かめてから大きな木に背を預けて立ち止まった。服の隠しから小さな瓶を取り出す。
毒だ。
逃げ切ることが出来ず捕虜となり情報を抜き出されてしまうくらいなら、という状況のために用意されていたそれを飲むことに、以前のベラドンナならさほど抵抗はなかっただろう。だが。
「……いやだ」
瓶を握る手が震えている。冷たく整った相貌が歪む。
「死にたくないよ、……いやだよ、ヘルムート……」
消え入りそうな声で呟いたベラドンナは、ふとなにか聞こえた気がして顔を上げた。何かが近付いてくる。新手かと思い後方を確認したその目に飛び込んできたのは、険しい顔で周囲を見回しながら歩いてくる一人の男の姿だった。その男――ここにいる筈がない!――を見たベラドンナはふらりと木の陰から歩み出て、それに気付いた男がまっすぐそちらへ駆けてくる。
「な、……なんで来たんだよぉ来ちゃ駄目だろこれ命令違反じゃないのか? でも来てくれて嬉しい大好き!」
足を引きずりながらその男、ヘルムートへ近付いたベラドンナは、不意に伸びてきた腕が自分を強くかき抱いたことに怪訝そうに眉を下げた。この行為自体はそこまで不自然ではないが――ヘルムートという男は他人との距離感が近い――、その腕はどこか強張っていて、いつもの軽口も出てこない。顔を胸に押し付けられているから、表情が見えない。
「……ヘルムート?」
ベラドンナがそっと名を呼ぶと、はっと息を飲んだ後に腕の力が緩む。体を離してベラドンナの顔を見下ろしたその顔はいつもと変わらない穏和そうな表情をしていて、ベラドンナは問いただすことも出来ず言葉を飲み込んだ。
「帰ろう」
馬は向こうに繋いである、と歩き出しながらヘルムートはベラドンナに腕を貸そうとする。しかし二人は不意に動きを止めた。……どうやら追い付かれたらしい。
「お前は自衛につとめろ」
「でも」
「いいな」
「……わかった」
ベラドンナがそっともう一度確認すると、背負っていた長鎚をその手に構えるヘルムートの横顔はやはりいつものそれだった。
無事に帰投した後、ベラドンナは医務室へ、ヘルムートは諸々の申し開きのため上司のところへと向かった。手当てが終わった後、自分のために命令違反をさせてしまったと落ち込んでいたベラドンナの元へやってきたヘルムートは特に変わった様子もなく、ベラドンナを優しく宥めてから寮の部屋まで送ろうとしたが、研究室に用があるという彼女に付き合ってそちらへと向かった。
研究室でベラドンナが用事を済ませている間ヘルムートは壁にもたれてそれを見ていたが、彼女が用事を終えたのを見ると不意に口を開いた。
「すまん」
唐突な謝罪だった。きょとんとした顔でそちらを見たベラドンナに、ヘルムートは罪を告白するような表情で言葉を続けた。
「俺は、……俺は一度、お前を見捨てようとした。優先順位がある、仕方ない、と自分に言い聞かせて……俺は……」
細く息を吐く。唇を少し震わせ、頭を振る。
「俺はいつもそうだ。大事なものを正しく大事にできない。愛してるはずなのに、嘘じゃないはずなのに……どうして……」
目こそ少しも潤んでいないものの、それはほとんど泣いているのと同じ嘆きだった。それを知っているベラドンナは困ったように眉を下げると、ヘルムートに向かって両腕を広げた。
「ヘルムート」
恐る恐る近寄ってきたヘルムートを抱き締め、慰めるように背中をさする。
「いいんだよヘルムート。お前は悪くない、冷静な判断をしようとしただけだ」
「でも、」
「最終的には助けに来てくれただろう? こうして悔いているのも、お前が優しいやつだからだ。そんなお前が好きだよ」
背を丸めて抱かれるままになっているヘルムートは、普段より一回りほど小さく見えた。自分よりも大分年下の女に慰められているその姿は捨てられた獣にも似ていて、息をするように敵を殺す冷徹な黒騎士には見えない。
「ベラドンナ……ベラドンナ、お前が大事なんだ、嘘じゃない……」
「知ってるよ。大丈夫、大丈夫だからな……」
大きな頭に頬を寄せ、子守唄でもうたうように言い聞かせるベラドンナの声は、普段の冷たさが嘘のように優しい。しばらくじっとしていたヘルムートは相手に頭をすり寄せてから顔を上げ、そっと耳元へ口付けた。くすぐったげに身をよじるのを抱き寄せ、今度は唇へ触れる。
啄むように数回、それから薄く開いた唇の間へと舌を差し込み、吐息ごと求めるような口付け。それは劣情によるものというよりも、ただ相手に触れたい、愛したい……そういった原始的な好意の発露のようだった。
「ベラドンナ……」
「……ん……」
ヘルムートの頭に手をかけ、くしゃりと髪の間に指を入れて引き寄せるベラドンナ。相手から求められたのが嬉しかったのか、ヘルムートは幸せそうに目を細めて口付けを続けた。二人の愛の確認はしばらくの間終わらず、窓の無い部屋では太陽も月も彼らのことを知らない。
ただ二人だけが、二人のことを、知っている。