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    百の刀が語るもの81.鉄冴月は平らげない82.杉原ノアムは囀ずらない84.聖方雅臣は譲らない85.百目鬼虎徹は黙らない88.橘めぐみは諦めない89.大峰虎は挫けない90.柳見安仁は祈らない92.入交羽純は見逃さない93.加賀見恭之介は止まらない96.室田涼は倒れない99.九角富嶽は退かない100.??????は語らない101.葵台路太は────81.鉄冴月は平らげない
     鉄冴月は壱段の刀遣いである。もうすぐ五十代に届こうかという熟練の刀遣いであり、教官資格も持っている。一見穏やかげで身形も落ち着いているその男は、その日も若い刀遣いに指導し、一人になってから軽めのストレッチをしていた。すらりと長い手足が伸びやかに動く。
    「鉄さん」
     そこへ、声が降ってくる。道場の床へ座り込んで足を伸ばしていた冴月が顔を上げると、見覚えのある青年が立っていた。青年は……葵台路太は神妙な顔で冴月を見ていた。いつもふわふわとした自然体の彼にしては珍しい。冴月が軽く首を傾げて見返すと、青年は慎重に口を開いた。
    「俺と、手合わせしてくれませんか」
     冴月は少し驚いた。路太という青年には何度か指導したことはあるが、素直で教えやすい生徒である一方、対人での勝負、手合わせは好まない気質である印象があったからだ。
    「いつでもいいので……時間のあるときにでも」
     遠慮気味に言う路太であったが、冴月は自ら前へ進もうとする若者を好ましいと思う気質の持ち主だった──三十を越えている路太が若者かどうかには議論の余地があるが──。ストレッチをやめ、服の埃を払いながら立ち上がる。表情は柔らかく、片目が前髪で隠れてなお威圧感はなく、穏やかな顔立ちに見える。
    「今からでもいいよ」
     それから優しい口振りでそう言った冴月に、路太は一瞬口を噤んでから、お願いしますと頭を下げた。


     路太はかつて冴月の指導を受けたことがある。まだ新人の頃である。特定の誰かに師事することをしなかった路太は様々な教官に薫陶を受けてきており、その中の一人が鉄冴月であった。三児の父であるからか、生来の気質か、冴月の指導は優しかった。無論それは甘いという意味ではなく、的確で丁寧であるという意味だ。指導の帰り、一緒に食べたラーメンは美味しかった。
     その新人時代の路太と、現在の路太には、力量以外にも違いがあるように冴月には感じられた。壱段を相手にして、戦意の萎えが最低限しかない。まったく萎えないというのは無理だったようだが、格上を相手にすると大幅に闘志を減衰させてしまう路太にしては上々である。
    「おいで」
     互いに向かい合って構える。そして静かに誘う冴月へ、路太は一呼吸してから踏み込んだ。
     冴月は余裕のある様子で路太の攻撃を受け止める。丁寧に受けてから捌くその所作は、相手の動きを分解して指導するための動きである。だが路太はそれをよしとはしなかった。冴月に向けられている眼差しは素直な生徒のものでもなければ、何事にも淡白で眠たげな青年のものでもなかった。どこか静かで、だが何かを求めているような、深く吸い込むような黒。
    「……貴方の刀が見たい」
     そう、囁くように言う路太。冴月はぱちぱちと瞬きをすると、少し面白そうに目を細めた。そして突然路太へと打ち込んでくる。なんとか受けた路太を見ると、更に一撃の重さが跳ね上がった。
     鉄冴月という刀遣いはその雰囲気とは裏腹に、力強い剣をしていた。激しい太刀筋は路太に一息つく間も与えない。指導をする時とは違って容赦のないそれに、路太は気圧されながらも落ち着かない気持ちになった。心臓が高鳴るのは緊張のせいだが、それが高揚か恐怖かそれ以外かはわからなかった。
     重たい。刀も、プレッシャーも。壱段との打ち合いは初めてではないが、慣れることはまったくない。苛烈だが凶暴ではない彼の攻撃になんとか対応し、必死に食らい付く路太はじっと何かを見出そうとしている。速度と持久力に優れているが決定力に欠ける路太は、防戦はなんとか出来たものの、攻撃に転じることが出来ずにいた。
     一方の冴月は、思いのほか食い下がる路太に感心するように眉を上げた。明らかに路太よりも余裕があり、危なげはない。四十路も後半に差し掛かっている冴月であるがその刀に衰えはなく、静かな眼差しで路太を見ながらも一撃一撃容赦のない攻撃を打ち込んでいた。激しい打音が周囲の空気を震わせる。
     凄まじい集中によって紛らわせられていた疲労が徐々に表出してきたのか、路太の額に汗が滲み始めていた。防戦一方では消耗するばかりである。だが、結局路太は冴月が攻勢に転じて以降一度も主導権を取り返すことが出来ないまま、力尽きるようにして打ち倒された。
     体力というよりも気力を削り取られた路太は、一礼をした後、荒い呼吸を整えながら思考する。
     ──俺と彼との何が違う。強さだけではない、何か、別の何かがそこにある筈だ。意志薄弱と誹られる俺と、苛烈さと揺るがぬ穏やかさを併せ持つ彼との、違いが。何か。
    「そうだ、葵台くん」
    「はい」
     不意に声をかけられ思考を中断し顔を上げた路太を、冴月はあくまでいつもと変わらない様子でこう誘った。
    「ラーメン、食べに行こうか」
    「……はい!」
     その後、二人は天照近くのラーメン屋でしょうゆラーメンとみそラーメンを食べた。ラーメンは、いつかと変わらず美味しかった。


    82.杉原ノアムは囀ずらない
    「よ、杉原。前いいか?」
     かつての──鯉朽隊時代の──先輩に食堂で声をかけられた青年は、ゆるゆると瞬きをしてから微笑んだ。
    「どうぞ」
     杉原ノアム、肆段の刀遣いである。わずかに頭を傾けるとさらさらと髪が流れ、繊細そうな顔立ちを際立たせている。一方、少し癖のある髪をしている先輩、葵台路太は、人懐っこい笑みを見せてからノアムの前の席を引いて座った。机に置いたのは今日の日替わり定食だ。
    「久し振りだな、元気してるか?」
     カキフライを一つ一口で食べてから、そう切り出す路太。ノアムは少し考えてから頷いた。
    「ええ……はい、毎日充実してます」
     ゆっくりとした会話のペースは彼の思慮深さを表している。それを焦れったく感じる人間もいるかもしれないが、少なくとも路太はそうではなかったため気にした風もなく箸を動かしている。
     杉原ノアムは数年前まで路太と同じ鯉朽隊──殉職率トップの切り込み部隊──に所属していたが、今は緋鍔局で情報分析やサポートにその思考能力を活かしている。彼の鯉朽隊での手痛い失敗とその直後の異動については路太も少し気にしていたが、お互い多忙なのもあり中々改めて話すことも出来ずにいた。
     ご飯、味噌汁、それからまたカキフライ。食事をしながらその合間にぽつりぽつりと近況の確認や仕事関係の話をする路太に、ノアムは穏やかに相槌を打ち耳を傾けている。
     食事を終え、一息ついた路太は頬杖を突くとノアムの顔を見た。眠たげな垂れ目に威圧感はまるでないが、ノアムはなんだか居心地が悪いような気がして少し首を傾げた。
    「どうだ、今度久し振りに一勝負。道場で」
    「……え?」
     その誘いに、ノアムの反応は少し遅れた。彼が記憶している限り、葵台路太という人間は手合わせを好まない人間だった。後輩への指導はたまにしているようだったが、あまり好戦的でないというか、勝負としての手合わせをすることは滅多になかったように思う。真意を探るようにノアムは路太を見つめ返したが、特にこれといって裏はなさそうに見えた。
    「そうですね、ええと……構いませんよ」
    「そうか。金曜とか土曜とか、どうだ」
    「……金曜の午後なら」
    「ん。じゃあ十五時、空いてるか?」
    「はい」
     交渉は滞りなく進み、約束を取り付けた路太は満足げに笑うと食器の乗ったトレーを持って立ち上がる。それを目で追ったノアムは、一瞬照明で目が眩んだため、路太の表情をよく見ることが出来なかった。
    「じゃあ、金曜日」
    「ええ、また」
     食器の返却口へと向かう路太の背には相変わらず圧迫感がなく、ゆるゆるとした足取りは熟練の刀遣いのそれには見えなかった。十年鯉朽隊で生き残ってきた、弐段の刀遣いには、到底。


     金曜日の十五時、天照本部内の道場にて。道着を着た二人の刀遣いが対峙している。葵台路太と杉原ノアムである。互いに一礼した後、その試合は静かに始まった。
     誘われるまま打ち込んだノアムの一撃を、路太が危なげなく受け止め、払う。……路太が把握しているノアムの段位は肆段である。こうして対峙し、一太刀受けてみてもその印象は大きくは変わらなかった。優男然とした風貌に似合わずというべきか、どっしりと落ち着いた安定感のある構え。きちんと思考して振るわれる刀。路太としてはやりやすい相手である。感覚と本能任せで突っ込んでくるような相手は対応しづらくてあまり得意ではない。
     だが、しばらく刀を交わすうち、路太は少し違和感を覚えた。今のノアムが振るう刀は、路太が知るノアムの刀とは少々違うような気がしたのである。悪い変化ではない、前に進もうとしている印象だ。この分であれば、参段への昇段に挑戦しても、あるいは。
     なるほど、と思いながら路太はじっとノアムを観察する。柔らかく攻撃を受け防戦寄りの対応をする路太に、そしてそれが全く突き崩せないことに、ノアムは少し焦れ始めていた。明らかに試合を長引かせられている。爆発力がない代わりに継戦能力の高い路太に長期戦に持ち込まれては、かなり不利である。
     ノアムが、攻勢に出る。路太は小さく息を吐くと目を細めた──それは笑いに似ていた──。そうだ、来い、お前の本気を見せてくれ。嘘のない、お前の刀が俺は見たいのだ。
     その試合は随分長く続き、劇的な展開を見せることもなく、じわじわと路太が押し切るようにして決した。
    「……何か……心境に変化でもあったのか? 刀の鋭さが増した気がする」
     試合の後、そう声をかけられたノアムは少し驚いたように目を瞠ったが、迷うように口を動かした後、眉を下げてただ一言。
    「刀神に相応しい刀遣いになりたいので」
     今度は路太が目を瞬かせた。そういえば最近ノアムは固定バディを得たという。詳しくは知らないが、この様子だと関係は良好なようだ。
     ──相棒に相応しくなりたい。なるほど、それは理由としてわかりやすく、正統派で、真っ直ぐだ。
     路太はじっとノアムの目を覗き込み、そこに澱みや濁りがないことを確認してから、ふと目を逸らした。
    「そうか……いいことだな、頑張れよ」
    「はい」
     それから一言二言アドバイスをし、お互いに健勝を祈ってから別れる。道場を後にし、見回りの時間が近づいているため刀の貸し出しへと向かう。通常の見回りであれば刀神の力を煩わせるまでもないとの判断で、支給されたのは豊和だ。慣れた仕草でホルスターを巻き、刀を差す。それから外へと向かった路太は、なんとなく己の腰を撫でた。そこにあるのは武骨な豊和で、何かを語りかけてくることはなかった。


    84.聖方雅臣は譲らない
     二人しかいない道場。年嵩の男と、その息子ほどの年齢の青年。互いに道着姿で木刀を構えており、これから手合わせを始める様相である。時刻は夕方、窓から差し込む日は橙色を帯びてきている。
     年嵩の方、聖方雅臣は鯉朽隊に所属する壱段の刀遣いである。年は還暦に届こうかという頃合いだが、その剣に未だ衰えはない。自分の息子であってもおかしくない年頃の青年を前にして立つ姿は自然体で、隙がなかった。長い白髪がひとまとめにされ尻尾のように腰下で揺れ、赤い目はまだ静かな光を湛えている。
    「手合わせは望むところだがよ、珍しいな」
     向かい合う青年はわずかに首を傾げ、木刀を握り直した。葵台路太、鯉朽隊所属の弐段。長身ですらりとした体躯だが顔立ちはどこか眠たげで、高段位者の雰囲気はまるでない。
    「いけませんか」
    「いけなくはねぇよ、ま、やるからには本気でやれよ!」
     道場の空気は張り詰め、戦場いくさばのそれだった。その空気を雅臣はものともせず、むしろ楽しんでいるようにすら見えたが、一方の路太はわずかに唇を引き結んだ。……葵台路太という刀遣いは、戦意を高揚させるのが苦手だった。特に相手を格上とみなしてしまうとその気持ちは萎えてしまうことが多かった。雅臣が己より格上であることは段位だけ見てもわかるし、こうして実際相対しても感じ取れる。今回は己から誘った手合わせであるため試合放棄こそしなかったが、それでも剣気や気合いと呼ばれるようなものはじわじわと減じてしまっていた。
     一瞬、雅臣が何かを懐かしむような目をしたような気がした。路太がひとつ瞬きをする間にそれは消え、鋭く細められた紅色の目が視線の先から外れる。
     雅臣は苛烈な気質であるとして知られているが、しかしてその剣は“柔”。姿勢を低くし一気に距離を詰めた後放たれた切り上げになんとか対応した路太は、その強さではなく角度に怖気を感じた。単純な膂力だけ見るなら上を行く者はこの天照には何人もいるだろう。だがその一撃は力ではなく技術で路太の刀を奪い取ろうとしていた。指をなんとか引き剥がされずにすんだのは、雅臣がまだ本気ではなかったか、偶然タイミングが外れたからにすぎない。
     だが次はない。次に武器落としを狙われればまず間違いなく路太は無力と化すだろう。それを許してはならない。路太は見極めなければならないのだ、聖方雅臣という刀遣いの剣を。その剣筋を、こころを、言葉を、打ち合う刀から読み取らなければ。
     萎えかけている戦意をなんとか維持し、路太は踏み込んだ。実力自体はあるのだ。伊達に鯉朽隊に──死地に──十年も身を置いてはいない。目の前にいるのは妖魔ではなく同じ刀遣いだ、逃げる必要はないのだ。戦え、戦え!
     切り込んでくる路太に、雅臣は面白そうに眉を上げた。萎えた戦意でよくやる、と感心すらした。だが、そんな震えた剣が格上に通用するとでも?
     聖方雅臣という男は遅咲きの刀遣いで、結構な年齢になるまで段位も低迷していた。なんなれば臆病ですらあった、とも言える。それを路太が知るすべはないが、路太のその精神的な惰弱さは雅臣の過去にも通じるものがあった。そしてその弱点を乗り越えたか否かが、壱段と弐段の決定的な差だった。技術だけでは壱段にはなれない。意思だけでも。ちからとこころ、両方を研ぎ澄ませて始めて“壱段”という高みへと至ることが出来る。
     ……迎え撃つ刀に容赦はない。雅臣の柔軟な剣は路太の攻撃のすべてを危なげなくさばき、反撃の切り返しは鋭い。押し込まれ、体勢を崩し、後ろへと下がらされる路太。駄目だ、という諦めが一瞬その脳裏を過った瞬間硬い音が響く。路太の手中から刀が消えていた。床を打った木刀がからからと回転し、静かに止まる頃には既に道場の空気は緊張を解いていた。
    「……参りました」
     静かに頭を下げる路太を見る雅臣はなにか言いたげな様子で顎を擦り、結局黙らずに口を開いた。
    「葵台、お前さん何かあったのか?」
     痺れる手を振りながら顔を上げた路太は、少し迷うように唇を薄く開いた後、閉じて、また開く。
    「知りたいんです」
    「うん?」
    「刀遣いが何を思って刀を握るのか、何を思って戦うのか、俺はそれが知りたい。だから……実際に刀を合わせたいと思ったんです。言葉よりその方がわかるから」
     黒々とした目が雅臣を見、それからゆるゆると視線を逸らす。苦笑がその唇に乗る。
    「まあ……まだ全然わからないんですけど」
     ふうん、と何やら考えるような相槌を打った雅臣は、少し間を置いたあとにっと笑った。不意にその大きな手が路太の背を叩き、たたらを踏ませる。
    「いいじゃねえか、頑張れよ若人! 俺は悪くないと思うぜ!」
     ぱちくりと瞬きをした路太は雅臣をまじまじと見つめ、それから眉を下げて笑った。少しだけ肩の力が抜けたようだった。
    「ありがとうございます」
     力の抜けた、気負いのない礼の言葉に、雅臣は満足げに目を細めた。


    85.百目鬼虎徹は黙らない
     道場に剣戟の音が響く。壱段と弐段の戦いである、そこには凄まじい緊張感と熱が、
    「ほら、もっと来てよ路太サン! 折角だし楽しみましょ!」
     あるにはあったが少し──とても──騒がしいものだった。


     その青年は手合わせの最中だというのに口がよく動き、しかし刀も全く止まらなかった。壱段に昇段してからまだ一年も経っていないし三十歳にも満たないがその力量は申し分なく、相手の攻撃を的確に防いでいる。百目鬼虎徹、壱段。無所属の刀遣いである。恵まれた体躯を持ち、その背は相手よりもゆうに十センチは大きい。左の目は閉ざされており、火傷がその上を這っているのもあって物々しい雰囲気である。
     相手の方はといえばこれといった特徴のない地味な青年だった。名を葵台路太、弐段、鯉朽隊所属の刀遣い。年の頃こそ虎徹とそう変わらないものの、基本的に穏やかで社交的、平和主義者であり、……虎徹のようなタイプの人間と一緒にいるのは珍しい。更に加えて言うと、こうして誰かと手合わせをしていること自体が珍しかった。
     路太が何を思ってこんなことをしているのかは彼自身しか知らない、彼自身ですらしっかりと自覚しているわけではない。ただ“知りたい”と思った。自分以外の誰かが何を思って刀を握っているのか、何を思って天照という場所で戦っているのか、それが知りたいというだけのある種無邪気ですらある欲求だった。切実さに欠ける欲求は──あるいは切実であったかもしれないが自覚していなかったので──路太になりふりを構わせ、彼が戦いに誘うのは誘いやすい相手に限られていた。
     路太は虎徹とそこまで親しいわけではないが、彼が手合わせを好む気質であることはその付き合いでもわかっていた。路太が手合わせに誘った時も二つ返事で了承し、準備運動もそこそこに試合へと持ち込んだ虎徹は、なるほど楽しそうに見える。
    「珍しいですよね、路太サンから誘ってくるなんて! どういう風の吹き回し!?」
    「ちょっと、お前とやり合ってみたくて、な!」
     虎徹の口は止まらないが、路太の方にはあまり喋る余裕はなかった。力量には明らかな差がある。また、虎徹の剣は烈しく、路太のような落ち着いた剣とは上手く噛み合わない。なんとか対応している路太ではあったが、勝ちの目は見えていない。
     だが打ち合いがすぐに決することはなく、道場は賑やかであり続けた。虎徹は笑いながら声を張り上げる。
    「楽しいね、路太サン!」
     鳶色の目が路太を見下ろす。何かを見極められている。遊ばれているだけではない。楽しいから長引かせようとしているのだろうと判断していた路太だったが、もっと別の理由がそこにあるように感じた。
     だってそう、そうだ、彼の目は、笑っていない。
    「……どうしましたァ?」
     にい、と細められた目。打ち下ろされる刀。なんとかそれを受け、反撃を試みる。通るが、浅い。やはり決定打にはならない。路太は継戦能力が高いタイプであり体力にはそれなりに自信があったが、打ち合いがここまで長引いてはいい加減に疲労感を覚え始めた。というのに、虎徹はまだ涼しい顔をしている。
    「これで終わり? そんなことないでしょ? まだ出来ますよねぇ!」
     まだ虎徹の剣は鈍らない。ぎりぎりまでこちらの中身を引きずり出されるような感覚が路太の産毛を逆立てさせる。普段であれば眠たげな眼差しはどこか焦燥を帯び始め、呼吸がほんのわずかに乱れている。その時ふと、虎徹の気配が変わったような気がした。
    「!」
     視認できる限界の速度で刀が迫る。まともに受けてはただでは済まないだろうそれになんとか対応しようとした路太は、体力が削れていたせいもあり、あっさりと刀を弾き飛ばされていた。
    「……参った」
     じんじんと痺れる両手を挙げる。そんな路太を見て虎徹は唇を尖らせた。
    「えー! まだ出来るでしょ、もうちょっとやりましょうよー!」
    「無茶言うな、お前に付き合ってたら体がいくつあっても足りない」
     ──大体、俺が限界なことくらい見抜いている筈だ。だから終わらせたんだろう? これ以上引き出せるものはないと見切りをつけて。
    「お疲れ、付き合ってくれてありがとな」
    「ん! 次はもっと付き合ってくださいよ!」
    「はいはい」
     道場を後にした路太は、廊下を曲がってから大きく息を吐いて壁へと背を預けた。見下ろした手はまだわずかに痺れている。じっとりとした嫌な汗が肌にまとわりついている。……あれが、百目鬼虎徹壱段だ。同じ壱段でも冴月のような指導のために受け止めてくれる剣とは違う。なにか底知れぬ穴を前にしたような、拒絶感に似たものを路太は感じていた。
     細く長い溜め息を吐く。何かが聞こえるようで聞こえない、見えるようで見えない、届くようで届かない。何を求めているかも自覚しないまま、路太は頭を振るとシャワールームへと歩みを再開した。


    88.橘めぐみは諦めない
    「俺はあなたが知りたい。何を思って戦うのか、その刀に何があるのか、知りたい」
     青年の静かな声。普段より落ち着いて聞こえる。己より年下の、だが段位も勤続年数も上のその青年を前にして、男は息を飲んだ。
     男の名は橘めぐみ。刀遣いとなってまだ数年の、これといってぱっとしない雰囲気の中年男性である。肆段、無所属、華々しい戦果も特になし。その彼が相対している青年は、こちらもまた地味な雰囲気ではあったがその実弐段で、十年鯉朽で働く刀遣いであった。
     青年の名を、葵台路太という。段位のわりに威圧感はなく──ほとんどないと言っていい──、めぐみを見る目は眠たげに目尻を下げている。だが、それに油断するほどめぐみは楽観的な男ではなかった。
     ──俺と打ち合いませんか。
     道場で訓練していためぐみにそう声をかけてきた路太は彼にとって見ず知らずの相手というわけではなかったが、友人と呼べるほど親しいというわけでもなかった。また、弐段である彼が指導を頼まれたわけでもないのに肆段の人間との戦いを望む理由もわからない。めぐみは戸惑ったが、了承した。……そしてその時、路太が少しほっとしたように肩を下げたのを、不思議な気持ちで見ていた。


     普通にやっても勝負にはならないだろう。とはいえ路太もわざわざ誘っておいて一瞬で終えたいわけではない。その結果提案されたのは無限試合であった。どちらかが戦意喪失するまで続く──地面に膝をついても立ち上がることが出来れば、刀を弾き飛ばされても拾うことが出来れば続行──、つまりは耐久力と意思力の勝負だ。路太が不得意とする形式であるが、相手が格下である以上たいした不利にはならない筈だった。
     路太は何度かめぐみと任務で会ったことがある。無所属であるめぐみは度々補充人員としてかり出されることがあり、万年人手不足の──というよりいくらいても困らない──鯉朽隊と共に行動することは少なくなかった。その時に話したことくらいはあるし、助け合ったこともある。めぐみは路太がいるような激戦区にいることこそ少なかったが、そのしぶとさについて目や耳にしたことはあった。この試合形式であればその気質を引き出せる、本質を引きずり出して見定められる、そう路太は判断していた。
     それが間違いだったと気付くのは、めぐみを何回か打ち倒した後だった。
     動きは悪くない。元々スポーツでもやっていたのかもしれない。また、現状肆段ではあるが、昇段試験へ挑戦しても問題ないように思えた。その目から伝わってくるのはぎらぎらとした殺気ではなく、静かで重たい執念だ。その執念が、いつまで経っても萎える様子がない。刀を弾き飛ばされても飛び付いて拾い、床へ転がされても跳ね起きる。もし路太とめぐみの立場が逆であればとっくに降参しているだろう。
    「……無理だ。あなたじゃ俺には勝てない、一太刀だって入れられない。そんなことわかってる筈でしょう、いい加減に、」
     もうめぐみの攻撃に精彩などまるでない。それでも振るわれた刀を、路太は困惑した表情のまま受けた。どうすればこの男は戦意を喪失するのか考える。骨を持って行く? そこまでしたいわけではない。であれば出来ることは限られる。刀を握る手が少し上へ持ち上がった次の瞬間、ひゅ、と空気が鳴る。握った拳の甲で、めぐみの顔が横から張り飛ばされていた。刀ではなく徒手による攻撃は褒められたものではないが、禁止はしていない。骨が折れるほどではないとはいえ容赦のない殴打を入れておきながら路太は少し浮かない顔をしている。元来暴力は好まない男である。
     めぐみがふらついた体勢を立て直し、ぼた、と道場の床に血が落ちた。鼻腔から垂れたそれを手の甲で拭って、それでもめぐみは路太を見据えた。路太が唇を噛み、ゆるく頭を振る。ふつう、顔への攻撃は大幅に相手の戦意を萎えさせるのだ。出血も同様に。負傷や血で高揚する刀遣いは少なくない数いるが、それは本来まともな人間の感覚ではない。
     一体この男は何なんだ後で床の掃除をしなければ、と二つの思考を同時に走らせてしまい一瞬逸れた路太の意識を感じ取ったのか、めぐみが踏み込んでくる。いなせない攻撃ではない。路太は危なげなくそれに対応したが、まったく落ち着けずにいた。己を見据え続けるめぐみの目を見る、その黒々とした瞳と眼差し、震える腕、構えを維持するのがやっとだろう様子にぐっと眉を寄せる。がくんと気持ちが萎えるのがわかる。
    「これ以上はやりません、俺はいやだ、こんなの試合じゃない……!」
     路太は刀を構えるのを、やめた。切っ先が下げられ、片手で無造作にぶら下げた状態になる。弐段の刀遣いでありながら、肆段の刀遣いを前に試合を投げた。
     路太が感じているものは恐怖に似ている。振り落としても振り落としても這い上がる相手は、己よりよほど強靱に路太には思えた。自分にないもの、強い意志、執着、あるいはもっと根源的な何か。橘めぐみという男はまだ刀遣いとしての歴は浅く、元々武道をおさめていたというわけでもない筈である。前歴はごく普通の会社員だと聞いているが、これは“何”だ?
     路太が構えを解いたのを見て、めぐみは細く長く息を吐いてからゆるゆると床に座り込み軽く頭を下げた。
    「……ありがとうございました」
     最後まで彼は、参ったと言わなかった。


    89.大峰虎は挫けない
    「……」
     大峰虎、肆段。二十歳そこそこのその若者は、天照本部の端にある訓練場で人を待っていた。運動着を着て模擬刀を持ったその様は明らかに訓練を目的としたそれである。
    「あれ、早いな……待たせたか?」
     そこへやってきたのは同じく運動着を着た葵台路太である。三十二歳で弐段のその男は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべて虎を見た。
    「あ、いえ、大丈夫です! えと、……今日はここでするんですか?」
     虎が振り仰いだ先には、少し変わった戦場。工事現場にあるような足場が組まれていたり、コンテナが配置されている。障害物や高低差を利用した戦いの訓練をする場所だ。
    「普通に道場でやっても一瞬で終わるだけだろ」
    「ぐ」
     痛いところを突かれて呻いた虎を見る路太の目は眠たげに目尻を下げているが、どこか真剣な様子でもある。
    「最後の一滴まで絞り出すところが見たい。……お前の刀を見せてくれ」
     ひゅっと息を飲んだ虎は、刀を握り直してから真っ直ぐ路太を見て、はい、と静かに答えた。


     大峰虎という刀遣いには、負傷で前線を退いていた時期がある。そのまま引退せずに復帰した詳しい経緯を路太は知らないが、そこには何らかの意思や執着があるだろうと推察していた。何度か任務で一緒になったことはあり、その時の様子からしても虎という若者は前向きで挫けない気質の刀遣いであるように思えた。……路太にとってそういった人間は、眩しい。彼には情熱や執着といったものが欠けていたので──少なくとも彼自身はそう認識していたので──。
     訓練場の端と端に立つ。遠く離れていても相手の緊張がわかり、路太はそっと目を細めた。それからゆっくりと深呼吸をしてから、声をあげる。
    「大峰、準備はいいか!」
    「はい!」
     元気な返事に頷き、足元から小石を拾い上げる。それを投げるべく、構えた。
    「これが落ちたら開始だ、いくぞ!」
     そしてコンテナの上へ向けて投げ上げた。放物線を描いたそれは、コンテナの屋根に落下し高い音を響かせる。……が、戦場は未だ静かだった。ゆっくりと歩くように距離を詰める路太はまるで散歩でもしているようである。虎は開始と同時に障害物の間に姿を隠し、気配を消した……ように見えた。
    「逃げろ、隠れろ、は俺もよく言うけどな」
     甘い、と囁くように告げた路太が突然走り出し足場の下を滑るように回り込みながら刀を構える。“それ”が視界に入った瞬間放たれた一撃はぎりぎりのところで空を切る。足場をうまく支柱にしてぐるりと上へとよじ登ったのは虎だった。路太を見下ろす表情は硬い。それを見返して、路太は眉を持ち上げてみせた。ここからどうする? しばらくのにらみ合いが続いた後、先に動いたのは虎であった。だ、だん、と足場を蹴り滑空するより速く地上へと迫りながら路太へと肉薄する。
     刀が打ち合う音。
     純粋な打ち合いに持ち込めば、力量の差は明らかだった。弐段、それもそこへ至ってから長い路太と、肆段の虎の間には高い壁があった。路太にはどこか余裕があり、必死に打ち込んでくる虎を観察する余裕すらあるようだった。
     ──さあ見せてくれ、お前の刀を。俺にはないものを、教えてくれ。
     大峰虎という若者の刀は、かつては若く荒削りでがむしゃらだった。今でもその名残はあるが、どこか一本芯が通ったような雰囲気が生まれていた。路太はその成長を好ましく思ったし、その理由を知りたいと思った。……他人に対して良くも悪くも興味がなかった路太が、刀を通じて相手と対話することの喜びを知り、こうして誰かを誘うようになったのもまた成長と言えるが、本人にはその自覚はなかった。
     対する葵台路太の刀は、素直で迷いのない剣だった。明確な流派もなく、癖もない。柔らかく自由だ。水面、あるいは揺れる梢。虎にとってはあまり馴染みのないものであり、ゆえにそれへの対応に苦労し、その分余計に疲れているようだった。
     鈍り始めた虎の刀を路太が押し切る。虎の右手が刀の柄から離れ、体勢が崩れる。そこへとどめの一撃を入れるべく刀を返した路太であったが、ざわ、と産毛が逆立つような感覚。咄嗟に追撃を中断し下がった相手に、虎は少し面食らったように瞬きをしてから笑った。
    「どうしました?」
    「右手」
     刀から片手を離すなどと剣術のみでの手合わせであれば正気の沙汰ではないが、一瞬意識の外へ消えた右手に「警戒すべし」と路太の直感が反応したのだ。今はもう両手で刀が握られており、虎の右手におかしな様子はない。だが、少し慎重になった路太へ、虎はなおさら踏み込み難くなった。
     それでも虎は倒されはしなかった。何度切り込んでもあしらわれ、体力も削られ、手が痺れてきてもなお退かなかった。障害物を利用して攻撃を防いだり一時離脱したりと様々な手段を使い、格上相手にしぶとく食らい付いてくる虎の熱に路太も段々と引きずられつつあった。刀がのびのびと振るわれ、その“対話”は軽やかだった。
     虎がひらりと足場へと乗って間合いを大きく広げる。追おうとした路太へ向かって飛びかかるべく足場を蹴る、それを受け止めるべく路太は構えたが、突如虎が何もない場所で加速した。宙に符が舞ったのが見えた。……風の符! 圧縮した空気を足場に加速したのか!
     予想外の行動であっても対応出来ない路太ではないが、加減をする余裕はなかった。反射的に迎撃したその刀は、虎を容赦なく地面へと打ち倒した。呻き声が聞こえる。立ち上がろうとして、不可能だと判断したのか、ようやく虎は絞り出すように「参りました」と言った。


     ぜえぜえと息をしながら地面に寝転がっている虎を、ほとんど息を乱していない路太が見下ろしている。
    「……お前、どうして天照に入ったんだ? どうしてそんなに……」
     ──ひたむきで、諦めが悪くて、眩しい。
     途中で切った言葉の続きを知ってか知らずか、虎はその青みがかった目で路太を見た。にっと笑うと少し顔立ちが幼くなる。
    「俺、昔からヒーローに憧れてて。正義の味方っていうか……そういうのになりたくて」
     その言葉に嘘はないように聞こえる。実際、大峰虎という青年はこの場面で嘘をつくような若者ではない。……が、本質的ではないように路太は思った。この軽い口調で語られる理由が、あの不屈を産むとは思いにくかった。彼の刀は、なにか、もっと切実なものを宿しているように思えたのだ。路太は少し迷ってから、結局それ以上は訊かずに虎の隣に座った。
    「いいな、それ。俺もまあ……人の役に立つかなと思ってこんなところに就職したから、似たようなもんだ」
     路太の言葉にも嘘はないが、本質的ではない。本人も己の本質を自覚していないためどうしようもないことではあるが。
     そうして二人は訓練場の真ん中で──片や寝転び、片や座り込み──先ほどまで激しい打ち合いをしていたとは思えない穏やかさでぽつりぽつりと話をしている。まだ訓練場の貸出時間には余裕があり、話す余裕はたっぷりあった。
    「ふうん」
     それを少し離れた場所から面白そうに眺めていた着流し姿の観客刀神が、にんまりと目を細めた。


    90.柳見安仁は祈らない
    「俺と打ち合ってくれないか。……お前の刀が、見たいんだ」
     その青年の、葵台路太の言葉に、柳見安仁は少しだけ黙った。手合わせというものに積極的でなかった筈の路太が、真剣な表情でこちらを見ている。……定時での終業後、帰り支度を始めたところのことである。
    「……ええやろ、道場の予約取っとき」
     安仁は静かにそう答え、路太はほっとしたように眉を下げた。
    「明日の午前中に第二道場で、木刀でいいか?」
    「ああ、いや……第三がええんちゃうか」
    「第三? まあお前がそっちの方がいいなら」
     第二道場と第三道場の差は見学席の有無くらいである。第二にはあり、第三にはない。特にどちらでないと駄目というわけでもなかったため、安仁の提案をあっさりと飲んだ路太はその足で道場の予約へと向かった。


     次の日、天照本部第三道場にて。道着に身を包んだ二人の男がそこにいた。
     柳見安仁、弐段。一見細身で小柄であるが、鯉朽隊に所属する熟練の刀遣いである。涼しげな目元は今日も感情の読み難い色で相手を見てから、軽く会釈した。
     葵台路太、同じく弐段。すらりとした長身の青年は、年の頃は安仁と変わらない。やはりこちらも鯉朽隊所属の中堅はとうに過ぎた刀遣いで、眠たげな垂れ目が安仁を見下ろしわずかに細められた後、頭を下げた。
    「じゃあ、始めるか」
    「いつでもええぞ」
     静かに構えている安仁の立ち姿に隙は無い。路太はそっと息を吐いた。実力にそこまで大きな差はない、筈である。少なくとも壱段ばけものを前にした時のような絶望感はない。だが、だからこそ、ぴりぴりと空気が引き締まる。二人きりの空間はしんとしていて、邪魔なものはなにもない。
     まずは、と路太の挨拶代わりの踏み込みと剣閃に、馬鹿にしているのかとでも言いたげな鋭い反撃。一瞬、真剣が振られたかのような圧を感じる。これは下手をすると腕の一本では済まないかもしれない、と路太はわずかに眉を寄せた。
     ──速い。
     一撃一撃が軽く、だが、致命。その太刀筋を見るのは初めてではなかったが、いざ相対した状態でこの身に受けるとなると、感じるものは全く違った。体の奥に響くこれは何だろうか。対話と呼ぶには苛烈で、判じる余裕もない。殺気、あるいは剣気とでも呼ぶべきか、人の身に宿すには強すぎるそれが安仁から滲んでいる。いや、……滲ませている、のだろうか。
     下手をすれば腕の一本では済まないだろう、というのはあながち誇張でもない。柳見安仁はその身の内に練り上げられた執念を抱いている。容赦のない振る舞いに路太は、正直、振り回されかけていた。元々戦意や殺気に欠ける男である。それでもなんとか食らい付いていけるのは積み重ねた鍛錬と経験による地力があるからだが、そんなものは安仁も当然持ち合わせている。
     ただ、路太も必死であった。柳見安仁という男の強さを、執念を、知りたいと思っていた。何をしていいかもどこへ進めばいいかもわからなくて、そのことにすら気付いていなかった自分と、かつてバディを失い死にかけてなお戦場へ舞い戻ったこの男、その違いを知りたかった。
     じりじりと戦意が持ち直す。打ち合いが芯を得る。「遅い」と言う安仁の声が聞こえたような気がした次の瞬間、もう一段階速度が上がった。それに遅れずついていく路太。もう振り回されてはいない。どこか迷いの残っていた眼差しは、黒々と澄んでいる。
     苛烈で、判じる余裕もなく、だが、これは確かに対話であった。目を逸らさず、声もなく、二人の戦士が語り合っている。“刀”という共通のことばで交流している。
     それはどこか舞いに似ていた。荒々しく、激しく、優美さなど欠片もないが、一分の隙もなく打ち合う様はそういう風に事前に決められた振り付けのようだった。弓の弦がぎりぎりまで張り詰めたような空気がそこにある。そこから少しでも足を踏み外せば、真っ逆さまに落下する。力量が拮抗している今、求められるのは精神力だ。いかに揺らがず、恐れず、信じられるかだ。……そうなれば、不利なのは路太の方だった。
     であるから路太は、勝負に出た。思い切って踏み込み、隙は出来るが強撃を。じりじりと押し切られて負けるよりも、僅かに見える勝ちの可能性を掴むべく。
     大きな音が響き、木刀が弾き飛ばされる。壁にぶつかってから床を滑ったそれを、誰も目で追わない。安仁の木刀の切っ先が、路太の胸を貫ける位置にあった。
    「……参った」
     静かな声が、手合わせの終了を告げる。太陽は既に高く昇りつつあった。


    92.入交羽純は見逃さない
    「うん、問題ない。キミが嘘ついてなきゃね」
    「医者に嘘はつかないよ」
     苦笑した患者とその医者は、同年代に見えた。二人とも三十歳前後の青年で、定期検診の結果通達と指導──といってもこの患者、いたって健康であったため特に指導すべきこともなかったのだが──が終わったところであった。
     患者の方は名を葵台路太といい、鯉朽隊に所属する弐段の刀遣いである。眠たげな顔立ちをしているが実際に眠たいのかどうかは不明で、長い手足をもてあますようにして椅子に座っていた。
     医者の方は名を入交羽純といい、凪鞘班に所属する同じく弐段の刀遣いである。じっと路太を見やったあとカルテに落とされた眼差しは、何を考えているのかわかりづらい。
     しばらくカルテの上にペンが滑るのを眺めていた路太は、不意に思い付いたように口を開いた。
    「入交」
    「うん?」
    「今度俺と手合わせしないか」
     そこでようやく羽純が顔を上げて路太を見た。路太は相変わらず眠たげな眼差しで羽純を見ていたが声の響きは普段より落ち着いていて、年相応か少し年嵩に聞こえるくらいだった。元々彼は声自体は落ち着いていて、口振りで若く見られるタイプである。ぱちぱちと瞬きをした羽純はわずかに首を傾げると、特に気負った様子もなく答える。
    「いいけど。珍しいね」
    「まあな」
     少し眉を下げる路太は、確かに他人との手合わせを好まない気質だった。長い刀遣い歴のわりには今まで戦ってきた人間の数は少ない。
    「俺も色々思うところはあるんだよ」
    「ふうん」
     くるりとペンを回した羽純は、卓上カレンダーを確認する。
    「週末手術の予定だから、それ以降ならいつでも」
    「じゃあ来週火曜の朝一は?」
    「それで」
    「第二道場の予約取っておくから」
    「了解」
     とんとんと予定は決まり、路太はどこかほっとした様子で腰を上げると、じゃあな、とだけ言ってその場を立ち去った。それに羽純は片手をひらりと挙げ、
    「お大事に」
     とのんびり呼び掛けた。


     早朝、道場の空気は静か……な筈だった。路太が道場にやってくると既に羽純はそこにおり、それだけでなく、観覧席にちらほらと人影があった。弐段同士の手合わせだ、勉強になると思った者も少なくなかったのだろう。路太は少しだけ目を細めて周囲を見回した後、羽純の方へと向かった。
    「おはよう」
    「おはよう。今日はよろしく」
     挨拶の後、各々準備運動を始める。思い思いにストレッチ等をし、どちらからともなく目配せをしてから道場の中央へと歩み出る。観覧席のひとびとが居住まいを正した。なんなれば実際に打ち合う筈の二人の方が自然体である。どちらも柔らかく木刀を握り、互いの出方を窺っている。
     ──やりにくい。路太の頭をちらとよぎる思考。
     羽純の剣は見通す剣だ。定石を打つと刺し返される。構えたまま動かない二人に見物人たちが焦れ始めたのを感じ取ってしまい居心地悪げに眉を寄せた路太へ、先に羽純が切り込んできた。それを受ける路太。相手の攻撃への対応は得意である、ほとんど不意打ちのような一撃を危なげなく受けた路太に、だが、羽純は鈍りを見出していた。
     路太の視野は広く、勘は鋭い。それは長所でもあるが、この場においては短所へと姿を変えていた。弐段同士の戦いをじっと見つめているいくつもの目を、その眼差しひとつひとつを意識し始めてしまった路太は、集中を欠いてしまっている。それを見逃す羽純ではなく、その攻撃は徐々に容赦のなさを増していた。的確に弱点、避けにくい場所を狙い、行動不能を狙っているようだった。
    「怪我するよ」
    「……ッ」
     短くそう言うと同時に鋭い一撃が飛んできて、路太は一歩後ろへ押し込まれた。本来であればこの二人は同格である。だが、現状明らかに羽純が優勢であった。
     羽純の剣には無駄がない。それは彼の強さがあくまで手段でしかなく、彼の本質は剣士ではなく医者であるためである。彼は救うため、繋ぐために強さを得た。目的がシンプルではっきりとしている強さは、安定する。ただでさえ浮ついている状態の路太とは足元の確かさが違った。周囲の見物人たちも、それを見抜き始めていた。
     そうなればますます路太の足元はふわふわとしてしまう。期待されていない、求められていない、そういった感覚は路太の足を引っ張った。集中力を欠けば体力の消耗も激しくなるため、持久力に優れている筈の路太がその持ち味を発揮しきれなくなる。
     羽純の剣が路太のそれを弾き飛ばしたのは、それからしばらく後のことだった。
     ……肩で息をしながらどこか消化不良な様子で一礼した路太に、羽純は淡々と声をかける。
    「葵台くん、キミ、それで十年生き残ってきたのは運が良かったんじゃない?」
    「……」
     返す言葉もない。観覧席のひとびとはちらほらと帰り始めていて、明らかに落胆している者もいるようだった。
    「運だけじゃ生き残れないから弱くはないんだけど。弐段相当の力はあると思うけど。医者相手にそれじゃ、ちょっと心許ないかな」
     唇を噛んだ路太の肩を、軽く羽純の手が叩く。
    「凪鞘に祈られるようなことにはならないでよ」
     そう言い残して立ち去る羽純。路太はしばらくその場に残ってから帰り支度を始めたが、不意に強い視線を感じた気がして振り返った。……観覧席から立ち去る長身の影が見えた気がしたが、それが誰かまでは確認出来なかった。


    93.加賀見恭之介は止まらない
    「加賀見」
    「うん?」
     甘辛く煮しめられた牛肉と玉ねぎそれから米──つまりは牛丼──を頬張りながら、呼ばれた青年はそちらを見た。目の隈が濃いがいつものことで、特別今日だけ疲れているというわけではない。
    「今度の土曜、空いてるか?」
    「あー、シフトは入ってないけど」
     隣に座っている同じ年頃の青年も牛丼を食べていて──チーズがたっぷりトッピングされている──、合間に相手へと視線をやった。眠たげな目だ。
    「俺と手合わせしてくれないか」
     特盛り牛丼味噌汁つきを食べていた青年は箸を止め、相手を見た。チーズ牛丼をもうすぐ食べ終わる青年は、真面目な顔をしていた。
    「……いいぜ。お前さんとはやったことなかったな」
    「ん、じゃあ道場押さえとく。昼からでいいか?」
    「ああ」
     やり取りが終わると、また二人は牛丼に取り掛かる。ぺろりと平らげてしまうまでさほど時間はかからないだろう。特盛り牛丼味噌汁つきが加賀見恭之介、チーズ牛丼が葵台路太、いずれも弐段の刀遣いであった。


     土曜、天照第三道場にて。見学席のないその道場は静かで、路太は準備を終え落ち着いた気持ちで恭之介を待っていた。着慣れなかった筈の道着は最近少し馴染んできた気がするがまだ“着られている”感は残っている。握った木刀を静かに撫でながら深呼吸をした路太は、道場の扉が開く音に振り返った。
    「よ。遅れては……ないよな」
    「ああ、ちょっと俺が早く来すぎただけ」
     恭之介もまた道着を身に付けており、路太よりは馴染んでいた。準備運動をするからと断りを入れて路太のいる場所から少し離れた位置でストレッチを始める恭之介をしばらく眺めていた路太は、一瞬どこか痛むように目を瞑ってから開いた。黒々とした目は静かで、何を考えているのかわかりにくい。
    「……じゃあ、やるか」
    「ん」
     道場の中央へ進み出る。向かい合う二人は体格も年頃もほとんど変わらず、段位も同じで、容姿こそ違うがどこか雰囲気は似通っていた。一礼をし、刀を構え、……先に動いたのは路太だった。その高い身体能力から繰り出される素直な剣を、恭之介は問題なく受け止める。間髪いれず反撃が来るが、それもまた路太が丁寧に対応する。お互い、表情は落ち着いていて心は凪いでいる。
     加賀見恭之介という刀遣いは冷静で、かつ、しぶとい。その身を投げ出すがけして命を捨てることはなく、どんな傷を負おうと必ず帰る覚悟がある。それは手合わせにおいても反映され、その剣には隙が無い。路太との試合は長引きそうであった。
     実際、長引いた。
     路太は持久戦が得意なタイプである。恭之介もまた。普通であれば集中力が途切れるであろう長時間続いた打ち合いは、息が詰まるような緊張感を道場に齎し続けた。一進一退の攻防が続き、双方の額に汗が浮いている。拮抗し続ける戦力は些細なことで崩壊してもおかしくなく、ここに見物人がいなかったのは幸いと言えた。路太はただ恭之介の剣に集中している。
     恭之介の剣から感じるのは執念とも執着ともいえない、なにか虚ろな穴だ。刀を握る理由を、戦い続ける理由をなんとか覗き込もうとする路太を拒絶する、あるいはただじっと見返している。……路太は知らない。恭之介が失ったものも、その大きさも、かけがえのなさも。もし知っていたとしても理解は出来なかっただろうし、同情することも突き放すこともなくただ納得だけをしてそっと蓋を閉めただろう。大切な何かに執着するということを、路太はまだ知らない。知っているかもしれないが、自覚していない。
     木と木が打ち合う音、床を足が踏みしめる音、衣擦れの音、息遣いの音。路太はすべてを聞き逃さず、ただ刀を振るい続ける。恭之介もまたそれに応え、二本の刀は風を鳴らし腕を軋ませる。
     もう一度木刀が噛み合った瞬間、二人ともが違和感を覚えた。タイミングか、力具合か、角度か。理由を理解するより先に、二人ともの手から木刀がすっぽ抜け、床の上を勢いよく滑っていった。ぎりぎりのところで噛み合い続けていた打ち合いはほんの些細な、それこそ知覚できないような“何か”によって崩壊した。
     二人は顔を見合わせると、ふは、と気が抜けたように笑った。
    「いや、これ、何? 引き分け?」
    「引き分けか……いやこれ納得いかなくないか?」
    「再戦するか?」
    「冗談だろ、もう動きたくない」
     大袈裟に伸びをしてみせた路太をよそに、恭之介は遠くまで転がっていってしまった木刀を拾いにいく。二本ともを回収し、一本を路太に返す。路太はその全体をまんべんなく眺めてみたり撫で回してみたりしたが異変は見つからず、溜め息を吐くと片手でぶら下げた。
    「次の機会に勝負はお預けだな」
    「またやる気があるのか、へえ」
     意外そうに瞬きをする恭之介。手合わせに興味がなく、勝敗にもこだわらず、再戦を挑むことも少ない……それが路太だった。今の路太は、少しそれとは違っているように見える。その変化に気付く程度には恭之介は聡く、路太との付き合いもあった。
    「……何?」
    「いや。楽しみにしてる」
     が、それを指摘することはなかった。余計なお節介だと思ったのかもしれないし、踏み込むのを避けたのかもしれない。そうして恭之介は少し考え込むような仕草をし、少し悪戯っぽく口角を上げた。
    「片付け、負けた方にさせようと思ってたけど、この結果だからな。じゃんけんでもするか」
    「お、望むところだ」
     じゃんけん、ぽん。と唱和する声が道場に響く。それで、道場の緊張感は完全に霧散した。


    96.室田涼は倒れない
     妖魔の群れ、最後の一体が霧散する。それを斬り伏せた一人の男の背を、青年が見ていた。
     刀を鞘に収め、その刀に宿る刀神である獣頭の少女と何やら一言二言言葉を交わす男は見た目こそどこか無愛想な雰囲気の中年でしかなかったが、防衛戦においてこれ以上頼りになる男もそういない。室田涼、鯉朽隊に所属する壱段の刀遣いである。
     その背を見ている青年もまた刀遣いで、同じく鯉朽隊所属、段位は弐段であった。名を、葵台路太という。眠たげな眼差しはしばらく涼の背を眺めていたが、その目で何かを決意したような光が一瞬きらめいた後、相手へと大股に歩み寄る。
    「室田さん」
     路太の呼び掛けに、涼は振り返った。その促す目に続けて、
    「今度、俺と手合わせしてもらえませんか」
     そう告げる。涼は意外そうに瞬きをし、ちらと刀神を見やり、それからまた路太を見た。
    「いいけど、珍しいな」
    「皆そう言うんですよね。うーん……じゃあ来週頭、どうですか」
    「火曜の午前中なら融通きくぞ」
    「じゃあ火曜の朝に道場押さえときます」
    「了解」
     話はすんなり決まり、路太は少しだけ表情を和らげるとぺこりと頭を下げてからその場を後にした。任務は終了し、報告書のことを思い涼は少し憂鬱な気分になった。
    「主様」
     が、刀神の娘に声をかけられると、その表情は少し……大分柔らかくなる。
    「戻るか」
    「はい!」
     帰路へと着く二人の影は、寄り添うように地面へ伸びていた。


     火曜、早朝の道場、人気の無いその場所で涼と向かい合った路太は萎えそうになる気持ちをなんとか奮い立たせていた。切り立つ崖を前にしているようだと思った。一方の涼はあくまで自然体で、静かに路太を見返している。
    「準備はいいか」
    「……はい」
     向かい合って、構える。しんと周囲が静まり返る。遠くの方で誰かが話しているような声が聞こえた瞬間、路太が床を蹴った。打ち込む。恵まれた体躯を活かした、素直でしなやかな剣だ。頼りなげな風貌とはいえ弐段である、その実力は伊達ではない。その攻撃を受け止めた涼は、なるほど、といったような表情を浮かべた後、切り返した。鋭い。壱段の剣は研ぎ澄まされている。なにかを削ぎ落としたような、曇りのない剣だ。
     しばらくは拮抗しているように見えたもののやはり実力には差があり、いくらか切り結んだところで路太は勝機を失し、押し負ける。一歩後ずさり、涼が刀を下ろそうとするより前にぐっと目を細める。
    「もう一回お願いします」
     そう言い、刀を握り直す手にはまだ力が残っている。涼は面白そうに眉を上げ、刀を構え直すと招くように切っ先を揺らした。再び自ら踏み込んだ路太を危なげなくいなし、受け止め、あるいは弾き返す。先ほどよりも打ち合いは長く続いたが、やはり路太では力不足らしく決定打を入れることは出来ない。再び打ち倒された路太は、だが、まだ引き下がらなかった。
    「もう一回、お願いします」
     室田涼という刀遣いはなんだかんだで面倒見のいい性質で、また、持久力に非常に優れていた。路太の様子を見て、気が済むまで付き合おうと決めたらしく口角を上げた。
     ……それからそれなりに時間が流れた。
    「……もう一回」
     何度目かの敗北の後、なんとかそう言うことは出来たものの、路太の体力はほとんど限界に来ていた。息が苦しい、瞼が重い、腕が震える。越えられる気がしない壁に挑み続けるとはこういう気分なのか。……路太にとっては出来れば味わいたくはない感覚だった。
     室田涼という壱段かいぶつは、まだまだ体力に余裕がある様子で路太を見ている。構えこそ解かないものの動かない──動けない──路太に対して、無造作に踏み込んできたように見えるその体捌きには隙がない。なんとかその攻撃を受け止め、刀を取り落とさずにすんだのはほとんど奇跡のようなものだ。
     意地、気合い、根性……そういう風に呼ばれるものが路太には不足していた。やる気がないわけではないが、“気持ち”を高揚させるのが苦手だった。生来感情の動きはゆるやかで、何事にも執着しないため強く感情が揺り動かされることは少なく、大抵のことはそこそここなせてしまったために必死になることもなかった。その路太が、こうして格上相手に食い下がり続けているのは異常であった。
     涼は感覚的に刀を振るう。であるから、路太の不自然さには理屈ではなく直感で気付いた。勝てないことはわかっているのに、起死回生の一手があるわけでもないのに、勝負を投げないこの若者が一体何を考えているのかはわからないが何かに必死でしがみつこうとしているのはわかった。じっと己を見ていることも。それなら、真っ向から受けるだけである。
     そして放たれたいっそ美しいくらいに容赦のない涼の一撃は、疲れ切った路太では防ぐことは出来なかった。
     刀を手放すと同時に、床へと崩れ落ちる路太。呼吸が乱れ、ぶわりと汗が浮く。ありがとうございました、と言う声は掠れていた。
    「葵台、……何かあったのか?」
     少し迷ってからそう訊ねた涼に、路太は顔を上げると息を整えてから口を開いた。それでも言葉は途切れ途切れである。
    「ちょっと、知りたい感覚が、あって……意地みたいなの、張ってみました……」
     ひゅう、と喉が鳴る。軽く咳き込んで、それから大きく溜め息を吐いた路太は床に座り直した。
    「少し休んでから……帰ります。片付けはやっておくんで」
    「……そうか」
     それ以上の言葉は無粋だと判断したのか、単に言うべきことが見つからなかったのか、涼は踵を返し道場を後にした。残された路太は完全に涼の姿が見えなくなってから、ごろりと床へと寝転がった。ぜえぜえと息を切らしながら天井を見上げるその顔は、何かを考えているように見えた。


    99.九角富嶽は退かない
    「久し振りにやらないか」
    「いいですね」
     ただそれだけのやり取りで、意図は知れた。

     葵台路太弐段、九角富嶽弐段。予約表に使用者の名前が開示されていた期間はおよそ一週間。その間に広まった噂によって、見物人が多く集まっていた。一人一人は静かな囁き声でも、数が集まればそれはざわめきとなっている。
     弐段同士の手合わせである。どちらも若く働き盛りで、殉職率の高い鯉朽隊所属、試合は熱いものになるだろうと誰もが期待していた。祭り気分の者もいれば、学びを求めに来た者もいたし、どちらかの知人で様子を見に来た者もいた。
    「さて、どうなるかねぇ」
     見学席の前の方に陣取りながらそう呟いた大柄な男は、路太の知人である。松比良大悟、路太の所属する班の班長だ。副班長である路太の様子を見に来たらしい。教官職をつとめることも多い大悟の目は、しっかりと試合前の各自の様子を見極めている。
    「あれ、柳見くんも見に来てたんだ」
     その一方、見学席の後方、腕組みをして佇む和装の青年に、少し年上の男が声をかけていた。
    「……ええ、まあ。橘さんもですか」
    「うん。ちょっとね」
     道場の方で思い思いに準備をしている二人を眺めた青年、柳見安仁は、路太の意図について考えていた。……己が“周囲の目”に弱いことは恐らくもう自覚している筈だろう。ならば第三道場──見学席がない方──を選べばよいし、塞がっていたなら今回の第二道場であってもぎりぎりに予約するなどして噂が広まるのを最低限にすればよい。実力が拮抗している相手との試合で、なぜわざわざ自分に不利なステージを選んだ?
     準備運動をしている路太は落ち着いているように見える。富嶽の方は元々雑音を気にするタイプではないため言わずもがな。その二人がふと視線を合わせ、軽く頷き合うと互いに木刀を手に取った。
     ……始まる。
     ざわめきがやみ、空気が静かになる。道場の中央に進み出る二人の男は、年頃こそ同じだが体格も雰囲気も違う。長身でがっしりとした体躯の富嶽、長身ではあるが富嶽には一歩譲る細身の路太。構えもまた大きく違い、高い位置に刀を振り上げた特徴的な“蜻蛉”の構えをとる富嶽と、癖なく自然体のまま中段に刀を置く路太。ぎらつく青みがかった目と、静かな黒い目。ふ、と、息を吐く音が聞こえた気がした。
     富嶽の背から全身を覆っているのは、殺気だとか、剣気だとか呼ばれるもの。富嶽の発する威圧感は、並みの人間であればその場に足が縫い付けられるようなそれだ。一方の路太はといえばほとんど殺気はなく、……だが、どこかぴりついた空気を纏っていた。珍しい。静かで、刃物のような空気だ。その空気に何かを感じ取ったのか、先に動いたのは富嶽の方だった。
     九角富嶽示現流の初太刀を受けてはならない。路太は、まずは初太刀を回避する賭けに勝たねばならない。間合いを外し、勢いを殺し、対応出来る威力まで引き下げなければならない。そうしてなんとか初太刀に対応したとして、その動きは富嶽にとって予想外ではなく、また次の攻撃が飛んでくる。初太刀だけが武器ではないのだ。
     初太刀の賭けに勝った路太は、息つく間もなく次の攻撃を受ける。獰猛な獣に似た富嶽の一挙手一投足に集中する。集中、出来ている。今のところは。見物人たちの目を意識せずにいられている。以前の苦い敗北をふまえてこの環境を用意した路太であるが、それは極めて“らしくない”行為であった。苦手とわかったなら回避する、己の得意なフィールドに移動するのが葵台路太という青年だ。あえて逆境に身を置くなどというのは路太にとっては極めてストレスの高い行為であり、精神的に打たれ弱いところがある彼には不向きな行為だった。だが、今は出来ている。その目は真っ直ぐ富嶽だけを見ている。
     意思とは技術だ。先だっての格上との試合の時もそうだ、負けん気や意地と呼ばれるものに欠ける自分であっても、咄嗟に退きたくなる自分を先んじてねじ伏せる技術があれば戦闘は維持できることを知った路太は、精神を技術で動かすことを覚え始めていた。己の惰弱さを自覚し、それがコンディションに影響しないよう意識する。そういうことが自分には出来るのだ、と路太は気付き始めていた。
     富嶽の一撃一撃は重く、気迫たるや鬼のようである。それを真っ向から受け止めることは何度経験しても慣れはしないが、恐怖はない。激しい打ち合いには一分の隙もなく、遠慮もない。見物人たちは口を挟むことも出来ず、ただそれに見入っていた。
     互いに体力に恵まれた二人である。片方は剛にして先手、片方は柔にして後手。対照的な剣は一進一退の攻防を生み、木刀がうるさく鳴いている。
     鳴いていたが、不意に、鳴きやんだ。
     次の瞬間木刀の切っ先が折れ飛んだ。破片が勢いよく空気を裂く。少し間を空けてから、見物人たちの空気が少し動いた。
     折れた切っ先が掠めていった路太の額が切れていた。派手に出血しやすい場所だ。血は目の横を伝い頬を流れて顎にまで至る。富嶽はこれは駄目だろうと思った。路太は戦意を喪失する、そういう気質の男だ。
     だが、次の瞬間路太はまるで表情を変えないまま富嶽へと踏み込み、先の欠けた刀を一閃した。それを受けた富嶽が対応しきれないうちにもう一撃。
     高い音を響かせ、木刀が床へと叩き落とされる。
     富嶽はわずかに驚いた様子で路太を見た。流れ落ちる血を無造作に手で拭う路太を見た。それから、嬉しそうに口角を上げた。
    「僕の負けです」
    「……なんで嬉しそうなんだ?」
    「そんなことないですよ、悔しいですよ?」
     見学席の大悟が放り投げたタオルを受け取って額を押さえながら路太は眉を寄せた。芝居がかったウインクをする富嶽に、呆れたように溜め息を吐く。
    「早く医務室行ってきた方がいいですよ。後片付けは僕がしておきますから」
    「そうか、悪い」
     足早に道場を後にしようとした路太は、見学席の横を抜けていく途中、ふと何かに気付いたように顔を上げた。見学席の一角を見て、軽く会釈をする。誰か顔見知りでもいたのだろうかと富嶽がそちらを見ると、そこにいたのは冴えない雰囲気の中年男性で、ここにいるからには刀遣いだろうが名前も思い出せなかった。地味な背広姿のその男は富嶽の視線にも気付いたらしくそちらを見、目が合うと軽く首を傾げた。知っているような気はする。が、やはり誰だったか思い出せない。すっきりしない気持ちのまま富嶽は軽く目礼だけし、道場の片付けに取りかかった。
     見物人たちも散ってゆく。黙って帰って行く者も、連れと話しながら帰って行く者もいたし、富嶽に声をかけていく者もいた。人当たりよくそれらの対応をする富嶽はどこか機嫌も良く、てきぱきと片付けを終えると医務室の方向へと向かった。向かう途中、何気なく見学席を見上げたが、もうそこには背広姿の男の姿はなかった。


    100.??????は語らない
     あなたと戦いたい
     あなたが誰であっても構わない
     あなたを待っています
     ──葵台路太

     ある日、謎の手紙が掲示板の隅に貼り付けられていた。ほとんどの人間は少し首を捻ってから通りすぎ、何人かの人間は路太にその意図を訊ねたが曖昧に笑って誤魔化された。
     数日のうちにその手紙は掲示板から消えていて、そんな手紙があったことなどすぐに皆の記憶からも消えていった。


     第五道場。天照本部の敷地内にあるものの少し不便な場所にあり、規模も小さいということもあって利用者は少ない。そこに一人の青年の姿があった。葵台路太である、道着を纏い床に座っている。目は伏せられ、何かを深く考えているように見える。
     不意に、その目蓋が持ち上げられる。静かに立ち上がった路太は、“それ”を迎えた。
     長身の男である。道着を着ている。そして、その顔は狐の面で覆い隠されている。
    「応じて下さってありがとうございます」
     言葉に返答はないが、気にせず続ける路太。
    「俺は……多分、あなたを知っています。でもそんなことはこの際関係ない」
     道場の中央へ進み出て向かい合う二人の男。少し間を置いてから、一礼をする。
    「あなたに触れてみせる」
     そう告げて構える路太は、常のように自然体ではあったが、常とは違う空気を感じさせた。目だ。眠たげな垂れ目が、しんとした湖面のように、だが深い夜を抱いているように、暗い。それは陰鬱な闇でも禍々しい影でもない、くろぐろとした意思の色だ。相対する男は面の所為で表情はうかがい知れなかったが、その構えは泰然としていて、そのくせ拒絶感はなかった。
     先に動いたのは男の方だった。以前とは逆だ。男はふつうの剣士が二歩で進むところを一歩で詰め、路太へと刀を打ち下ろす。路太が受ける。受けられない刀ではなかった、これは挨拶だ。路太もまたその刀にこたえるべく動く。路太の剣は本来後手が得意で、素直に相手に切り込むのが真骨頂である。するりとしたその動きにも男は危なげなく対応し、丁寧に受け、あるいは流している。
     導きに似ている。手を差し伸べ、どこかへ路太を連れていこうとしている。水面にさざ波を立てる優しい風のようなその剣に、だが、路太は決別を告げた。断る、と打ち払った。刀を交えることは対話と似ている。いや、この男と路太はまさに対話としてこれを行っている。木で作られた刀が打ち鳴らす、その響きは、リズムは、会話のそれに似ている。
     ──今日は手を引かれるのではない。俺はそこへ自力で至るのだ。
     ──なら登ってくるといい、おまえの場所へ。おれとは近くて遠い、その場所へ。
     実力の差は明らかであった。それ自体は以前手合わせした時とそう変わらない。だが、路太の雰囲気はまるで違っている。手を引かれて戸惑いながら進むのではなく、自分の足で跳ぼうとしている。激流を泳ぐように、崖をよじ登るように、高みへ。
     凄まじい集中が時間の感覚を忘れさせる。彼らの対話は長引いた。男は路太の挑戦を受けて立ち、乱暴に蹴り落としはしなかった。だが黙って登らせるつもりもないようだった。床の鳴る音と、刀の軋む音、息遣い、すべてが渾然となって彼らを包んでいた。
     次の瞬間、男の刀が飛んでくる。胴を狙ったその一撃に路太は反応した。返した刀で受ける。びいん、と腕が痺れる。だが受けられた。以前は見えなかった一撃に、対応出来た。切り返し踏み込むと、男が一歩押し込まれる。
     縁に、指が、掛かった。
     男が面の下でわずかに口角を上げたのを路太は知らない。そうか、届いたか。おめでとう。だが、まだ早い。押し込まれた筈の男が路太の刀を掬い上げる。ふわりと力が流れる。
     掛かったと思った指は引き剥がされ、落ちた。
     高い音をたて弾き飛ばされ宙を舞う路太の刀。路太は口を薄く開けて己の掌を見、それから相手を見、そして床へ座り込んだ。
    「届いたと思ったんだけどなあ……!」
     痺れる指を擦り合わせながら言う路太は弱ったように眉こそ下げていたが、声の調子は明るい。座り込んだまま、男を見上げる。その目は静かで、確信に満ちた声がその唇をつく。
    「小鳥遊さん」
     男の反応はない。それでも路太は続ける。
    「あなたと初めて戦った時、とても楽しかったんです。それで……他の刀遣いとだとどうなるだろうと気になった。だから色々やってみて、まあ楽しい試合ばかりじゃなかったけど、気付いたことがある」
     葵台路太という青年は、当たり障りのない会話のときこそ口数は多いが、己の内心を吐露することは少ない。であるから、その言葉は訥々としていて少し意味が通りづらかったが、男は黙ってそれに耳を傾けているように見えた。
    「俺、自分にちゃんと納得したいんです。『このくらい出来ればいいか』じゃなくて、もっと高く飛んで、走って、自分の手が届くところをちゃんと知っておきたい。……それに気付いた時、もう一度あなたと戦いたいと思った。俺が皆と刀を交えようと思ったのは、刀が楽しいと思ったのは、あなたがきっかけだったから」
     姿勢を正し、路太は深々と頭を下げた。
    「……今日は、ありがとうございました」
     そうしてそのまま動かない。相手が去るものだと思っているのだろう。男はしばらく路太を見下ろしていたが、小さく肩を揺らした。かすかに笑みのこぼれる音がする。
    「よく悩んだなあ、若人」
     ばっ、と顔をあげる路太。聞き覚えのある声だ。目の前で狐の面が外された。そこにいたのは、小鳥遊玉緒、平時は肆段として過ごしている男である。いつもは冴えない中年男性の風体を崩さない彼が、堂々とした立ち姿で路太と相対している。
    「今日もおれとの仕合は楽しかったか?」
    「はい」
    「そりゃあよかった」
     玉緒の表情は穏やかだ。座り込んだままの路太を見下ろす眼差しはどこか優しい。
    「またいつでも相手するぞ。……ああ、でも、このことは秘密にしておいてくれよ。仕事が増えるからな」
     くるりと手元で狐面を返し、少し悪戯っぽく笑う玉緒。路太はぱちぱちと瞬きをすると、つられたように笑った。


    101.葵台路太は────
     軽やかに夜を泳ぐ刀遣いがいる。眠たげな双眸が月の下で静かに瞬いている。その刀はするりと空気の隙間に滑り込み、顕現しかけていた妖魔を先んじて斬り伏せた。
     葵台路太、弐段。一時期刀遣いとの手合わせに執心していた彼は、何があったのかはわからないが今は落ち着いていた。とはいえ以前に比べれば積極的に手合わせに応じるようになり、道着もなかなか馴染むようになっていた。
     閑話休題。ここは深夜のショッピングモール。“門”と複数の妖魔の反応によって呼び出された路太は、こうして湧き出た妖魔を始末しつつ、“門”を探していた。散開してしまった妖魔をひとつひとつ潰していくより、“門”の前で待ち受けてそれが閉じるまで迎え撃った方が安定する。持久戦が得意な己にならそれが出来ると路太は知っている。
     妖魔に対応しながらナビゲーターの指示で移動し、発見した“門”はそこまで大きなものではない。小型と中型の間くらいだろう。刀の柄に手を添えたまま待機していた路太は、じわりと“門”の中から滲み出てくる獣を待ち受ける。クロイヌと呼ぶには少々大きいが、対応出来ない相手ではない。その赤々と光る目玉を見返し、路太は刀を抜く。意識を集中し、刀に生気を吸わせる。鋭く、鋭く、全身を研ぎ澄ますのだ。
     次の瞬間、咆哮をあげながら飛びかかってきたその妖魔を、路太はバターでも切るかのようにすとんと両断した。それを最後に、“門”が閉じてゆく。東の空が白み始めている。
     路太はこれからも夜を、昼を、朝を泳ぐだろう。妖魔を殺し、人を守り、刀を振るうだろう。その手がどこまで届くのか、その足がどこまで至るのか、それをしっかりと確かめながら。
     葵台路太は、もう逃げない。
    新矢 晋 Link Message Mute
    2021/07/13 22:55:57

    百の刀が語るもの

    #小説 #Twitter企画 ##企画_刀神
    様々な刀遣いと刀を交える青年

    葵台路太@自分
    鉄冴月@ろくろうさん
    杉原ノアム@栴香さん
    聖方雅臣@モスキートさん
    百目鬼虎徹@しろくまさん
    橘めぐみ@にゃおさん
    大峰虎@がちょうこさん
    柳見安仁@タナカ中さん
    入交羽純@ササさん
    加賀見恭之介@月無樹さん
    室田涼@mgsrさん
    九角富嶽@孔明さん
    小鳥遊玉緒@無限さん

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