二兎を追う 広範囲に避難通告が出されている。“門”及び妖魔の出現だ。刀遣いたちが派遣され避難誘導や妖魔の処理にあたっていたが、現在ほとんど事態は終息へと向かっていた。その現場の近くに設置された本陣に、今一人の刀遣いが戻ってきたところだった。時刻はもう夜である。
「お帰りなさい、葵台弐段」
「ああ、ありがとう」
差し出されたボトルを受け取り、中身を飲む。生気回復用の魔剤を含んだスポーツ飲料だ。刀遣いは体力も勿論だが主に生気の消耗が激しい。前線に出過ぎて生気を使い果たし動けなくなるのは悪手であり、規定の時間に帰還し次のシフトの人間と交代、補給することが推奨されていた──とはいえあくまで“推奨”であり結構な頻度で無視される──。葵台路太弐段は無理を好まず規律を守る人間であったため、こうして補給へと戻って来たわけであるが、何か言い争うような声を聞いてぴくりと眉を上げてそちらを見た。彼は諍いの気配に敏感であり、何ならそういうものからは距離を取りたいと思う気質だったが、一応原因だけは把握しておくかと耳をそばだてた。
「駄目だ、距離が離れすぎてる。どちらかを優先するしかない」
「妖刀だ」
「何言ってるんだ、民間人に決まってるだろ」
……どうやら現地に取り残された妖刀と民間人のどちらを救出するかでもめているようだった。妖刀は戦闘能力を持たない刀神が宿ったもので、所持していた刀遣いが“戦闘不能”になってしまったため取り残されてしまったようだった。一方の民間人は、避難途中で負傷してしまい動けないと天照への通報があった。妖刀は現在作成する技術が失われており、けして増えず、時間が経てば経つほど減る一方だと思えば人間より優先すべきと判断する者もいるだろう。だが実際に人間の命と天秤にかけた時にどちらを選ぶかは天照職員の中でも判断が分かれるところである。実際、今まさにその論争が行われようとしていた。
「だから峰柄は嫌なんだよ、いつも妖刀妖刀ってうるさくて!」
「大勢が見られない鯉朽はこれだから。時に民間人より優先するべきものがあるってなんでわからないかね!」
状況が逼迫しているせいか、感情的になってしまっている人間が多い。ほとんど言い争いのような有様だ。特に峰柄衆の人間と鯉朽隊の人間の対立が目立つ。どちらの主張も正しく、一理ある。路太はしばらくその様子を眺めていたが、刺々しい空気に耐えかねたのかあるいは他の理由か、その一団へと近付いた。
「まあまあまあ落ち着いて、な? 両方回収すればいいだろ?」
今にも掴みあいになりそうになっているところへ割って入った路太の言葉に一瞬周囲の言葉が途切れる。それを横目に路太は耳元のインカムに手を添え、その向こうにいる同僚へと声をかけた。
「天泉~、聞いてるか?」
「はい」
「両取りする」
「了解、ルート検索します」
それから腰に下げている刀に触れる。今日の相棒は神の宿らぬ人工物ではなく、かつて無力なひとびとの祈りにこたえた刀。一見粗悪品に見えなくもないが、その実並々ならぬ執念と意思でもって鍛えられた大脇差。……大蝙蝠行路守。
「行路守様、帰れない子たちを迎えに行きましょう」
「ああ」
腰の刀から聞こえる女とも男ともつかない声は、どこか切実な響きを孕んでいた。
入り組んだ住宅地の道を進む。天から地を見る目があるため迷わずにすむが、そうでなければ到底両方回収するなどのぞめない状況である。先に妖刀を回収し、それから通報があった場所へと向かう算段だ。最短距離の情報が的確に与えられ、夜を泳ぐように路太は進む。街灯の光の届かない路地の奥、闇の中にうずくまる“何か”の息遣いを感じながら。
そこは行き止まりだった。しんと静まり返る中に、鼻を突く匂い。路太は一度強く目を閉じてから、その場所へ踏み込んだ。
刀遣いの死体が一つ。その傍らに刀が一振り。刀神は顕現していない。
路太は一度目を伏せ、それから刀を拾い上げ腰のホルスターで固定した。元々差されていた刀も含めて二振り、腰に普段より重みがかかる。これを身に付けたまま、今度は人を回収しなければならない。踵を返しかけた路太は、逡巡の後ジャケットを脱いで死体へとかけた。そうして今度こそ踵を返し、振り返りはしなかった。
「帰れなかったんだねぇ」
「ええ」
「帰りたかっただろうにね」
「ええ」
刀から聞こえる行路守の声は静かで、それに答える路太の声も落ち着いている。姿を妖刀の内に留めている行路守の表情はわからないが、少なくとも路太は特に顔色を変えてもおらず、ただ少し濡れたような目で己のつま先を見た。
「後で迎えに来ましょう」
「……うん」
少し消沈しているようにも聞こえる声に、路太は軽く刀の柄を叩いてから足を早めた。
それからしばらく後。
「天泉、ここか?」
「ええ、発信はそこからでした」
天照への通報があった場所へ到着した路太だったが、民間人らしき人物はいなかった。少し考えてから路太は耳元に手を添える。
「怪我人でも移動できそうな避難ルート探してくれ、俺も探してみる」
「了解しました」
争った跡や血痕、周囲への破壊、その他捕食の痕跡はない。自力で移動したか隠れたとみるのが妥当だと路太は判断した。周囲は見通しの悪い住宅地で、隠れる場所はいくらでもありそうだ。
「行路守様、上から見てみてもらえますか」
「了解!」
刀が僅かに鍔鳴りし、ぶわりと宙から翼をはためかせるようにして出現したのは和装の人型……ではあるが路太よりも上背があり、腕は腕ではなく大きな翼となっている異形であった。翼といっても鳥のそれではなく、皮膜の張った蝙蝠のそれであり、大蝙蝠の化生とでも言うべき姿である。刀神、大蝙蝠行路守。彼──あるいは彼女──はその翼をはためかせ、上空へと舞い上がった。
地上では路太が天泉の情報と照らし合わせて周辺を捜索する。そう移動しないうちにスマートフォンが落ちているのを発見し、嫌な予感に眉を寄せた。そして通りの角を曲がろうとする寸前、
「妖魔の反応です」
インカムから聞こえた声に足を止める。それと同時に感じ取った気配に、そっと曲がり角の先を見た。
「まだ残ってたのか……!」
苦々しげに呟く路太。その目線の先にあるのは、大きな気球のような、風船のような姿の妖魔である。天照のデータベースにも登録がある、そこまで脅威ではない妖魔だ。見上げるほどの高度を人がゆっくり歩く程度の速度で移動しているそれは、風船部分の下部から腕とも脚ともつかないものをいくつも垂れ下がらせており、そこに何かが絡まるようにして捕まえられていた。……人影に、見える。ふわりと舞い降りてきた行路守も妖魔とそれに捕まっているものを見て唇をへの字にした。
「……行路守様、あそこのあれ、生きてるかわかりますか?」
「そうさね……、動いてはいるけど、本人が動いてるのか、妖魔の動きで揺れてるだけなのかはちょっとわからないねえ……」
路太は難しい顔をして黙り込む。行路守もまた。人を庇護し慈しむ神である行路守としてはあの人影を救いたくはあるが、生きているか死んでいるかもわからないもののためにこの青年に命をかけさせるというのも望むところではなかった。
「まあ……どっちにしろ放っておくわけにはいかないし……うん、やりましょうか」
その行路守の内心を知ってか知らずか、路太は表情を常の眠たげなものに戻してそう言った。今も移動し続けている妖魔。封鎖している範囲から外に出させるわけにはいかない。
「天泉」
「はい」
「高さがいる、探してくれ」
「その道六百メートル先、駐車場手前の道を西側に五十メートルほどの位置に外階段つきのビルがあります」
「優秀~」
頼むよりも前に検索していないと出せない速度で情報を出してきた優秀な同僚に軽口を叩いて駆け出す路太。そのビルはちょうど妖魔の進行方向にあり、このままいけば真下を通りすぎるだろうことが予想される。外階段を駆け上がりながら路太はついてくる行路守に作戦を説明して聞かせた。行路守はその内容に少し眉をひそめ苦言を呈しはしたが最終的には折れ、「お願いしますね」という路太の言葉に頷いた。
ビルの屋上で息を整えながら妖魔を待つ。いつもより刀一本分重い体は体力を容赦なく奪うが路太の眼差しはいつもと変わらず、刀の柄に触れながら地上を見下ろしている。
「ねえ」
不意に呼び掛けられ、振り返る。路太を見る行路守の眼差しは前髪に隠れて見えないが、どこか迷っているように感じられた。
「あんたさん、怖くないのかい」
ぱちぱちと瞬きをした路太は、困ったように眉を下げた。
「出来るからやるだけですよ」
虚勢ではない、やりたいからでもない、ただそうするのだと。そう宣言した路太は、おもむろに屋上の柵を乗り越え、縁のぎりぎりのところに立って刀を抜く。行路守もそれを止めない。眼下にはゆっくりと移動してくる妖魔。そして路太は、
「じゃあ、……帰りは頼みましたよ!」
迷うことなく妖魔へ向かって飛び降りた。
頬を風が撫でる。刀の切っ先を下へ向けたまま妖魔へと向かい、そして、体重をかけたその切っ先が妖魔の体に潜り込み、そのままずるずると切り裂いていく。この妖魔の体はけして堅くはなく、妖刀にかかればなんということはない。路太が落下する速度はほとんど落ちず、一気に妖魔の体を縦に切り裂いたその切っ先は、最後に脚の付け根にあった核をあやまたず貫いた。
ぱん、と妖魔の体が弾けて消える。空中に放り出される路太と、捕まっていた人影。空中でなんとか人影を掴んだ路太はそれが呼吸をしていることに唇を引き結んでから、再びの落下感に身構える。彼らが再び落下し始めるその真横を通り過ぎ下へと回り込んだのはおおきな蝙蝠、行路守であった。翼が広がり、彼らを覆う。生気を持って行かれる感覚に目を細めた路太は、次の瞬間、真下に現れた白いバンに勢いよく着地した。足がじんと痺れるが、腕の中に抱えた女性は取り落とさずにすんだ。
ばたばたとバンの中から人が出てくる気配に、自分たちが無事に帰ったことを知る。行路守の異能は何処からでも如何なる状況からでも「帰る」異能、愛しい人の子を家まで送り届ける優しい蝙蝠の権能。それを知っていたから路太は、迷わず飛んだ。
「大丈夫かい!」
頭上から降る声に、大丈夫だと片手を挙げて応える。抱えていた女性と下げていたもう一本の刀を他の職員に託して、それからやっと路太はほっと息を吐いた。
……しばらく後、救出された女性は念の為病院へ搬送され、件の刀遣いの遺体も改めて回収された。その死体を見送る行路守を、その唇がおかえりという形に動くのを、路太はただ黙って眺めていた。