とある青年の誕生日 その部屋は空き巣にでもあったかのような状態であったが、それが平常時の状態だった。かろうじて散らかっていないベッドの上でもぞりと起き上がった部屋の主、
葵台路太は、あくびを噛み殺しながらベッドを降りて台所へと向かった。もう昼近い。
独り暮らしである、台所はそう広くない。その台所でまずは水を一杯飲み、冷蔵庫の中身を確認する。スライスチーズを取り出して食パンの上に乗せてトースターへ。と同時に湯を沸かし、戸棚からカップ麺を取り出してくる。トーストだけで足りるわけもないので。
チーズトーストと醤油ラーメンというよくわからない取り合わせの朝食──というかもう昼食に近い──を終えた後、路太はふとスマホの通知に気付いてタップした。通信アプリにメッセージが入っている。「誕生日おめでとうございます」。
眠たげにまばたきをしてからカレンダーを確認した路太はそこでようやく今日は自分の誕生日だということに気付き、夜はまともなものを食べようと決意した。
誕生日を祝うメッセージは何人かから入っていたが、一番早く届いていたのは日付が変わった直後に友人から届いていたそれで、案外まめなんだよなと路太は小さく笑った。
さて、久し振りの休日である。予定は特にない。プールに行く気分でもなかったため、路太は床に散らばっているものを適当に除けてテレビの前のソファに座った。溜まっている録画のチェックをし、特に惹かれるものもなかったため適当にチャンネルを変えてから結局消す。
ふと思い立ちスマホを手に取り、誕生日を祝うメッセージに返信を送っていくと、そのうち一人から返事が来た。
九角富嶽、路太の同僚であり友人である。
──今日、家にいますか? 渡したいものがあるのですが、仕事帰りに伺っても?
──いいぞ。暇してたところだ。
──予定ないんですか?
──ああ。
そこで返信が途絶え、しばらくしてからまたメッセージが届く。
──マガミタマ君も一緒に来たいそうなんですが、構いませんか?
──いいけど。
──あと、夕食の用意はしないでおいて下さい。
──わかった、どこか食いに行くか?
──いえ、持っていきますので。
──了解。
そんなやり取りの後、スマホを置く路太。それから、しまった、と部屋の中を見回した。この状況を富嶽に見られたらどうなるか。かといって今から掃除をして間に合う気もしない。少し考えた後、玄関からリビングまでが使えればいいだろうと判断した路太は、床や机の上に積み重なっていたものたちを適当に隣の部屋へと移動させ始めた。
そうしてとりあえず玄関からリビングまでは人を通せる状態になったため、ソファに寝転がった路太はたった今発掘した本を読み始めた。もう何ヵ月埋もれていたのかもわからないが。
気付けば夕方近くなり、本を置いた路太は洗面所へと向かった。歯磨きや髭剃りなど身だしなみを整え、パジャマから普段着へと着替える。再びソファへ戻ってぼんやりしていると、インターホンが鳴った。確認すると来訪者は予想通りの相手で、路太は笑顔で玄関の扉を開けた。
「どうも、お休みにすみません」
「なぁん」
九角富嶽と、
禍御魂韴大刀。精悍な顔立ちの偉丈夫と、虎とも鳥ともつかない獣だ。後者は無論人ではなく、刀神である。
「まあ上がってけよ。……あれ、マガミタマ様どうしたんですそれ」
部屋へと二人──一人と一頭──を招き入れようとして、禍御魂韴大刀が普段よりもやや大きめの姿を取っていること、そしてその背にリュックのような荷物を背負っていることに気付いた路太は怪訝そうに瞬きをした。禍御魂韴大刀はふんすと胸を張る。
「ご飯」
「マガミタマ君が誕生日のお祝いにご飯を作ってくれるそうですよ」
「へっ」
ぱちぱちと瞬きをした後、路太は禍御魂韴大刀を見てゆるく笑った。どことなく照れ臭そうな笑みである。
「ありがとうございます、嬉しいです。そんな……俺なんかに気を使ってもらって」
「なん!」
禍御魂韴大刀の前足がぺちりと路太の額に押し付けられる。戸惑う路太に、富嶽が笑った。
「謙遜も過ぎると良くないってことですよ。お邪魔しますね」
玄関へ足を踏み入れた富嶽は、思いの外室内が片付いていることに驚いたように眉を上げたが、……奥の部屋へ続く扉が固く閉められていることに気付いて唇をへの字にした。気付かれたか、と身構えた路太の頭上から溜め息が降ってくる。
「前に僕が掃除したのっていつでしたっけ」
「一ヶ月前くらい……?」
「はあ、ならまあこんなもんですか……」
大股に部屋を突っ切り、奥の部屋へ続く扉を開ける。適当に物を移動させました、といった風情の惨状がそこにある。振り返った富嶽の前で、僅かに肩をすぼめる路太。その隣をするりと通り抜けた禍御魂韴大刀は台所へと向かい、荷物を下ろした。中身は食材やちょっとした調理道具だ。路太の家にどれくらいの器具が揃っているかわからなかったので。
それから身震いした禍御魂韴大刀は、ずるりと変形した。二足で立ち、天井へ頭をぶつけぬよう少し前屈みになる。手や全体の体型は人間に近い形になったが、尾羽や羽毛は一部残っている。その状態で、手際よく料理を始めた。大きな手が器用に食材を切り分け、調理してゆく。それを見た路太は「手伝おうか」と声をかけたが、お祝いなのだから待っているようにといったようなことを言われて大人しくソファに座った。
一方の富嶽は奥の部屋を片付けている。適当に物を移動させただけのそこは惨憺たる有様で、富嶽は大きな溜め息を吐いてからその戦いに挑んだ。路太の生活習慣は大体把握しており、何をどの辺りに取り分ければいいかはわかっている──正確には富嶽の片付け方に路太が慣れてしまっているのだが──。
禍御魂韴大刀の料理が終わる少し前に掃除は終わり、戻って来た富嶽は、さて、と路太の隣に座る。少し体を縮めた路太に、ぐっと顔を近付ける。
「申し開きはありますか」
「あり、ません」
「素直でよろしい」
自分のことを何歳だと思ってるんです、いい加減自分の面倒くらいきちんと見られるようになったらどうですか、などとくどくどと言い聞かせられ、消沈した様子でのろのろと視線を下げた路太に富嶽は苦笑した。
「……まあ、今日は君の誕生日ですしね。今回の掃除はサービスってことにしておきますよ」
「できた」
そこへ料理を終えた禍御魂韴大刀が呼びに来て、二人はソファから立ち上がり食卓の方へと向かった。そこには、豪勢な食事が並んでいた。艶々としたソースのかかったハンバーグに、湯気をたてるグラタン。いかにも子供の好きそうなご馳走ではあるが、……路太の好物でもある。うわあと顔を輝かせた路太は、いそいそと椅子へと腰掛けた。
「いただきます!」
そして早速ハンバーグへと箸をつけた路太は、目を丸くする。
「美味しい……!」
思わず洩れた言葉に、禍御魂韴大刀は満足げに目を細めて喉を鳴らした。既にその姿は大きな猫ほどの大きさの獣に戻っており、椅子に乗って両前足を机に置いている。
「すごいですねマガミタマ様、めちゃくちゃ美味しいですよ」
「ん」
もりもりと食べる路太。大きめのハンバーグは瞬く間に切り分けられ、その口に吸い込まれていく。熱々のグラタンは少し冷ましてから口へと運び、満足げに頬を緩める。その様子を眺めていた富嶽と禍御魂韴大刀はどこか微笑ましげに目を細めていた。
食事は早々に終わり、三人、正確には二人と一頭はのんびりとお喋りをした。仕事のことや妖魔のことも少しは話題に出たが、主に話すのは愛しい日常のこと。他の刀神や刀遣いの近況や、最近あったよかったこと、祝い事。たまの休み、それも路太の誕生日くらい無粋な話は避けようという気遣いだろうし、それに路太は気付いていたが指摘はしなかった。
「……うん?」
談笑していた最中、おかしな音に気付いた路太がそちらを見ると、ぷひゅーだとかぷすーだとかいったような寝息をたてながら禍御魂韴大刀が眠っていた。それを見て気の抜けたような笑みを浮かべる路太。その横顔を見ていた富嶽は、ああ、と呟くと鞄から紙袋を取り出し路太の前に差し出した。
「それでこれ、誕生日プレゼントです」
差し出された紙袋に、路太は驚いたように瞬きをした。受け取ってから、笑顔で相手を見る。
「プレゼントまで用意してくれなくてもよかったのに、悪いな。……開けてもいいか?」
「ええ、どうぞ」
紙袋から小箱を取り出した路太は、その箱のデザインを見てわずかに表情を変えた。紙袋を机に置いて、両手で箱を持つ。まじまじと眺めて、一言。
「タグ・ホイヤーじゃん」
「ええ」
「いや、……いや、お前」
慎重に、恐る恐る箱を開ける路太。中に収まっていたのは腕時計である。特徴的な青い文字盤のダイバーズウォッチ。
「アクアレーサー……っ!」
歓声とも悲鳴とも言い難い声が出る。路太は困ったように眉を下げ、時計と青年とを交互に見た。
「お前これ、本当に俺が貰っていいやつか? だってこれ、……結構、というかかなりするぞ……」
「お好きじゃありませんでした?」
「いや、ばっちり好みだけど……ええ……」
困惑する路太を見て、青年は少し眉を下げた。相手の空気が変わったのを察知した路太は慌てて言葉を付け加える。
「嬉しいのは嬉しいぞ、ありがたく使わせて貰うよ。……欲しかったのは事実だし」
少しはにかむように笑う路太を見て、青年はほっとしたように微笑んだ。路太は時計の入った箱を机の上に置き、少し眺めてから青年の方を見る。
「明日から着けてくよ。……大事にする」
「気に入ってもらえたなら良かったです」
「ああ。ほんと、ありがとな」
「どういたしまして」
富嶽は満足したのか──気恥ずかしかったのかもしれない──踵を返すと禍御魂韴大刀を軽く揺さぶり声をかけた。
「マガミタマ君、起きてください。そろそろお暇しますよ」
「ぷにゃ」
寝ぼけ眼で目覚めて伸びをした禍御魂韴大刀を、玄関の方へ連れていく富嶽。それを玄関まで見送った路太は、最後にもう一度笑った。心底嬉しそうに。
「今日は二人ともありがとうな。……こんな誕生日久し振りだ、大体いつも仕事だし」
「そんなに喜んでもらえるなら祝いがいがありますよ。来年もこうして祝えるといいですね、……掃除は抜きで」
「う」
痛いところを突かれた様子で黙った路太に、富嶽は小さく笑ってから玄関を出た。また明日、と片手を振って。
次の日、路太の腕には真新しい腕時計が光っていたという。