堕ちる「では、これで」
ほんの少しの逢瀬。近況だけ聞いてから、
天使は
聖職者の元から飛び立った。
……最近はずっとこの有り様である。ジーフリートに対して天使としての愛とは違う想いを抱いてしまっていることに気付いたクェイルーヴァは、必要最低限しか彼に接しないようになった。己の痛苦から目を背け、なにも気付かなかったことにするつもりだった。
一方のジーフリートは、彼の守護天使の苦悩に気付き、心底心配していた。自分が原因なのだろうことに察しはついていたが、具体的な理由はわからなかった。
――それでも、放っておいてはいけないことだけはわかっていた。
ジーフリートは真面目な男である。天使の苦悩の理由を探ろうと、出会ってから今までのことを思い返し紙に書き出した。彼の態度がおかしかったのはどういった時か、そもそもいつからおかしかったのか。毎日の勤めの合間にそうしてクェイルーヴァのことを考えていたジーフリートは、ふと、自分の中に小さな違和感があることに気が付いた。
クェイルーヴァは天使である。本来ならば人間であるジーフリートが心配などする必要のない存在だ。「天使様」――それもあの模範的で高潔な――の行動に間違いなどある筈がないのだ、本来であれば。それなのになぜ放っておいてはいけないと思ったのか。
不安げな、怯えるような、まるで人間のような
表情をしていたから?
それも理由の一つではある。だがまだ足りない。ジーフリートは弱者の守り手ではあるが過保護ではない。特に本人の内面に関係するようなことにはそうそう無遠慮に頭を突っ込んだりはしない。
なのに、どうして。
――あの時のクェイルーヴァの表情が、震える声が、忘れられない。……大丈夫だと抱き締めたなら、彼はまた微笑んでくれるだろうか……、俺は今なにを考えた? 相手は天使様だぞ?
ジーフリートは己の思考に動揺し、そして、気付いてしまった。理解してしまった。クェイルーヴァが何に苦しんでいるのか……そして、自分もまた同じものを抱いてしまっているということに。
しかしジーフリートの行動はクェイルーヴァとはまったく違っていた。彼は一晩悩んだ末、この感情をつまびらかにすると決めたのだ。
そして、数日後自分の元に訪れたクェイルーヴァを、飛び去る前に引き留めた。
「クェイルーヴァ様、少々お話が」
「……何ですか」
今まさに羽ばたこうとしていた翼を閉じ、クェイルーヴァはジーフリートを見た。ステンドグラス越しのあおが天使の顔に影を落としていた。今は二人の他に誰もいない教会。
「……最近はずっと、貴方について考えていました。貴方に一体何が起こったのか、私が何か貴方の気分を害するようなことをしてしまったのか、と」
「貴方には何の問題も、」
「そして気付いたのです」
鮮烈な、青。心を切り裂くような鮮やかなあお。強い光を湛えた目に見詰められ、クェイルーヴァは息を飲んだ。
「この愚か者と、卑しいと詰って下さって構いません。不敬であると雷に焼かれても受け入れましょう。しかしこれは私の偽らざる本心であり、……私が貴方から引きずり出してしまったものと同じ。つまり、私も、」
「いけません!」
ほとんどそれは絶叫だった。クェイルーヴァは青ざめた顔でジーフリートを見ている。
「違います……違います、ジーフリート、それは違う……!」
掠れた声でそう訴え距離を取ろうとしながら、クェイルーヴァの翼は助けを請うように相手へ伸ばされていた。汚れひとつない純白のそれがジーフリートを抱き寄せるように包んで、二人きりの空間を産み出していた。
「私のことを、そんな……私が貴方に罪を犯させてしまうなんて、私はつくづく度しがたい、いっそ消えてしまえばいいのに……ああ……どうして、私は……」
両手で顔を覆い嘆く姿から目を逸らさず、退かない意思の宿った碧眼でクェイルーヴァを見詰めるジーフリートは、静かに口を開いた。
「クェイルーヴァ様」
「ごめんなさい!」
遮るように、ほとんど悲鳴に等しい声があがる。
「喜びに胸が震えてしまうのです、私は貴方を拒絶し正道へ導かなければならないのに……貴方を……貴方を欲してしまう、愛されたいと願ってしまう……ああ、浅ましい、醜い、私は……貴方が愛するに相応しい、清らかな天使ではなくなってしまった……」
ごめんなさい、ゆるして、と繰り返す様は常の泰然として無機質ささえ感じさせる態度とはまったく違っていた。怯え、迷う、子羊のそれだった。
「いいえ。いいえ、クェイルーヴァ様。私はそんな貴方も美しいと思います。貴方の心は美しい。……貴方が……」
眩しいものでも見るかのように細められる、青い目。
「……貴方が、愛しい」
びく、とクェイルーヴァの体が震えた。そっと両手を除け顔を出し、ジーフリートの表情を窺う。……その表情に嘘偽りの気配は一切なく、その目は真っ直ぐな情熱と愛情だけを宿していた。
「ほんとうに、心の底から。貴方が愛しいのです、クェイルーヴァ様」
クェイルーヴァはゆるゆると頭を振りながら、いけません、いけません、と譫言のように繰り返す。
「ジーフリート」
か細く震える声。ついにその目から涙が零れ落ちた。
「……ジーフリート……」
消え入りそうな声で名を呼び、伸ばしかけた手は途中で下がり、寄せた顔は口付けの寸前で止まった。痛苦に耐えるように寄せられた眉、伏せられた瞼を縁取る睫毛が震えている。
次の瞬間、二人の唇は重なっていた。
クェイルーヴァが越えられなかった距離を、ジーフリートが踏み越えた。ほんの半歩、クェイルーヴァにとっては途方もなく大きな半歩を、ジーフリートは一息に詰めてみせた。
時間にすればほんの一瞬。唇が離れ、少しの間見詰めあい、……くしゃりと顔を歪めたクェイルーヴァは改めて手を伸ばすと、すがりつくようにジーフリートを抱き締めていた。
「ジーフリート、好きです、愛しています……私は、貴方を愛している……!」
震える声。血を吐くような叫び。それを受け入れ、ジーフリートはクェイルーヴァを抱き締め返した。
「私も貴方を愛しています、クェイルーヴァ様。……貴方のことを、心から」
相手の頬に伝う涙を親指で拭い、再び口付ける。触れるだけのそれは、ただ触れるだけだというのに、溢れんばかりの愛情を伝えていた。