【番外】Hello,shining!8彼シャツ
リュックを頭の上に掲げた人類が、レオを追い越していく。足元では、チワワサイズの異界人が溶けていた。どうやら水に溶ける体質らしい。突然の雨に襲われ、融解した身体が排水溝へと流れている。
小雨程度ならともかく、これほど強い雨となると傘をさして歩く人は少なくない。傘を持たない人は、足早に目的地へと急いでいく。
ドラッグストアで雨宿りする水希の姿を見つけ、手に持った傘をひょいと上げる。
「いたいた」
運悪く、この急な豪雨に見舞われたらしい。ちょうどレオの家が近かったから、迎えに来て欲しいと連絡がきたのだ。
「けっこう濡れたな。俺ん家来なよ」
「助かる」
水希の隣で雨を凌いでいた異界人が「おう兄ちゃん、傘貸してくれや」とぶんどろうとしてきたが、あえなく念力で黙らされ(レオ一人だったら、泣く泣く雨に濡れながら帰ってるところだ)。これ以上また厄介なのに絡まれる前に、アパートに戻った。
「乾燥機使っていいよ。シャワーも」
「サンキュー」
タオルと着替えを渡し、中断していたゲームを再開する。
安全性より家賃重視なレオの住まいは、実に質素だ。シャワーは一応お湯が出るが、水圧が一定じゃない。かすかに聞こえる水音は、強くなったり弱くなったりを繰り返す。
やがて室内をゲームのBGMだけが支配する。
雨はまだ止みそうにない。水希が帰るまでに、少しは弱まってくれると良いが。
「うわあ」
水希が声を上げる。
「どうしたー?」
「予想はしてたけど、これは酷い。見てよ」
ゲーム画面から視線を外す。水希が出てきた。苦笑いしている。
「うっわ」
レオが着ればだぼつく裾から、細い手足ががっつり出ていた。まさにつんつるてん。あまりにも滑稽。
こんにゃろう、笑いやがって。レオは盛大に舌打ちした。
記憶喪失
レオは全力で街を走っていた。息が途切れ、足が重くなっても身体に鞭打って、一秒でも早くと己を急かす。
この街に来てから、記憶喪失になるのは二度目だ。
一度目は、一ヶ月間の記憶がごっそり抜け落ちた。原因は未だ不明だし、失くした記憶も戻らないままだが、今のところ困るようなことは起きていない。
二度目は原因が判明している。ザップの愛人が、彼にかけようとした呪いが、手違いでレオにかかってしまったのだ。その愛人さんは、他の女性と寝たザップさんに怒り(レオからすれば、彼のスタンスはいまさらなのだが)愛した人を忘れる呪いけしかけた。そしてレオは、忘れた。
綺麗さっぱり存在丸ごと忘れてしまったレオにはいまいちその重大さがわからなかったのだが、ライブラの面々が非常に重く受け止めていたのはわかった。なにせ元凶とはいえ、あのザップが上司たちから命令を下される前に、呪いの解除方法の調査に赴いたのだ。あのザップが、である。これは尋常ではないと、胃のあたりを抑えるクラウスを前に、レオは慄いた。
呪いを受けて一週間後、ザップが愛人に刺されながらも解除に漕ぎつけた今ならわかる。先輩をはじめとした構成員の面々は、さぞや肝が冷えたことだろうと。
危険人物のような扱いで心苦しいが、彼女の精神状態は、ダイレクトに能力へ影響する。時には彼女の意思に反して暴走することがある。そうなれば誰の手にも負えなくなるし、彼女自身も傷つく。それは絶対に避けなければならない。
見覚えのあるアパートに到着した。階段を駆け上がり、インターホンを押す。何回も。彼女が出るまで。
ドアの向こうに、オーラが見えた。
「水希」
ドアを叩く。
「ごめん。思い出した。開けて」
一時間でも二時間でも、彼女が明けるまでドアの前で待つつもりだった。
呪いにかかっていた一週間、まともに彼女の顔を見ていない。彼女がレオを避けていたからだ。呪いだからしかたない、そう割り切って平静に装える女の子じゃないのだ。
カチャリ。小さな音を聞き取り、急いでドアを開ける。
「水希!」
拳が胸を打った。彼女の細腕じゃ、大した痛みもない。
それよりなにより、レオに衝撃を与えたのは。
水希の頬が濡れていたこと。
「ごめん」
何度も振り下ろす腕ごと、抱きしめる。
「ごめん、ごめんな、水希」
張り込み
「どーよ」
「出したね、クスリっぽいの」
薬の出所を探るためとはいえ、ホテルにしけこむ売人の思考を読ませることをクラウスたちは迷っていたが、当の本人はしれっとしている。
隣のビルの屋上から伺っているから感づかれることはないだろうが、水希が他者に潜り込むことに集中している間は、どうしても隙ができる。万が一のため、男女のアレコレに誰よりも慣れているザップが付き添いを命じられていた。
「ちょっとでも元締めのこと思い出してくれたらいいけど、どうかな。さっきから女のことしか頭にない」
「まあ今からセックスするんじゃな。男なんてそんなもんだろ」
他人の情事を覗き見するような真似なぞ、年頃の娘がやりたがるものではない。しかし幼い頃から他人の思考を覗けた水希は、上司たちが想像する以上に慣れている。下ネタを下ネタとも思っていないザップ相手だと、わりと平気でその手の話に付き合うところがある。この間なんて、異界技術でブツを魔改造した男を感応したなんて話していた。
「お前、こういうの読んでムラムラとかあんの?」
「これだけ距離あるし、深く読まなければなんとも」
近距離だったらすることがあるわけだ。
大抵の人間は聞けば眉を潜める能力だが、ザップからすると「おもしれー」という感想の方が強い。たぶん、そういうザップだから水希もあけすけに話すのだろう。レオには口が裂けても言うまい。
「え」
水希の目が少し大きくなる。
「うわあ」
かと思えば声を上げて、股間を手で隠す――ザップから見ても女がするポーズじゃない――動作をした。
「どうした。とうとう生えたか」
「生えてたまるか。逆、食われたの」
「どっちが。売人か」
「そう。女のアソコがこう――」
股間を隠していた手で、指を開いて見せる。花が咲くようなジェスチャーだ。
「急に歯が生えてガツッと」
ばくん。両手が閉じる。
「まさか……」
「パイプカット。人類っぽいけど、異界のなにか仕込んでたのかな」
ぞっとし、ザップもつい先ほどの水希と同じポーズをとった。今頃、ホテルの室内では聞くに堪えない悲鳴が響き渡っていることだろう。
「ザップさんも愛人と寝るとき気をつけなよ」
「バッカ野郎、お前、滅多なこと言うんじゃねえ……バカ野郎」
今日はマリーに泊めてもらうつもりだったが、恐ろしすぎてとてもそんな気にはなれなかった。
牽制する話(本編5話番外)
ルーレットのルールはわかりやすい。初心者が手を出しやすいから、この裏賭博場でもとりわけ若く見える女の子が遊んでいても不自然ではない。
本来ならこういった場は厳重に年齢チェックがされるべきものだが、ここはHLだ。とりわけ制限の緩い賭博場を彼女は選んでいるのだろう。
ベットする客たちには加わらず、ルーレット台が見える位置からスティーブンは観察する。
客の中には、義眼保有者の友人である少女――水希が混じっていた。
スティーブンが観察を始めたとき、彼女はそこそこ勝ち続けているようだった。しかし、途中から他のなにかが気になるように落ち着きをなくし、負けが連続。終いには諦めたように台から離れたが、トータルでは利益を得ているようだった。チップを現金に交換しに行く水希を、客が何人かちらちらと伺っている。その目はさながらハイエナの目つきだった。
他に邪魔が入るより先に、換金を終えた水希に背後から声をかけた。
「もう帰るのかい」
スティーブンを始めて見たときの女の反応は、大きく分けて二通りだ。見惚れるか、警戒を抱く。まだ十九歳の少女にとって、三十路の男性はそういった対象から外れるのだろう。顔面の全体から左頬に走る傷痕にざっと視線を走らせた彼女の反応は、後者に振り切れていた。その若さでこんな場所で遊んでいたにも拘らず、無鉄砲さや冒険心とは程遠い。その目に不安の色が過ぎったのを、スティーブンは見逃さなかった。
「今日は……調子が悪いから」
調子が悪い、ね。はたしてそれは本当だったのか。
じわじわと表情を強張らせていく素直さに笑いかける。彼女を相手に腹の探り合いなど、時間の無駄だと判断した。
「うちの新人のことで、話したいことがあったんだけど」
新人、なんて遠回しな言い方、本来は伝わるはずがない。しかし揺れる視線の動きで、彼女が意味を捕らえていることがよくわかった。同時に、確信する。
彼女が今、スティーブンの脳内を読み取っていることを。
精神感応力者。
スティーブンがその言葉を浮かべると、彼女はいよいよ顔を青ざめさせた。ショックで貧血を起こしてしまうのではと心配するほどに。支えた方が良いかもしれない。距離を詰めようとしたが、足が地面に縫いつけられたように動かなかった。原因はすぐに思い当たる。念力だ。
「大丈夫。なにもしないよ」おどけたように両手を上げる。「少なくとも、君の財布を狙っている乱暴者よりかは安全だと思うけど」
スティーブンが声をかけてなければ、他の誰かが声をかけるなり後を尾けるなりしていただろう。彼女が買った金を奪うために。
「じゃあ……なんの用でアタシに会いに来たわけ? おっさん」
怯えながらも、彼女は挑むように睨みあげた。二本の細い脚はしっかりと床を踏みしめている。
「君がどこかに属していて、少年に接触している可能性があったからね」
彼女は不快そうに眉を潜める。
「どこにも属しちゃいない。アタシは独りだ」
「そう、僕の思い過ごしだったよ。僕が君の上司だったら、まず君にそんな真似はさせないね」
親友の男ほどじゃないにせよ、彼女にスパイ工作は向いていないとすぐにわかった。
「だが――」
「もうアイツに関わるなって?」
「君のためにも」
超能力者と言えど、生身の人間だ。この街に潜むすべての脅威に対処できるわけではない。
華奢な体躯が霧の中に消えていく。彼女は応とも否とも答えなかったが、無謀な性格でなければスティーブンの言うことを呑み込むだろう。
路地裏に転がる死体を一瞥し、スティーブンも踵を返し――、
「おっさんかあ……」
がっくり肩を落とした。