道なき未知を拓く者たち④ カールの手術が成功した翌朝の空はとても美しかった。どこまでも続く青空と朝日が描き出す光景は言葉では表せないほどに美しく、その美しさに感動できるのはカールの命が助かったからなのだ。
その美しい朝にオーティスの葬儀が行われた。石を積み上げて作られた墓の下にオーティスはいない。埋葬すべき遺体がないことが辛かった。
カール以外の全員が揃って行われた葬儀の最中、リックは密かにシェーンに視線を向ける。シェーンは髪を全て剃っていた。すっかり丸くなった頭と亡くなったオーティスの服を着ているせいで別人のように見える。ただ、別人のように見えるのが外見の変化だけのようには思えなかった。農場を出発して戻ってくるまでの間に彼の中身がごっそりと入れ替わってしまったような気がする。
リックがシェーンに対して薄っすらとした不安を感じていると、パトリシアがシェーンに「オーティスの最期の瞬間を教えてほしい」と頼んだ。その頼みにシェーンは顔を強張らせながらもオーティスの最期について語る。
「物資を手に入れた後、大群に襲われた俺たちには拳銃しか残ってなかった。オーティスは『あの子を救うんだ』と言って俺に荷物を手渡して援護するから先に行くように言った。それから彼は俺に『走れ』と言って、俺はその通りにした。だが、付いてくる気配がしなくて振り向いたら、彼は……」
シェーンはそこで言葉を切り、手に持っていた石をオーティスの墓に置いた。そして墓を見つめたまま言葉を紡ぐ。
「オーティスがいなかったら俺はここにいない。俺がここにいないってことはカールも助からなかったってことだ。──全ては彼のおかげだ。」
シェーンの言葉に皆は悲しみを深くする。そんな中、リックはシェーンに対してある疑念を抱いた。
(今の話だとオーティスは自分を囮にしてシェーンを逃したことになるが、囮になるなら一体でも多くウォーカーの数を減らしたいと思うはず。俺ならそう考える。それなのに拳銃を手放すのはおかしくないか?)
リックは昨日の時点でシェーンの説明に疑問を持っていた。他に使える武器がない状態でオーティスがシェーンに拳銃を渡したということがどうしても納得できないのだ。
シェーンは右足を負傷して全力で走ることができなかった。ウォーカーに追われている状況において負傷している者と負傷していない者ではどちらの生存率が高いのかは明白だ。シェーンは自分の方が生存率が低いことを理解していただろう。
(シェーン、まさか、お前──)
そこまで考えてリックは結論を出すのをやめた。仮にリックの予想が当たっていたとして、それをシェーン本人に尋ねてはいけない。それは彼を責め立てて追いつめることと同じだ。
リックはシェーンの後ろ姿を見つめながら重い十字架を飲み込む。この罪は他の誰にも話さない。
******
カールが目を覚ましたのはオーティスの葬儀が終わってからだった。カールは自分の身に起きたことを理解しており、嬉し涙を流す両親に「心配させてごめんなさい」と謝った。
意識を取り戻したカールを診察したハーシェルが「傷口の消毒を怠らなければ大丈夫だ」と言ったので、リックもローリもようやく安心することができた。
リックは仲間たちにもカールのことを伝えようと外に出る。リックと同時にハーシェルも農場の見回りのために外に出たので、リックは「話をする良いタイミングだ」とハーシェルを呼び止める。
「ハーシェル。話があるんだが、少しいいか?」
その呼びかけにハーシェルが立ち止まって振り向いた。
「カールの治療の礼も兼ねて農場の仕事を手伝いたい。動物や野菜の世話は難しいかもしれないが、他にも仕事はたくさんあるとマギーが話していた。仲間もやる気がある。考えてもらえないか?」
「ああ、構わない。後でリストを作って渡そう。」
「ありがとう。それと、もう一つ。納屋を使わせてもらいたいんだ。」
「納屋?」
「納屋」という単語を聞いた途端にハーシェルの顔が強張った。そのことにリックは戸惑う。
リックは戸惑いながらも遠方に見える木製の納屋を指差した。
「あの納屋だ。中を整えて寝泊まりできるようにしたい。その作業は俺たちだけでやるから、あなたたちの手を煩わせるようなことは──」
「その必要はない。」
ハーシェルは強い口調で言い切ると射抜くような眼差しを向けてきた。
「余所者は受け入れない主義だ。カールがベッドから起き上がれるようになったら、とは言わない。傷の状態が良くなったら出ていってくれ。」
拒絶の言葉を残してハーシェルは歩き出した。リックは大きなショックを受けながらも声を絞り出す。
「待ってくれ。農場の外がどんな様子か知っているだろう?生きていけるような世界じゃない。」
ハーシェルは立ち止まったが振り返ることはない。その後ろ姿にリックは声だけで追い縋る。
「押しかけておいて勝手なことを言っている自覚はある。それでも外に放り出さないでくれ。役に立ってみせるから農場に置いてほしい。みんなを守りたいんだ。」
ハーシェルにとってグループは厄介者だろう。親しい友人や長く付き合いのある隣人でもない。昨日出会ったばかりの余所者。そんな余所者の面倒を見るだなんて嫌がられて当然だ。
しかし、リックは諦めるわけにいかなかった。ここから追い出されたら再び過酷な旅が待ち受けている。フォートべニング基地に到着するまでに誰かが命を落とすかもしれない。最悪の展開を迎えれば全滅だ。それは絶対に避けなければならない。
リックが「ハーシェル、お願いだ」と訴えるとハーシェルは顔だけをこちらに向けた。その顔に微かに苦悩の色が見えたが、すぐにそれは消えた。
無表情に戻ったハーシェルは「条件がある」と切り出した。
「ここのルールを守れるなら君たちが農場で暮らすことを考えてもいい。」
「ここのルール?」
リックが首を傾げるとハーシェルは「そうだ」と頷いた。
「許可なく農場の道具を使ったり、私の家族を連れ出さないこと。それから──納屋には絶対に近づかないでくれ。それを守ってほしい。君たちの様子を見て問題がないと判断すれば、もう一度考えてみてもいい。まずはそれからだ。」
ハーシェルは条件を告げて去っていった。リックはその後ろ姿を見送りながら暗い気持ちになる。
仲間たちは農場でずっと暮らせると思っているだろう。リック自身がそのように思っていたのだから皆も期待しているはずだ。そんな仲間たちに「いずれ出ていかなければならない」と伝えるのは酷としか言いようがないが、それでもハーシェルの考えを伝えなければならない。
まずはローリに話そう、とリックは出てきたばかりの家に引き返す。
ローリはカールの部屋にいた。息子の傍を片時も離れようとしない妻にリックは「二人だけで話したいことがある」と伝えて部屋から出てきてもらった。
「何かあったの?」
ローリは訝しげに尋ねながら後ろ手で部屋のドアを閉めた。
「ここでの滞在のことだ。ハーシェルからカールの傷が良くなったら出ていくように言われた。」
リックの言葉にローリは目を見開いた。「冗談でしょ」と呟く唇は震え、目が次第に潤んでいく。
リックはショックを受けているローリの頬に触れて視線を重ねた。
「ローリ、落ち着いてくれ。彼の示すルールを守れば考え直してくれる可能性はある。」
「無理、落ち着いていられない。ここを出ていかなきゃならないなんて……外は地獄よ、リック。」
「わかってる、わかってるよ。今すぐに出ていかなきゃならないわけじゃないんだ。時間をかけてハーシェルを説得する。」
「でも、もし説得し切れなかったら?」
悲痛な表情のローリの眼差しをまともに受け止めたリックは息が止まりそうになった。
農場から追い出される可能性に怯えるローリの目が他の仲間たちの目と重なる。皆から同じような眼差しを向けられるのかと思うと恐ろしさで息ができなくなりそうだ。
リックは目を逸らしたくなる気持ちを堪えてローリの目を見つめる。
「どうにか説得する。不安だと思うが、俺を信じてほしい。」
返事はすぐには返ってこなかった。ローリは唇を噛んで黙り込み、リックから視線を外した。葛藤する心が手に取るようにわかる。
やがてローリは再びこちらを見て「わかった」と答えた。
「あなたを信じてる。カールやみんなのためにもお願い。」
「ああ、もちろんだ。」
リックが頷いたのを見てローリは部屋の中に戻っていった。
ドアが閉まった途端に肩の力が抜ける。そして掌にじっとりと汗をかいていることに気づき、ズボンに掌を押し付けた。
とりあえずローリには話した。後は仲間たちに話してルールを守るように伝えなければ。緊張のせいで胃がキリキリと痛むが、今はそれを気にしていられない。
リックは胃の辺りを押さえながら足を引きずるようにして外へ出た。
リックはグループのテントが張られている場所に戻って全員を集めた。そしてハーシェルの言葉を伝えると場の空気が一気に重くなり、沈黙が落ちた。その重苦しい沈黙を破ったのはシェーンだ。
「ふざけるな。あの一家は農場に閉じこもって外の世界を見てないから『出ていけ』なんて言えるんだ。」
シェーンは怒りの形相で言葉を吐き出した。握りしめる拳に込めた力は強く、掌に爪が食い込んでいるのではないかと心配になるほどだ。
怒りを隠そうともしないシェーンはギラギラした目をリックに向けて吠える。
「おい、余所者は受け入れない主義だなんてくだらない主張を受け入れたんじゃないだろうな?こんな状況でお人好しぶりを発揮したら許さないぞ。」
まるでリックが憎い相手であるかのように憎悪を剥き出しにするシェーンにリックは怯んだ。親友からこのような態度を取られたことは今までに一度もない。
すぐに返事ができなかったリックをシェーンは更に責める。
「いいか、リック。ここ以上に安全な場所に辿り着ける可能性は低い。追い出されたら俺たちは全滅するかもしれない。お前はそれを理解してるのか?」
そう言ってリックの方に一歩踏み出したシェーンをデールが「やめろ」と制する。
「リックを責めるのは筋違いだ。それに話の途中だぞ。まずは彼の話を最後まで聞こう。」
デールに諭されたシェーンは彼を睨んだが、特に反論することなく無言で頷いた。
リックはデールの目配せを受けて説明を再開する。
「希望が全くないわけじゃない。ハーシェルはルールを守れるなら俺たちが農場で暮らすことについてもう一度考えてくれるそうだ。まずは今できることから始めよう。だから協力してくれ。」
リックは「みんなのためだ」と付け加えて反応を待つ。農場に残れるようにするには全員の協力が不可欠だ。協力を拒否されてしまえば望みが断たれてしまう。
リックが地面に視線を落として祈るような気持ちで仲間たちの答えを待っていた時、背中に触れる温もりを感じた。その温もりに導かれるように顔を上げて隣を見る。
「ニーガン……」
いつの間にか隣に来ていたニーガンはリックの背中に触れながら、いつも通りの余裕めいた笑みを浮かべていた。そして彼は皆を見回しながら「ちょっとは冷静になれ」と諭す。
「俺たちがハーシェルにとって余所者で押しかけの厄介者なのは事実だろ?それなのにカールの傷が良くなるまでは農場にいていいと言って、その上俺たちにチャンスまで与えた。あの男はかなり優しい方だと思うね。考えてもみろよ、俺たちはこの農場に何も貢献してないんだぞ。」
リックはニーガンの指摘に自分だけでなく皆もハッとしたのがわかった。
人道的に考えればハーシェルは行き場のないグループを受け入れるべきなのだろうが、今は以前の世界とは違う。物資を得られる手段は限られ、人数が増えるほど物資不足に悩まされる可能性が高くなる。誰もが自分の家族を守るだけで精一杯な状況において見返りもなく他者を受け入れるのは難しい。そのことに思い至らず「受け入れてもらえる」と安易に考えていたリックたちは甘過ぎたのだ。
そのことに気づいたリックは己の考えの甘さに恥ずかしくなった。己を恥じて唇を噛むとニーガンに後頭部を小突かれる。
「こら、リック。考え込むな。お前は自分で自分を追いつめるタイプだって自覚しろ。」
「……すまない。」
チラッと視線だけを向ければニーガンは苦笑いを浮かべていた。
リックは「反省するだけではだめだ」と気持ちを奮い立たせ、自分と同じように考えの甘さを恥じる皆に呼びかける。
「みんな、農場の仕事を手伝いたいと言っていただろう?それをしっかりやろう。この農場に貢献して、ルールも守ればハーシェルが考えを変えてくれるかもしれない。まずは彼らに信頼してもらえるように一緒に頑張ろう。みんな、頼む。」
もう一度頼むと今度は「やろう」という言葉と頷きが返ってきた。ニーガンのおかげで現状について冷静に考えることができて、自分たちが今やるべきことが何なのか理解できたからなのだろう。リックはそのことにホッとして笑みを浮かべる。
「ありがとう。後で仕事のリストを貰ってくるから割り振りをみんなで考えよう。とりあえず今はキャンプ地の整備をしてくれ。」
皆はリックの言葉に頷いてそれぞれの目的のために散っていった。その中で一人、シェーンはその場に留まったまま地面を睨みつけている。
リックはシェーンに近づいて「大丈夫か?」と声をかけるが、彼は顔を上げると鋭い眼差しをぶつけてきた。
「ここを出ていかなきゃならないかもしれないのに大丈夫なわけがないだろ。やってられねぇよ。」
「シェーン、投げやりになるな。希望がゼロなわけじゃないんだ。今は農場に残るために何が必要なのかを考えろ。」
「投げやりになんかなってない。俺は安心して眠りたいだけだ。」
「シェーン……」
「安心して眠れるのはまだ先の話だな。見回りに行ってくる。」
シェーンは吐き捨てるように告げて足早に去っていった。
リックはシェーンから強い苛立ちを感じた。以前からシェーンが苛立っている姿を頻繁に目にしていたが、今日はこれまで以上に苛立ちが強い。
オーティスの件がシェーンを精神的に不安定にさせているのは間違いない。それが原因で感情をコントロールできないのだ。そして、過剰なストレスにより「安心して過ごせるようになりたい」という欲求に歯止めがかからなくなっている。
考えてみれば、シェーンは「親友を病院に置き去りにした」という心の傷を負った状態でこの世界を生きてきた。心の傷を抱えたまま仲間を守るという重責を担うのは相当なストレスだったはず。リックと再会した後もウォーカーの脅威や物資不足の不安は常に付きまとっていた。それらのストレスはシェーンを蝕み続けており、それが昨日のことで悪化したのかもしれない。
今まで以上に注意深くシェーンを見守っていかなければならない、と考えるリックは仲間に呼ばれてシェーンから視線を外した。
親友を心配して様子を見守りたくともリーダーであるリックには気にかけるべき相手が大勢いる。一人だけに特別な注意を向けるのは難しい。それがリーダーの辛さなのだとリックはようやく理解し始めた。
リックは仲間たちと作業をした後、仕事のリストを貰うために家に戻った。ハーシェルを探して家の中を歩いてみたが彼は見つからなかった。まだ外での仕事が終わらないのだろう。
ハーシェルが戻るまで待つことに決めたリックはカールの部屋に顔を出す。カールは眠っていて、その隣にはローリが寄り添っていた。
ローリはリックが来たことに気づくと穏やかに微笑んだ。
「カールが少し前に目を覚まして『父さんはどこ?』ってあなたを探してたわ。」
ローリは微笑みながらカールの髪の毛を梳く。それを眺めながらリックはベッドの脇にある椅子に座った。
「朝に会ったきりだから不安にさせてしまったか?」
リックが尋ねるとローリは首を振って否定した。
「不安がってるわけじゃないから心配しないで。単純にあなたに傍にいてほしがってるだけ。」
「それならいいんだ。ところでローリ、俺がカールの傍にいるから君は休んでくれ。昨夜は眠りが浅かっただろ?」
昨夜、リックは寝たり起きたりを繰り返していた。疲れているのにカールのことが気にかかって熟睡できなかったのだ。
それはローリも同じだったようで、彼女が何度も寝返りを打ったり溜め息を吐いていたのをリックは知っている。心配ばかりして疲れが溜まっている妻を少しでも休ませてやりたかった。
しかし、彼女は「大丈夫」と言って微笑む。
「カールと一緒にうたた寝していたから平気。でも、みんなの手伝いがしたいから外に行ってくるわ。任せきりで申し訳ないから。」
「そうか、わかった。行ってくるといい。」
「じゃあ、カールをお願いね。」
ローリはベッドから降りるとカールの額に軽く口付けて部屋を出ていった。
リックは帽子を膝の上に置いてから改めて息子の顔を眺める。まだ普段よりも顔色は悪いが、昨日より少しだけ良くなったように見える。このまま順調に回復してほしい。
回復を願いながら見つめているとカールの目蓋がゆっくりと持ち上がり、宙を彷徨った視線がこちらに向けられた。カールと視線が重なったことが嬉しくて思わず笑みが零れる。
「やあ、タフガイ。よく眠れたか?」
リックの呼びかけにカールが笑みを零す。
「うん。父さん、いつ来たの?」
「ついさっきだ。母さんはみんなを手伝いに行ったよ。」
カールは「そうなんだ」と頷き、黙ってこちらを見つめ始めた。その顔は楽しそうで、そして嬉しそうでもあった。
なぜカールがそのような表情をしているのか不思議に思ったリックは質問してみることにした。
「なあ、カール。なんだか楽しそうだが面白い夢でも見たのか?」
リックの質問にカールはいたずらっぽく笑う。
「そうじゃないよ。僕と父さんは同じだなって思ったんだ。」
「同じ?」
「うん。だって、僕たち二人とも撃たれたんだよ。おかしいよね。」
そう言ってカールはクスクスと笑う。その楽しそうな笑みに釣られてリックも笑顔になった。
「母さんが聞いたら怒るぞ。今の話は二人だけの秘密にしよう。」
「いいね。そうしよう、父さん。」
二人だけの秘密を持つことに喜ぶカールにリックは笑いながら、膝の上にあった帽子を手に取る。
「約束を守る代わりに俺の帽子を進呈しよう。」
リックはカールの頭に保安官の帽子を被せてやる。
何年も被ってきた保安官の帽子。ある意味では相棒とも呼べるそれを手放すことに寂しさはあるが、後悔は少しもなかった。
カールは帽子の位置を調節すると「本当にいいの?」と問いかけてきた。リックは首を縦に振って答えた。
「たまに貸してくれ。」
ニヤッと笑いながら告げれば同じような笑みと共に「いいよ」と返ってきた。それに対して頷いてから「もう少し寝なさい」と布団をかけ直してやる。
「たくさん寝て体力を回復させたら傷の治りも早い。だから寝なさい。」
「うん。……父さん、大好きだよ。」
リックは「おやすみ」の代わりに告げられた言葉に「俺もだよ」と返した。
再び目を閉じたカールは数分で眠りに落ちた。それだけ弱っているということだ。
リックはカールの寝顔を見つめながら考え込む。
(俺は家族を守りたい。そのためにはもっと強くならなきゃいけない)
強くなるというのは肉体的なことだけではなく精神的なことも含んでいる。今回、カールが撃たれたことでリックは精神的に非常に不安定な状態に陥った。冷静な判断ができていたとは言い難く、周りが支えてくれたおかげでどうにかなっていただけだ。
もし再び厳しい状況になった場合、「今の自分ではしっかりと対応できないかもしれない」という危機感をリックは強く抱いた。これから先、弱い自分のままでは誰のことも守れない。誰かを守りたいと願うのならば自身を変えていく必要がある。そのためには自身を変える覚悟を持たなければならないのだ。
リックは制服に付いている保安官のバッジを取り外して見つめてみる。それはリックにとって戒めであり誇りだ。「常に正しい人間であれ」と己を律し、そうある自分を誇りに思ってきた。
しかし、今はそれだけでは通用しない。正しいだけでは生き抜くことも守り抜くこともできない。大切なのは「あらゆる選択肢を考慮してその中から選ぶ」ことだ。今までの自分のままでいたいと望むのは終わりにしなければならない。
リックは静かに立ち上がると部屋を出て自分とローリに用意されたゲストルームを目指した。
部屋に入って直行したのはチェストだ。チェストの上の壁には大きな鏡が飾られている。リックはその前に立つと制服のボタンをゆっくりと外していく。
保安官の制服は体の一部だ。「善き人」「正しき人」といった理想が詰まった制服はリックにとって欠かせないものであり、この制服に相応しい人間でありたいと常に思っていた。それを今、リックは脱ぎ捨てようとしている。
リックは鏡に映る己の姿を見つめながらボタンを外し、脱いだそれを丁寧にたたんでチェストの引き出しにしまった。そして引き出しに収めた制服の上にバッジを置く。引き出しの中に入れられた保安官の制服とバッジは嘗ての輝きを失ったように見えた。昔はもっと眩しく見えたというのに。
リックはしばらく引き出しの中に視線を落としていたが、引き出しを静かに閉めるとTシャツを脱いだ。そのTシャツもたたんでチェストの上に置き、制服を脱いだ自分を改めて眺める。
腹部に残った銃弾の痕。この銃弾が運命を変えたと言ってもいいだろう。一発の銃弾によって長い眠りについたリックは全てが一変した世界で目覚め、それまでの自分を捨てて生まれ変わるのだ。全ては守るべき人たちのために。
リックが鏡を凝視していると、不意にニーガンの声が響く。
「もう制服は必要ないのか?」
突然聞こえてきた声の方に顔を向ければ、部屋の一歩外に立つニーガンと目が合った。壁に寄りかかりながらこちらを見るニーガンは真剣な表情をしている。いつの間に来ていたのだろう?
リックはニーガンと目を合わせたまま質問に答える。
「この世界で生きていくために、みんなを守るために……俺はこれからどんどん変わっていく。その変化を受け入れる覚悟ができた。だから制服は必要ない。」
ハッキリと言い切ったリックは微笑を浮かべた。
「俺はどう変わっていくんだろうな?変わった俺をあんたはどう思うんだろう?」
その質問にニーガンが眩しいものを見るように目を細めた。それを見て、リックは「なぜニーガンは俺をそんな風に見るんだろう?」と不思議に思った。
暫しの沈黙の後、ニーガンは弧を描くように微笑んだ。
「何かが変わろうとお前の本質は変わらないさ。そんなお前を俺はいつまでも見ていたい。」
気負いもなく当たり前のように言われた言葉にリックは目を見開いた。
なぜニーガンはこんなにも自分を信じてくれるのだろう?彼の目に自分はどのように映っているのだろうか?
リックが言葉を返せずにいると、ニーガンは「風邪を引く前に服を着ろ」と言って去っていった。
リックはニーガンの姿が見えなくなるまで彼の後ろ姿に視線を送ってから、再び鏡の中の自分を見る。その目に覚悟が宿っているのを確認して深く息を吐き出す。
「──俺はこの世界で生きていく。」
これは自身への誓いだ。この誓いを楔として胸に打ち込み、前だけを見て生きていく。
リックは持ち込んだ荷物の中からシャツを取り出して袖を通す。「古い皮を脱ぎ捨てて生まれ変わるようだ」という感想は口には出さずに胸の奥にしまい込んだ。
農場での日々は驚くほど穏やかなものだった。ウォーカーに怯えることなく笑って暮らしているので、ウォーカーから逃げ続けた日々が夢だったかのように思えてしまう。それくらいに平穏な時間が流れていくのだ。
もちろん毎日を遊んで過ごしているわけではない。ハーシェルから請け負った仕事はたくさんある。農場で飼っている動物の世話の手伝い、収穫した野菜の運搬と保存作業、柵の修理、薪割りなどの他にハーシェルやマギーに頼まれた細々とした仕事に全員が勤しんだ。それらの仕事の合間に自分たちの生活のための仕事をするのだが、その時間さえも楽しいと思える。それが安心して過ごせる環境のおかげなのは言うまでもない。
そしてカールのケガも少しずつ良くなっている。まだ激しい動きはできないものの、日常生活は問題なく送ることができるまでに回復した。
カールの回復を誰もが喜んでいる。だが、頭を過ぎる不安を無視することはできなかった。
三度の食事は全員揃って食べる。これはルールとして明確に定めたわけではないが、グループにしっかりと定着していることだ。
今日も朝の爽やかな風を感じながらの朝食に全員の顔が揃っている。
カールはソフィアと共に朝食の準備を手伝っており、彼は仲間たちに料理が乗った皿を運んでいた。
「父さん、これは父さんの分だよ。」
リックはカールが持ってきた朝食の皿を受け取って「ありがとう」と感謝した。それに対してカールは笑顔で頷き、次の皿を他の仲間に届けるために準備の済んだ皿の方へ向かう。
元気に手伝いをするカールを微笑ましく眺めていると、近くに座るグレンが「なあ、リック」と声をかけてきた。
「カールのケガはすっかり良くなったね。ここに来た日のカールを見た時はすごく心配したけど、もう心配する必要はなさそうだ。」
「ああ、元気いっぱいでローリが困ってるくらいだよ。『消毒の時間なのにカールが戻ってこない!』ってね。」
「ソフィアと前みたいに遊び回ってるからな。ソフィアも遊び相手が戻ってきて楽しそうだ。」
グレンの隣で話を聞いていたデールが同意するように頷く。
「子どもたちが元気だと俺も元気を貰えるから、あの子が回復してくれて本当に良かったよ。」
デールの温かい言葉にリックは笑みを深める。カールの回復を仲間が喜んでくれることもリックには嬉しいことだった。
その時、料理の乗った皿を手にしたアンドレアが立ったまま呟く。
「……カールが元気になったのは嬉しいけど、ここを出ていく日が近いってことなのね。」
その呟きにリックたちは無言になる。考えたくないことだが頭に過ぎるのは無理もない。「カールの傷の状態が良くなったら農場を出ていってほしい」という言葉をハーシェルは撤回していないのだ。
リックが何も言えずにいるとアンドレアは「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。
「カールが回復してることは本当に嬉しい。でも、どうしても考えてしまう。ここでの暮らしが穏やかだから手放したくないと思ってしまうの。……こんな自分が嫌になる。」
自嘲気味に笑うアンドレアにリックは「謝らないでくれ」と返した。
「ここを離れたくないと思うのは当然だ。ハーシェルを説得して農場に置いてもらえるようにするから不安を抱え込まないでほしい。」
リックは焦燥感を抱きながらアンドレアを励ました。
アンドレアが抱える不安はグループの誰もが持っているものだ。農場での暮らしが平穏だからこそ出ていかなければならない未来が恐ろしくなる。カールの回復を喜びながらも複雑な心境になるのはリックにも理解できた。それを放置してはいけない。
リックがアンドレアに更に言葉をかけようとした時、シェーンが眉間にしわを寄せながら歩いてくる。
「リック、無責任なことを言うのは止せ。絶対にハーシェルを説得できる保証はないんだぞ。」
シェーンはリックの間近に立って睨みつけてきた。その目に宿る苛立ちに気づいたリックは言葉を選びながら返事をする。
「そうだとしても俺は説得を諦めない。彼は良い人間だから説得を続ければ考えを変えてくれる可能性は十分にあると思う。」
「そうか?可能性があるなら俺たちが未だにテントで寝泊まりしてるなんておかしい。農場に住まわせてもいいと少しでも考えてるなら家に入れるさ。」
「シェーン、この人数であの家に寝泊まりするのは難しい。それなのに『家で寝泊まりしてもいい』なんて簡単に言えるわけがないだろう?彼らには彼らの暮らしがあることも考えないと。」
リックが諭すように言うとシェーンは荒々しい手付きで自身の頭を掻いた。目が釣り上がり、全身から怒りを発するシェーンにリックの周りにいる誰もが困惑したように顔を見合わせる。
シェーンは苛立ちを乗せた視線でリックを射抜いた。
「リック、現実に目を向けろ。俺たちはもうすぐ追い出される。あいつらの事情まで考えてる余裕なんてない。お前はみんなを守るために自分からリーダーになったんだろ。それなら少しは俺たちを安心させろよ。」
シェーンの言う通り、今の自分たちにハーシェルたちの事情を考慮する余裕はない。それでも彼らの状況や感情を無視することはできなかった。
グループとハーシェルたちの間で板挟みになっているリックは何も言い返せず唇を噛む。
その時、堪えきれなくなったようにデールが鋭い声を出す。
「シェーン!──いい加減にしろ。リックを責めるのは間違いだ。」
シェーンは自分を睨むデールを睨み返し、それから再びリックを睨んだ。親友から注がれる憎しみの眼差しにリックは言葉を失う。
リックとシェーンが視線を交わらせたまま膠着状態に陥っているところへキャロルの「もうやめて」という懇願の声が響いた。リックもシェーンもハッとして彼女の方に顔を向ける。
キャロルは怯えた表情のソフィアの肩を抱き寄せながらリックとシェーンに向けて声を絞り出す。
「子どもたちの前で言い争うのはやめて。今の私たちに必要なのは協力し合うことでしょ?朝から言い争いをしてる場合じゃない。」
キャロルの主張に同意を示すようにローリとTドッグも頷いている。
リックは顔をシェーンの方に戻した。シェーンもこちらに顔を向けたので目が合ったが、その表情が苛立ちに歪む。
シェーンは一つ舌打ちをしてから自分の皿を掴み、仲間たちから離れた場所まで移動して腰を下ろした。そして一人で朝食を食べ始めてしまう。
全員がシェーンを見つめる中でTドッグがポツリと呟く。
「あいつ、本当にどうしちまったんだ?」
その心配そうな声はグループ全員の声だ。
農場に来る前からシェーンは苛立っている様子を見せていたが、農場に来てから更に悪化している。安全な場所に滞在しているというのにピリピリしていることが多く、余裕のなさが見て取れた。
その苛立ちをぶつけられているのがリックだ。シェーンは事あるごとにリックの意見に反発したり責めるような言動を取ることが増えてきた。周りが宥めても効果は薄く、特にニーガンが仲裁に入ると怒りが激しくなるため、最近ではニーガンが二人の間に入ることはなくなった。
心から安心できる状態ではないことがシェーンの不安を生み、苛立ちの原因となっているのだとリックは考えている。苛立ちがリックに向けられるのは親友であるが故に遠慮しないのだと思い、彼の苛立ちを受け止めてやるしかないと覚悟もしていた。それでも疲れを感じるのはどうしようもない。
いつになったら親友は落ち着くのだろう、と途方に暮れるリックは小さく溜め息を吐いた。
******
じりじりとした焦りの漂う日々が続いた頃、リックはいつものように森に入って食料を探した。ハーシェルが食料を譲ってくれているが全員分を賄うには足りず、そうかと言ってこれ以上の負担をかけるわけにもいかないため、食料を得るために森に入るのは欠かせない仕事だった。
食料調達に行くのはデール以外の男たちが担当した。ローリたちの戦闘訓練は毎日行っているものの調達に連れていくレベルには達していない。下手に連れていけば危険だ。少人数でローテーションを回すのは体力的にきついが、今は耐えるしかなかった。
そのためリックにはシェーンと二人で調達に出かける機会が定期的にあり、その度に会話を試みた。
しかし、苛立ってばかりのシェーンとの会話は最終的に言い争いに発展してしまう。会話をしようとすればするほど傷つけ合う結果になることにリックは困り果てていた。
そして今日の食料調達でもシェーンと感情的に言葉をぶつけ合うだけの時間を過ごしたリックは疲れと共に自分たち家族のテントに戻ってきた。テントには誰の姿もなかった。
リックは腰に下げている拳銃のホルスターを取り外すとテーブルに置いた。その時、何かの薬の箱と水の入ったマグカップがテーブルの上に置かれていることに気づく。
それはケガの治療のためにカールが服用している薬ではない。薬はハーシェルが毎回出してくれており、飲み合わせが悪いといけないので処方外の薬の服用は禁じられている。そうなるとローリが飲んだ薬と考えて間違いないだろう。
(何の薬だ?ローリは体調が悪いのか?)
ローリは「体調が悪い」とは一言も漏らしていなかったが、薬を飲まなければならないほどに悪化したのかもしれない。ハーシェルに頼んで診察してもらった方が良さそうだ。
リックはローリが何の薬を飲んだのか確かめるために箱を手に取って眺めた。その目が驚愕に見開かれる。
「これは……中絶薬だ。」
リックは慌てて箱に書かれた説明文を目で追う。見間違いだと思いたかったが、説明文は妊娠中絶のための薬であることを示していた。
中絶薬が必要ということはローリは妊娠している。彼女の腹に宿るのは新たな命だ。そのことが頭の中を駆け巡り、次に押し寄せたのは混乱と怒りだった。リックは思わず薬の箱を握り潰す。
こんなにも大切なことを打ち明けてくれなかったことへの悔しさ。
相談もなく一人で中絶を決めてしまったことに対する怒り。
夫なのに、家族なのに、信頼されていなかったのだという悲しみ。
あらゆる感情が心を埋め尽くした後、リックは激しい感情に突き動かされるようにテントを飛び出した。とにかくローリと話をしなければならない。
リックは農場を捜し回り、牧草地を囲む柵の前で佇むローリを見つけた。ローリはリックの存在に気づくと緊張を顔に浮かべた。
リックはこちらから視線を逸らさないローリに一直線に向かい、彼女の前に立った。
「ローリ、俺に話すことがあるはずだ。」
常になく己の声に厳しさが滲むのを自覚する。冷静に話すことがこんなにも難しいと感じたことはない。
リックはローリから目を逸らさずに彼女の言葉を待った。そして遂に彼女自身から「妊娠した」と告げられた。その言葉が頭に染み込むと改めて怒りが込み上げる。
「いつ知った?最近か?それとも数週間も黙ってたのか?」
「なぜ聞くの?」
その一言に怒りが決壊する。
リックは「なぜだって⁉」と怒鳴り声を上げた。
「嘘を吐かれていたのがどれだけの期間か知りたいだけだ!なぜ言わなかった!?俺が無理やり産ませるとでも思ったのか⁉一言も言わずに中絶薬を飲むなんて!」
夫の激しい怒りに触れたローリの顔に怯えが過ぎったが、彼女は逃げ出すことなく必死に言葉を紡ぐ。
「リック、薬は吐き出したわ。それに、農場に留まれるかどうかで悩むあなたを追いつめたくなかったから言い出せなかったの。そのことは悪かったと思ってる。」
目を潤ませながら話すローリを睨みつけながらリックは深呼吸する。落ち着こうと努力するが、点火した怒りは簡単に鎮まりそうにない。
「中絶しようと考えた理由は?」
常よりも低い声で問えばローリの顔が苦悩に歪む。
「お腹の子は短くて辛い人生になる。生まれた瞬間から死の危険に晒されて、辛いことばかり経験して成長していくなんて嫌。こんな世界で子どもを生むなんて……」
嗚咽のせいで続きを話せなくなったローリにリックは訴えかける。
「どうしてそんな風にしか考えられないんだ?俺たちがこの子を幸せにすればいい。そのための努力をしよう。それに、薬を吐き出したのは君も諦めたくないからじゃないのか?」
リックは小さな命を諦めたくなかった。過酷な世界でも幸せは見つけられると信じたかった。そう思えるのは鹿を見て感動するカールの姿が目に焼き付いているからだ。
しかし、ローリはリックの訴えに首を横に振る。
「ドブに産み落とすようなものでしょ?それに赤ちゃんの泣き声でウォーカーが寄ってくる。みんなを危険に晒してしまう。」
「泣き声が響かないように工夫すればいい。できる限りの手段を考えるから。」
「そうかもしれないけど……この子を産んだら私の心に葛藤が生まれる。」
そのように答えたローリの顔は罪悪感に満ちていた。それにより、リックはローリがまだ何かを隠していると直感した。
再会直後からローリが自分に対して黙っていることがあると薄々気づいていた。ただ、それを知ってしまえば二人の関係が決定的に変わってしまうような気がして、それが怖くて知らない振りを続けてきた。
しかし、もうこれ以上知らない振りは続けられない。終わりの時は来てしまった。時として勇気を出して知らなければならないことがあるのだ。
リックは「俺はこんな風に生きられない」と声を震わせた。
「君が俺に何か隠してると気づいているのに知らない振りをして……自分を騙して生きていくなんて、こんな生き方はだめだ。俺たちは隠し事をしたり自分をごまかして生きていけるような人間じゃない。ローリ、君が俺に話すべきことを話してくれ。」
ローリは顔を強張らせたままリックを凝視している。震える唇が彼女の葛藤を表していた。
やがてローリは躊躇いがちに口を開く。
「私はシェーンと関係を持った。」
目を逸らすことなく告げられた言葉にリックは胸を抉られたような痛みを感じた。
自分が不在の間に妻と親友が恋仲になっていた。その事実は容赦なくリックを打ちのめして返す言葉を奪う。
リックは空回りを続ける頭で必死に考えて言葉を絞り出す。
「君は俺が死んだと思った。そうだろう?」
夫が死んだと思ったから、辛い気持ちを慰めるために夫の代わりを必要とした。リックはローリにそう言ってほしかった。愛しているのは自分だけなのだと言ってくれなければ足下から崩れ落ちてしまいそうだった。
リックが必死の思いでローリを見つめると彼女は何度も首を縦に振った。
「あなたを失って、世界が崩壊して、支えになる存在を求めずにいられなかった。リック、本当にごめんなさい。」
強い後悔に苛まれるローリの頬を涙が伝う。彼女は再会してからずっと苦しみ続けてきたのだと思うと責めるに責められなかった。
リックはローリから視線を外して目の前に広がる牧草地に顔を向ける。太陽に照らされて美しく輝く牧草地が今では色褪せて見える。まるで世界が変わってしまったようだ。
リックは牧草地に目を向けたまま、ある決意をローリに告げる。
「お腹の子は俺たちの子どもだ。二人で守っていこう。」
その言葉を告げた瞬間にローリが息を呑む気配がした。そして「待って」と狼狽える声が聞こえた。
「リック、この子は──」
「いいんだ。」
リックは何か言おうとしたローリを制して、その彼女の方に視線を戻すと罪悪感に満ちた顔を見た。
再会してからの期間を考えれば、ローリが妊娠したのがリックの子どもである可能性は限りなく低い。つまり、ローリが妊娠したのはシェーンの子ども。リックの子どもではない。そうであってもリックはまだ見ぬ赤ん坊を自分の子どもとして育てる決意を固めていた。
リックはローリの顔から目を逸らすことなく宣言する。
「俺は父親として子どもも君も守ると決めた。……俺の子だ。その子は俺の子どもだ。君がその子を産むと選択するなら、そういうことにしよう。いいな?」
異論を挟む余地のない宣言にローリの目から新たな涙が生まれる。夫を裏切って夫以外の男の子どもを妊娠したのに、夫本人が「自分の子どもとして育てる」と言っているのだ。大き過ぎる罪悪感に押し潰されそうなのだろう。それを理解した上でリックはお腹の子の父親になると決めた。
嫌がらせなどではない。ローリやシェーンを苦しめたいわけでもない。全てはお腹の子とカールのためだ。
正直にローリとシェーンの子どもとして育てれば、周りから見ると「不義の子」ということになる。仲間たちは良い人間なので子ども本人にそのことを言ったり侮辱するような言動は取らないだろうが、「不義の子である」という認識は頭の片隅に残るだろう。それが子ども本人に伝わらないはずがない。罪のない子を自身の出生のことで思い悩ませたくなかった。
そして、カールが母の裏切りを知ればひどく傷つくことになる。両親の間で板挟みになる幼い心はどれほど苦しむだろうか?父親としてそれは許せなかった。
リックはローリが頷くのを待った。彼女が自分からの視線に苦しんでいるのがわかったが、本気なのだと理解してもらうためにも目を逸らすわけにはいかない。
やがてローリは深く頷くと「わかった」と答えた。涙目でありながらも真っ直ぐにこちらを見る。
「産むわ。……違う、私が産みたいと思ってる。生まれてくる子はあなたと私の子。異論は誰にも言わせない。」
ローリの宣言に頷き、リックは彼女に背を向けて歩き出す。
結論は出た。それならばローリの妊娠を伝えるべき男に会う必要がある。
リックは複雑な感情を抱えたまま農場の中を歩き、離れた場所から納屋を睨むシェーンの姿を見つけた。
「シェーン、何をしてる?」
リックが声をかけるとシェーンはこちらに顔を向けた。
「どうにも納屋が気になる。何でハーシェルは俺たちが納屋に近づくのを嫌がるんだ?あの男は一体何を隠してる?」
シェーンはハーシェルに不信感を抱いているようだ。シェーンがハーシェルを見つめる時、その眼差しにはいつも警戒が滲む。
リックは納屋に視線を向けて、それをすぐにシェーンに戻した。
「気になるところだが手を出すな。ルールを破ればここにいられなくなるぞ。」
「わかってるさ。ところで何の用だ?」
リックは訝しげにこちらを見るシェーンの顔を見据えて口を開く。
「ローリが妊娠した。」
シンプルに一言で告げればシェーンは目を瞠った。その顔に驚愕と混乱が走り、衝撃から立ち直った彼はぎこちなく笑みを浮かべる。
「そうか。おめでとう。」
カールの時とは反応が別人のようだ、と思いながらリックは混乱の真っ只中にいる親友を見つめる。
ローリがカールを妊娠したことを知らせた時のシェーンは「よかったな!おめでとう、兄弟!」と言って、満面の笑顔と力強いハグで祝福してくれた。全身で喜びを表現する親友に喜びが増したのを覚えている。
しかし今はどうだ?笑みはぎこちなく、祝福の言葉を告げる声は硬い。親友に子どもができたことを喜ぶ様子は欠片も見えない。何もかもが以前と違い過ぎた。
リックは泣きたい気持ちを堪えて、もう一つの伝えるべきことを口にする。
「お前とローリのことを知った。」
そのように告げた瞬間、シェーンの目が更に見開かれた。ローリの妊娠を告げた時以上に衝撃を受けたようだ。
シェーンは狼狽を隠すことなく視線を彷徨わせ始める。
「悪かった。お前から彼女を奪うつもりじゃ……お前が死んだと本当に思ったんだ。奪うつもりはなかった、本当だ。」
シェーンの謝罪に「わかってる」と答えたリックの声は掠れていた。
ローリとシェーンが本当にリックが死んだと思ったことは理解できる。世界が変わる前の二人はどちらも相手に対して恋愛感情はなく、リックを通じての友人同士でしかなかったこともわかっている。リックが昏睡状態に陥ったこと、そして世界が崩壊したことが二人の関係性を変えたのだ。それでも腹が立って悲しいのはリック自身にもどうすることもできない。
もし相手を責め立てて口汚く罵ったとしても心は晴れないだろう。それがわかっているからリックは怒りも悲しみも腹の底に押し込む。
「過ぎたことについてはいい。ただ、お腹の子は俺の子どもだ。俺が守る。それについては何も言わせない。」
リックの宣言にシェーンは顔を強張らせた。そして強く睨みつけてくる。
ローリが妊娠したのは自分の子どもである可能性が高いことはシェーンもわかっているはず。そのためリックの決定に反発心を抱くのは当然だ。そうであってもリックの気持ちは変わらない。
リックは「話はそれだけだ」と言い残して立ち去ろうとした。
「リック、待て。」
引き止める声に振り向くとシェーンが厳しい表情でこちらを見ている。
「お前……本気か?本気で俺の子どもを──」
シェーンの言いたいことがわかったので、リックは「シェーン」と名前を呼ぶことで続きを遮った。
「ローリと俺の子どもだ。この話は終わりにしよう。」
リックは強制的に話を打ち切って再び歩き出す。もう一度呼び止められたとしても今度は振り返らないと決めた。
シェーンとの距離はどんどん離れていくのに背中に視線を感じる。それが温かなものではないことが悲しい。
リックは瞬きを繰り返して涙を散らす。
(ニーガン……!)
ニーガンと話がしたい。この苦しみを吐き出させてほしい。アドバイスはいらない。ただ、話を聞いてくれるだけでいい。
リックは心を許せる唯一の相手になってしまったニーガンの元へ少しでも早く辿り着くために走り出した。
シェーンと話した後にニーガンの元へ急いだリックがニーガンと顔を合わせた時の第一声は「時間はあるか?」だった。思い詰めた様子のリックにニーガンは目を丸くしたが、何かあったのだと察して「二人だけで話したいからキャンピングカーを使いたい」とデールに頼んでくれたのだ。
ニーガンに促されてキャンピングカーに入り、ベッドに腰を下ろすと徐々に冷静さが戻ってくる。そうするとローリとシェーンの話を彼にするのは間違っているように思えてきた。三人の問題をニーガンに話したところで彼も困るだろう。「話を聞いてほしくなったら言え」と言ってくれたが、流石に甘え過ぎている。
ニーガンに頼りきりな自身を恥じたリックは「やっぱり大丈夫だ」と告げようとした。
しかし、ニーガンの人差し指に唇を塞がれて何も言えなくなってしまう。リックが眉を下げるとニーガンは苦笑した。
「今更俺に遠慮なんてしたら許さないぞ。話せよ。聞いてやる。」
思いやりに満ちた言葉がリックの涙腺を刺激する。
どうしてニーガンはいつも自分が欲しい言葉をくれるのだろう?
リックは視界が涙で霞むのを感じながら小さく頷いた。そうすると唇を塞ぐ指が外されたので話し始める。
「ローリが妊娠した。俺の子どもである可能性は低い。……シェーンの子どもで間違いないだろう。」
そう話すとニーガンが眉間にしわを寄せた。
「いつ知った?」
「ついさっきだ。中絶薬が放置されていたからローリを問いただして、妊娠の話とシェーンとの関係について聞いた。俺が死んだと思ったから支えになる存在が欲しかったそうだ。それがシェーンだった。……仕方ない、よな。」
リックが自嘲すると肩にニーガンの手が置かれた。その手が労るように肩を擦る。
リックはニーガンの手の温もりを感じながら鼻をすすった。ローリとシェーンのことについて自分で説明するだけで胸が苦しくなり、涙が滲んでくる。
ニーガンはリックの肩を擦りながら顔を覗き込んできた。
「どんな理由があっても簡単に割り切れるもんじゃないだろ。辛かったら辛いと言えばいい。ところで子どものことだが、お前の子どもって可能性は……やっぱり低そうだな。一応確認だが、俺たちがこのグループに合流してから二ヶ月くらいになる。その間にローリとセックスしたのは?」
「……一度だけ。再会した日だ。」
リックの答えにニーガンは深い溜め息を吐いた。そして気遣わしげな眼差しを寄越す。リックの子どもである可能性の低さは明らかだ。
「リック、どうするつもりだ?」
ニーガンからの問いにリックは瞬きで涙を散らしてから答える。
「お腹の子どもは俺の子どもとして育てる。そのことはローリも受け入れたし、シェーンにも話した。あいつが納得しなくても考えは曲げない。」
「何でお前の子どもってことにする必要がある?」
「子どもたちのためだ。生まれてくる子どもが不義の子として見られるのは良くないし、カールも傷つく。俺たち大人のためじゃなくて子どもたちのために俺の子どもとして育てたいんだ。」
リックが考えを述べるとニーガンは「お前なぁ……」と再び溜め息を吐いた。そして、リックから手を離してガシガシと頭を掻きながら考え込む。ニーガンとしてはリックが責任を背負う展開に納得できないのだろう。
しばらく難しい顔で考え込んでいたニーガンは「わかった」と一つ頷く。
「お前が覚悟を決めたなら俺はお前をフォローする。心配するな。ただ、他の奴らへの説明はしっかりしておけよ。」
その言葉にリックはホッと息を吐き出した。そう言ってもらえるだけで少し気が楽になる。
リックが「ありがとう」と感謝を伝えるとニーガンは複雑そうな表情をする。
「リック、お前は大丈夫なのか?俺が気になるのはお前の精神的なところだ。」
ニーガンの指摘にリックは俯く。大丈夫なわけがない。
リックは俯いたまま膝の上で拳を握る。
「二人の状況を考えれば仕方ないんだろうが、俺は『裏切られた』と思ってしまった。」
悲しくて胸が苦しい。
懸命に散らした涙が勢いを増して押し寄せてきて、次々と零れ落ちていく。
「二人を嫌いだとは思わない。今でも大切で……だが、前と全く同じ関係には戻れない。何もなかったことにはできないんだ。俺の心が受け入れない。……無理だ。」
本心を吐露してしまえば涙は止まらなくなった。
「裏切られた」という思いがあっても、やはりローリとシェーンのことが好きだ。二人が大切なのは変わらなかった。それなのに以前のように接することを心が拒否する。
「愛する妻であるローリ」には触れられない。
「信頼する親友であるシェーン」には笑顔を向けられない。
大好きなのに、大切なのに、今までのようにはできない。そのことが悲しくて苦しい。
リックが俯いたまま泣いていると、ニーガンの腕が体に回されて抱き寄せられた。思いがけない抱擁にリックは目を丸くする。
驚いたリックが身動きせずにいるとニーガンの声が降ってくる。
「お前たちみたいな状況で前と同じ関係に戻るのは難しい。謝ったらすぐに元通り、なんて有り得ない。人間の心って奴は単純じゃないからな。お前が苦しいのは当たり前だ。」
ニーガンの声は低く、そして優しく響いた。その声はリックの波立った心を落ち着かせてくれる。リックはニーガンの温もりと声に包まれながら彼の話に耳を傾ける。
「お前の心を捻じ曲げてまで元通りにしなくていい。今までとは違う形でもあの二人を大事にできる方法はあるだろ?」
「……見つけられると思うか?」
そのように尋ねるとニーガンが深く頷いた。
「お前なら何としても見つけるさ。そういう奴だと俺は知ってる。」
ニーガンはそう言ってからリックの頬に掌を這わせた。リックはそれに導かれるように顔を上げてニーガンと視線を重ねた。
真っ直ぐに注がれる眼差しに息苦しさを感じることはない。寧ろ見つめられていることに安心する。ニーガンの眼差しはいつだってリックを安心させてくれて、そして励ましてくれるのだ。
ニーガンから目を離せないでいると頬を撫でられた。
「お前の苦しさは続くだろう。辛くて泣きたくなる時もあるかもな。そんな時は俺のところへ来い。俺がお前の傍にいる。」
ニーガンが本気で言ってくれているのがハッキリとわかる。彼の顔にいつもの笑みはなく、熱の籠もった目でこちらを見つめていることがその証だ。
ニーガンの思いを感じ取ったリックの胸は甘く疼く。信頼を寄せて尊敬の念を抱く相手が自分に深く情を傾けてくれているという事実に喜びを感じずにいられない。心に大きな傷を負っているからこそ彼の優しさが染みる。
リックは不意に「このままだと自分はニーガンなしでいられなくなるかもしれない」という思いを抱いた。
いつも隣にいて「大丈夫だ」と微笑んでくれる彼。
助けが欲しい時に必ず駆け付けてくれる騎士。
悲しみも苦しみも受け止めて包んでくれる人。
(彼の言葉に頷いたら、俺は戻れないかもしれない)
リックは漠然とそのように思った。
ニーガンの元へ転がり落ちていくような感覚。それは甘美であり恐怖でもある。今この場でニーガンの申し出に対して首を縦に振って抱きしめ返せば、二度と彼から離れられなくなるかもしれない。それは執着であり、リックの中には誰かに執着することに対する薄っすらとした恐怖があった。
しかし、リックは僅かに残った恐れを投げ捨てることにした。
解かれることのない抱擁に応えるためにニーガンの背中に手を添えると、今までよりも強く抱きしめられて少し息苦しい。その息苦しさに心地良さを感じる。
リックはニーガンに抱きしめられたまま深呼吸をした。
「……必ず立ち直ってみせる。だから俺の傍にいてくれ。」
望みを口にするとニーガンが頷いた。
「任せとけ。」
短くて、そして力強い言葉だった。リックは顔を綻ばせる。
「頼もしいな。」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる?」
笑いを帯びたニーガンの返事にリックは笑みを深めた。
ニーガンと一緒にいると悲しみや苦しみが和らぐ。こうして抱きしめられると安心する。
(俺は抱きしめてほしかったんだろうな)
その実感と共に目を閉じればニーガンの体温と匂いを感じやすくなる。
安心感を与えてくれる温もりと匂いに包まれるうちにリックの胸の苦しみは消えていった。
******
リックが妻の妊娠とその裏切りを知った日の夜に、彼は仲間たちに妻が妊娠したことを知らせた。仲間たちに「ローリに力を貸してやってほしい」と頼むリックの心が軋んでいることに気づいているのはニーガンを含めて三人だけだろう。
リックの妻であるローリ、そして彼の大親友であるシェーン。リックの心を深く傷つけた二人。硬い表情でリックを見つめている理由はそれぞれに違うはず。
ニーガンは仲間からの祝福の言葉に笑みで答えるリックを見つめながら密かに溜め息を落とす。
リックたち三人の関係はしばらく落ち着かないだろう。表面上は凪いでいるように見えて水面下では荒れている。その影響は確実にグループ全体に及び、下手をすれば崩壊だ。そのためリックはグループのことや生まれてくる命に加えてローリとシェーンとの関係についても頭を悩ませることになる。
今後、リックが抱える負担とストレスは計り知れない。それでもギリギリのところまで自分一人で解決しようと足掻くのがリック・グライムズという男だ。ローリにもシェーンにも心を開けなくなった彼はますます追い込まれていき、いつか自身を壊してしまうだろう。
そのことを案じるニーガンは眉間にしわを寄せた。
(今まで以上に気をつけて見てやらないとな)
ニーガンはローリと並んで仲間の中心にいるリックを見つめながら、足元に亀裂が入っているような感覚を味わう。
この亀裂が広がり続けて底が抜けてしまうのか──それは彼ら三人次第だ。
ローリの妊娠が発覚してから数日が経ち、リックたち三人の関係はニーガンが予想した以上に悪化していた。
リックがローリに触れることは極端に減った。キスをしたり頬に触れるのは皆無だ。ローリの体を支えたり手を差し出そうとする時もリックは一瞬体を硬直させ、戸惑った表情を見せる。触れたくないというよりも触れ方がわからなくなったというのが正解かもしれない。
シェーンに関して言えば他の仲間たちが心配そうに見遣るほど会話が減り、目を合わせることも少なくなった。言葉を交わすのはシェーンが苛立ちを顕にする時がほとんどだ。
リック、ローリ、シェーンの関係に変化が起きてからグループ全体に漠然とした不安が広がり始めたのをニーガンは感じている。誰も口にはしないが、グループ崩壊の危機を薄々察しているのだ。
三人の不仲とグループ崩壊の危機の影響を強く受けてしまっているのがカールであり、幼い少年は精神的に不安定になっていた。両親や周りの大人に悪態を吐いたり、何かを指示されると急に怒り出してしまう。今までに見られなかった息子の反応にリックもローリも戸惑っていた。
そして今も、ニーガンの視線の先ではカールが母親を威嚇するように睨みつけている。
「僕は赤ちゃんじゃない!放っておいてよ!」
怒鳴る息子にローリは困り顔で「そんな風に思ってない」と返した。
「遊ぶなら私たちの見える範囲にいてほしいと言ってるだけよ。農場は安全だけど、何が起きるかわからないでしょう?」
努めて落ち着いた口調で諭すローリだが、カールは頭を振ってそれを拒絶する。完全に頭に血が上っているようだ。
「違う!母さんは僕を見張りたいんだ!」
何を言っても跳ね除けてしまうカールにローリは黙り込んでしまう。他者の意見を受け付ける気のない相手にはどのような言葉も届かない。そのことに途方に暮れているのが傍目にもわかる。
その時、傍で二人のやり取りを見守っていたリックがカールに近づいた。
「カール、母さんが言ってることは正しいよ。もしウォーカーが入り込んできたらお前じゃ対処できない。だから大人の目が届く場所にいてほしいんだ。わかってくれないか?」
リックに諭されたカールは悔しそうに唇を噛んだ。それでも彼は「わかった」と首を縦に振らない。
カールは父親を睨むと「嫌だ!」と叫ぶ。
「大人がいるところで遊びたくない!ソフィア、行こう!」
カールはソフィアに声をかけると走っていってしまった。突然名前を呼ばれたソフィアは驚きながらもカールを追いかけていく。
キャロルが「ソフィア、待って」と追いかけようとするのをグレンが制し、「俺が行くよ」と言い残して子どもたちの後を追った。子どもたちにとって兄のような存在のグレンであれば一緒にいてもカールは怒らないだろう。
嵐のような騒動にニーガンが苦笑を浮かべていると隣にデールが並んだ。彼も今のやり取りを見ていた一人だ。
デールは気まずそうに佇むリックとローリを眺めながら口を開く。
「カールは大人たちの影響をまともに受けてしまっている。そう思わないか?」
デールの言葉にニーガンは目を瞠った。デールはリックとローリを見つめながら話しているので、彼が指す大人たちとは二人のことだと考えられるからだ。
ニーガンはデールの横顔を見つめながら問う。
「おい、爺さん。あんたはどこまで知ってる?」
ニーガンの問いにデールが顔をこちらに向けた。
「恐らく、君が知ってる程度のことはな。……ローリとシェーンが深い仲にあったことは君たちと出会う前から気づいていたし、彼女が妊娠したのはシェーンの子どもである可能性が高いことも知ってる。」
「本人から聞いたのか?」
「いや、二人の関係については見ていて気づいた。カールに気を遣って自分たちの関係を隠していたみたいだが、俺は人間観察が趣味みたいなものだからな。」
続けて「持ってきた本を全部読み終わって退屈だった」とおどけるデールにニーガンは笑った。デールもニーガンに釣られて笑ったが、その笑みが引くと彼は複雑そうな顔で続きを話し始める。
「妊娠のことはローリにつわりの様子が見られたから彼女本人に確認したんだ。リックを裏切ってしまったことや今の世界で出産することに悩んでいた。」
ローリの話をするデールは沈んだ様子を見せる。デールとローリは世界崩壊当初からの付き合いなので、その彼女が思い悩む姿を見るのは辛かったのだろう。その悩みが自分には解決してやれない類いのものであれば尚更だ。
「リックがローリとシェーンのことを割り切るのは簡単じゃないから、あの三人がぎこちなくなるのは仕方ないんだが……カールにとっては悪影響だ。そういうことを子どもは感じやすいからな。あの子が心配だ。」
「心配なのはそれだけじゃないだろ?シェーンの動きを誰よりも気にしてるのは爺さん、あんただ。」
ニーガンの指摘にデールはギョッとしたように目を瞠った。
「あんたはシェーンを危険視してる。農場に来る前から。何を心配してるんだ?」
ニーガンの質問にデールは難しい顔で黙り込む。話しても問題ないか判断しようとしているのかもしれない。
ニーガンは根気強くデールが話し出すのを待った。目を逸らすことなく見つめ続けるとデールは居心地が悪そうに視線を逸らした。威圧していると受け取られたかもしれないが、その程度のことはどうでもいい。
やがてデールは溜め息を吐いてから視線をこちらに戻した。
「君は本当に質が悪いな。そんなにプレッシャーをかけられたら話すしかなくなる。」
呆れ混じりの声にニーガンは肩を竦める。
「変なことを言うなよ。俺は見てただけだぜ?」
ニッと笑いながら答えるとデールは苦笑した。
「そういうことにしておこう。さて、このことは誰にも言わないでほしいんだが……俺が狩りに参加したことがあったのを覚えてるか?」
「ああ、あったな。農場に来る少し前……みんなで森に入った時だったな。」
ニーガンが頷くと、デールは辺りを探るように視線を周囲に向けてから声を落として告げる。
「──シェーンが離れた場所からリックの背中に銃を向けているのを見た。俺がシェーンを危険だと思い始めたのはそれからだ。」
想像以上に物騒な理由にニーガンは眉を寄せる。
「そいつは十分過ぎる理由だな。その時以外にも似たようなことはあったか?」
「ない。ただ、シェーンがリックに向ける感情が改善していないようだから注意すべきだろう。」
デールの意見にニーガンは賛同して頷く。
危害を加える寸前にまでいった例があるのは憂慮すべき事態だ。再び同じことが起きないとは断言できず、最悪の場合はリックに被害が及ぶ。
ニーガンは労いと感謝を込めてデールの肩を叩いた。
「助かる、役立つ情報だ。……なあ、爺さん。リックたちのことを客観的に見られるんだからアンドレアのことも客観的に見てやれ。口うるさい父親は嫌われるぞ。」
その言葉にデールが顔をしかめた。
「彼女の父親を気取るつもりはない。心配なだけだ。」
「カールとソフィアみたいな子どもじゃないんだから放っておけ。構いすぎて鬱陶しがられてたら意味がない。」
デールは思い当たるところがあるようで、ムスッとしたまま黙り込む。そんな彼にニーガンは苦笑しながら言葉を続ける。
「見守ってやるだけでいい。口出ししないと本当に危ない時だけ言ってやれ。一応言っておくが、心配しなくても俺は彼女には手を出さない。」
ニーガンの宣言にデールは意外そうに瞬きをした。それを見て今度はニーガンが顔をしかめる。
女であれば誰にでも、しかも状況も考えずに手を出すようなバカな男だと思われているのだろうか?これは心外だ。
ニーガンは不満を顕にデールを睨む。
「おいおい、冗談だろ?俺はそんなに頭が悪そうに見えるか?こんな小さいグループで女遊びなんて揉め事の原因だぞ。俺はそんなバカなことはしない。それに、彼女は良い女だが俺のタイプじゃない。」
「ああ、そうだろうとも。ニーガンが熱を上げているのはリックだからな。」
デールはそう答えてニンマリと笑った。
思いがけない反撃にニーガンは目を丸くする。
「……何でリックの名前が出てくる?」
ニーガンが口を尖らせるとデールは得意げに語る。
「見ていればわかることだ。君がリックに執着してるのはすぐにわかった。今のところは問題なさそうだから傍観してるが、彼を傷つけるようなら口を挟むぞ。」
賢い年長者からの警告にニーガンは両手を上げて頷いた。
デールはリックの人間性を高く評価している。リーダーとしてだけでなく一人の人間として信頼しているのだ。そのリックがこれ以上傷つくのは見ていられないのだろう。
ニーガンは苦笑いを浮かべながらもデールがリックを気にかけていることを有り難く思った。自分以外にもリックを支える人間がいた方が良い。
デールは「じゃあ、見張りをしてこよう」と言って去っていった。
ニーガンはデールに向けていた視線をグライムズ一家が言い争いをしていた場所へ戻す。そこには難しい顔で座り込むリックがいた。
(カールのことで悩んでるな)
一日中悩んでいては心が消耗してしまう。気晴らしさせてやらなければ。
ニーガンは「仕方ないな」と口の端に笑みを乗せてリックへと歩みを進めた。
デールとリックたちについての話をした翌日、ニーガンは狩りのためにシェーンと森に入った。二人で行動する機会は何度もあったというのにシェーンは相変わらずニーガンに対して素っ気ない。素っ気ないどころか敵意を感じる瞬間があるほどだ。
ニーガンは並んで歩くシェーンに意識を向けながらも周囲へ視線を巡らせる。木々の間に動物の姿がないかと目を光らせ、痕跡を求めて地面に視線を落とす。丁寧に周囲を観察しても何も見つからないことは珍しくない。一時期は罠を仕掛けることも考えたが、その知識を持つ者がグループにはいなかった。
今回も手ぶらで帰ることになりそうだ、とニーガンは溜め息を吐きながら空を見上げて足を止める。
「……シェーン、そろそろ戻った方がいいかもしれないぞ。」
「何だって?森に入って一時間も経ってないぞ。」
立ち止まって顔をしかめるシェーンにニーガンは空を指し示す。出発する時点で曇り空だったのだが、雨雲がこちらに向かって広がってきているのが見えた。三十分もしないうちに雨が降り出すだろう。
「そのうちに雨が降り出す。ずぶ濡れになる前に戻った方がいい。」
「昨日も一昨日も収穫なしだった。今日は手ぶらで帰れない。」
「雨が降る中で狩りをしたって効率が悪いだけだろ。それに風邪を引いて寝込んだら他の奴らにとって迷惑だ。降る前に戻るぞ。」
「そんなに戻りたいならお前一人で戻れ。俺は狩りを続ける。」
シェーンはニーガンを睨んでから歩き出した。不機嫌さの滲む背中をニーガンは仕方なく追いかける。
「待て。農場の外での単独行動はリックが禁じてる。お前が戻らないなら俺も戻れない。」
そのように告げるとシェーンは苛立たしげにこちらを振り返った。
「俺が言うことを聞かなかったとでも言っておけばいい。どうぜ俺が悪者だ。仲よしのお前ならリックだって許すさ。」
その返しにニーガンは目を丸くする。まるで子どものような拗ね方だ。
ニーガンは「どうしたものか」と頭を掻いて思案する。
シェーン一人だけで行動させるわけにはいかない。彼が戦い慣れているとはいえ、外では何が起きるかわからないからリックは農場の外での単独行動を禁じたのだ。シェーンが戻らないならニーガンも狩りを続けなければならない。
しかし、このまま狩りを継続すれば間違いなく雨に降られる。雨が降ってきたら狩りどころではなくなり、結局は狩りを中止して農場に戻ることになる。そうであれば今引き返したほうが賢明だ。
ニーガンはシェーンと話し合いを試みることに決めた。
「シェーン、今みたいな拗ね方はお薦めしないな。誰もお前を悪者にしてない。」
ニーガンの言葉を聞いたシェーンが嘲笑を浮かべる。
「悪者だろ。心優しいリーダーに歯向かうグループのはみ出し者だ。どいつもこいつもリックの肩を持つ。」
「それはお前が感情的に話すからだ。落ち着いて理性的に話し合えばいい。」
「無駄だ。俺とリックが冷静に話し合っても俺の方が正しくても、結局はリックが正義で俺が悪者になる。お前だってリックの味方だろ、ニーガン。」
シェーンから憎しみの籠もった眼差しを向けられてニーガンは理解した。
シェーンは自分のことが嫌いだ。彼にとって自分は敵だ。だから何を言っても意見を跳ね除ける。端から受け付ける気がないのだ。
そのように理解するとこれ以上の話し合いが無駄だとわかる。シェーンが狩りを続ける意思を変えないのならばニーガンは一人で農場に戻り、事実をリックに説明するしかない。だが、その前に彼に確認したいことがある。
ニーガンは「わかったよ」とシェーンの意思を尊重した。
「狩りを続けたいなら一人で行け。俺は戻る。だが、一つ聞きたい。」
「何だ?」
シェーンが訝しげな顔をするのに対してニーガンは薄っすらと笑う。
「お前が俺を嫌う理由は何だ?」
その質問にシェーンは目を見開いた。全くの予想外の質問だったのだろう。
シェーンは「ニーガンが嫌い」ということを否定することなく黙り込んだ後、少し時間を置いて口を開く。
「自分が一番リックを理解してるって顔をするからだ。あいつのことを全部理解した気になって、相棒面で隣にいる。それが気に食わない。」
「自分の方がリックを理解してるって?」
「そうだ。学生時代からリックを一番理解してるのは俺だ。だからお前が嫌いだ。」
少しの躊躇いもなく正直な気持ちを話したシェーンにニーガンは感心した。下手にごまかされるよりハッキリと言われた方がいいので、その点では彼を評価できる。
「もう行く」と言って去っていこうとするシェーンの背中にニーガンは声をかける。
「シェーン、一つ忠告しておいてやる。」
その呼びかけにシェーンが足を止めたが、こちらに顔を向けることはなかった。振り返らないシェーンにニーガンは言葉を続ける。
「しっかりと自分を見つめ直した方がいいぞ。自分にとって一番大事な人間が誰なのか気づかないと取り返しのつかないことになる。」
ニーガンが言い終わるとシェーンがこちらに顔を向けた。その表情は「訳がわからない」と訴えているが、これ以上教えてやる義理はない。
ニーガンはシェーンがこちらを凝視していることに気づきながらも彼に背を向けて、農場に戻るために歩き出す。話が長くなってしまったので急いで戻らないと途中で雨に降られそうだ。
「さーて、あいつは俺の忠告をどうするかな?」
嫌いな相手の戯れ言だと流してしまうかもしれないが、そうならないことを願うばかりだ。
ニーガンは数え切れないほどの亀裂が入った親友たちの行く末について考えながら歩みを進める。その後ろには真っ黒な雨雲が迫ってきていた。
To be continued.