道なき未知を拓く者たち② リックとニーガンがアトランタを出発してから五日。二人は疾病予防管理センターへ至る道の途中にいた。
朝から夕方近くまで歩いても進み具合は良いとは言えない。徒歩と車とでは速さが異なる上に蓄積された疲れが足の動きを鈍らせた。休憩する回数が増えていることも進みを遅くする原因になっている。
そのような状況であっても二人の雰囲気が悪くなるということはない。歩いている時は互いを励まし、休憩の際は他愛もない話で笑い合う。ウォーカーに遭遇すればどちらも相手の背中を守って戦った。「二人一緒ならば何が起きたとしても切り抜けられる」というのが共通の考えだ。
小さな町からスタートした旅の中で、リックとニーガンの結び付きは強固なものになっていた。
******
照りつける太陽に背中を焦がされるリックは視線を地面に落としながら歩き続ける。地面には制服の帽子が作る影があった。
「あー……クソ熱いな。」
隣を歩くニーガンがうんざりした様子で呟いた。
帽子を被っているリックとは異なり、ニーガンは頭を太陽の下に晒している。たまに革ジャケットを頭から被ってみるもののジャケットの内側に熱が籠もることに我慢できなくなり、最終的には剥ぎ取ってしまうのだ。帽子を被ったまま彷徨くウォーカーに遭遇することもあるが、さすがのニーガンも「腐れ野郎が被った帽子は嫌だ」と顔をしかめる。
リックは帽子を外して暑さに眉を寄せるニーガンに被せてやった。驚いたように瞬きするニーガンにリックは笑った。
「しばらく貸すよ。俺の汗を吸った帽子だから気持ち悪いだろうが、そこは我慢してくれ。」
ニーガンは目を丸くしていたが、リックの言葉に嬉しそうな笑みを見せた。
「これは助かるな。じゃあ、遠慮なく借りるぞ。」
ニーガンはそう言いながら帽子を被り直した。きちんと帽子を被れば、それはニーガンによく似合うことがわかる。
「似合うな。」
リックの口から褒め言葉が零れた。それを受けたニーガンは帽子のつばを指で弾いてニヤリと笑う。
「そうか?どう見ても保安官には見えないだろ。」
「うん、まあ、そうなんだが。……やっぱり似合う。」
「惚れたか?いいぜ、大歓迎だ。」
「調子に乗るな。」
そんな風にじゃれ合えば少しの間だけ暑さを忘れられる。過酷な旅の中でも笑顔になれる瞬間があるから前に進むことができるのだ。リックは暑さのことを忘れてニーガンと笑い合った。
リックが笑みの余韻を引きずったまま視線を前方に戻すと、遠くから車が走ってくるのが見えた。この世界になってから走る車と遭遇するのは初めてだ。
リックは徐々に距離を縮めてくる車を見つめながら隣を歩くニーガンに声をかける。
「ニーガン、隠れた方がいいと思うか?」
「いや、今更遅い。向こうだって俺たちの存在に気づいてるだろ。このまま進めばいい。」
少しの不安も感じられないニーガンの声に、リックは自分が安心するのを自覚した。彼の力強い声を聞くだけで頭を掠めた不安が消し飛んでしまう。
リックは前方から近づいてくる車を見据えながら右手を拳銃のホルスターに添えた。
距離が縮まってくると、こちらに向かってくる車は三台であることがわかる。先頭は屋根なしのジープ、その次は乗用車、最後尾は大型のキャンピングカーだ。先頭の車に乗っているのは男が一人だけであり、その遠目に見える男の姿にリックは既視感を覚えた。
「まさか……信じられない。だが、やっぱり似てる。」
目を細めながら呟くとニーガンから「どうした?」と問われた。リックは車から目を離さないまま答える。
「先頭の車に乗ってる男が親友に似ているんだ。」
一台目の車を運転する男はサングラスをかけており、リックは「それを外してほしい」と思わずにいられなかった。
ジープに乗っている男は遠くから見ても顔の雰囲気や体つきが親友に似ている。学生時代からの付き合いで、仕事上のパートナーでもある親友──シェーンに見えて仕方ないのだ。
リックは期待に騒ぎ出した心臓を落ち着かせるために深く息を吐き出した。
リックたちと車との距離は縮まり続け、遂に先頭の車が停車する。停車した車から降りてきた男はこちらに近寄りながらサングラスを外した。驚愕に見開かれた男の目はリックがよく知る親友のものだ。
「──リック?」
リックの名前を呼んだ男の声は正しくシェーンのもの。懐かしい声に涙腺が一気に緩む。
「シェーン!」
リックは武器の入ったバッグを足下に落としてからシェーンの元へ向かう。
自然と零れる笑みと共に歩み寄るリックの視線の先ではシェーンが驚愕と困惑の混ざった表情を浮かべて足を止めた。まるで亡霊にでも遭遇したかのような表情の親友にリックは抱きついて相手の肩に顔を埋める。
こうして無事に生きていてくれた。そのことが嬉しくて堪らない。
リックの背中にシェーンの両手がぎこちなく触れた時、「父さん!」という幼い声が耳に届く。
「やっぱり父さんだ!父さん!」
リックが弾かれたように顔を上げて声の主を見れば、捜し求めていた息子の駆け寄ってくる姿が目に映った。リックはシェーンから離れて「カール!」と我が子を抱きしめに向かう。
カールは泣きじゃくりながら胸に飛び込んできた。その温もりを受け止めて強く抱きしめると幼くも力強い鼓動を感じる。生きて再会できた喜びに涙が止まらない。
「カール……!やっと見つけた!」
「父さん!会いたかったよ、父さん!」
カールと抱き合うリックは傍らに慣れ親しんだ気配を感じ、そちらに顔を向ける。その相手の顔を見て溢れる涙が勢いを増す。
「──ローリ!」
手を伸ばしたのは二人同時だった。リックがローリの体を抱き寄せ、ローリはリックの頭を抱きしめる。家族三人の固い抱擁は大きな幸福をリックにもたらした。
しばらく三人で泣きながら抱きしめ合い、少し落ち着いたところでリックは改めてローリの顔を見た。
「ローリ、ずっと君たちを捜していたんだ。」
そう言って微笑むとローリは泣くのを堪えるように唇をギュッと引き結び、小さく頷く。
「リック、ごめんなさい。私、あなたが……あなたが死んでしまったと……」
そう言ったきり言葉に詰まる妻にリックは「いいんだ」と微笑む。
リックは銃撃戦で負傷して昏睡状態に陥っていた。そのような時に感染が広がって何もかもが機能しなくなったのだから死んだと思われて当然だ。だからリックにはローリを責める気持ちは全くない。
「死んだと思って当然だよ。生きているのが奇跡だ。……だが、こうして再会できた。それだけで十分だ。」
リックは再び涙を流すローリの頬を撫でてから後ろを振り向く。そして、ぼんやりとこちらを眺めているシェーンに顔を向けた。
「シェーン、お前が無事で嬉しい。」
リックが呼びかけるとシェーンの肩が小さく跳ねた。驚いたような、どこか怯えたような目をする親友にリックは笑顔を見せる。
「お前が二人の傍にいてくれたんだな……。本当にありがとう。俺の代わりに二人を守ってくれて。」
感謝の言葉にシェーンはようやく微笑を浮かべた。
「感謝されるようなことじゃない。俺とお前の仲だろ?」
リックは普段と変わらないシェーンの口調に懐かしさを感じながらも内心で首を傾げる。シェーンの笑みが貼り付けたもののように感じられたのだ。
その一瞬の違和感は初めて聞く声にかき消される。
「ローリ、彼らは何者だ?我々に紹介してもらえないか?」
声をかけてきたのは帽子を被り、真っ白な髭に顔の下半分を覆われた男だった。ローリは彼の方に振り向いて小さく頷く。
「この人は私の夫のリック。リック、彼の名前はデール。グループの相談役みたいな人よ。」
ローリの紹介を受けて、リックはデールという男の方に進み出る。
「リックだ、よろしく。一緒に来た男はニーガン。俺の恩人だ。」
リックがニーガンを紹介するとニーガンは片手で帽子を脱ぎ、そのまま手を挙げて小さく笑みを浮かべた。
リックはニーガンが挨拶するのを見届けてから改めてデールに向き直る。
「デール、あなたたちにはローリとカールが世話になったみたいで……本当にありがとう。」
感謝の気持ちを示すためにデールに握手を求めると微笑みと共に手を握り返された。
「ローリから少しだけ話は聞いていたよ。保安官の夫が勤務中のケガで昏睡状態になって、感染拡大の混乱の最中に亡くなったと。何にせよ、無事に再会できて良かった。」
デールは握手を終えると「みんなを紹介しよう」と言って最も近くにいた青年を指差す。
「彼はグレン。その隣に立ってるのはTドッグだ。」
ベースボールキャップを被った若者は「やあ、初めまして」と挨拶し、その隣にいたスキンヘッドで体の大きなTドッグという男は緊張を滲ませながら軽く片手を挙げた。
デールは続けて少し離れた場所に立つ人物に顔を向ける。そこに居たのは癖のある金髪が印象的な女で、彼女の表情はどことなく暗かった。
「彼女はアンドレアで、あっちにいるのはキャロルと彼女の娘のソフィア。」
キャロルと呼ばれた短髪の女はぎこちなく微笑み、その傍らに寄り添う少女はこちらを窺うように真っ直ぐ視線を向けてくる。
リックが紹介された一人ひとりの顔を見ていると、ローリが耳元に唇を寄せてきた。
「後で詳しく話すけど、キャロルとソフィア、それからアンドレアは家族を亡くしたばかりだから接する時は気を配ってあげて。」
ひっそりと耳打ちされたことに対して了解を示すために頷き、改めて三人を見てみる。
アンドレアの影のある雰囲気は家族を失ったばかりだと知れば納得がいく。キャロルの弱々しい雰囲気も家族を亡くして憔悴しているのだと思えた。ソフィアに落ち込んだ様子が見られないのは気を張っているからだろうか?
リックが皆の顔を見回しているとデールがリックの肩に手を置いた。そして、彼は仲間たちを振り返って告げる。
「せっかく家族が再会できたんだ。少し早いが、今日の移動は終わりにして家族三人でゆっくり過ごせるようにしないか?」
デールの提案に全員が頷き、それぞれに野営の準備を始める。ローリは「あなたたちはゆっくりして」とリックに微笑んでから車に向かい、カールは「手伝わせてもらえるようになったんだ」と誇らしげに話して母の後を追った。
その場に留まったまま二人を見送るリックの背中に触れる手があった。振り返った先ではニーガンが微笑んでいた。
「よかったな、リック。」
そう言って微笑むニーガンの顔を見ただけで再び涙が溢れてくる。
リックは目の縁から伝い落ちる涙を指で拭いながら笑う。
「情けないな、泣き虫は子どもの頃に卒業したはずなのに。……ニーガン、本当にありがとう。あんたのおかげで家族に会えた。」
リックが感謝の言葉を告げるとニーガンの親指がリックの頬を濡らす涙を拭き取った。
「嬉し涙ならどれだけでも流せばいい。良いものだからな。」
ニーガンの優しさにリックが笑みを深めたところへシェーンが近づいてきた。
シェーンは硬い表情で二人の前に立つとニーガンに視線を向ける。
「ニーガン、だったよな。俺はシェーン。リックとは高校からの付き合いだ。親友が世話になった。感謝してる。」
感謝を口にしながらもシェーンからは友好的な雰囲気は感じられなかった。ニーガンに向ける眼差しは探るようなもので、シェーンがニーガンに対して良い印象を抱いていないことが丸わかりだ。
そんなシェーンを不安に思い始めたリックに構うことなくシェーンは話を続ける。
「リックとはどこで出会った?」
「病院だ。意識が戻らないせいで置き去りにされたみたいだな。俺はこいつが目覚める瞬間に運良く立ち会った。」
「それから一緒に旅をしてきたってわけか?あんたにとって何の得にもならないのに?」
ニーガンの答えを聞いたシェーンは顔をしかめて踏み込んだ内容の質問を投げつけた。言外に「何を企んでいるのか?」と問い詰めようとしているのだ。
リックは己の恩人に対する親友の態度に眉根を寄せる。
「シェーン、そんな言い方はやめてくれ。彼は──」
「リック、いい。気にしてない。」
シェーンに対して抗議の声を上げたリックをニーガンが制した。ニーガンはいつもと変わらない笑みを浮かべたままシェーンと正面から目を合わせる。
余裕のある笑みを見せるニーガンと、そんな相手を睨みつけるシェーン。
緊張感の漂う雰囲気にリックは口を閉じた。初めて会う相手を信用するのが難しい状況なのはわかるが、ニーガンはリックと共に旅をしてきた人間だ。信頼できる相手でなければ一緒に旅はできない。そのニーガンに不信感を抱くシェーンを見ていると親友である自分を信じていないように思えて複雑な気分になった。
リックは高揚していた気分が沈んでいくのを自覚しながら二人のやり取りを見守る。そのリックの前でニーガンはシェーンの問いに対する答えを口にする。
「俺はリックを気に入ってる。こいつと一緒にいると楽しい。だから家族を捜す旅に同行した。」
「ふざけてるのか?」
眉間のしわを深くするシェーンにニーガンは肩を竦めて苦笑した。
「本気で言ってるんだ。まあ、お前の満足する答えじゃなかったみたいだが。」
「無条件で誰でも信用するってわけにはいかないんでね。ふざけた答えを返してくる奴を信用するのは無理だ。」
「そんな俺をリックは信用して頼りにしてるんだが、それでも俺を弾き出すか?」
ニーガンの言葉にシェーンは押し黙り、顔をリックに向けた。
シェーンから視線を向けられたリックは「シェーン、頼む」と懇願する。
「信用できる相手を見極めるのが難しいのも、初めて会った人間を疑いたくなるのも理解できる。だが、ニーガンは信用できる男だ。俺を信じてくれるなら彼も信じてほしい。」
リックが祈るような気持ちでシェーンを見つめれば、シェーンは難しい顔で視線を逸らした。視線を逸らしたまま何も言わないシェーンをリックは見つめ続ける。
やがて、一つ溜め息を落としたシェーンが渋々といった様子で「わかった」と首を縦に振った。
「今でも胡散臭いと思ってるが、リックが信用してる奴だからな。信用するように努力する。……悪かった。」
シェーンはリックともニーガンとも目を合わせずに言って二人に背を向ける。そして、それ以上は何も言わずに自分の車の方に歩いていった。
肩の力を抜いたリックが何気なく視線を周囲に向けると他の者たちの視線がこちらに集中していた。揉め事ではないかと心配させてしまったらしい。リックが「大丈夫だ」と頷いてみせればホッとしたようにそれぞれの作業に戻った。
リックは皆の様子を見守ってからニーガンに向き直る。
「ニーガン、すまなかった。シェーンは俺と同じ保安官だったから、みんなを守ろうとする思いが強いんだろう。神経質になっているだけで悪い奴じゃない。許してやってくれ。」
リックが謝罪するとニーガンは「気にしてない」と首を横に振る。
「警戒心がゼロよりよっぽど良い。お前も気にするなよ、リック。」
「ああ、ありがとう。」
「じゃあ、挨拶がてら手伝ってくる。」
ニーガンはリックの頭に帽子を戻してから野営の準備の手伝いに向かった。気さくに声をかけるニーガンにグループの皆が笑みを浮かべるのを見てリックは安堵する。
リックはしばらくニーガンの様子を眺めていたが、それに区切りをつけると一人で荷物を整理しているシェーンに近づいた。シェーンはこちらに気づいて顔を上げる。
「シェーン……」
「説教なら必要ないぜ。荷物を整理しながら反省してたんだ。」
バツが悪そうに視線を逸らすシェーンに笑いかけながら「説教しに来たわけじゃない」と伝える。
「一つ聞きたいんだが、お前がグループのリーダーなのか?」
「そういうわけじゃないが、それっぽいことはしてる。それがどうした?」
「やっぱりそうか。お前が神経質になってるのはみんなを守ろうとするからじゃないかと思ったんだ。」
「……一応、保安官だったからな。」
リックがシェーンの肩に手を置くと、シェーンはその手を見下ろしてから視線を上げてこちらを見た。その目がどことなく不安げに見えたのでリックは安心させるように微笑む。
「こんな世界だから警戒心が強くなるのは当然さ。お前が必死に仲間を守ってきたことは想像しなくてもわかる。だから俺はお前を責めないよ、シェーン。」
「ああ。」
シェーンの返事はそれだけで、彼は手元のバッグに視線を落とした。そして物資が詰まったバッグを凝視したまま微動だにしない。
その考え込むような姿がリックには思い詰めているように感じられたので、話題を変えるために「手伝うことはあるか?」と尋ねた。それに対してシェーンは首を横に振った。
「そうか。じゃあ、他の人を手伝ってくる。」
リックはそのように告げてシェーンに背を向ける。
数歩歩いたところで後ろから「リック」と呼ばれ、振り返ればシェーンと視線が交わった。シェーンは「お前が入院してた時」と話し始める。
「軍が撤退し始めたって噂が流れてきたから病院までお前を迎えに行った。病院の中では兵士が市民を殺して回ってて、その兵士もウォーカーに襲われてた。自分が地獄にでもいるのかと思った。」
何の感情も見せずに淡々と語るシェーンにリックは黙って耳を傾ける。
「お前を連れ出そうとしたが……あの時、お前の心臓が止まったんだ。俺も混乱してたから何か間違えたのかもしれないし見落としがあったかもしれない。だが、俺はきちんと確かめた。お前が死んだと本当に思ったんだ。」
シェーンはそこで一つ息を吐いて言葉を絞り出そうとするように口を開いた。
しかし、その口はすぐに閉じられる。開きかけては閉じ、再び開こうとして口を噤む。それを何度も繰り返すうちにシェーンの顔が苦悩に歪んだ。
やがてシェーンは「助けたかった」と呟いた。
「リック、お前を助けたかった。あんなところに置き去りにしたくなかった。お前を……ローリとカールのところへ帰らせてやりたかった。」
「シェーン、わかってる。」
「俺は本当にお前を助けたかったんだ。お前を病院から連れ出して、お前たち家族をずっと守るつもりだった。」
「もう言わなくていい、わかってるから。」
後悔を吐き出すように言い募るシェーンを言葉で制し、リックは微笑む。
親友であるリックを病院に置いてきたことで誰よりも傷ついて自分を責めているのはシェーンだ。病院の惨状を見れば彼一人ではどうすることもできなかったのは明白だが、「仕方なかった」と割り切るのは簡単ではない。
リックは後悔に揺れるシェーンの目を見つめ返しながら口を開く。
「お前が俺のことをどれだけ大事に思ってくれているのか、撃たれた時にどれだけ心配してくれたのか、俺は全部知ってる。きっと、俺を病院から連れ出すために必死だったんだろう?だが、それが難しかったのは俺にもわかる。本当にひどい状態だったから。」
リックの言葉にシェーンは無言で頷いた。
リックは顔が強張ったままの親友に向かって穏やかな口調で語り続ける。
「お前の言葉や俺たちの友情を疑ったことはない。今でもそれは変わらない。だから自分のことを責めないでほしい。俺はわかってるから。なあ、シェーン。」
リックが呼びかけるとシェーンは深く息を吐きだしてからしっかりと頷いた。その目が微かに潤んでいることには気づかない振りをする。
シェーンは顔を上に向けて、その状態でしばらく佇んでいた。やがて顔をこちらに向けた彼は微かに笑みを浮かべていた。どこかぎこちない笑みだった。それでもシェーンの顔に笑みが浮かんだことにリックは安心する。
「リック、ありがとな。」
シェーンの声は少し掠れていたが確かにリックの耳に届いた。シェーンの感謝の言葉に対してリックは笑みを返してから背を向けて歩き始める。
もう一度振り返ってシェーンの様子を確認しようとは思わなかった。シェーンはきっと大丈夫。親友への罪悪感を消化して前に進んでくれると信じているから。
リックは親友を信じる証のように口元に笑みを浮かべた。
野営の準備が一通り済んだところでティータイムということになり、湯を沸かすために設けられた焚き火の周りに全員が腰を下ろす。
リックはローリとカールに挟まれて座り、甘えるようにもたれかかってくる息子の肩を抱いた。
「ねえ、父さん。父さんたちはどうやってここまで来たの?冒険した?」
無邪気な笑顔と共に見上げてくるカールにリックは穏やかに笑いかける。
「冒険というか、旅だよ。とても長い旅だ。」
リックの返事を聞いたカールは「聞かせてよ」と目を輝かせた。
父親に旅の話を強請るカールに乗っかったのはグレンだ。年若い彼は刺激に飢えているのか、身を乗り出して「俺も聞きたい」と手を挙げる。
「二人がどうやって出会って旅をしてきたのか聞かせてくれよ。二人だけで旅をしてたってことにすごく興味がある。」
「そんなに大層な話じゃないと思うぞ。それでもいいのか?」
「ああ、構わない。話してくれるのか?」
カールと同じように目を輝かせる青年にリックは苦笑しながらも首を縦に振った。それを見て他の者たちも興味深げにリックに視線を注ぐ。
リックは少し考え、正面に座るニーガンを見た。
「俺たちの出会いに関してはニーガンが話した方がいいかもしれないな。俺は『目を覚ましたら知らない男が立っていた』という感じだから。」
リックがそう言うとニーガンは「そりゃそうだ」と笑って頷いた。
トップバッターを任されたニーガンの話は「俺たちが運命の出会いを果たす少し前のことから話そう」という芝居がかったセリフから始まる。病院でリックを見つけるまでのニーガンの道のり、廃墟となった病院で眠り続けるリックを見つけた瞬間のこと、そしてリックが目覚めてから町を出るまでに起きた出来事。それらのことがおとぎ話のように紡がれる。
ニーガンの語りは実に見事だった。説明的ではなく情感たっぷりに展開される物語に皆はすっかり引き込まれている。当事者のリックも聞き入ってしまうほどに彼の話は面白かった。
特に皆が感嘆の溜め息を落としたのはリックが目覚める瞬間の話で、ニーガンは眠りから覚めたリックの瞳の美しさを力強く語り、リックの目覚めの瞬間に立ち会えた喜びを朗々と語った。熱の籠もった様子で話すニーガンに同意するように頷く人々を前にして、リックは一人で恥ずかしさに耐えるしかなかった。
旅立ちの辺りまで話が進んだところでリックはニーガンから続きを話すように促されたが、これを辞退して彼に最後まで話すよう提案した。ニーガンの後では自分の語りなど睡眠導入剤にしかならないのはわかりきったことであり、そのことを伝えるとニーガンは「じゃあ、最後まで俺が話そう」と快諾して再び語り始める。
ニーガンの口から語られる二人旅はドラマチックだ。苦難が続くことによって二人の心が擦れ違い、そんな中で起きた事件が再び二人の距離を近づけて信頼関係を深める。王道の展開といえばそうなのだが、皆の心を掴むには十分だったようで、熱心に耳を傾ける誰もが一言も声を発しない。娯楽が皆無に等しい状況において最高のエンターテイメントなのだろう。
ようやく一通りの話が終わるとカールが「すごく面白かった」とニーガンに賛辞を送る。それをきっかけに他の者たちも口々にニーガンの語りを褒めて感想を口にし始めた。
夢中で聞き入っていたグレンは感嘆を滲ませながら感想を述べる。
「二人だけでここまで旅をしてきたっていうのがすごいよ。危険も多いし、俺だったら無理だろうな。」
グレンの感想にアンドレアが頷いた。
「私も。もっと戦えるようにならないとだめね。」
少し自嘲気味なアンドレアをデールが「思い詰める必要はないぞ」と慰めた。そして、仲間たちを見回しながら彼の思いを口にする。
「二人が生き延びられたのは強いというのもあるが、一番大切なのは信頼して協力し合うことだ。それができたから彼らは困難を乗り越えられたんだと俺は思う。リック、ニーガン、そう思わないか?」
デールに問いかけられ、リックは顔をニーガンの方に向けた。ニーガンもこちらを見ているので視線が重なる。
リックはニーガンと視線を交わらせたままデールの問いかけに答える。
「デールの言う通りだ。俺はニーガンのことを信頼しているし、彼も俺に信頼を寄せてくれた。俺が彼の信頼にしっかりと応えられたのか自信はないが、俺たちはいつだって助け合ってきた。だから生き延びられたんだと思う。」
リックが話し終えるとニーガンが微かに笑みを浮かべる。その笑みが嬉しそうなものであることにリックは自然と笑顔になった。
「ニーガンに出会わなかったら俺はここに来られなかった。ローリとカールに会えなかった。心から感謝してるよ、ニーガン。できれば、これからも一緒に──」
「当たり前だろ。ずっと一緒にいてやる。」
「これからも一緒にいてほしい」と言いかけたリックを制するように答えたニーガンの眼差しは蕩けるように甘い。まるで愛しい恋人を見つめるような眼差しに落ち着きを失った己の心臓を宥めるため、リックは小さく深呼吸をした。そして頬の熱さを感じながら頷く。
それと同時にシェーンが座る方向から物音がした。そちらに目を向けた時には既にシェーンは立ち上がっていて、怒気を放つ背中を仲間たちに晒している。
誰にも目を向けることなく歩き出したシェーンにTドッグが「どうしたんだ?」と困惑気味に声をかけた。その声にもシェーンは振り向かない。
「見回りに行ってくる。」
Tドッグは素っ気なく答えて去っていくシェーンを見送ると隣に座るデールを困惑気味に見た。仲間から縋るような眼差しを向けられたデールは「お前のせいじゃないから気にするな」と苦笑する。
リックが遠ざかるシェーンの後ろ姿を眺めていると、隣に座るカールに袖を引っ張られた。
「ねえ、父さん。シェーンはどうして怒ってるの?」
その疑問はこの場にいる全員共通のものだ。
先ほどのニーガンとのやり取りにはシェーンについての言及は何もない。シェーンの気に障るようなことは言っていないはずだ。それならば、彼は何に対して怒っているのだろうか?
リックがカールの質問に答えられないでいると、ローリが息子の小さな肩を撫でながら微笑む。
「あなたのせいじゃないから気にしなくていい。今はシェーンを一人にしてあげて。」
「うん、わかった。」
二人のやり取りは小さな胸騒ぎに気を取られたリックの耳を素通りしていく。
親友の考えていることはいつでも察することができた。互いに相手を理解し尽くしているので些細な感情の変化に気づくことも珍しくない。
しかし、今のシェーンは何を考えているのか全くわからない。彼の感情を波立たせる理由がリックには見当がつかなかった。
世界が変わったと同時にシェーンまで変わってしまったのかもしれない──そんな不安がリックの心の片隅に芽生えていた。
リックが家族との再会を果たした翌朝、ニーガンは自分用に用意されたテントから出て全身を伸ばす。テント内に置かれた簡易ベッドは地面よりはマシだが快適とは言えず、体のいろんな部分が強張って痛むのだ。
軽いストレッチを終えると周囲の様子を探るために歩き出す。その途中でリックが眠るテントの前を通り過ぎた。彼は家族と同じテントを使ったので昨夜は別々に眠ったのだが、そのことをつまらなく感じる自分にニーガンは苦笑を漏らす。
(あいつの寝顔が見られなくなるのは残念だな)
二人だけの時は交代で見張りを行ったのでリックの寝顔を観察することができた。それは過酷な旅の中でのニーガンの楽しみの一つだった。
「まあ、仕方ないか」と心の中で呟きながら歩き続けていると、野営地から少し離れた場所で向かい合うローリとシェーンを見つけた。どちらの表情も険しいものなので他愛のない話をしているわけではなさそうだ。
ニーガンは二人に気づかれない位置に移動して会話内容を探る。
「シェーン、いい加減にして。リックが死んだなんて嘘を吐く人と話すことは何もない。戻るわ。」
憤った様子のローリがシェーンの横を通り過ぎようとしたが、シェーンがその腕を掴んで引き止める。立ち止まることを余儀なくされたローリは振り返って己の腕を掴む男を睨みつけた。
「手を離して。」
「ローリ、聞けよ。あの時、本当にリックの心臓は止まってたんだ。もしかしたらパニックになってて思い違いをしたのかもしれないが……君を騙そうとしたわけじゃない。」
「仮にそうだとしても私たちの関係は終わり。これからは必要以上に私とカールに関わらないで。」
ローリの言葉にショックを受けたのか、ローリの腕を掴んでいたシェーンの手が力なく下ろされた。
シェーンは眉を下げて「なぜだ?」と声を絞り出す。
「俺たちは愛し合ってた。それは確かだ。そうだろ、ローリ。」
「やめて、シェーン。……もう行くから。」
ローリはシェーンに背を向けて足早に野営地の方に戻っていった。後に残されたシェーンは去っていくローリを見つめたまま立ち尽くしている。
そのうちにシェーンは拳を握りしめて「どうしてこうなる?」と低い声で吐き出した。その顔に怒りと憎しみが浮かぶ瞬間をニーガンは目撃する。
「二人を守ってきたのは俺なのに……何でリックを選ぶ?どうして俺じゃだめなんだ。」
シェーンは苛立った様子で髪の毛をかきむしる。
そして、「くそっ!」と吐き捨ててから荒々しい足取りで野営地に向かって歩いていった。それを見届けてからニーガンは二人とは反対方向に歩き出す。このタイミングで野営地に戻れば盗み聞きしたことが知られてしまうかもしれない。特にシェーンには注意した方が良いだろう。
ニーガンはゆったりとした足取りで歩きながらローリとシェーンの会話について振り返る。リックには話していないが、ニーガンは当初からローリとシェーンが恋愛関係にあるのではないかと疑っていた。
昨日の再会の時、カールを抱きしめるリックを見るローリは明らかに動揺しており、シェーンも家族三人が抱き合う姿を硬い表情で見つめていた。その後にローリとシェーンが視線を交わらせた際に二人の顔に浮かんだのは混乱と焦りだった。それらを見て疑いを持ったのだが、遠くからリックを見る時のシェーンが「好きな女を奪われて嫉妬を抑えられない男」の顔をしていることから、ニーガンの予想は確信に近くなっていた。その予想に対する答えは先ほどの会話で出た。
過酷で殺伐とした世界で生きていれば救いが欲しくなるのは当然であり、あの二人は恋人という存在にそれを求めたのだろう。他に頼る者のない未亡人が自分と子どもを守ってくれる夫の親友に縋るのは無理もなく、守るべき対象に愛情を抱いて安らぎを得たならば相手が親友の妻であっても恋に溺れるのは容易い。二人が惹かれ合うのは必然だったと言ってもいい。
しかし、死んだと思っていたリックが戻ってきたならば話は変わる。ローリにとってシェーンは「リックが死んだ」と自分に嘘を吐いた相手でしかなくなるのだ。ただ、シェーンは嘘を吐いたわけではないだろう。リックのシェーンに対する信頼の深さを見ればシェーンが人を騙すような男ではないと思えるので、不幸な偶然が重なった結果なのだと考えられる。
(──シェーン自身が変わっちまったなら別だけどな)
その考えにニーガンは苦笑いを口の端に乗せた。
先ほどのやり取りから、シェーンがローリに強く執着しているのがわかる。それにより生まれた火種は消えるどころか燻り続け、やがて大きな炎となる。
妻と親友の関係にリックが傷つく未来が訪れるだろう。それを知りながらもニーガンは三人の間に介入する気は全くない。彼らの問題は彼らが解決すべきであって部外者が口を挟むものではないからだ。下手に首を突っ込んで面倒事に巻き込まれるのも嫌だった。
しかし、傷ついたリックが自分の元へ足を運ぶのならば。
「涙を拭ってやるのは俺の役目だよな。」
涙を零すリックの顔を思い浮かべるニーガンの唇が楽しげに弧を描く。
愛する者たちの裏切りに傷ついたリックが自分に縋ろうとするならば受け入れる。「泣かせてほしい」と懇願するならば好きなだけ胸を貸す。彼を甘やかすのは自分だけの特権だ。
ニーガンは自分がどのように動くのかを決めると体の向きを変えて野営地にゴールを定める。そろそろ戻っても良い頃だろう。
ニーガンは来た時と同じようにゆったりと歩きながら「さて、どうなるかな?」と短く口笛を吹いた。
******
ようやく目覚めたリックが着替えてテントから出ると他の者たちは既に起床していた。寝坊してしまったことに情けなさが込み上げ、挨拶と共に寝坊の謝罪をして回る。皆は「疲れていたんだろう」と笑ってくれたが居たたまれないことに変わりはない。
リックは数人がテントの片付けを行っているのを見て自分のテントを片付け始める。そこへニーガンが現れた。
「よう、リック。遅かったな。」
ニヤニヤと笑いながら手伝い始めたニーガンにリックは唇を尖らせる。
「もっと早く起きるつもりだったんだ。いつもはきちんと起きられるのに……」
「家族と再会して気が緩んだんだろ。仕方ないさ。」
「ニーガン、もし俺がまた寝坊したら起こしてくれ。みんなに迷惑をかけたくない。」
「はいはい。」
ニーガンは軽く受け流しながら手を動かしている。まるで子どもを相手にするような態度に不満を感じるものの、それを抗議する気持ちはない。余裕のある笑みを見ていると「ニーガンには敵わない」と思わされてしまうのだ。
リックがニーガンと共にテントを片付けているとシェーンが「ちょっといいか?」と近づいてきた。
「二人に話がある。今後のことだ。……その前に俺たちの旅の経緯を話しておいた方がいいか。作業しながらでいいから聞いてくれ。」
「わかった。」
リックが頷くとニーガンも頷く。それを見てシェーンは話し始めた。
「俺たちのグループはアトランタの近くにキャンプを構えてた。その時はもっと大勢いたんだが、ウォーカーの群れに襲われて何人も死んで……キャンプ地の辺りも安全じゃないってことで移動が決まった。俺たちはCDCを目指して、他の奴らはフォートべニング基地に向かった。」
「おい、ちょっと待て。」
ニーガンがそこで話を止めたのでリックとシェーンはニーガンに視線を向けた。
ニーガンは渋い顔で疑問を口にする。
「どうして二手に分かれたんだ?どっちに行くにしてもグループの人数が減るのは不味いだろ。人数が少ないと群れに襲われた時に対応し切れないぞ。何か理由があるのか?」
その質問に対してシェーンは「ある」と答えた。
「最初は全員で基地に行くつもりだったんだが、ウォーカーに噛まれた仲間に治療を受けさせたがった奴らがいたから分かれたんだ。CDCが解決のために対応してると聞いてたから何とかしてやりたいってな。……それも無駄足だった。」
「その人は助からなかったのか?」
リックが問うとシェーンは「そうだ」と苦々しげに頷いた。
「限界を悟って自分の意思でグループを抜けた。それでも何か援助が受けられると期待してCDCに行ったが、研究者は一人しか残ってなかったし燃料が底を尽きる寸前で施設自体もだめだった。得られたのはウイルスに関する情報だけだ。」
そこまで話してシェーンは俯いて黙り込む。まだシェーン自身も気持ちの整理ができていないのだと考えたリックは「無理に話さなくていい」と気遣った。それに対してシェーンは口元だけで笑みを浮かべて「平気だ」と返してきた。
シェーンは気持ちを切り替えるように短く息を吐きだしてからリックとニーガンの顔を見る。
「一人だけ残ってたジェンナーっていう研究者は人類全員がウイルスに感染してると言って、その証拠に俺たちの検査結果を見せてきた。……全員が感染してたさ。信じたくなかったが、検査結果を見せられちゃ目を背けるわけにいかないよな。」
それを聞いてリックは思わずニーガンを見た。彼も顔を強張らせてこちらを見ている。
そんなリックとニーガンを気にした素振りもなくシェーンの話は続く。
「既に感染してるってことはウォーカーに噛まれなくても転化するってことだ。どんな理由であっても死んだら必ずウォーカーになる。それがジェンナーの出した結論だった。」
シェーンから伝えられた情報にリックは落胆したものの衝撃は受けなかった。ニーガンの予想を聞かされていたため、「ニーガンの予想が当たってしまった」と思う程度で済んだのだ。
それほどショックを受けていないのはニーガンも同じであり、彼は「やっぱりな」と納得したように呟いた。その呟きを拾ったシェーンが訝しげにニーガンを見るので、リックはシェーンにニーガンの予想を説明する。
「ニーガンの奥さんはウォーカーに噛まれたわけじゃなく病気で亡くなったのに転化したそうだ。だからニーガンは『誰もが感染していて死んだら転化する』という仮説を立てた。……それが正しかったということなんだな。」
「全然嬉しくないが、そういうことだ。」
つまらなさそうに言葉を零したニーガンは、いつの間にか止まっていた手を動かし始める。
シェーンは「そういうことか」と頷きながらリックに顔を向けた。
「話を戻すが、ジェンナーは俺たちにウイルスのことを説明した後に施設を爆破して死んだ。だから俺たちはフォートべニング基地を目指すしかなくなったってわけだ。」
「そうだったのか……。感染の話を聞かされた上で長旅なんてきつかったな。」
「まあ、仕方ないよな。生きてる以上は少しでもマシな生活がしたい。そのためには安全な場所に行かないと。それに、ウォーカーに食われて死にたい奴なんて一人もいない。」
シェーンの本心にリックは同意して頷く。
死ねば転化する運命であっても今は人間なのだ。それならば人間らしく生きて死にたい。その思いは大切にすべきだ。
「そういうわけで俺たちはフォートべニング基地を目指してる。道のりは長いし過酷だ。お前たち二人がいてくれると心強いんだが、一緒に来るよな?」
シェーンは様子を窺うように上目遣いでリックとニーガンを交互に見た。
リックは迷うことなく頷いてからニーガンに顔を向ける。ニーガンはリックにウインクを飛ばし、それからシェーンに視線を向けると「一緒に行く」と快諾した。
シェーンは数回瞬きをした後、ようやく笑みを見せる。その笑みにぎこちなさを感じたリックが「どうかしたのか?」と尋ねるために口を開こうとしたものの、それを拒むようにシェーンは「決まりだな」とリックの肩を叩いた。
「リックは一緒に来ると思ってたが、ニーガンが本当に来るのか確信が持てなかったからな。それを確認したかった。これで他の奴らも安心する。じゃあ、片付けの続き、頑張れよ。」
シェーンは軽い口調で告げてから去っていく。リックが「おい、シェーン」と声をかけても片手を振って歩いていってしまう。
リックはシェーンの後ろ姿を見つめながら、昨日感じた不安が再び息を吹き返したのを自覚した。
思い返してみれば、昨日からシェーンの心からの笑みを見ていないことに気づく。上手く説明できないが彼の笑みにきごちなさを感じるのだ。それだけでなく、さり気なく距離を置かれているようにも思えた。考えれば考えるほど今までのシェーンとの違いばかりが見えてくる。
しかし、それは全てリックの勘違いということも考えられる。そうであればシェーン本人に「自分と距離を置こうとしているのではないか?」と問うのは失礼だ。
リックがモヤモヤした気持ちを抱えて立ち尽くしていると、ニーガンから「リック、こっちを向け」と呼びかけられる。顔を向ければ真剣な顔つきのニーガンと目が合った。
「何が不安だ?」
ニーガンの問いは短かった。それに滲むのはリックを案じる気持ち。それだけで心が安らぐような気がする。
リックは笑みを浮かべて「何でもない」と首を横に振ったがニーガンは不満げだ。
「本当に何でもないんだな?」
「ああ、大丈夫だ。」
「……話を聞いて欲しくなったら言え。今はそれで許してやる。」
ニーガンは不服そうに眉根を寄せながらもそれ以上は何も言わなかった。
ニーガンの気遣いをありがたく受け取ることにしたリックは黙ってテントの片付けを再開する。シェーンについて本格的に悩むようになったらニーガンに相談しようと決めたのだ。
ニーガンが一緒に行くと言ってくれて本当に良かった。
その思いを噛みしめながらリックは手を動かし続けた。
朝食を食べ終えて最終的な準備が整うと出発の時間だ。
リックはシェーンが運転する車に乗ろうと考えていたが、ローリに引き止められる。
「リックは私たちの車に乗って。」
「だが、君とカールだけじゃなくてキャロルとソフィアも乗るんだろう?俺がいると彼女たちが気兼ねしてしまうから四人で気楽に過ごしたらいい。俺はシェーンの車に乗るから問題ないよ。」
リックは笑って答えるとシェーンの車の方へ移動しようとした。それを阻んだのはリックの腕を掴むローリの手だ。
リックは突然の行動に驚き、自分の腕を掴むローリの手を凝視して、それから視線を上げて彼女の顔を見た。
「ローリ?」
「キャロルがリックも一緒に乗ってほしいと言ってくれたの。ソフィアが保安官時代の話を聞きたがってるって。ソフィアはカールからあなたの話を聞いていたから興味があるみたい。」
そう話すローリは微笑んでいるが、その笑みは硬い。どこか必死さを漂わせる妻にリックは微かに眉根を寄せる。
その時、リックの腰に抱きついてくる存在がいた。カールだ。
カールは抱きついたまま笑顔で見上げてきた。
「ねえ、早く行こうよ。父さんが運転してるところが見たい。」
リックは無邪気に笑う息子を見下ろしながら、妻に投げかけようとした「様子がおかしいが、どうした?」という言葉を飲み込む。再会したばかりの我が子を不安にさせたくなかった。
「そうだな、そろそろ出発しないといけないな。」
カールにそのように答えてからローリに顔を向けて頷く。そうすると彼女はホッとしたように微笑んだ。
リックは二人に先に車に乗るように伝えてからニーガンの元へ向かう。ニーガンはキャンピングカーの近くに立っていた。
「ニーガン、俺はローリたちの車に乗っていくことになった。あんたと一緒にシェーンの車に乗った方が良いと思ったんだが……」
「俺はキャンピングカーに乗る。俺一人増えても問題ないって言われたからな。」
意外な答えにリックは目を瞠る。
今までキャンピングカーにはデール、グレン、アンドレア、Tドッグの四人が乗っており、シェーンの車にはシェーン一人しか乗っていなかったそうだ。シェーンが乗っている車は一人用ではないので普通に考えればニーガンはそちらに乗るはず。だからこそリックは驚かずにいられなかった。
「シェーンの車に余裕はあるはずだ。なぜそっちに乗らないんだ?」
リックの質問にニーガンは愉快そうに笑って答える。
「アンドレアを口説こうと思ってな。」
予想外過ぎる返答にリックは無言で瞬きを繰り返す。
ニーガンと話していて彼が女好きであることは感じていたのだが、こんなにも堂々と言われると何と返したら良いのかわからない。「頑張れ」と言うのもおかしな気がする。
リックが言葉に詰まっていると「冗談だ」と笑うニーガンに頬を軽く叩かれた。
ニーガンは笑みを引っ込めると表情を引き締める。
「シェーンのためだ。あいつは一人の時間を持った方が良い。」
リックはニーガンの言葉に首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「単なる勘だからお前は気にするな。シェーンは一人で考える時間が必要そうだ、となんとなく思った。それだけのことさ。じゃあ、後でな。」
ニーガンはリックの肩をポンポンと叩いてからキャンピングカーに向かって歩いていった。
キャンピングカーに乗り込むニーガンの姿を眺めるリックはニーガンの話について考える。
出会ったばかりのニーガンから見ても今のシェーンは様子がおかしい。そのように結論付けて問題はないだろう。そうなると心配はますます募る。
しかし、心配だからといって話を聞こうとしつこく迫るのは良いことではない。ニーガンも「シェーンには一人で考える時間が必要」と言っているのだから今は見守ることが最善だ。これまでのシェーンとの関係を考えても悩みやアドバイスが欲しい時は相談し合ってきたのだから、話を聞いてほしいと思えば向こうから相談してくるはず。今は様子を気にかけて見守るに留めるべきだろう。
リックは「とにかく今は見守ろう」と自身に言い聞かせてローリたちが待つ車に向かう。そして、既に出発の準備を終えた皆に出迎えられながら車に乗り込んだ。
「父さん、早く早く!」
まるで久しぶりのドライブに出かけるようにはしゃぐカールに「わかったよ」と笑いながらリックはエンジンをかける。
「久しぶりの運転だから下手くそでも許してくれよ。その代わり無料にしておくから。」
リックが冗談を言ったことで車内には明るい笑い声が響いた。そのことを幸せに思いながらアクセルを踏み込めば車が走り出す。
こうして新たな旅は始まった。
******
再会した妻と息子、そして二人と行動を共にしていた人々との旅はリックが想像していたより問題が多かった。
最初に気づいたのはウォーカーに対処できる人間の少なさだ。リックたちが合流するまでウォーカーに対応していたのはシェーンとグレン、そしてTドッグの三人だけだった。デールは銃を扱えるが年齢と体力の問題があって前線に立つことはできない。つまり、六人の非戦闘員を三人で守ってきたということだ。
これを知った時、リックは思わず考え込んでしまった。デール以外の五人が全く戦えない状態ではリックとニーガンが戦力として加わっても群れに襲われたら全員を守りきるのは難しい。全員が自分の身を守る力を持っていないと生存率は低くなるだろう。
その次の問題はリーダーの不在だ。現状ではシェーンが指揮を執っているが、正式にリーダーの役目を請け負っているわけではない。物事の流れや「なんとなく」といった雰囲気によってシェーンがリーダーのようなことをしているのだ。この状態では何か大きな問題が生じた時にグループがまとまらず崩壊する可能性が高い。
そして、リーダー不在によって浮かび上がる問題がグループ内での意見の対立だ。リーダーの役割の一つが意見の取りまとめなのだが、そのリーダーが不在なので意見がまとまらないことが珍しくなかった。シェーンが皆の意見をまとめようと努力してみても中途半端な立場では難しい。それが原因でシェーンが苛立ちを見せることも多かった。
これらの問題を放置するのはグループの分裂を招きかねず、リックはそれを心配している。早く手を打つ必要があるのだが、まだ信頼を得ていない状況では誰も耳を貸さないだろう。
自分がどのように動くべきなのかリックが頭を悩ませている中で新たな衝突が起きる。
「──だから、明日もここで過ごすなんて物資の浪費でしかないって言ってるんだよ!」
怒りを露わに声を張り上げるシェーン。それと対峙するのは険しい表情のデール。そんな二人を凍りついたように立ち尽くして見つめる仲間たち。
夕方が近づいたため移動をやめて野営の準備を始めようとした時に仲間同士の衝突が起きてしまった。リックは目の前で繰り広げられる言い争いを止めるために当事者たちの間に割って入る。
「二人とも落ち着いてくれ。冷静に話し合おう。」
双方を交互に見ながら呼びかけたが、リックの言葉はシェーンの眉間に刻まれたしわを深くさせただけだ。
「使える建物があるわけでもないのに出発は明後日にしよう、なんて認められるか。出発は明日だ。」
シェーンが吐き捨てるように告げるとデールが「さっきも説明したが」と反論する。
「近くに川がある。水は濁っていなくてきれいだから煮沸すれば飲み水にできる。出発は明後日にしてしっかりと飲み水を確保した方が良い。それに、飲み水の問題だけじゃない。みんなは長旅の疲れが溜まってるんだ。だから明日一日だけ休ませてやってほしい。」
「壁も柵もない場所で休むのか?一つの場所に留まればウォーカーが集まってきて群れに襲われる。デール、俺たちはそれを経験したんだぞ。」
「一週間も二週間も留まろうと言ってるんじゃない。一日だけならウォーカーが集まる前に移動できる。考えてくれ、シェーン。」
「だめだ。」
シェーンはデールの提案を即座に跳ね除けた。
しかし、リックはデールの意見に賛成だった。飲み水を最後に補給できたのは数日前のことであり、気温の高さを考慮すると水の状態に不安を覚える。そろそろ飲み水を入れ換えたい。
それだけでなく、車での長旅に全員が疲労を抱えているのは事実だ。休憩を挟みながらの移動であっても狭い車内で長時間過ごすのは肉体的にも精神的にも疲れる。誰もが気分転換と休息を必要としていた。
リックはシェーンに向かい合うと「聞いてくれ」と説得を始める。
「俺もデールの意見に賛成だ。最後に水を補給したのは何日も前だから状態が悪くなっている可能性がある。最近は気温も高いしな。そろそろ水を入れ換えるべきだと思う。」
「だからって明日もここに留まる必要があるか?」
渋るシェーンにリックは説得を続ける。
「煮沸して冷ますのに時間がかかるから、明日は移動をやめて飲み水を入れ換えよう。それに全員が車での長旅に疲れてる。俺たちには休息が必要だ。」
リックはそう言って仲間たちの顔を見回した。
誰の顔にも疲労の色が見える。限界が近いのだ。
「疲れは動きを鈍らせる。ウォーカーと戦う時に影響しないと言い切れるか?」
視線をシェーンの方に戻して問えば、シェーンは苦々しい表情で「できない」と答えた。
しかし、それでもシェーンがデールの提案を受け入れる気配はない。シェーンはリックに鋭い眼差しを寄越しながら口を開く。
「一日留まるってことは一日分の物資を消費するってことだ。無駄に消費する余裕なんてない。それなら一日でも早く安全な場所に行って休んだ方が良い。リック、お前はローリとカールを早く安全な場所に連れていきたいと思わないのか?」
シェーンの視線は突き刺すようなもので、彼の怒りが肌を通して伝わってくる。
ウォーカーの群れにキャンプ地を襲われた経験がシェーンを焦らせているのがリックにもわかった。同じ場所に長く留まればウォーカーを呼び寄せてしまうという恐怖が頭にこびり付いているのだ。リーダーシップを取って仲間を守ってきたシェーンが「早く先へ進みたい」と望むのは当然と言える。それでも今は出発を明後日にして飲み水の入れ換えと休息が必要だ。
「シェーン、みんなを一日でも早く安全な場所に連れていきたい気持ちはわかる。俺も同じだし、みんなもそうだ。だが、今やっておくべきことを放置すれば後で悪影響が出る。」
リックは続けて「頼む、シェーン」と懇願した。
黙り込むシェーンを辛抱強く見つめているとニーガンの声が響く。
「俺もデールの意見に賛成だ。とにかく全員が疲れ切ってる。そろそろ休んでおくべきだ。それにな、シェーン。お前もかなりひどい顔をしてるぞ。鏡は見たか?」
それを聞いたシェーンはニーガンを睨んだが、思い当たることがあるのか言い返さない。
そして、ニーガンに続いてグレンも「俺もデールに賛成」と手を挙げた。
「出発を明後日にしてもらえたら明日一日かけて全部の車の点検と整備ができる。最近はしっかり点検できる時間が取れないから故障が心配なんだ。そうだろ、デール。」
グレンから話を振られたデールは深く頷いた。
「グレンの言う通りだ。取り返しのつかない故障になる前に修理するためにも点検に時間をかけたい。」
車の問題は移動に直結する。グレンの意見は無視できないものだ。他の者たちも同意するように頷いている。
シェーンは難しい顔で考え込んでいたが、やがて大きな溜め息を吐くと首を縦に振った。
そして、不機嫌そうに「こうしよう」と言ってから全員に目を向ける。
「出発は明後日。明日は休憩と作業をバランス良くやる。それでいいよな?」
その問いかけに誰もが安堵の笑みで頷いた。
リックは仲間たちの笑顔を見遣ってからシェーンに感謝を伝えようと顔を向けたが、シェーンはこちらに横顔を向けていた。その横顔から拒絶を感じて口を噤む。
リックが何も言えないでいるとシェーンはホルスターから拳銃を取り出して歩き出した。
「……おい、シェーン。」
リックが躊躇いながらも呼び止めると一瞬は足を止めたシェーンだったが、その足はすぐに動き出す。
「見回りに行ってくるから後は任せた。」
それだけを言い残してシェーンは行ってしまった。
素っ気なく去った親友を見つめるリックの胸に心細さのようなものが芽生える。シェーンとの間に溝が存在しているような──そのような感覚が拭えない。
思わず溜め息を吐こうとしたリックの肩を誰かが叩く。
「──デール?」
肩を叩いたのはデールだった。彼は穏やかに微笑んで「さっきは助かった」と感謝を口にする。
「リックが援護してくれたおかげだ。俺だけじゃシェーンを説得できなかった。本当にありがとう。」
「俺も同じ意見だったから賛成しただけだ。さあ、野営の準備をしよう。見張りを頼めるか?」
「ああ、もちろんだ。」
デールは笑顔で見張りを引き受けてキャンピングカーに向かっていった。その後ろ姿を見送ってから周りを見れば、仲間たちがそれぞれに野営の準備を始めている。
リックは「今は自分のやるべきことをやろう」と気持ちを切り替えて荷物を下ろしている仲間の元へ駆けていった。その途中、もう一度だけシェーンが去った方角を見てみたが、そこには誰の姿もなかった。
シェーンとデールの衝突をリックが仲裁した日から数日が経ち、リックはグループ内での自分の立ち位置が変化したことに気づく。グループ全体に関わることについての意思決定がリックに委ねられるようになったのだ。
以前であればシェーンに選択を任せていたことをリックに持ちかけてくることが増えており、全員での話し合いの場に置いても「リックはどのように考えているのか?」と問われることも少なくない。それが一人や二人の話ではなくグループのほとんどの者が該当するのだから気のせいではないだろう。つまり、仲間たちがリックをリーダーとして扱い始めたということだ。
そのことに気づいた時、リックはひどく戸惑った。リック自身は自分がリーダーの器ではないと理解しており、今までグループをまとめてきたシェーンの方が適任だと考えていたからだ。シェーン以外であれば能力的に考えてニーガンが相応しいと思っている。リック自身は「自分はリーダーに向いていない」と感じていても皆はそうではないらしい。
そして、戸惑うと同時にシェーンに対して罪悪感を抱いた。自分がシェーンの地位を奪ってグループの中心から追いやったように感じられて仕方なかったのだ。学生時代も保安官になってからも多くの仲間たちの中心で笑顔を見せていた親友が、今では一人で考え込む姿ばかり見せている。これには胸を痛めずにいられなかった。
そのようにシェーンのことで頭を悩ませている時にリックはニーガンと二人で野営地の周辺を見回る機会を得た。良い機会なのでいろいろ話してみようと思い、リックはニーガンと並んで歩きながら口を開く。
「なあ、ニーガン。俺の質問に正直に答えてほしいんだが……」
「言ってみろ。」
リックはこちらに顔を向けたニーガンを見つめ返しながら質問を口にする。
「このグループのリーダーは俺だと思うか?」
率直な質問に驚いた素振りも見せずにニーガンは「そう思う」と答えを示した。
「ちょっと前まではシェーンがリーダーっぽい感じだったけどな。今はあいつら全員がお前をリーダーとして扱ってる。そうあってほしいんだろう。」
それを聞いてリックは気分の重さが増した。自身がリーダーだと思われているか確認したかったので尋ねてみたものの、実際に「お前がリーダーだ」と言われるとシェーンへの罪悪感が大きくなる。
リックが俯くとニーガンの腕が首に回されて引き寄せられた。そして、顔を覗き込んでくるニーガンと間近で目が合う。ニーガンの顔には呆れが見て取れた。
「リック、お前の考えてることを当ててやろうか?」
「え?」
「自分はシェーンからリーダーの地位を奪ってしまった。申し訳ないことをした。……違うか?」
リックは確信を持った目を見つめ返しながら頷いた。
「そうだと思った」と苦笑するニーガンはそのままの状態で歩き続ける。
「最近悩んでるのはそのことだろ?」
「ああ、そうなんだ。……やっぱり、この前の言い争いを仲裁したことがきっかけだと思うか?その頃からみんなの俺への接し方が変わった気がする。」
「どう考えてもそれだ。お前はシェーンの考えと対立する主張をして、他の奴らを味方につけた上で最終的にシェーンを従わせた。つまり、主導権が誰にあるのかを仲間の前で示したってことさ。」
「シェーンを従わせた」という表現にリックは眉をひそめる。そんな気持ちは全くないので心外だ。
リックがそれを主張しようとするとニーガンに「聞けよ」と制される。
「お前が相手に対してマウントを取りたがるような奴じゃないことはわかってる。だがな、お前の思いとは別に『グループで一番強い人間をリックが従わせた』って構図が成立しちまったんだ。だからお前はリーダーになったんだよ、リック。」
「そんな……」
「休息と飲み水の入れ換えのために出発を延ばすのも、ウォーカーが集まってくる前に予定通りに出発するのも、どっちの考えも間違っちゃいない。ただ、あの時の状況では出発を延ばすべきだと判断した奴が多かった。それも影響したかもな。」
正式なリーダーではなかったが、シェーンはグループを導く立場にいた。そのシェーンが自分の意見を取り下げて従った相手を皆がリーダーとして仰ぐのは自然な流れなのかもしれない。
しかし、それだけで自分がリーダーになってもいいのだろうか?
リックが考え込んでいるとニーガンの腕が外された。そして彼はリックの正面に立つ。
ニーガンと向かい合う形になったリックは立ち止まり、真摯な眼差しを受け止めるために相棒を見上げた。
「リック、リーダーになる覚悟を決めろ。あいつらはお前が悩もうが苦しもうが関係なくお前に命を預けるつもりでいるんだぞ。仮のリーダーのままで旅を続けるのが難しいとわかってるから自分たちを導く存在が欲しいんだ。」
ニーガンは残酷だ。リックが他者に手を差し伸べずにいられない性格だと理解した上で「茨の道へ行け」と進むべき方向を指し示す。
だが、ニーガンの言った内容はリック自身も薄々感じていたこと。導き手を求める人々がその存在として自分を望んでおり、それを自分は拒否できないと理解している。もしかしたら、ニーガンに話を切り出したのは「覚悟を決めるきっかけが欲しい」という気持ちがあったのかもしれない。
いよいよ覚悟を決める時が来た、とリックは拳を握りしめる。
その時、「勘違いしてもらっちゃ困る」と苦笑するニーガンに指で顎をすくわれた。
「『一人で全部背負え』なんて言うつもりはないぞ。お前には俺がいるだろ?」
その瞬間にニーガンが浮かべた笑みは普段と変わらない余裕めいたものだったが、眼差しはリックが心細くなった時に向けてくれる温かくて優しいもの。全てを受け止めて包み込んでくれる眼差しにリックはいつも救われているのだ。
リックはニーガンの笑みを見つめたまま、彼から送られた言葉を頭に染み込ませていく。
リックがリーダーとして仲間全員の命を預かり、責任を全て背負うことになったとしてもニーガンが隣にいて支えてくれる。何もかもを一人だけで抱え込む必要はない。どうしても助けが欲しい時に頼ることができる存在がいるのだ。そのことが安心感をもたらし、不安を溶かしていく。
不安とプレッシャーによって冷えたリックの指先が温もりを取り戻した。リックは握りしめた拳を解くと強張りのない笑みを浮かべる。
「その言葉だけでも俺にとっては何よりの救いだ。ニーガンがいてくれるだけで心強い。──ニーガン、俺がリーダーとして全てを背負う日が来たら、あんたの力を貸してくれ。」
ニーガンに寄りかかることはしない。しっかりと自分の両足で立たなければ誰かを守ることなど不可能だ。だからニーガンは隣にいてくれるだけでいい。隣に並んで微笑んで、そして頷いてくれるだけで力を貰えるのだ。
その思いは言葉にせずとも目の前の彼に伝わり、「遠慮がちな奴だな」と呆れながらも笑って頷いてくれた。
ニーガンは体の向きを変えると歩みを再開させた。リックは先を行く大きな背中を眺めながら思う。
(あんたが俺を支えてくれるなら俺はあんたを守るよ、ニーガン)
ニーガンは賢くてタフな男だ。守られる必要はないのかもしれない。寧ろ彼に守られてばかりな気がする。
しかし、それがニーガンを守らなくていい理由にはならない。どのような形であれニーガンを守る。リックはそれを自身に誓った。
リックがその場に留まったまま決意を新たにしているとニーガンが振り返って「置いてくぞ」と笑う。気づけば距離が大きく開いていた。
「待ってくれ、ニーガン!」
リックは慌ててニーガンを追いかける。それを見てニーガンが笑いながら足を速めた。
リックは「性格が悪いぞ」と抗議しながらも笑顔でニーガンの背中を追いかけた。
長旅に障害は付きもの。それは覚悟の上ではあるが、道路を埋め尽くす大量の車を目にすれば溜め息が漏れ出るのは仕方ないだろう。
リックは今、仲間たちと共に道路に立ち尽くして前方を塞ぐ車の群れを眺めている。先頭の一台が立ち往生した結果、後続車たちも止まらざるを得なかったのだろう。車が無造作に止まっている様子を見ると車同士の間を抜けようと試みた者が少なくなかったのかもしれない。
リックが「通り抜けられないか見てくる」と言って歩き出して間もなく、すぐ後ろから足音が聞こえてくる。ニーガンが付いてきたのだ。
「おーい、リック。率先して動くのは構わないが俺に声をかけろよ。寂しくて泣くぞ。」
「それは見てみたいな。」
「おいおい、扱いがひどいじゃないか。本当に泣くぞ?」
リックとニーガンは軽口を叩きながらも視線を油断なく周囲へ滑らせる。
道路には様々な物が散乱しており、車が不規則に停まっているせいで通り抜けられるほどの隙間はなかった。それでも停まっている車を移動させる余裕はある。車を動かして道を空ければ通り抜けることは不可能ではなさそうだ。
「ニーガン、戻ろう。停まっている車を動かして道を空ければ通り抜けられるはずだ。」
リックの提案にニーガンは頷き、二人は揃って仲間たちのところへ戻った。
リックは二人の帰りを待っていた仲間たちに状況の説明と通り抜けるための方法を提案した。皆が提案を受け入れたのですぐに指示を出す。
「停まっている車を動かすのは俺とニーガン、シェーン、グレン、それからTドッグの五人でやるからデールはキャンピングカーの上で見張りを頼む。少しでも変だと思ったらすぐに知らせてほしい。」
「ああ、任せてくれ。」
デールがそのように答えると他の男たちも頷いて了承を示した。リックはそれに頷き返してからローリの方に顔を向ける。
「ローリ、君とキャロル、それからアンドレアの三人で物資調達をしてもらいたい。車の中に使えそうなものが残ってないか探してほしいんだ。俺とニーガンが見た限りではウォーカーはいなかったが油断をしないでくれ。それと、子どもたちも頼みたい。」
ローリは「わかった」と頷くとカールを連れてキャロルたちの元へ向かった。
指示が行き渡ると皆は動き出す。リックが「自分がリーダーになる」と宣言したわけではないのだが、最近ではリックの指示によって動くことが当たり前になってきた。皆の中では「リックがリーダーである」と決定事項になっているようだ。
そろそろ仲間たちにリーダーを誰にするのか問うべきなのかもしれない。
そのように考えながら、リックは仲間たちと共に車の移動を始めた。
異変が起きたのはリックが何気なくデールの方に視線を向けた時だった。キャンピングカーの上で見張りを担当しているデールが双眼鏡を覗き込んだまま身動きしないのだ。
リックは共に作業する者たちに「デールに様子を聞いてくる」と言い置いてキャンピングカーに近づいた。
「デール、どうかしたのか?」
声をかけてもデールはこちらを見ようとしない。彼は双眼鏡を覗いたまま前方を指差して答える。
「向こうからウォーカーが近づいてきてる。」
その返事にリックの緊張が一気に高まった。
リックはスコープ付きのライフル銃を持ってデールが示した方に向かい、スコープを覗いてみる。そうすると一体のウォーカーが車の間をフラフラと歩いてくる姿が見えた。距離は十分にあるのでローリたちが気づく前に始末した方が良さそうだ。
次の行動に移るためにライフル銃を下ろそうとした時、近づいてくるウォーカーの後ろから新たなウォーカーが現れる。ウォーカーは一体ではなかったようで、続けて何体ものウォーカーが姿を見せた。
リックは続々と沸いてくるウォーカーに驚き、更に遠方を見て恐怖に全身が凍りつきそうになる。こちらに向かってくるウォーカーの群れは今までに見た中で最も規模が大きく、所持している装備ではどうにもできない。
リックは恐怖に竦む体を無理やり動かして仲間たちに声をかけて回る。
「ウォーカーの大群だ!車の中に隠れろ!早く!」
リックの知らせに全員が慌てて近くの車に身を隠す。道路を塞ぐ車の移動が完了していないため車に乗って逃げることは不可能であり、走って逃げるには群れとの距離が詰まり過ぎていた。こうなっては車の中に隠れて群れが通り過ぎるのを待つしかない。
リックは子どもたちが母親たちと別の車に逃げ込んだのを見て一緒に隠れてやりたいと思ったが、ウォーカーが迫ってきたので近くに停まっていた車の後部座席の足下に体を押し込んだ。今は子どもたちがパニックに陥らないことを祈るだけだ。
やがてウォーカーの唸り声と足音が聞こえてきた。その多さに死への恐怖がじんわりと込み上げる。少しでも音を出せば存在に気づかれて襲われるため静かにしていなければならないのだが、歯の根が噛み合わずにカチカチと音が鳴ってしまいそうだ。
(早く──早く行ってくれ!)
リックは心の中で必死に祈った。途切れることのない死者の唸り声が響く中、祈ることが今のリックに許された唯一だった。
永遠に続くかのように思えた恐怖の時間がようやく過ぎ去り、辺りが静かになったところでリックは慎重に体を起こす。周りを見渡してもウォーカーの姿は見えない。無事に乗り切ったようだ。
リックがホッと安堵の息を漏らした途端に少女の悲鳴が響く。ソフィアの声だ。
慌てて車外に飛び出したリックが目撃したのはソフィアが隠れていた車に迫る二体のウォーカーと、ウォーカーとは反対側のドアから車の外に出て森に逃げ込むソフィアだった。群れが去ったので隠れるのをやめたソフィアに群れから遅れたウォーカーが気づいたのだ。森に逃げたソフィアを二体のウォーカーが追いかけるのを見てキャロルが半狂乱で泣き叫ぶ。
「ソフィア!やめて、だめ!誰か娘を助けて!」
泣き崩れるキャロルをローリが抱きしめると同時にリックは森に向かって走り出す。行方がわからなくなる前にソフィアを保護しなければならない。
リックはガードレールを勢い良く飛び越えたものの着地に失敗して斜面を転がり落ちた。回転が止まるとすぐに立ち上がり、ソフィアを捜して早足で歩く。転がり落ちたせいで全身は痛むが「時間短縮になった」と前向きに考えながら周囲の様子を探る。
その時、助けを求める幼い声が森の中に響く。
「助けて!ママ、助けて!」
リックは森の奥から聞こえてくる悲鳴を頼りに進み、ようやく少女の姿を視界に捉えた。ソフィアは泣きながら走っており、距離を空けながらも二体のウォーカーが彼女を追っていた。
追いかけたところで全力で逃げる少女を後ろから捕まえるのは容易ではない。先回りして走ってくるのを受け止める方が良いだろう。
リックはソフィアの姿を見失わないように注意しながら移動して彼女を待ち構える。そして、全力で走ってくる小さな体を抱き止めた。
「──っ!」
叫ぼうとするソフィアの口を手で塞いで「静かにするんだ」と言い聞かせ、落ち着かせるために抱きしめる。
「ソフィア、俺だよ。リックだ。君を助けに来た。」
リックが落ち着いた声音で話しかけると一瞬は落ち着きを取り戻したソフィアだったが、ウォーカーに追われていることを思い出して再びパニックになる。ソフィアはリックの腰にあるホルスターに手を伸ばして拳銃を取ろうとした。
「ソフィア、だめだっ。落ち着くんだ。」
リックが宥めても恐怖に支配された少女は暴れるのをやめない。
「撃って!ねえ、あいつらを撃って!」
リックは泣き叫ぶように訴える少女の両肩を掴んで自身と拳銃から引き離して少し距離を取り、しっかりと目を合わせて「聞いてくれ」と話を切り出す。
「銃は使えない。銃を使うと大きな音がするから遠くへ行ったウォーカーの群れが引き返してくる。そうなると君のママが危険なんだ。わかるね?」
ソフィアは涙を流しながらも小さく頷き、ようやく暴れるのをやめた。
リックはソフィアが少し冷静になったことに安堵するものの、銃を使えない状況で二体のウォーカーから彼女をどうやって守るべきか頭を悩ませる。
背に庇いながらでは目の前の相手に集中できないので自身が危なくなる。逃げるにしても怯えた子どもが物音を立てずに逃げるのは難しく、追いつかれる可能性は非常に高い。残された選択肢は自分が囮となってソフィアを逃がすことだけだ。
リックが作戦を告げようとすると後方から新たな足音が聞こえてきた。警戒を露わに振り向いた先には額に汗を滲ませたニーガンがいた。
「ニーガン!」
驚き混じりに名前を呼ぶリックにニーガンはいつもと変わらない笑みを見せる。
「やっと追いついた。とりあえず無事みたいだな。」
頼もしい相棒が浮かべた普段通りの笑みにリックは張りつめたものが緩むのを自覚した。
しかし、瞬時に気を引き締めて頭の中で作戦を練り直す。ニーガンがいるならソフィアを一人で逃がす必要はない。
リックはソフィアの体をニーガンの方に軽く押し出すと二人に背を向けて歩き出す。
「おい、リック?」
ニーガンにしては珍しく戸惑ったような声だ。呼びかけに応えてリックは振り向き、ソフィアを抱き寄せてこちらに視線を向けるニーガンを見る。
「ソフィアを連れて戻ってくれ。俺はウォーカーを倒す。みんなのところへ奴らを連れて行くわけにはいかないから。」
リックは「頼んだぞ」と付け加えてから顔を正面に戻して進み続ける。
これで心配の種はなくなった。後は慎重に二体のウォーカーを始末するだけだ。
リックは周辺を見渡して武器として使えそうな石を拾う。これで何とかするしかない。
リックは先程までよりも近くで聞こえるウォーカーの忌まわしい声を耳にしながら石を掴む指に力を込めた。
ソフィアを追っていた二体のウォーカーを倒したリックは来た道を辿り、自分が転がり落ちた辺りまで戻ってきた。この斜面を上がれば仲間たちと合流できる。
リックは小さく笑みを浮かべながら斜面を上り、ガードレールを越えた。
しかし、待ち受けていたのは仲間たちの歓迎の声ではなく重苦しい雰囲気だった。その中心にいるのはニーガンとキャロル。ニーガンの顔には激しい怒りが浮かび、キャロルは涙を零しながら縮こまっている。
リックが急ぎ足でグループの輪に近づくと、リックの帰還に気づいたローリとカールが駆け寄ってきた。
「リック、無事でよかった!ケガはない?」
心配そうに夫の頬に触れるローリにリックは「大丈夫だ」と微笑む。
「俺のことはいい。何があった?」
そう尋ねるとローリの代わりにカールが答える。
「ニーガンがキャロルに怒ってるんだ。自分の子どもは自分で守れって。」
カールの答えを肯定するようにローリが頷いた。
これは不味い、とリックが慌ててニーガンに駆け寄ると彼はこちらを一瞥しただけでキャロルを睨み続ける。
「ニーガン、向こうに行って話そう。」
リックがそのように持ちかけるとニーガンはリックにも鋭い眼差しを寄こした。
「話?話なら済んだ。自分の子どもは自分で守れってな。」
「それはカールから聞いた。俺が話したいのはそういうことじゃなくて──」
「じゃあ、何だ?誰のことも守ろうとしない奴ほど大事な人間を失うと嘆いて周りを責めるって話か?それなら本人に言ってやった!」
怒りを爆発させたニーガンに反応してキャロルが「ひどい」と涙声で抗議する。彼女は怯えながらもニーガンを真っ直ぐに見た。
「わ、私は戦えないっ。武器を振るうなんて、できない。そんな経験がないもの!」
半ば叫ぶように訴えるキャロルを見遣るニーガンの目は冷え冷えとしている。
ニーガンは嘲笑を浮かべながらキャロルに近づいて顔を覗き込んだ。キャロルが困惑気味に顔を背けるとニーガンはその耳元で囁く。
「努力する気もない?それなら死人どもに貪り食われて惨めに死ぬんだな。」
ニーガンの冷酷な言葉にキャロルの顔が歪んだ。そして嗚咽を漏らして泣きじゃくる。ストッパーが壊れてしまったかのように溢れ出るキャロルの涙を見てもニーガンは顔色一つ変えない。
キャロルに冷酷な言葉を投げつけたニーガンに対する皆の眼差しは厳しい。きつい物言いで相手を泣かせるまで追いつめてしまうと主張する内容が何であれ評価は悪くなる。現状ではニーガンが完全に悪者だ。
リックはニーガンの腕に触れて彼の視線を自分に向けさせてから「きちんと話すべきだ」と諭す。
「ニーガン、今の言い方だとあんたの気持ちが伝わらない。冷静になって、じっくり言葉を選んで話してみないか?自分の気持ちをみんなに理解してもらった方がいい。」
「リック……」
「なぜキャロルに腹が立ったのか説明してくれ。過去のことが影響しているんだろう?」
リックの言葉にニーガンは難しい顔で黙り込む。それでもリックは辛抱強く待った。
やがて、ニーガンはポツリと零す。
「今まで出会った奴らにそっくりだったからだ。」
その声には嘆きの響きがあった。
「自分のことも守れないような奴ばかりだった。大事な人間が目の前でウォーカーに襲われてるのに震えて立ち尽くすだけ。それなのに死んだことを嘆いて、中には俺を責めたバカもいた。どいつもこいつも最後はウォーカーに食われて死んでいったさ。」
先程までの激しさが消え失せて淡々と語るニーガンの話に全員が聞き入っている。キャロルも泣き止んで真っ直ぐにニーガンを見つめていた。
「俺は一緒に行動する奴を守ってきた。このグループの奴らも守るつもりでいる。だがな、いつも守ってやれるわけじゃない。」
その言葉にリックは「そうだな」と理解を示す。
「距離が離れていれば間に合わないし、自分を守るだけで精いっぱいの時もある。そういうことだろう、ニーガン。」
「そうだ。いつも完璧に守ってやれるなんてことは有り得ない。何にだって限界はある。」
ニーガンは仲間たち一人ひとりの顔を見てからキャロルに視線を定めた。その眼差しに怒りも嘲笑もない。ただ、真っ直ぐに彼女を見つめている。
「自分以外の相手を守ったり誰かを救うのはいつだって命懸けだ。命懸けじゃなきゃ誰も守れないし救えない。つまり、リックと俺は自分の命を懸けてソフィアを救いに行ったんだ。それは頭になかったろ?」
その言葉にキャロルがハッとした表情を浮かべる。そして後悔を目に宿しながら両手を握りしめた。
ニーガンは口元にだけ笑みを浮かべてキャロルに問う。
「キャロル、リックを残してソフィアと一緒に戻ってきた時の俺の気持ちがわかるか?」
問いを投げかけたニーガンの横顔を見つめながら、リックは胸の痛みを感じた。
リックがソフィアをニーガンに託して先にグループの元へ帰らせたのは二人を守りたかったからだ。その時のリックに「ニーガンが自分を心配する」という可能性は全く浮かばなかった。自分が相手を心配するように相手も自分を心配するだなんて考えもしなかったのだ。銃が使えない状況で二体のウォーカーと対峙しなければならない自分をニーガンがどれほど心配したのか、リックは今頃になって理解した。
リックと同じく、キャロルもニーガンの気持ちを理解したようだ。キャロルは「ごめんなさい」と目を潤ませる。
「守ることや救うことが命懸けのことだって頭になかったわ。私も娘も弱いから、守られて当然だと思ってた。……そんな自分が情けなくて仕方ない。」
キャロルは目元に滲む涙を指で拭うとニーガンの目を見つめ返す。
「言い訳ばかりしていてはだめね。私はソフィアを守るために強くなりたい。」
決意の滲む表情のキャロルはとてもたくましく見える。彼女に対してたくましさを感じたのは初めてだった。──きっと彼女は強くなる。そんな予感を抱かせる表情だった。
リックは自身を変えることを決めたキャロルを見て、遂に決断する。そして仲間たちを見回しながら「聞いてくれ」と話し始めた。
「このグループの全員が自分を守るために戦えるようになるべきだと思う。さっきニーガンが話したように守る側にも限界はある。そうなると最低限は自分で自分を守れないと生き残るのは難しい。それに、全員が自分を守れるようになれば互いに守り合うこともできるはずだ。」
皆はリックの話に黙って耳を傾けている。リックは全員の視線が自分に集中していることを感じながら話し続ける。
「必要なのは訓練だ。毎日少しずつ戦い方や身の守り方、ウォーカーの対処方法を学んでいこう。俺が責任を持って指導するから訓練に参加してほしい。」
「……ちょっと質問してもいい?」
そう言ったのはグレンだ。
リックが頷くとグレンは咳払いをしてから質問内容を口にする。
「訓練するのはキャロルとソフィア、ローリ、アンドレア、それからカールの五人ってことでいいのか?」
「そうだ。」
「カールとソフィアはまだ子どもだ。二人に戦い方を教えるのは早いんじゃないか?まだ幼すぎるよ。」
「グレンの疑問はもっともだと思う。だが、考えてみてくれ。ウォーカーは相手が子どもでも容赦しない。そして世界にはウォーカーが溢れている。戦い方を教えないのは無防備な状態で外に放り出すのと同じだ。」
「それはリックの言う通りだと思うよ。でも、俺たち大人が守ってやればいいんじゃないか?もう少し大きくなってからでも──」
その時、アンドレアがグレンの言葉を遮って「それは甘いと思う」と切り捨てた。アンドレアはグレンを見ながら自分の意見を述べる。
「ついさっき、守ってあげられない状況も有り得るって証明されたでしょ?年齢は関係なく戦えるようにならないとだめなのよ。私は戦えるようになりたい。」
アンドレアは視線をグレンからリックに移す。
「私は訓練を受ける。守りたい人を守れない悔しさは二度と味わいたくない。弱い自分のままでいるのは嫌。」
そのように宣言するアンドレアの目の力強さにリックは息を呑む。アンドレアはウォーカーの襲撃によって妹を失ったと聞いた。その憔悴ぶりは相当なものだったらしく、今は良くなってきた方なのだという。失った悲しみが大きければ守れなかった悔しさも大きいだろう。
アンドレアの覚悟を察したリックが頷いて返すと、アンドレアに続いてソフィアが「私もやる」と一歩前に出た。
「ウォーカーは怖いけど、私はママを守りたい。だから練習する。ママ、いいよね?」
ソフィアがキャロルを振り返って尋ねると、キャロルは微笑みながら「もちろん」と娘の意思を尊重する。
「一緒に訓練を受けましょう、ソフィア。ママもあなたを守るわ。」
「うん!」
微笑み合う親子にリックが笑みを零したところへ「父さん」と声をかけられる。カールはリックの傍らに立ち、彼は父親の手を握って真っ直ぐに見上げてきた。
「僕もやる。強くなってみんなを守ってあげるんだ。それに、父さんの役に立ちたい。」
「カール……」
「今度は僕が守ってあげるからね、父さん。」
リックは強い意思を覗かせる息子の顔をしばらく見つめてから頷いてみせた。許可が出たことに嬉しそうな笑顔を浮かべたカールの両肩にローリが手を置いて微笑む。
「カールが訓練を頑張るなら私も頑張らないとね。戦えるようになって損はないから。」
ローリはカールに向けていた視線をリックに移すと無言で見つめてきた。その表情は何かを察しているように見えた。
「リック、あなたが私たちを導いてくれるのね?」
尋ねるというよりも確認するといった様子のローリは、自分の夫がリーダーとしてグループを守る覚悟を決めたのだと悟ったようだ。そして同時に、彼女が導き手の誕生を心から望んでいることも確かなのだと思えた。
リックはローリから視線を外して自分の掌を見下ろす。特別大きいわけでもたくましいわけでもない普通の手だ。この手を持つのはどこにでもいる平凡な男だ。自分以上にリーダーに相応しい人間がいることは誰よりも理解している。
(だが、俺をリーダーに望んでいる人たちがいる)
リックは顔を上げて仲間たち一人ひとりの顔を見た。真っ直ぐに向けられる眼差しからは「リーダーになってほしい」という思いが伝わってくる。
役目を引き受けてしまえば逃げられない。どれほど責任が重くとも、厳しい選択を迫られようとも、血反吐を吐くような思いをするのだとしても、もう逃げることは許されない。
リックは逃げが許されないということに怖気づきそうになる。その時、「リック」と呼ぶニーガンの声がした。
「──大丈夫だ。」
そう言って微笑むニーガンと目が合った瞬間に恐怖が溶けて消えていった。リックは「俺がいるだろ」と目だけで語るニーガンに微笑み返すと他の仲間たちに視線を向ける。
「俺がみんなを守る。そのための手段の一つとして訓練をしよう。──俺を信じてほしい。」
リックの宣言に仲間たちが首を縦に振る。この瞬間、道は定められたのだ。
リックが目覚めた時に傍にいたのはニーガン一人だけで、旅の始まりはリックとニーガンの二人だった。
ところが、今では何人もの仲間がいる。二人だけの時とは違って守るべき対象は多くなり、守り抜くことは更に難しくなった。仲間たちを守って安全な場所へ導くリーダーの責任と寄せられる期待は重い。
その重さを背負うと決めたリックは既にリーダーの顔になっている。それを知るのはリックが守るべき仲間たちだった。
To be continued.