道なき未知を拓く者たち⑤ 牧草地を囲う柵の上に並ぶ空き缶たち。何発もの銃声が響いた後、それらのいくつかが柵の上から消えている。
リックは地面に落ちた空き缶に銃撃による穴が空いていることを確かめてから仲間たちを振り返った。
「今日の訓練はここまでだ!戻ろう!」
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農場に来てから始まった戦闘訓練は途切れることなく続いており、最近では銃の訓練も行うようになっていた。銃の訓練にはグループの仲間だけでなく農場の人々も参加している。
マギーの妹であるベスはウォーカーと戦ったことが一度もなく、銃を扱ったこともなかった。ハーシェルが面倒を見ているビリーも今までに銃を撃った経験はないそうだ。そして夫を亡くしたばかりのパトリシアも銃を使えなかった。その三人が「自分たちも銃の訓練に参加したい」と申し出たのはオーティスに起きた悲劇がきっかけになったようだ。
こうして訓練する人数が増えると全員に目が行き届かなくなるので指導が難しくなった。教えるだけでなく安全にも配慮しなければならないからだ。そのため、リックとシェーンの二人だけだった指導役をニーガンにも担当してもらうようになった。ニーガンは教え方がとても上手く、それを称賛すると「元体育教師だ」と明かしてくれたのは記憶に新しい。
今日もいつものように農場の端で銃の訓練を行い、特訓を行うシェーンとアンドレア以外の皆は訓練を終えて野営地や家に戻ることになった。アンドレアだけ特訓をするのは飛び抜けて上達が早いからだ。リックとしては彼女が戦力になってくれることを期待している。
リックが皆と一緒に野営地に戻るとデールが待ち構えていた。
「リック、少し時間を貰えるか?」
声をかけてきたデールの顔は強張っている。良くない話なのだと彼の表情が物語っており、リックは腹に力を込めた。
「問題ない。場所を移動して話をした方がいいか?」
「すまないな。キャンピングカーの中で話そう。」
リックはデールの後に続いてキャンピングカーに乗り、テーブルを挟んで彼と向かい合った。
正面に座ったデールは帽子を脱いでから話を切り出す。
「結論から言うと、ハーシェルが納屋にウォーカーを隠してる。数も多い。」
リックは自分の耳を疑った。
ハーシェルが納屋にウォーカーを隠している?何のために?
硬直したリックをデールは不安げに見つめながら話を続ける。
「この話はグレンから聞いたんだ。彼はこのことを偶然知って、どうすべきか悩んで俺に相談してきた。まずはハーシェルに事情を聞くべきだと思ったから彼と話をした。」
「ハーシェルはどう説明していたんだ?」
その問いにデールはやり切れなさそうに頭を振った。その表情に疲れが滲む。
デールは眉間にしわを刻んだまま口を開く。
「彼はウォーカーを病人だと認識している。病気は治るから彼らは人間であって殺すべき対象じゃない、と言っていた。彼はウォーカーを殺すのは人殺しだと考えて嫌がってるんだ。」
「冗談だろ……。まだメディアが生きてた頃にウォーカーのことを報道してなかったのか?」
「もちろんテレビでも新聞でも報道してた。ウォーカーが人を襲う映像だって流れていたよ。インターネット上でも情報が飛び交っていたそうだ。ハーシェルは情報や映像を見た上でウォーカーを人間だと思っている。説得してみたが聞き入れようとしなかった。」
それを聞き、リックは思わず頭を抱えた。
ウォーカーを人間だと考えているなら敷地内に爆弾を抱えているという自覚がない。だから納屋は施錠されているだけで周囲を柵で囲ってもいなかったのだ。それがどれほど危険なのかハーシェルは理解できていない。
それだけでなく、危険性を指摘しても取り合ってもらえない可能性が高い。納屋自体を強化するか、柵で囲うなどの対策を講じなければ遅かれ早かれウォーカーが納屋から出てきて大変なことになるだろう。
必死に対策を考えるリックはデールの次の言葉により焦りを増すことになる。
「問題を複雑にしているのは納屋の中にハーシェルの家族がいることだ。」
衝撃的な話にリックは目を見開いた。
「ハーシェルの、家族?……転化していたのか。」
デールは「そうらしい」と頷く。
「彼の妻と義理の息子だと言っていた。他にもたくさんのウォーカーがいるのをグレンが見ている。ハーシェルは近隣のウォーカーを保護しているのかもしれないな。……俺たちには信じられないような話だ。」
溜め息混じりに話したデールは黙り込んだ。この話をするだけでも気が重くて疲れたのだろう。
リックはテーブルに視線を落として自分がどうすべきなのかを考える。
真っ先に浮かぶのはハーシェルに考え方を変えてもらって納屋のウォーカーを始末する方向に持っていくことだ。ただ、デールの話を聞く限りではハーシェルの考え方を変えるのは非常に難しい。始末が無理ならば納屋の強化や柵の設置などの対策だけでも許可してもらう必要がある。
しかし、それさえも聞き入れてもらえなければ農場に留まるのは危険と隣り合わせということになる。
(農場を出ていくか?いや、それはできない。妊娠中のローリを連れて旅をするのは無理だ)
リックたちの手元にある選択肢は少ない。少ないどころか「農場に残る」という選択肢しか残されていないのだ。
突きつけられた現実の厳しさに吐き気が込み上げるが、リックはそれを堪えて顔を上げた。
「農場を出ていくのは無理だ。俺がハーシェルを説得する。」
そのように宣言するとデールが心配そうな眼差しを寄越した。
「かなり難しいぞ。」
「わかってる。それでも説得するしかない。……デール、みんなには黙っていてくれ。時期が来たら説明する。」
「わかった。本当にすまない、リック。ただでさえ問題が山積みなのに厄介な話を持ち込んでしまったな。俺が説得できればよかったんだが、だめだった。」
肩を落とすデールにリックは微笑みかける。
「いずれは対処しなきゃいけない問題だ。早めに相談してくれてよかった。さあ、行こう。」
リックはデールに外へ出るよう促しながら立ち上がった。
キャンピングカーから降りる体が重い。重量のある何かを背負っているようだ。
視線を前方に向ければ仲間たちが談笑している姿が目に映った。その楽しげな笑顔をぼんやりと見つめながら、こう思う。
(納屋の秘密を知れば、あの笑顔は崩れる)
そのように考えただけで治まりかけた吐き気が悪化した。それでもリックはハーシェルと話をするために彼の家に足を向ける。
家に入ると居間には誰もいなかった。ダイニングルームを覗いても人の気配はなく、外を探すべきか思案しながら足を踏み入れたキッチンでハーシェルの姿を見つけた。仕事の後だったのか、彼は水を飲んでいるところだった。
「ハーシェル、話したいことがある。」
リックが呼びかけるとハーシェルは空になったコップをシンクに置いて振り向いた。
無表情な農場の主にリックは緊張しながら話を切り出す。
「デールから納屋のことを聞いた。彼以外に知っているのはグレンだけだ。他のみんなには伏せてある。」
リックがそのように前置きをするとハーシェルは微かに苦笑するだけで驚いた様子を見せなかった。デールが知った時点でリックに知られるのは時間の問題だと思っていたのかもしれない。
ハーシェルはすぐに苦笑を引っ込めると何の感情も見せずに問いかけてくる。
「納屋の秘密を知ったことを報告しに来たわけではないんだろう?本題は何だ?」
「納屋のウォーカーを放置すれば危険だ。始末するか、それが無理なら納屋の壁や扉を強化したり周りに柵を設置すべきだと思う。」
リックは遠回しなことは言わずにハッキリと告げた。それに対してハーシェルは表情を動かすことなく答える。
「その必要はない。彼らは病を患っているだけの人間だ。現状で何の問題もない。」
「それは違う。人間は死んだら絶対に蘇らない。一度死んだ人間が蘇ったら、それはもう人間じゃない。彼らはウォーカーという怪物なんだ。」
ハーシェルは「怪物」という言葉に険しい顔をする。そして「怪物じゃない」と声を荒らげた。
リックはハーシェルの怒りを感じて自分が彼を傷つけたことを悟った。もっと言葉を選ぶべきだったが、後悔しても遅い。
リックは気持ちを落ち着けるために息を吐いてからハーシェルの説得を再開する。
「あなたの家族が納屋の中にいることも知っている。家族が転化した現実を受け入れるのは簡単じゃないが……納屋に閉じ込めておくべきじゃない。きちんと埋葬してあげるのが亡くなった家族のためじゃないか?それに生きている人間のためにも埋葬は必要だ。」
リックはハーシェルが家族の死を受け入れられずに目を背けているように思えた。だから彼は「ウォーカーは病人であり人間だ」と信じたいのだろう。その気持ちを責めることはできなかった。大切な人が転化した姿を見て大きなショックを受けるのは当然で、治ると信じたくなるのは無理もない。信心深いハーシェルは神の慈悲に縋りたいのだ。
しかし、神の慈悲が施されることはない。奇跡は起きない。死んだ者が蘇ることは有り得ず、もし蘇ったならそれは人間ではなく怪物だ。その事実を受け入れて家族を埋葬しなければ、ハーシェルも彼の娘たちも永遠に家族の幻に囚われ続けることになる。
そして最悪の展開は納屋の現状を放置したためにウォーカーが中から出てきてしまうことだ。そうなればハーシェルは娘二人と親しい人たち全員を失うことになるかもしれない。それは絶対に避けなければならなかった。
「ハーシェル、これは放置してはいけない問題だ。埋葬するのが嫌なら納屋を強化するか柵を設置させてくれ。今のままだとあなたたちが危険なんだ。頼む。」
リックは必死に訴えたがハーシェルは首を横に振るばかり。それだけでなくリックを拒絶するようにその場から立ち去ろうとする。
「ハーシェル、待ってくれ。」
リックが呼び止めるとハーシェルはキッチンの出入り口で立ち止まり、こちらに顔を向けた。その表情は険しいままだ。
「最初に言った通り、カールの傷が良くなったら出ていってくれ。私の話はそれだけだ。」
ハーシェルはそれだけを言い残して今度こそ立ち去った。一人残されたリックはそれ以上引き止めることもできずに立ち尽くす。
納屋の話を持ち出せば「出ていけ」と言われるのは覚悟していた。猶予期間を与えてくれるだけ優しい方なのだ。
リックは農場を出ていかなければならなくても納屋の問題を解決すべきだと考えている。自分たちが出ていった後にハーシェルたちの身に悲劇が起きるのは嫌だった。彼らはカールの命の恩人であり、短期間であっても同じ敷地内で暮らしている仲なのだから。
(明日、もう一度話をしよう。根気強くいくしかないんだ)
簡単に説得できるとは始めから思っていない。とにかく根気強く説得し続けるしかない。
リックは気持ちを切り替えるために頭を軽く振ってからキッチンを後にした。
デールに納屋の秘密を打ち明けられた日から、リックは毎日ハーシェルの説得を試みた。言葉を尽くして説得しているもののハーシェルの反応は全く変わらない。
カールの傷の状態は日ごとに良くなっているので農場を出ていかなければならない日は遠くないだろう。残された時間は少ない。リックは焦りを抑えつけながら日々を過ごしていた。
そんなある日、朝食の最中にグレンが「みんなに話したいことがある」と言って立ち上がった。その思い詰めた表情にリックは嫌な予感がして、思わずデールと顔を見合わせた。
グレンは仲間たちの視線が自分に集中すると居心地が悪そうに体を揺すったが、表情を引き締めて話し始める。
「納屋にウォーカーがいる。それも一体や二体じゃない。ハーシェルは納屋にウォーカーを何体も隠してるんだ。」
衝撃的な報告を聞いて、リックとデール以外の全員が凍りついた。
少しの沈黙の後にシェーンが立ち上がって歩き出そうとしたのでリックも慌てて立ち上がり、彼の進路を塞ぐ。進路を塞がれたシェーンが険しい表情でリックを睨んだ。
「退けよ、リック。納屋のウォーカーを始末する。」
低く吐かれた声に怒り以外の感情はなかった。
リックは「厄介なことになった」と溜め息を吐きたい気持ちを堪えてシェーンと向き合う。
「今はだめだ。ハーシェルの許可を得る必要がある。」
リックは努めて冷静にシェーンの意見を退ける。それを受けてシェーンが目を剥いた。
「そんなことを言ってる場合じゃないだろ!俺たちはウォーカーが近くにいることを知らずに過ごしてきたんだぞ!それがどれだけ危険なことかわからないのか⁉」
「それはわかってる。わかってるが、この農場はハーシェルのものだ。俺たちが好き勝手なことをしたらいけない。……それに、あの納屋にはハーシェルの家族がいる。彼の家族に手を出したら彼は俺たちをどう思う?よく考えろ。」
「納屋にハーシェルの家族がいる」という言葉にシェーンが目を瞠った。リックが納屋の秘密を知っていたのだと察したからだ。
シェーンの責めるような眼差しから逃れるように他の仲間たちに視線を巡らせれば、皆も驚いた顔をしていた。その一部の者たちに自分への不信の色が見えたことにリックは胸が苦しくなった。
再びシェーンに視線を戻すと怒りに燃えた目に射抜かれる。
「納屋の中にハーシェルの家族がいるから何だ?転化しちまったら生き物を見境なく食おうとする怪物だ。始末するしかない。」
リックはシェーンが考えを変えるつもりが少しもないことに愕然とし、そしてハーシェルの許可なく動くのは厳禁なのだと理解しないことに焦れったさを感じた。
自分たちは居候の身だ。家主の怒りを買えば即座に追い出される。それを回避するために必死になっているのに、全てを台無しにしようとするシェーンが腹立たしい。
(どうして理解してくれない!?今までならシェーンは……!)
リックは胸の奥から不快な何かが這い出てくるような気分になった。
複雑に絡み合った負の感情を抑えつけようとしても反発は強く、そのうちに蓋を押し退けて一気に溢れ出てしまいそうな気がする。溢れ出た負の感情は全身を毒して自身を「リックではない別の誰か」に変えてしまうかもしれない。それは恐ろしくもあったが、同時に「苦しみから解放されるのではないか?」という魅力的なことのようにも思えた。
リックがシェーンに恨みさえ込めた言葉を吐き出そうとした時、視界をニーガンの背中が埋めた。ニーガンがリックを背に庇うようにしてシェーンとの間に割って入ったのだ。
「シェーン、冷静になれ。お前は農場を追い出されたいのか?」
落ち着いた様子でシェーンを諭そうとするニーガンの声がリックの頭を冷やした。
自分まで感情的になってはいけない、とリックは息を吐き出してからニーガンの腕に触れる。そして、こちらに顔を向けた彼に微笑みかけた。
「ニーガン、ありがとう。俺が話をするから大丈夫だ。」
リックの言葉にニーガンは無言で頷いて一歩後ろに下がった。
リックは再びシェーンと向かい合うと正面から彼の視線を受け止めた。
「納屋のことを黙っていたことは謝る。すまなかった。だが、それはみんながパニックになってハーシェルの許可なく納屋のウォーカーを処理してしまうのが怖かったからだ。そんなことをすれば俺たちはすぐに追い出される。勝手な行動をハーシェルは許さない。」
「あの男に現実を理解させてやればいいだろ。」
吐き捨てるように言ったシェーンの言葉にリックは小さく頷いた。
「確かにハーシェルは現実を理解する必要があるが、強引なやり方はしたくない。」
リックは固唾を飲んでこちらを見つめる仲間たち一人ひとりに視線を向ける。
「大切な人を失った悲しみから立ち直るのは簡単じゃない。ハーシェルはまだ立ち直れていないんだと思う。だから俺は根気強く説得を続けたい。頼むから、時間をくれ。」
最後の一言に悲壮感が滲むのはどうしようもなかった。
ウォーカーが近くにいる状況で生活しなければならない不安は消しようがない。だからといって農場を出ていく勇気もない。閉塞感に苛まれて「現状を打開するために何か行動したい」と望む気持ちは痛いくらいにわかる。
しかし、ハーシェルの許可を得ずに今すぐ納屋の中にいるウォーカーを始末するのは愚行だ。そんなことをすればハーシェルとその家族の心を深く傷つけ、グループは農場にいられなくなる。それは絶対に許されない。そうならないためにもハーシェルを説得し、彼が納得した上で対処すべきなのだ。
重苦しい沈黙が続く中でカールが「父さんに賛成」と声を上げた。カールは仲間たちを見回しながら訴える。
「僕はこの農場が好きだし、ハーシェルたちも好きだよ。だから農場にいたい。みんなもでしょ?それならハーシェルたちを怒らせたり悲しませるのはだめだよ。」
カールは自分の考えを述べるとこちらを見て微笑んだ。その微笑みに心が救われる。
カールに続いてデールも「説得を続けるべきだ」とリックの意見を支持してくれた。
「農場を出ていく覚悟があるなら納屋のウォーカーを始末すればいい。だが、違うだろ?ここを出て外に戻る勇気はない。少なくとも俺はそうだ。それに、相手への敬意を忘れた行為はあってはならない。納屋のことはリックを信じて任せよう。」
カールとデールの援護のおかげでシェーン以外の全員が頷いた。それでも不安げな表情を覗かせているため、何かが引き金になって強硬手段を取る可能性は残っている。注意しておくべきだとリックは気を引き締めた。
「みんな、ありがとう。納屋のことはハーシェルに許可を貰ってから対応しよう。それまでは交代で納屋の見張りをするということで頼む。」
それに対して異論は出なかった。とりあえず方針が決まったのでそれぞれに朝食を再開するが、和やかさは吹き飛んで重苦しさが漂う。
リックはシェーンに視線を投げかけてみた。眉間にしわを寄せて皿を見つめる彼は明らかに怒りを抱いている。この決定が不満なのだ。
早くハーシェルを説得しないと大変なことになる。そんな風に思ってしまうのはシェーンが今にも爆発しそうな爆弾を飲み込んでいるように見えるからだ。
リックは溜め息を押し殺しながら食べかけのスクランブルエッグを口の中に押し込む。ついさっきまで美味しいと感じたそれは何の味もしなかった。
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自分のテントの中で休憩していたニーガンは目覚し時計を見て「そろそろ時間だな」とテントを出た。
ゆっくりと大地を踏みしめるように歩きながら向かったのは納屋の近くに停まっているトラクターだ。そのトラクターにもたれながらTドッグが納屋を見張っている。近くまで行くとこちらに気づいたTドッグが振り向いた。
「Tドッグ、そろそろ交代の時間だ。」
「もうそんな時間か。今のところ異常はなし。じゃあ、後はよろしく。」
Tドッグは上半身を伸ばしながらハーシェルの家に向かって歩き出した。家の前に仲間たちの姿が見えるので雑談でもしに行くのだろう。ニーガンはその姿を見送ってから視線を納屋へ向ける。
農場での穏やかな生活は納屋の秘密の暴露と共に終焉を迎えた。グレンが納屋にウォーカーがいることを打ち明けた日からグループ全体がピリピリし始め、納屋の近くには見張りが立つようになった。見張りに立つようになってから気づいたのが納屋から微かに唸り声が聞こえてくること。忌まわしい存在が隣人であることを嫌でも思い知らされた。
リックによるハーシェルの説得は今のところ難航している。リックは毎日ハーシェルと話をしており、デールも時々同行して説得を試みているようだが効果はない。
今日もリックは「ハーシェルと話をしてくる」と言ってハーシェルの家に向かったのだが、その顔に疲れが滲んでいたことが気掛かりだ。たまには他の人間に任せるように言ってやりたいが、ハーシェルはリックとデール以外には警戒心を持っているように見える。そうなると彼を説得できるのはその二人だけだ。
ニーガンは納屋の見張り以外にできることがないか考えつつ、何気なく視線を他へ向けてみた。その視線の先ではシェーンが銃を詰めたバッグを肩に掛け、ハーシェルの家に向かって突き進む姿があった。その張り詰めた表情に嫌な予感がする。
ニーガンがシェーンの後を追いかけると、彼は家の前にいる仲間たちに銃を渡そうとしていた。近づけば会話内容が耳に入ってくる。
「納屋の問題をこのままにしておけない。本当はそう思ってるんだろ?行動に移すべきだ。」
シェーンは自身の考えを主張しながら仲間に銃を渡していく。Tドッグは戸惑った表情をしながらも受け取り、グレンは少し迷った後に銃を手に取った。アンドレアは銃を受け取るために自分から手を差し出した。
シェーンは三人に銃を渡すとローリに顔を向ける。シェーンを見るローリの顔には怒りがあった。
「リックの決定を勝手に変えないで。彼はハーシェルを説得するまで待ってほしいと頼んだはずよ。」
ローリの言葉にシェーンの顔が更に険しくなった。シェーンはローリを睨み返しながら口を開く。
「説得が上手くいってないのは明らかだ。あいつのやり方じゃ誰も守れない。納屋のウォーカーを始末する。」
シェーンの宣言に今度はマギーが噛み付く。
「ちょっと待って。こんなことをしたら父さんは今夜にでもあなたたちを追い出す。それでいいの?」
「現実を理解すればハーシェルも俺たちを残す気になるさ。」
その答えにマギーが反論しようとしたが、シェーンは彼女を無視して歩き出した。その後ろに銃を手にした三人が続き、他の仲間たちが制止を訴えながら追いかける。
不味い展開だ、とニーガンは大股で歩いてシェーンに追いつくと隣に並んだ。
「シェーン、ウォーカーを排除したい気持ちは俺も同じだが、このやり方は最悪だぞ。お前は自分がリックの努力を叩き潰そうとしてるってわかってるのか?」
ニーガンが声をかけてもシェーンはこちらを少しも見ない。前方にある納屋から頑なに目を離そうとしなかった。これは拒絶の意思を示している証拠だとニーガンにも理解できたが、それでも彼を止めなければならない。
ニーガンはシェーンの横顔に向かって説得を続ける。
「勝手に納屋のウォーカーを始末したら今日にでも追い出される。旅の準備ができてない状態で放り出されたらどうなると思う?俺たちの生存率はかなり下がるぞ。お前はその責任を取れるのか?」
ここまで言ってもシェーンは一言も返事をしなかった。焦れたニーガンは「何とか言えよ」とシェーンの肩を掴む。
次の瞬間、ニーガンの手は振り払われて額に硬いものが触れる感触がした。それはシェーンが持っている拳銃だった。
ニーガンとシェーンは足を止めて睨み合う。その周囲で仲間たちが悲鳴を上げた。
シェーンはニーガンの額に拳銃を突きつけたまま警告する。
「ケガをしたくなかったら俺の邪魔をするな。」
その怒りと殺意の滲む声にニーガンは薄く微笑む。
「降伏します、とでも言えば満足か?武器を手にしてない無抵抗の仲間を撃ち殺したらお前は追放だぞ。お前にその度胸があるとは思えないね。」
少しも怯えを見せないニーガンにシェーンが忌々しげに舌打ちする。
「お前は本当に鬱陶しい。お前みたいな奴がリックの周りをチョロチョロするのは目障りだ。……いいから大人しく見てろ。」
シェーンは拳銃を下ろすと納屋の方に走っていった。そのシェーンを追いかけて銃を持った三人がニーガンの横を走り抜けていく。
銃を持った四人が相手ではニーガンだけで止めるのは無理だ。この場にリックがいないことが悔やまれる。
ニーガンは青ざめるローリに顔を向けて「リックはどこだ?」と問いかけたが、彼女は首を横に振った。
「私もリックを捜していたところなの。」
その答えにニーガンは微かに眉を寄せる。リックはどこに行ってしまったのだろうか?
その時、騒ぎを聞き付けてベスとパトリシアがやって来た。ニーガンはその二人にリックの行方を尋ねることにした。
「おい、リックがどこへ行ったか知らないか?ハーシェルもいないみたいだが。」
その問いに答えたのはベスだ。
「リックなら父さんとジミーと一緒に出かけるのを見た。父さんに何か頼まれたみたい。」
その答えにニーガンが首を傾げたのと同時に硬いもの同士がぶつかる音が響く。音の方へ振り返るとシェーンが近くに置いてあったピッケルで納屋を封じる鍵を殴りつけていた。デールやローリがシェーンに向かって思い止まるように説得しているが、彼は全く耳を貸さずに納屋を解放しようとしている。
ニーガンが危険覚悟でシェーンを拘束しようと考え始めたところにリックの「何をしてるんだ⁉」という鋭い声が響いた。
リックの声に反応してそちらに顔を向けた全員が驚きに目を見開く。なぜなら姿を見せたのがリックとハーシェル、そしてジミーの三人だけではなく二体の男女のウォーカーも一緒だったからだ。ウォーカーはリックとハーシェルがそれぞれ手にしている動物の捕獲用器具で拘束されただけで息の根は止まっていない。飢えを主張するように呻く怪物に誰もが釘付けになっている。
ニーガンは農場に戻ってきた彼らを見て、リックがハーシェルから頼まれた内容を正確に理解した。グループが農場に残るための条件としてリックはハーシェルの手伝い──「病人」の保護を頼まれたのだ。今まではオーティスと三人で行っていたのだろうが、主戦力となるオーティスが死んでしまったので代わりの人間が必要になり、それに適しているのがリックだったのだろう。リックは不本意ながらも条件を飲んだ。それは全て仲間たちを守るため。
しかし、その真意を汲み取ることができる人間が何人いるのだろうか?仲間の一部がリックに向ける眼差しには非難の色が滲んでいる。それが特に強いのがシェーンだ。
「何やってんだ!ウォーカーを農場に連れてくるなんて頭がイカれちまったのか!?」
怒りを爆発させたシェーンは納屋から離れてリックたちに近づいた。リックは暴れようとするウォーカーに苦労しながらもシェーンを睨む。
「このことは後で説明する。それより、この騒ぎは何だ?納屋の件は俺に任せることになったはずだ。」
「これ以上待ってられない。納屋のウォーカーを始末する。」
「シェーン、それはハーシェルが納得した上で行うべきだと言っただろう?冷静になってくれ。」
リックの説得をシェーンは嘲笑った。
「冷静になるのはお前の方だ、リック。ウォーカーは生きた人間を食う。俺たちは奴らの餌なんだ。そんな怪物と同じ敷地内で暮らさなきゃならない状況を放置するのは間違ってる。」
シェーンは視線をリックからハーシェルに移した。その目に宿る怒りの炎は簡単には消えそうにない。
「ハーシェル、教えてくれよ。人間は胸や腹を撃たれても歩けるのか?」
その言葉と同時にシェーンはハーシェルが拘束している女のウォーカーに向けて拳銃を構えた。リックが必死に「やめろ!」と叫ぶ中で銃声が二発鳴り響き、ウォーカーの胸と腹から血飛沫が飛ぶ。
シェーンが撃ったことによってできた傷は人間であれば立っていることができないほどのものだが、痛覚のないウォーカーには何の影響もない。新鮮な肉を求めて両手を伸ばし続ける怪物の姿を凝視するハーシェルは言葉を失っている。
シェーンは器具を握って立ち尽くすハーシェルを見遣りながら拳銃を構えたままだ。
「どうやら撃たれても平気みたいだな。これが人間だって言えるのか?」
非情に現実を突きつけるシェーンに向かってリックが「もう止せ!」と悲痛な声を上げるが、その声をシェーンは無視して引き金に指を掛けた。
「いいか、こいつらは人間じゃない!ウォーカーだ!生きた人間を食い殺す怪物なんだ!」
シェーンは怒鳴り声と共に女のウォーカーの額を一発で撃ち抜き、踵を返して納屋の方に戻っていった。そして納屋を封じる鍵を再び壊そうとする。
リックはハーシェルにウォーカーを拘束する器具を渡そうとするが、ハーシェルは呆然と座り込んでしまって動かない。リックが繰り返し名前を呼んでも反応しなかった。ショックが大きすぎたのだ。
ニーガンは携帯しているナイフを取り出して男のウォーカーの頭を刺した。強制的に現実を突きつけられてショックを受けているハーシェルの前で行うべきではなかったが、今はシェーンを止めなければならない。ウォーカーが崩れ落ちた瞬間にリックは器具を手放した。
しかし、リックが自由に動けるようになると同時に納屋の鍵も壊されてしまい、封鎖されていた納屋が開放されてしまった。シェーンは納屋から距離を置くと拳銃を構えて叫ぶ。
「これが現実だ!生き延びたかったら戦うべきなんだ!」
納屋の扉を押し開けて飛び出してくる怪物たち。性別も年齢も関係なく、腐りきった両腕を伸ばして向かってくる。
納屋の中に隠されていたウォーカーを最初に撃ったのはシェーンだった。シェーンが放った一発をきっかけにTドッグとグレン、そしてアンドレアがウォーカーに向けて発砲する。鳴り止まない銃声を耳にしながら誰もが立ち尽くすしかなかった。
そのうちにベスが「母さん!」と泣き叫んで駆け出そうとして、それをジミーが後ろから抱きしめて必死に止める。その近くで座り込むハーシェルを抱きしめるマギーも声を殺して泣いていた。四人の放った銃弾のどれかがグリーン親子の大切な人を撃ち抜いたのだ。
全てのウォーカーが地に伏したところで銃声が止む。
歓声はない。労いの声もない。称える声も聞こえてはこない。耳に届くのは悲しみに塗れた泣き声だけだった。
恐れていた悪夢が現実になってしまった。そのことにリックは軽い目眩を覚えた。
目眩によって歪む視界を治すために目を閉じて再び開ければ、視界はどうにか正常に戻る。正常に戻った視界の中にシェーンがいた。その顔を見た途端に怒りが沸騰する。
リックはこちらに歩いてくるシェーンに自らも向かっていって顔を突き合わせた。
「取り返しがつかないことをしてくれたな!」
リックが怒鳴ればシェーンは目を釣り上げて反論する。
「取り返しがつかないだと⁉むしろ感謝してほしいくらいだ!現実から目を逸らすリーダーの代わりに必要なことをしたんだからな!」
「現実が見えてないのはお前の方だ、シェーン!」
ヒートアップしそうな二人の怒鳴り合いを止めたのはハーシェルの「もうやめろ!」という怒声だった。
リックがハーシェルの方に顔を向けると、彼は涙に濡れた目をこちらに向けていた。その顔に浮かぶ怒りに心臓が潰れそうな心地がする。
ハーシェルはマギーの手を借りて立ち上がり、近くで泣き崩れているベスを助け起こした。そしてシェーンを睨みつける。
「……出ていけ。私の農場から、出ていけ。本気だ。」
それだけを告げてハーシェルは娘たちと共に家の方へ歩き出した。その後ろをパトリシアとジミーが心配そうに追いかける。
リックはハーシェルたちを見つめながら握りしめた拳に力を入れた。込み上げる悔しさと絶望をやり過ごすにはそれしかなかった。
最悪の形で納屋のウォーカーを始末することになったため、ハーシェルはグループを許さないだろう。先程の彼の言葉から考えればカールの傷が良くなるのを待たずに追い出される可能性は高い。準備が何もできていない状態で旅に出ることになればグループ全体の負担は大きく、特にローリにとっては厳しい状況だ。
そのことも考えなければならないが、優先すべきなのはハーシェルの家族を埋葬すること。傷心のグリーン親子のためにそれだけは必ずしてやらなければならない。カールの命を救い、自分たちを受け入れてくれた彼らへの罪滅ぼしをしなければ農場を離れることはできなかった。
リックは仲間たちの方へ振り返りながら口を開く。
「起きてしまったことは変えられない。俺たちがハーシェルたちを傷つけたことも。だから彼らの家族を埋葬して葬儀を行えるようにしよう。」
リックの発言にアンドレアが不服そうに眉を寄せた。
「ウォーカーの始末は必要なことだったし、ハーシェルもウォーカーの危険性を理解するはずよ。私たちは間違ってない。」
アンドレアは自分たちの行動を否定されて気分を害したようだ。Tドッグも彼女に同意するように頷いている。
リックはアンドレアに何がいけなかったのか説明しようとしたが、それよりも先にグレンが「いや、間違いだ」と声を絞り出した。
グレンは苦悩に顔を歪めながらアンドレアに訴えかける。
「ウォーカーを始末したことは間違いじゃない。でも、ハーシェルたちを傷つけていい理由にはならない。俺たちはハーシェルが理解して納得するまで待つべきだったんだ。」
ウォーカーの脅威を恐れていたグレンは自分たちの行動が他者の心を深く傷つけたことに気づき、強く後悔していた。今にも子どものように泣き出しそうな顔をする青年は更に言葉を続ける。
「ハーシェルが現実を受け入れて、納屋のウォーカーを処理することに同意してからやるべきだった。それを待つくらいの時間はあったはずだ。俺たちは家族を失う辛さを知ってるのに……それを無視して身勝手なことをした。今は後悔しかないよ。」
グレンは目元を拭ってからグリーン親子を追いかけるように家に向かって歩いていった。その後ろ姿を見送る者たちに言葉はない。
しばらくの沈黙の後、遠ざかったグレンの姿を見つめながらニーガンが仲間たちに向けて問いかける。
「勝手に納屋のウォーカーを始末すれば追い出されるのはわかりきったことだ。それでもやったってことは農場を出ていく覚悟があったのか?──それとも、ハーシェルたちを殺して農場を乗っ取るつもりだったのか?」
ニーガンの問いかけに銃を手にしている三人の顔が強張った。
シェーンたちはそこまで考えて行動に移したわけではない。目の前にある危険を排除したかっただけなのだろう。だが、彼らの取った行動はそういう意味にもなり得るのだ。
リックは仲間一人ひとりの顔を見遣りながら告げる。
「これ以上は何も言わない。必要なのは二人の遺体を埋める穴を掘ることだ。あの木の下にしよう。」
リックはそう言って納屋から少し離れた場所に生える木を指差した。そこからは農場全体が見えるので亡くなった二人も喜ぶだろう。
「他のウォーカーは葬儀が済んでから燃やそう。それでいいな?俺はハーシェルに説明してくるから先に作業を始めてくれ。任せたぞ。」
リックはそう言ってニーガンと目を合わせて軽く頷き合う。「みんなのことを頼む」という意味で頷いたのを彼は正確に理解してくれたようだ。
ニーガンと視線だけでのやり取りを交わしたリックはハーシェルの家に向けて歩き出す。
考えなければならないことが山積みで、今後のことを思うと胃が痛い。旅に出るには物資が足りないのだが、グループに残された時間は少ないだろう。短時間でできる限りのことをしなければならない。
リックはハーシェルの家に到着するまでの間に何度も溜め息を吐いた。どれだけ溜め息を吐いても憂鬱さは少しも解消されなかった。
納屋前での騒動が嘘のように葬儀は静かに執り行われた。グリーン農場の者たちとリックたちグループの全員が揃い、緊張を孕みながらも厳かに葬儀は進められた。
葬儀に参列したハーシェルは服を着替えて髪を整えていた。身なりを整えて毅然とした様子ではあるが、その顔に浮かぶ憔悴の色は隠せない。
彼の娘たちはというと、マギーは泣きじゃくるベスの体を支えながら涙を必死に堪えていた。悲しみに暮れる父と妹を支えるために気丈に振る舞う姿が痛々しかった。そして特に心配なのが葬儀の前から泣き続けているベスだ。彼女は精神的ダメージが大きいらしく、立ち直るには時間がかかるだろう。
葬儀が終わるとリックは仲間たちと共に納屋にいたウォーカーを焼却する作業に取りかかった。グレンも参加しようとしたが、彼にはマギーの傍にいてもらうことにした。グレンはマギーと親密な関係を築いているようなので彼女を支えることを優先してもらいたかったからだ。
ローリとキャロルは子どもたちと共にハーシェルの家の中のことを手伝ってもらっている。ハーシェルは落ち込んでおり、ベスは憔悴がひどい。その二人を支えるマギーの負担は大きいので他のことにまで手が回らなかった。そのような状態では手助けが必要だと考えたリックが手伝いを申し出ると、ハーシェルもマギーも渋ることなく受け入れてくれた。
仲間たちそれぞれに仕事を任せながらリック自身もウォーカーの焼却の準備を進めているところへキャロルが焦った様子で駆け寄ってくる。
「リック、すぐに来て!ベスが倒れたの!」
それを聞き、リックは車の荷台に乗せるために運んでいたウォーカーを地面に下ろして急いでキャロルに近づいた。キャロルは全力で走ってきたために肩で息をしながらも必死に言葉を紡ぐ。
「急に倒れてぐったりしてるからハーシェルに診てもらおうとしたんだけど姿が見えなくて……彼はここに来てない?」
その問いにリックは厳しい表情で首を横に振った。
ハーシェルとは葬儀の後に手伝いの申し出をした時に会話をしてから顔を合わせていない。作業するリックたちのところには来ていないので家にいるのだと思っていた。
「ここには来てない。出かける姿を誰も見てないのか?」
リックが尋ねるとキャロルは「そうなの」と頷いた。
出かける姿を誰も見ていないということは、ハーシェルは一人になりたくて誰にも気づかれないように農場を出たのだろう。そうなると戻ってくるのがいつになるかわからず、最悪なのは戻ってくる気がない場合だ。このまま帰りを待っていてはいけない。
リックは作業中の仲間たちを振り返って指示を出す。
「ベスが倒れたのにハーシェルがいなくなった。状況を確認してくるからシェーンたちは作業を続けてくれ。ニーガンは俺と一緒に来てほしい。」
リックの指示にシェーン以外の者たちが頷いた。シェーンは少し不満げにこちらを見ているが、リックはその視線を振り切ってキャロルとニーガンを連れて歩き出した。
リックは家に向かって進みながらキャロルにベスの状態を尋ねる。
「ベスはいつから体調が悪かったんだ?」
「ひどく落ち込んでいたけど体調が悪いようには見えなかった。マギーや私たちと一緒に片付けをしている最中に急に意識を失ったの。」
「精神的ショックのせいかもしれないな。ベスも心配だが、マギーは大丈夫か?」
「動揺してる。こんな時だからこそ父親が必要なのに……」
キャロルが歯がゆそうに呟いた言葉にリックは同意して頷いた。
ハーシェル自身が動揺していても、悲しみから立ち直れていなくても、彼の娘たちには父親の存在が必要だ。愛する家族を失った悲しみが癒えていない今だからこそ家族で支え合う必要がある。それなのにハーシェルはどこへ行ってしまったのだろうか?
リックは家に到着するとベスの寝室に直行した。ベッドに寝かされたベスは青白い顔を晒してぐったりしており、その傍らには不安そうに妹の手を握るマギーがいた。そのマギーを見守っていたグレンがリックたちの来訪に気づいて近づいてくる。
「リック、ハーシェルがどこにもいないんだ。どうすればいい?」
不安げなグレンを宥めるためにリックは彼の肩に手を置いた。
「落ち着け。まずは手がかりを探そう。マギー、ハーシェルの寝室に入ってもいいか?」
リックがハーシェルの寝室に入る許可を求めるとマギー自ら部屋へ案内してくれたので、リックたちは彼女を先頭にハーシェルの寝室に足を踏み入れた。
ハーシェルの部屋には婦人物の服や帽子などが至るところに置かれていた。マギーやベスが着ているものとは雰囲気が違うことから、それら全てが彼の亡くなった妻のものなのだと予想できる。
リックはベッドの上に置かれているワンピースを手に取って眺めてみた。きっとハーシェルも同じように眺めて在りし日の妻の姿を思い出していたのだろう。幸せな日々の思い出に愛おしさを感じつつも、それらは悲しみと喪失感をもたらしたに違いない。それが原因でハーシェルは農場を一人で飛び出したのだ。
リックがワンピースを静かにベッドに戻した時、ニーガンが「昔を思い出したのかもな」と呟いた。
「いろんなものを引っ張り出してきてるから、思い出に浸りたくなっても不思議じゃない。」
ニーガンはそう言ってキャビネットの上にあったウィスキー用のヒップフラスコを手に取り、こちらに放り投げて寄越した。リックはどうにか落とさずに受け取ってそれを眺める。
随分と使い込まれた様子のヒップフラスコにリックは首を傾げた。ハーシェルが酒を飲む姿を一度も見ていないので、彼とそれが結び付かなかったからだ。リックはマギーにヒップフラスコを見せながら尋ねる。
「ハーシェルは酒を飲むのか?飲んでいるところを一度も見たことがない。」
「それはおじいちゃんから父さんに譲られたものなの。昔は使ってたみたいだけど私が生まれてから飲まなくなった。」
リックはマギーから返ってきた答えを受けて、もう一度視線をヒップフラスコに向ける。
思い出の品に囲まれて感傷的になれば昔のように酒を煽りたくなるかもしれない。絶対に酒を飲みに行ったと断言はできないが、可能性は十分にある。
リックはマギーにヒップフラスコを渡しながら「町にバーはあるか?」と尋ねた。
「ある。ハットリンっていう名前のバーに父さんは通ってたみたい。」
それを聞いてグレンが「場所を知ってる」と一歩前に進み出た。
「案内できるよ。ハーシェルを捜しに行くなら俺も行かせてほしい。」
「それじゃあ頼む。一緒に来てくれ。」
リックとグレンのやり取りを聞いたマギーが「待って」と不安そうな顔でグレンの腕を掴む。どうやらグレンが町に行くことを心配しているようだ。
「グレン、薬局の時みたいなことがあったら……」
「心配いらない。俺もリックもウォーカーの対処には慣れてるから。」
二人のやり取りから推測すると、グレンとマギーが二人だけで調達に行った時にウォーカー絡みのアクシデントがあったのだと考えられる。それが理由でマギーはグレンが町に行くことを不安に思っているのだ。大切な人を失いたくないと今まで以上に強く思っているのだろう。
リックはマギーに近づいて彼女に声をかける。
「マギー、俺がハーシェルもグレンも必ず連れ帰る。だからグレンも一緒に行かせてくれ。彼の力が必要なんだ。」
真摯に頼むとマギーは少し迷う素振りを見せながらも首を縦に振ってくれた。
リックはマギーに「ありがとう」と感謝してからグレンを見る。
「車を準備してくるから家の前で待っててくれ。」
「わかった。俺も準備しておくよ。」
リックは続けてニーガンに顔を向ける。
「ニーガンはシェーンたちのところに戻って俺たちがハーシェルを捜しに行くことを伝えて、そのまま作業を続けてほしい。」
その指示にニーガンは不満げに唇を尖らせながらも「わかった」と頷いた。拗ねたような表情にリックは思わず苦笑を漏らす。
「そんな顔をしないでくれよ。俺と一緒に来たいと思ってくれてることはわかっているし、その気持ちは嬉しい。」
「わかってて置いてきぼりなんてひどいじゃないか。……なんてな。わかってる、シェーンのことが気になるんだろ?」
ニーガンの指摘にリックは素直に首を縦に振った。
農場に来てからのシェーンは精神的に不安定な状態が続いているが、最近は特に悪化しているように思える。そうでなければ今日のような騒動を起こさないはずだ。
「シェーンが冷静さに欠けるのが心配なんだ。あいつは銃声がウォーカーを引き寄せると理解してる。それなのにあんなことを先導するなんて普通じゃない。だからシェーンの様子を見ていてもらいたい。」
リックが話した理由に同意するようにニーガンは再び頷いた。
ニーガンとも話がついたのでリックは出かける準備を始めることにする。その前にローリと話す必要があるため、彼女と子どもたちがいるキッチンに顔を出した。リックはキッチンで片付けをしているローリを居間に呼び出して向かい合う。
「グレンと二人でハーシェルを捜しに町へ行ってくる。俺たちが戻るまでマギーとベスを頼む。」
リックの話にローリの表情が一瞬にして曇った。
「最近のカールが不安定なのは知ってるでしょ?今日のことで更に不安定になってる。父親が必要なの。あの子の傍にいてあげて。」
「それはわかってる。だが、ハーシェルを連れ戻さないとならない。」
「リック、家族以外の人のために走り回らないで。私たちと一緒にいて。」
ローリは必死だった。納屋の件で農場を出ていかなければならないことが濃厚になり、今後を考えると不安で仕方ないのだろう。だからこそ夫に傍にいてほしいと望む気持ちは理解できる。
しかし、リックはどうしてもハーシェルを連れ戻したかった。
「ローリ、ハーシェルを捜しに行くのは彼らのためだけじゃない。俺たち家族のためでもある。」
リックがそのように告げるとローリは訝しげに眉を寄せた。意味が理解できないのだ。
リックはローリとしっかり目線を合わせながら話を続ける。
「赤ん坊には医者が──ハーシェルが必要だ。だから俺たちのためにも彼を連れて帰る。わかってくれ。」
リックがハーシェルを捜しに行くのはグリーン家とグライムズ家のため。そこまで言えばローリも納得してくれると思いたかった。
ところがローリは眉を寄せたまま黙り込んでしまう。リックが「どうしたものか」と悩んでいると、近くで話を聞いていたニーガンが「提案がある」と話に入ってきた。ニーガンはリックではなくローリに話しかける。
「ローリ、リックが無事に戻ってこられるのかが不安なんだろ?二人だけで行かせるのが心配なら俺も一緒に行ってやる。それでどうだ?」
「おい、ニーガン!」
ニーガンの予想外の提案にリックは慌てた。ニーガンにはシェーンを見ていてほしいのに、これでは意味がない。
咎めるような声を出したリックの口はニーガンの指に塞がれる。ニーガンはこちらに視線を寄越すと「少し黙ってろ」と言ってからローリに視線を戻した。
「俺がリックを守ってやる。リックもグレンもハーシェルも連れて戻ってきてやるさ。その代わり、君は農場から一歩も出るな。それを約束しろ。」
交換条件を提示するニーガンの顔には笑みがなかった。「拒否は許さない」といった表情のニーガンにローリは気圧されたようだったが、やがて深く頷いて了承を示した。
「絶対に農場から出ない。約束する。だからリックをお願い。」
余裕のない顔で懇願するローリに対し、ニーガンは笑みを浮かべて「任せろ」と快諾した。
自分を無視して話が進むことにリックは異を唱えようとしたが、ニーガンに肩を抱かれて強引に玄関に向かうことになってしまった。ニーガンに肩を抱かれたまま家を出て、ポーチの階段を降りたところでようやく解放してもらえた。
リックはニーガンと向かい合うと不満を口にする。
「ニーガン、俺はあんたにシェーンを見ていてほしいんだ。それを理解してくれたんじゃなかったのか?」
「落ち着けよ、相棒。こうするしかなかったんだ。」
ニーガンはわざとらしく眉を下げて両手を上げた。そして苦笑いを浮かべながらリックの意思を無視して同行することに決めた理由を説明し始める。
「ローリはお前を失うことを怖がってる。グレンとマギーが町に行った時に危ない目に遭ったらしいし、そんなところへお前を行かせるのが不安なんだ。人数が少ないのが余計にだめだったんだろうな。」
「それはそうかもしれないが……」
「リック、お前が考えてる以上に彼女は思い詰めてるぞ。お前とグレンだけで町へ行ったらローリはお前を追いかけるために農場を飛び出す。賭けてもいい。」
警告するような口調にリックは押し黙る。ニーガンが本気でそのように考えているのだと伝わってきたからだ。
ニーガンの意見を考え過ぎだと一蹴することはできなかった。ローリがリックを心配して思い詰めているのは確かなことであり、必要だと判断すれば後を追いかけてくるだろう。こうと決めたら即行動に移すのが彼女の長所でもあり短所でもあった。
リックがニーガンの言葉を否定せずにいると、彼は更に言葉を続ける。
「俺がお前たちに同行すればローリの不安はマシになる。一人でお前を追いかけるなんてバカなことはしないだろ。シェーンのことが気にならないと言ったら嘘になるが、納屋の問題を解決して少しはガス抜きになったはずだ。今日は大人しくしてるさ。だから俺も一緒に行く。」
リックはニーガンの意見についてじっくりと考えて、最終的に彼の申し出を受け入れることに決めた。様々なことを考慮するとニーガンもハーシェルの捜索に加わってもらった方が良さそうだ。
リックはニーガンに「よろしく頼む」と同行を受け入れることを伝え、見張りを担当しているデールに事情を説明しに行くよう頼んだ。デールへの説明はニーガンに任せて、リックはシェーンたちへの説明と車を取りに行くことにする。リックはニーガンとハーシェルの家の前で落ち合うことを約束し、それぞれの目的を果たすために別れた。
リックがシェーンたちのところへ戻って事情の説明とハーシェルの捜索に向かうことを伝えると、アンドレアとTドッグはすんなり納得してくれたがシェーンが不満を訴えてきた。シェーンはリックがローリとカールよりも他人を優先することが気に入らないらしい。「ハーシェルだけじゃなく家族のためでもある」と説明しても納得してくれなかった。それにより、リックは自分とシェーンの守り方に対する認識の違いに気づいた。
リックは「家族だけでなく周囲の人々も守ればそれが家族を守ることに繋がる」と考えており、シェーンは「家族そのものを直接守ることを優先すべき」と考えている。この考え方の違いによる差は大きい。だから自分たちは衝突を繰り返すのだと初めて気づいた。この考え方の違いによって生まれる溝を少しずつ埋めていかなければならない。
生まれた溝はどうしたら埋められるのだろうか、とリックは新たな悩みに溜め息を落とした。
出かける支度を終えたリックはニーガンとグレンと合流して車で町へ向かった。
その道中、グレンから「マギーに愛してると言われたが、どうすればいいのかわからない」と相談された。グレンは他人から想いを寄せられた経験がないためにマギーの気持ちを「気の迷い」としか思えないようだ。自分の魅力に自信が持てないのだろう。
リックは客観的に見てマギーのグレンに対する気持ちが本物であることを伝え、彼女を愛しているなら気持ちに応えるべきだと諭した。ニーガンも「リックと同じ意見だ」と援護してくれたので、グレンもマギーの気持ちを信じる気になったように思える。
今の世界で心から愛し合える相手に巡り会うのは奇跡に等しい。その相手を手放せば死ぬまで後悔し続けることになる。だからグレンにはマギーの手を離さないでほしいと心から願う。
グレンの話を聞いている間に車は町に到着した。人気のない町の通りを進んで目的のバーの近くに車を停めて拳銃を構えながら店に近づく。中の様子を探ってからドアを開けると、カウンター席に座って背中をこちらに向けるハーシェルがいた。リックは彼が無事だったことにホッと息を吐く。
リックは店の出入り口付近で立ち止まってハーシェルに呼びかける。
「ハーシェル。」
名前を呼ぶとハーシェルは微かに身じろぎしたが、こちらへ振り返ろうとはしなかった。
「……誰と一緒に来た?」
振り返らないまま問われたことにリックは「グレンとニーガンだ」と答えた。そうするとハーシェルが苦笑するのが気配でわかった。
「マギーに言われて来たのか?」
皮肉めいた口調はグレンに向けられたもの。そのことにグレンが顔に罪悪感を浮かべた。リックは隣に立つグレンに視線を向けながら返事をする。
「いや、自分から行くと言ってくれた。彼はそういう男だ。」
その返事にハーシェルが振り返り、一瞬だけその横顔を晒した。一瞬では感情を読み取ることはできなかった。
リックは遠慮することなくハーシェルの隣に立ち、頑なに目を合わせようとしない彼に帰宅を促す。
「もう十分飲んだだろう?帰ろう。」
「まだだ。」
ハーシェルは素っ気なく答えてグラスに注いだ酒を煽った。
リックは帰宅を拒否する男の説得を開始する。
「ベスが倒れた。あなたと同じで今日のことにショックを受けているから、それが原因だろう。農場に帰って娘の傍にいてやれ。」
ベスのことを聞いてグラスを口に運ぶ手が一瞬止まったものの、ハーシェルは酒を飲むのをやめようとしない。彼は「マギーがいる」と答えて再びグラスの酒に口を付けた。
家族を守るために必死だったハーシェルが我が子が倒れたと聞いても動こうとしない姿を前にしたリックは何を言うべきかわからなくなった。今の彼を見れば今回のことで心に負ったダメージの大きさがわかるというもの。説得するのは簡単ではなかった。それでもリックはハーシェルを連れて帰ることを諦めるわけにはいかない。
リックは必死に言葉を紡ぎ続ける。
「そうだ、マギーはずっとベスの傍にいる。それでもベスには父親が必要なんだ。もちろんマギーにも。だから一緒に帰ろう。」
それに対してハーシェルは首を横に振った。
「ベスに必要なのは母親だ。そうでなければ死を悼む時間。……その時間を私が奪った。今ならわかる。」
その言葉を口にした時、ハーシェルの顔に強い後悔の色が浮かんだ。彼は自分の考えのために娘から母親の死を悼む時間を奪ったことを悔いている。
しかし、ハーシェルはウォーカーを病人だと思って「病気であれば治すことができる」と信じていた。彼は「家族を治すことができる」という希望を持っていたからこそ転化した家族を守ってきたのだ。そのことを責める権利は誰にもない。
リックはハーシェルの顔を横から覗き込みながら言葉を重ねる。
「あなたは治療できるという希望を持っていた。希望を手放せなかったことは誰にも責められない。」
「……希望?」
ハーシェルは独り言のように呟いて顔をこちらに向けた。このバーに来て初めてハーシェルと目が合ったが、その目には絶望が浮かんでいる。
「君がカールを抱いて現れた時は助からないと思ったが、あの子は助かった。奇跡が起きたと思ったよ。だから私の家族にも奇跡が起きると信じた。……だが、そんなものはないと知った。」
ハーシェルの視線がリックから外れて宙を彷徨い、ある一点を見つめながら呟く。
「死んだなんて信じたくなかった。病気だから治るんだと信じていたかった。だが今日のことで思い知らされたよ。私の妻は死んだ。私は妻の死体に餌を与えていたんだ、と。」
絶望に満ちたハーシェルの声は震え、グラスを握る手も震えていた。リックは震えるハーシェルの手に視線を落としながら彼の話に黙って耳を傾ける。
ハーシェルは「私はバカだった」と呟いてから次のように告げる。
「誰にも希望はない。……もう行ってくれ。娘たちを頼む。」
ハーシェルの全てを諦めたような声を耳にしてリックは目を見開く。そして彼に対して怒りを抱いた。
ハーシェルの絶望は理解できる。愛する者を失って絶望し、全てを投げ出してしまいたいと思うのは無理もない。
しかし、彼にはマギーとベスという二人の娘がいて、彼女たちは父親を必要としている。辛く悲しい状況だからこそ家族で支え合うことを求めているのだ。それなのにハーシェルは大切な家族を見捨てようとしている。
怒りを堪えきれなくなったリックはハーシェルを睨みつけた。
「娘たちを見捨てるのか?彼女たちが今、どれほど父親に傍にいてほしいと望んでいるか考えたのか?あなたにとって家族はその程度のものだったのか?」
厳しい言葉にハーシェルの顔が引きつった。微かに怒りを漂わせる彼にリックは「それでいい」と思いながら話し続ける。
「いいか、ハーシェル。この世界に希望があるとは言ってやれない。それでも痛みや悲しみしかないとは思わない。この世界で、俺はニーガンという大切な友を得た。カールは命の美しさに感動した。グレンとマギーは恋をした。失うばかりじゃないはずだ。」
そう言ってからリックは後ろを振り向いて二人の仲間を見る。ニーガンは嬉しそうに頷き、グレンは誇らしげに笑っていた。
失うものが多い世界であってもそればかりではない。手にすることができるものは必ずあるとリックは信じている。
リックが顔をハーシェルの方に戻すと、彼は目を見開いてこちらを見ていた。何かが彼の心に響いたのだ。
「ハーシェルにもう一度立ち上がってほしい」と願いながらリックは語る。
「自ら死ぬことを選ばないなら生きていくしかない。ハーシェル、俺たちは生きていくしかないんだ。そのためには心の支えが必要で、俺やあなたはみんなの心の支えになっている。だから一緒に帰ろう。」
それに対してハーシェルは何も言わなかった。ただ真っ直ぐにリックを見つめていて、その目には先ほどまで存在していた絶望がなかった。彼を覆い尽くしていた絶望は晴れたのだ。
リックはハーシェルから絶望が去ったことを嬉しく思い、口元に笑みを浮かべる。
「マギーとベスがあなたを必要としている。彼女たちのところへ帰ろう。さあ、ハーシェル。」
リックが呼びかけるとハーシェルは瞬きをして、微かに首を縦に振った。彼は確かに頷いてくれた。
ハーシェルは顔を正面に戻すとグラスの中身を一気に飲み干して、空になったグラスをカウンターの上に伏せた。それは酒を飲むことの終了の合図であり、帰宅の決意を知らせるものでもある。
リックはハーシェルが自分たちと共に農場に戻ることを確信してカウンターから離れた。ニーガンとグレンもバーの正面の出入り口に体を向けている。後はハーシェルが椅子から立ち上がるのを待つだけだ。
リックは数歩歩いたところで振り向いてハーシェルを見た。椅子から立ち上がったハーシェルと目が合い、その瞬間に彼は「もう大丈夫だ」と告げるように小さく頷く。それに対してリックが笑みと共に頷き返したところへドアの開く音が響いた。
「──こりゃ驚いた。生きてるぜ。」
聞き慣れない声に出入り口の方を振り返れば、そこには見知らぬ二人の男たちがいた。
厄介なことになる、と心の中で舌打ちをしたニーガンは瞬時に愛想笑いを顔に貼り付けた。
ハーシェルの説得に成功して農場に帰ろうとした時に現れた招かれざる客はデイブとトニーと名乗った。デイブは手ぶらだったが、トニーはライフル銃を持っている。恐らくデイブも拳銃を携帯しているはずだ。
突然現れた二人は断りもなく各々の好む場所に座る。デイブはテーブル席にどっかりと腰を下ろし、トニーはカウンター席を選んだ。男たちが現れた際にニーガンとグレンはリックたちの方に移動したため、男たちが出入り口側の席に座ったことにより退路を塞がれてしまった。
相手の出方を見るためにリックが酒を振る舞って会話を始めたものの、ニーガンは既に彼らが無法者だと見抜いていた。
デイブは笑みを浮かべながらもニーガンたち一人ひとりを舐めるように観察し、巧みな話術でこちらの情報を引き出そうとする油断のできない相手だった。さり気なく腰に下げた拳銃を見せつけて「お前たちをいつでも殺せる」という無言の脅しをかけるところなど悪党以外の何者でもない。トニーは大柄でタフに見えるが、デイブに従っているようなので大した相手ではないだろう。そうであっても油断は禁物。目を離すわけにはいかない。
無法者たちとの会話は時間の浪費だ。早く終わらせて帰りたいところだが、収穫が全くないというわけではなかった。話の流れでフォートべニング基地を目指していると伝えたところ、デイブが「ガッカリさせたくないんだが」と前置きしてから基地の実情を教えてくれた。
「基地に駐在してた兵士が『あそこはゾンビだらけだ』と言ってた。だから行くだけ無駄だぞ。」
もたらされた情報にグレンが戸惑いながらも「間違いないのか?」と尋ねると、デイブは迷うことなく頷く。
「残念だが、この地獄からは抜け出せない。」
その一言には感傷も何も感じられなかった。感情が乾ききった声に、デイブが何かを悟ったか開き直ったのだと察する。歩んできた旅路の中で数え切れないほどの地獄を見たのだろう。それがこの男に新たな境地への道筋を示したのだ。
そして、それは他者に対して害を与えるもの。隠そうとしても隠しきれない悪意を感じ取ったニーガンは密かに拳銃に手を伸ばし始めた。
ニーガンが戦闘の準備を始めようとしていることに気づかない男たちは情報を引き出そうと会話を続けている。リックは核心について話すのを上手く避けているが、グレンとハーシェルがポロポロと情報を漏らしてしまう。そこは元保安官と一般市民の差なので仕方ない。
そのうちに自分たちが農場に滞在していることに男たちが気づいてしまい、いよいよ状況が悪くなってくる。ニーガンはもちろん、リックも警戒心を隠さなくなった。
こちらの警戒心に気づかないはずがないというのにデイブは素知らぬ顔で「その農場は居心地が良さそうだな」と言い放った。
「俺たちには仲間が何人もいるんだが、少々苦しくてね。農場なら働き手が必要だろう?きっと役に立つ。だから俺たちを受け入れてくれないか?」
デイブが友好的なのは口先だけだ。彼の話を素直に信用して農場まで案内すれば無法者の集団が襲いかかってくるのは深く考えなくてもわかる。それをこの場の誰もが理解していながら寒々しい芝居を続けている。
リックはデイブの頼みに首を横に振って「悪いが無理だ」と回答した。それに対してデイブは「友だちになれたと思ったのに」と笑った。
その後もデイブはリックに自分たちを農場に受け入れるよう頼み続けたが、リックは絶対に首を縦に振らない。そのうちにイライラしながら話を聞いていたトニーが「お前らを殺して農場を奪ってやる」と怒り出し、反応したリックが拳銃に手を置いた。
睨み合うリックとトニーを止めたのはデイブだった。
「二人とも落ち着けよ。トニー、すぐに怒るのはお前の悪い癖だぞ。」
デイブは相棒を嗜めるとリックに向けて「悪かったな」と苦笑いを向ける。そして席を立ってカウンターの裏に回った。
「俺たちはどっちも相手のことを知らなさ過ぎる。もっとお互いを知るために飲み直そう。」
デイブがカウンターの中に入ったことにより、リックは正面のデイブと背後のトニーに挟まれてしまった。リックは自分の後方に立つトニーがライフル銃を握りしめたのに気づき、自らも腰に下げた拳銃に手を這わせた。それと同時にニーガンも自分の拳銃に触れる。
リックとニーガンが拳銃に手をかけたことに気づいたデイブがわざとらしく笑みを浮かべた。
「待て待て、落ち着け!俺たちは誰も殺さない。ただ友だちと楽しく酒を飲むだけだ。そうだろ?」
デイブは自分の拳銃をカウンターの上に置いてから酒を探すために屈む。そして酒の入った瓶を持って姿勢を元に戻した。その動きに反応したリックが拳銃に触れた手をピクッと動かしたのを見て、デイブは呆れとも嘲りともつかない笑みを見せた。
「酒を飲むだけさ、リック。楽しくやろう。」
そのセリフが嘘であることは滲み出る殺気が証明している。
デイブはリックを殺すつもりだ。デイブがリックを撃った瞬間にトニーがニーガンを撃ち、グレンとハーシェルから農場の情報を聞き出そうと考えているに違いない。情報を聞き出した後は二人も殺して農場に向かうのだろう。
ニーガンはデイブとトニーの両方を睨みながら先制する隙を窺う。その目の前では相変わらずリックとデイブが駆け引きを続けている。
デイブは「良いことを思いついた」と手を叩いた。
「酒を飲み終わったら農場までドライブしよう。その間にいろんな話をすれば気が変わるさ。どうだ?」
「よく回る舌だな」とニーガンが内心で呆れているとリックが微かに苦笑した。彼も同じ感想を抱いたのかもしれない。
リックは一瞬だけ見せた苦笑いを引っ込めて返事をする。
「悪いが遠慮する。あんたたちとはここでお別れだ。」
素っ気なく拒否を示されたデイブの顔に初めて怒りの感情が宿った。
「ふざけんなよ。」
デイブは怒りと殺気を込めた視線をリックに飛ばしながらカウンターに置いた拳銃に手を伸ばす。その手が拳銃に触れる前にリックの拳銃から放たれた弾丸が無法者の胸に命中した。
ニーガンはデイブが倒れ込むと瞬時に拳銃を握ってトニーに銃口を向ける。トニーは相棒の仇討ちのために己の銃を構えようとしたが、もう遅い。それよりも早くニーガンが発砲してトニーの頭を吹き飛ばした。
トニーの巨体が床に転がると、リックが拳銃をホルスターに収めながら近づいてきた。
「ありがとう、助かった。」
リックは感謝の言葉を口にしながら視線をチラッとトニーの死体に向ける。
「リックなら一人で両方とも片付けられただろうが、一応な。それより、早く帰らないと不味いぞ。薄暗くなってきた。」
ニーガンの言葉にリックは「そうだな」と頷き、帰宅の意思を確かめるようにハーシェルに顔を向ける。ハーシェルは迷う素振りも見せずに深く頷いた。
リックはハーシェルに頷き返すと近くに転がるトニーの死体から拳銃を探り出した。それを見てグレンもカウンターの中で倒れているデイブから拳銃を取り上げる。
ニーガンは二人が拳銃を手に入れたのを見届けてからトニーのライフル銃を拾い、ハーシェルに差し出した。
「使わずに済むのが一番だが、持っておけ。」
ハーシェルはニーガンが差し出したそれを黙って受け取った。
ニーガンはハーシェルにライフル銃を渡すと正面の出入り口のドアを開けようとしたが、車の走行音が聞こえてきたので手を止める。それからすぐにドアの隙間や窓から車のライトの明かりが漏れてきて、「デイブ!トニー!」と呼ぶ野太い声が響いた。それによりやって来たのが先ほど殺した男たちの仲間なのだと知る。
ニーガンは声の大きさを抑えながら「伏せろ!」と仲間たちに指示を飛ばした。ニーガンはドア横の壁に背中を貼り付けて座り、その隣にハーシェルが並んだ。ドアを挟んで反対側の壁には手前からグレン、リックの順で身を屈めている。
デイブとトニーが属しているグループの人間であれば厄介な相手だと証明されたようなもの。関わらない方が賢明なのは誰にでもわかるので全員が息を潜めて外の様子を窺っている。
外からは仲間を捜す男たち数人の声が聞こえてきた。会話内容や足音から推測するとデイブたちがバーに立ち寄る可能性には思い至らないようだ。このままバーの存在に気づかずに立ち去ることを祈るしかない。
ニーガンは「どうして厄介事ばかり飛び込んでくるんだ?」という愚痴と溜め息を腹の底に押し込んだ。
デイブとトニーが死体となって床に転がったのが何十分前のことなのかわからなくなるほどの長時間、ニーガンたちは息を潜めて隠れていた。辺りはとっくに暗闇に包まれている。
ニーガンは移動のできない状態にうんざりしながらも我慢強く身を潜めていた。そんなところへ外にいる男の「ウォーカーが集まってきたから帰ろう」という声が耳に届き、ニーガンは思わず隣のハーシェルと顔を見合わせた。
しかし、続けて聞こえてきた会話内容に雲行きの怪しさを感じる。
「待てよ、バーがある。あいつらはここにいるんじゃないか?中を見たか?」
「いや、見てない。バーを見逃すなんてうっかりしてたな。」
その会話と共に複数の足音がこちらに近づいてきた。このままでは見つかってしまう。
ニーガンが咄嗟に拳銃をドアの方に向けて構えると、リックも同じように拳銃を準備する姿が見えた。
ニーガンとリックが拳銃を構えた直後にドアが開けられようとしたが、ドアのすぐ隣にいたグレンがドアの前に体を滑り込ませて男たちの侵入を阻む。それによりバーの中に何者かがいることに気づいた男たちが騒ぎ出した。ニーガンはその声を耳にしながら「余計なことをしてくれた」と苦い顔をする。
何も知らない相手が中に入ってくれば先制を取れるので、その方がこちらにとっては都合が良かった。グレンの行動は先制攻撃のチャンスを潰して自分たちの首を絞めるものだ。だからといって対人間との戦いに慣れていない青年の咄嗟の行動を責めることはできない。
次はどのように動くべきかを考えていると、外から「争うつもりはない」と呼びかけられた。
「俺たちは仲間を捜してるだけだ。デイブとトニーっていう奴らを知らないか?仲間に何かあったなら教えてくれ。」
その呼びかけに対して答える声はない。今更いない振りをしても無駄だと理解しながらも返事をする気になれなかった。
ニーガンたちが沈黙を貫く間にも外では男たちが「気のせいだったんだ」「ドアを開けるのを邪魔されたのは確かだぞ」と言い合っている。相手が立ち去る気配を少しも見せないことに焦りを感じ始めた頃、リックが動く。
「──俺たちは彼らに脅された。」
リックは外にいる者たちに向けて事実を短く告げた。それに反応した男たちから質問が投げかけられる。
「二人は中にいるのか?無事か?」
その質問にリックが言葉を詰まらせた。
「二人は無事だ」と嘘を吐いたところでそれを偽装できなければ意味がない。そうかといって正直に話しても相手を怒らせるのは確実であり、どちらにしても殺し合いは避けられそうもなかった。
ニーガンの位置からリックが唇をグッと噛む姿が見えた。リックは覚悟を決めるように唇を噛んだ後、窓の方に顔を向ける。
「二人は死んだ。」
緊張を孕んだリックの声に対して「くそ、殺されたのかよ!」という怒りに満ちた声が返ってきた。
しかし、男たちが店の中に押し入ってくる様子はない。何やら話し合いを行っているようだ。
「おい、どうする?この辺りはゾンビが彷徨いてるから長居はできないぞ。死んじまってるなら帰ろう。」
「バカ、仲間を殺されたってのに手ぶらで帰れるわけないだろ。帰ったとして、どうやって説明する気だ?このままにはできない。」
「な、なあ、向こうにゾンビが見える。早く決めないと。」
男たちは今後の行動を決めかねているようだ。そんな彼らにリックは和解を呼びかける。
「聞いてくれ!俺たちはデイブたちに脅された。彼らを殺す以外に選択肢がなかった。ギリギリまで追い込まれて自分の望みとは違うことをした経験はあんたたちにもあるはずだ。だから理解してくれ。俺たちも彼らも本当に運が悪かったんだ。」
容赦のない世界では理不尽な選択肢しか残されていないことが珍しくない。今回のことだけでなく、これまでの旅の中でも経験したことだ。それは今の世界に生きる者であれば避けては通れない。リックはそれを訴えて和解を求めているのだ。
しかし、その訴えは相手にとってお気に召さないものだったらしい。返ってきたのは銃弾の嵐だった。
銃の乱射音と共に割れた窓ガラスの破片が飛び散る。激しい銃撃の合間にニーガンとリックが撃ち返したため、一方的だった銃撃は撃ち合いへと発展した。その間にグレンとハーシェルは店の奥側に避難することができた。
銃撃戦の時間は思ったよりも短く、弾が尽きる前に相手からの攻撃が止んだ。悲鳴も呻く声も聞こえてこなかったので向こうが全滅したということはないだろう。車の音もしないので逃げた可能性は低い。何か企んでいると考えられる。
ニーガンはリックがどうするつもりなのかを知りたくて彼に視線を向けた。リックは外の様子を窺っていたが、視線に気づいてこちらを見る。彼は真っ直ぐにこちらを見つめてから視線をカウンターのある店の奥側に移した。「店の奥側へ避難しろ」という意味だと捉えて問題なさそうだ。
ニーガンはトニーの死体がある辺りまで音を立てずに移動した。そうするとリックが再び窓の外に和解を提案する。
「このまま銃撃戦を続ければ死人が出る。互いに不利益だ。だから撃たないでくれ。誰も傷つけたくない。」
その呼びかけに対しても向こうからは何の反応もない。
リックはドア付近から離れてこちらに移動してくると「今のうちに脱出しよう」と話を切り出した。
「ニーガンは裏口から出て車を取りに行って、その車を裏口の前に停めてくれ。グレンとハーシェルは彼の援護を頼む。」
グレンは「わかった」とすぐに頷いた。
一方でハーシェルは難しい顔でライフル銃を見つめていた。その様子を見てグレンが不安げに問いかける。
「ハーシェル、銃を使ったことはある?」
その問いにハーシェルは「心外だ」と言いたげに片眉を上げた。
「銃は扱える。嫌いなだけだ。」
その返答にハーシェル以外の三人は顔を見合わせて肩を竦める。とりあえずは彼の言葉を信じるしかなさそうだ。
リックは気を取り直すように軽く咳払いをしてから話し始める。
「相手が何か企んでいる可能性があるから十分に気をつけろ。それとウォーカーにも注意だ。きっと銃声に釣られて集まってきてる。俺がここを守っている間に三人は車を頼む。さあ、行ってくれ。」
リックの指示にニーガンたちは揃って行動を開始する。
ニーガンは慎重な手付きで奥の部屋へと続くドアを開けて中の様子を観察した。カウンターの奥の部屋にはバーで提供する酒や食材の他にも様々な備品が並んでおり、倉庫代わりに使われていたのだとわかる。物陰に敵やウォーカーが潜んでいないか警戒しつつ裏口まで進み、ドアを少しだけ開けて隙間から外の様子を見てみた。見える範囲に人影はなかった。
ニーガンは後ろを振り返り、グレンとハーシェルに手振りで援護を頼むと外へ出る。右方向に顔を向ければ乗ってきた車が少し離れた場所にあるのが見えた。その車に向かって身を屈めながら進もうとしたが、いきなり銃声が響いたのでニーガンは体を丸めて頭を守る。状況確認のために顔を上げると壁に銃弾がめり込んでいた。危ないところだった。
ニーガンは急いで業務用のダストボックスの影に隠れて追撃の銃弾から逃れる。身を守りながら顔を覗かせてみれば、初めて見る顔の男一人がこちらに銃を向けて立っていた。それはどう考えてもデイブたちの仲間であり、向こうはニーガンたちが裏口から脱出すると見越して待ち構えていたのだ。
ニーガンは舌打ちをしてから反撃のために身を乗り出したが、その瞬間にハーシェルがライフル銃を発砲した。その弾が相手の腹部に命中し、絶叫しながら倒れる男を見て呆然とするハーシェルをグレンが慌てて建物の中に引き戻す。
しかしニーガンたちは再び銃撃を受けた。今度の銃撃は高所からのものだった。弾が飛んできた方向をよく見てみると、通りの向かい側にある二階建ての建物の屋上に人影があった。高所から狙われては車まで走っていくことができない。
その時、リックが「大丈夫か!?」と駆け付けてきた。何発も銃声が聞こえて心配になったのだろう。グレンがリックに狙撃手のことを伝えるとリックは狙撃手のいる方に向かって発砲したが、遠すぎて狙いが外れてしまった。
リックは悔しそうに唇を噛んだものの一瞬で冷静な表情に戻り、狙撃を警戒しながらニーガンのいるダストボックスまで来た。
「ニーガン、俺が援護するから車まで走れ。」
「それはいいが、お前の弾の残りは?」
「持ってきた分はまだ少しあるし、トニーから取り上げた分もある。あんたよりは余裕があるはずだ。」
「それじゃあ援護は任せた。……行くぞ。」
ニーガンがダストボックスから離れて車に向かって走り出せばリックも後に続き、彼は屋上にいる狙撃手を牽制するために発砲した。
車まで後少しの距離にまで近づいた時、敵の狙撃手がいる建物の近くに見慣れない車が停まった。その車の中から屋上にいる狙撃手に撤退が呼びかけられる。
「おい、銃声でゾンビが集まってきた!撤収するから今すぐ降りてこい!」
身を低くしていた狙撃手は仲間からの呼びかけに慌てて立ち上がる。
「す、少し待ってくれよ!すぐに行く!」
「だめだ、時間がない!飛び降りろ!」
その指示に狙撃手が動揺しているのが遠目にもわかった。狙撃手のいる建物の隣には一階建ての店舗があり、そこに飛び移れば安全に地上に降りることができそうだが、建物同士の距離は近いとは言えない。勢いをつけて飛ばなければ隣の屋根に乗るのは難しいだろう。
屋上の狙撃手は飛び降りることを怖がっていたが、仲間に「置いていくぞ」と急かされて覚悟が決まったようだ。助走をつけると屋上の縁を勢い良く蹴って隣の屋根に飛び移るが、勢いをつけ過ぎたせいで着地した際に跳ね返って屋根から転げ落ちた。運良く大型のダストボックスの上に落ちたものの、その近くにある柵の先端に右脚のすねが深く刺さってしまった。その瞬間に狙撃手の悲鳴が一帯に響き渡った。
仲間が助からないことを悟った敵の車は勢い良く走り去っていった。悲痛な声で「置いていくな!」と叫ぶ狙撃手にグレンとハーシェルが痛ましげな表情を浮かべる。
ニーガンは助けを訴える声を背に車に向かい、車の傍らで仲間たちが追いついてくるのを待った。すぐにグレンとハーシェルが来たもののリックの姿がない。
(まさか、あいつ……!)
ニーガンは眉間にしわが寄るのを自覚しながら敵が落下した地点へ急いだ。予想通り、そこにはリックの姿があった。
ニーガンがリックの腕を掴むと彼は強張った表情をしながら振り向いた。
「リック!ウォーカーが集まってきてるのに何してやがる!早く逃げるぞ!」
大声を出せばウォーカーを引き寄せてしまうと理解しながらも怒鳴らずにいられなかった。
周辺には既に数え切れないほどのウォーカーが集まっている。ハーシェルが撃った男は少し前からウォーカーたちの餌食となって悲鳴を上げ続けており、このままでは自分たちも食い殺されてしまう。とにかく時間がないのだ。
ニーガンが怒りを込めて睨みつけてもリックは目を逸らすことも足を動かすこともない。
「ニーガン、彼はまだ子どもだ。このまま置いていけない。」
その言葉を受けて痛みに泣き叫ぶ敵の顔を見れば、高校生か大学生くらいの若者だとわかった。痛みと恐怖に満ちた顔は幼さすら感じられる。ニーガンと同じように相手の顔を覗き込んだグレンとハーシェルの顔に憐れみの感情が浮かんだ。
ハーシェルは少年の脚の具合を診るために傷口に顔を近づけた。闇が濃くなってきた中でもハーシェルは懸命に目を凝らして診察し、その診断結果をリックに告げる。
「助けるのは無理だ。貫通しているから無理に引き抜けば大量に出血する。かわいそうだが諦めるしかない。早く逃げないと私たちも危険だ。リック、行こう。」
「わかってるが、どうにかして助けたい。何か手はないか?」
食い下がるリックにハーシェルは首を横に振った。
これでリックも諦めがつくだろう、とニーガンがリックから手を離した時にグレンが驚くべきことを言い出す。
「脚を切断すれば助けられるんじゃないか?出血が心配だけど、ハーシェルはどう思う?」
グレンの提案に彼以外の全員が目を丸くした。当事者である少年は「切断なんてやめてくれ!」と叫んでいるが、リックとハーシェルは真剣な顔つきで考え込んでいる。
「貫通しているのはすねの部分だから膝より下で切断して傷口を焼けば出血を止められる。それなら助けられるかもしれない。」
ハーシェルの所見にリックが頷いた。グレンも「斧がないかな?」と周囲を見回しており、ハーシェルは袖を捲って準備を始めようとしている。
敵であるはずの少年を救おうとする三人を見てニーガンは強い危機感を抱いた。ウォーカーの集団が迫ってきている状況で時間のロスは命取りだ。このままでは取り囲まれて逃げられなくなってしまう。
そしてニーガンが何よりも問題視しているのは少年自身だ。彼が一緒に行動していたグループは略奪や暴力を振るうことに慣れているように見受けられた。恐らく殺人も日常の一部として行われていたのだろう。そんなグループに属していた人間を手元に置くのは危険過ぎる。
その上、相手のグループの規模がわからないのだ。もし少年を農場に滞在させて逃亡を許せば仲間を引き連れて略奪に来る可能性がある。向こうがこちらよりも人数や武器の数で勝っていれば全滅させられてしまう。
人間の本質が善だとは限らない。「人は変わることができる」という言葉は誰にでも当てはまるものではない。クズはどこまでいってもクズであり、少年が属していたのはそういった輩の集まりだ。この少年を連れ帰ることは仲間たちのためにならない。
ニーガンはそのように判断すると、拳銃を取り出してしっかりと握った。そして少年に近づいて彼の頭に拳銃を突きつける。引き金を引くことへの躊躇いは欠片もなかった。
銃声が一際大きく鳴り響いた後、少年の泣き叫ぶ声が止み、辺りにはウォーカーの唸り声だけが残った。リックもグレンもハーシェルも時間が止まったかのように身動き一つせずに死体になった少年を見つめている。数秒の間があり、三人の視線がニーガンに集まった。その誰の目にも混乱があった。
ニーガンはリックの目を見つめ返しながら静かに告げる。
「デイブやトニーみたいな人間は助けても裏切る。そんな奴らの仲間でいられたってことはこいつも同類だ。こいつは俺たちを危険に晒す。助ける必要なんかない。行くぞ。」
今の銃声のせいで更にウォーカーが寄ってきてしまった。もう猶予はない。
ニーガンは一足先に車に戻り、運転席に乗り込むとエンジンを掛けて他の三人が車に乗るのを待った。そのうちに三人が車のところまでやって来て、助手席にリックが座り、後ろにはグレンとハーシェルが乗った。誰も一言も声を発しない。
リックたちの目にはニーガンが冷酷な人間に映っただろう。恐れられたかもしれないが、ニーガンはそれでも構わなかった。最も重要なのは仲間を守ること。それ以外のことは後回しでいい。
ニーガンが視線を少年のいた場所に向けてみると、そこには多くのウォーカーが群がっていた。ウォーカーの後ろ姿に阻まれて少年の死体がどのような状態になっているか見ることはできなかった。ニーガンはそれについて特に言及することなくアクセルを踏み込んだ。
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リックたちが農場に帰り着いたのは真夜中だった。それでも家の前に車を停めると中から仲間たちが飛び出してきて帰還を喜んでくれた。皆はリックたちの帰りを待っていてくれたのだ。
マギーがグレンに抱きついて無事を喜ぶ姿を見たハーシェルは複雑そうな表情をしていたが、出迎えたパトリシアにベスの状態を確認しながら足早に家の中に入っていく。リックはその後ろ姿を眺めながら、彼を娘たちの元へ帰すことができた喜びを実感する。
リックがハーシェルの後ろ姿を見送っているとローリが微笑みながら近づいてきた。
「リック、無事に帰ってきてくれてよかった。カールもさっきまで起きて待っていたんだけど、眠たそうにしていたから寝かせたわ。」
「そうか。朝になったら心配させて悪かったと謝るよ。君にも心配をかけてすまなかった。」
「こうして帰ってきてくれたからいい。でも、本当にみんなが帰ってきてくれてよかった。……ベスが自殺しようとしたの。」
その知らせにリックは眉をひそめる。想像以上にベスが受けたショックは大きかったようだ。
「彼女の状態は?」
「手首を切ったけど傷が浅かったから大丈夫。私たちが駆け付けた時はパニックになって泣いてた。死にたがっていたけど、一線を越えたら『生きたい』と思えたみたい。もう大丈夫だと思う。」
「よかった……ハーシェルも立ち直れたみたいだからベスをしっかり支えてくれるだろう。」
リックの言葉にローリがホッとしたように微笑んだ。
リックはローリに「着替えてからベスの様子を見に行く」と伝えて家に戻らせた。その次にニーガンの姿を求めて周囲を見回してみたが、彼の姿はどこにもなかった。先にテントに戻ったのかもしれない。
リックは小走りで野営地に行ってニーガンのテントを訪ねた。何度か名前を呼んでみても返事がなかったため中を覗くと無人だった。
(ニーガン……どこに行ったんだ?)
リックは敵だった少年のことについてニーガンと話さなければならないと考えていた。
あの時のニーガンの行為を責めたいのではない。彼の決断の理由を知りたいというのもあったが、彼一人で決断して背負うべきではないと伝えたかったのだ。
人の生死を決めるのは一人で抱え込むには重すぎる。正解の見つからない世界においては特にそうだ。
リックはニーガン一人に少年の死を背負わせたくなかった。彼が仲間たちを守るために決めたのだとわかっているからこそ自分も一緒に背負いたい。リーダーだからということは関係ない。大切な仲間の体だけでなく心も守りたかった。
リックはとりあえず自分のテントに戻って服を着替えた。そしてハーシェルの家に行ってベスの容態を確認し、ローリに「ニーガンの姿が見えないから捜してくる」と告げて再び外へ出た。
ニーガンを捜すために玄関ドアを開けたリックは驚愕に目を見開く。家のポーチの階段に捜し求める男が座っていたからだ。
ニーガンは階段に腰を下ろして両手を前で組み、闇の広がる農場を眺めていた。こちらの存在に気づかないはずがないのに振り返ってはくれない。
リックはニーガンの隣に腰を下ろして、こちらを向かない彼の横顔を見つめる。
「……さっき、あんたのテントに行ったんだ。」
リックがそのように伝えるとニーガンは正面を向いたまま「そいつは悪かった」と笑った。
「牧草地を散歩してた。疲れてるから寝ちまってもよかったんだが、なんとなくな。」
ニーガンの様子はいつもと変わらないように見える。それでもおしゃべりが大好きな男がそれ以上何も言わないということは、やはり今の彼はいつもと違うのだろう。
リックはニーガンの横顔を見つめながら本題を切り出す。
「あの少年を殺した理由を詳しく聞かせてほしい。」
そう言った途端にニーガンが顔をこちらに向けた。その表情は落ち着いているように見える。
リックはニーガンの目を真っ直ぐに見つめながら彼の言葉を待った。
「デイブとトニーと話して、奴らにとっては誰かを脅すのも暴力を振るうのも日常の一部だと感じたはずだ。たぶん、あいつらのグループは略奪も殺しも平然とやるぞ。そんな奴らと一緒に行動してたってことはあいつもそういう人間ってことだ。ガキだなんだは関係ない。」
「それはそうかもしれないが、助けてやってもよかったんじゃないか?俺は傷が治った後に農場から離れた場所で解放することも考えていたんだ。」
「冗談だろ?」
ニーガンはリックの意見を鼻で笑い、怒りの滲む眼差しを寄越した。
「クズはどこまでいってもクズだ。奴を助けてやったとしても仲間のところに戻ったら仲間を引き連れて農場に来るぞ。俺たちを殺して物資を奪うためにな。あいつらみたいに他人から奪うことしか考えてない奴らは全てを壊す。リック、お前はこの世界が甘くないと学んだはずだ。」
ニーガンの言葉に、リックは二人旅をしている時に出会った男たちを思い出した。物資を奪おうとしただけでなく自分を犯そうとして、ニーガンを殺そうとした者たち。今の世界では獣以下の者たちが堂々と歩いているのだと思い知らされたことを忘れられるわけがない。
リックは「忘れたわけじゃない」と言葉を返した。
「あんたの考えも理解できるし、今回はこれでよかったのかもしれない。それでも俺はニーガン一人で決断して背負うべきじゃないと思う。」
リックの発言にニーガンが目を瞠った。
リックは続きの言葉をすぐには言わず、ニーガンの手に視線を落とした。時に愛用のベースボールバットを握り、今日のように拳銃を握り、そうやって仲間を守ってきた手。目に見えない血で汚れている彼の手を恐ろしいと思ったことは一度もない。
リックは愛おしむようにニーガンの手に触れた。
「誰かの生死を決めるような重大なことを一人だけで決めないでくれ。重たいものは一人で背負うんじゃなく分かち合うべきだ。これからは一緒に考えて決めよう。」
リックがニーガンの手に触れている自分の手を見つめていると、それはニーガンの大きな手に覆われた。それと同時にニーガンが額を触れ合わせてきた。
額同士が触れ合っているためにニーガンの目が間近に迫る。その目からは怒りが消えていた。
「せっかく俺一人で背負ってやろうとしてるのに、お前はそれも背負うつもりか?」
その問いにリックは「もちろんだ」と答えた。
「重たくてしんどいものは一緒に背負えばいい。ニーガン、あんたが今日背負った重いものを一緒に背負わせてくれ。」
その言葉にニーガンの目が嬉しそうに細められた。それはニーガンがリックの願いを聞き入れてくれた証拠。そのことにリックは口元に笑みを浮かべる。
ニーガンは「わかった」と言って目を閉じた。リックにはその表情が喜びを噛み締めているように見えた。
「今日のことは俺の独断じゃなくて俺とお前の決断だ。それでいいな?」
「ああ、構わない。」
リックは迷わず答えてニーガンと同じように目を閉じた。
「これから先も一緒に背負うなら俺たちは離れたらだめだな。ずっと一緒にいないと。そうだろ、リック?」
楽しそうなニーガンの声にリックは笑みを零した。
これまでにもニーガンは「お前と一緒にいる」と言ってくれたが、これで何度目になるのだろう?それはとても嬉しいことだった。
リックは目の前の大切な人に素直に自分の気持ちを伝える。
「当たり前だ。何があっても一緒にいて、一緒に背負っていこう。約束する。」
「……ああ、約束だ。」
約束を交わした瞬間、リックの手に重ねられたニーガンの手に力が入った。「約束は違えない」と誓ってくれたような気がした。
今日は大変なできごとが連続した一日。ひどく疲れた日だった。その終わりが大切な約束を交わす優しい時間だったことはリックにとって何よりの幸いだった。
To be continued.